「わー、久しぶりだね。芙美さん!」 その時、間違いなく私の顔は引き攣った。 胸が引き絞られ、キリキリと痛む。 忘れていたと、もう癒えたと思っていた傷から、生々しく血があふれ出す。 手が震える。 足から力が抜けて、座り込んでしまいそうだ。 「こんなところで会えるなんて奇遇だね」 にこにこと、そばかすの浮いた幼い顔を、更に幼くさせて笑う。 柔らかいくせっけの髪が、近づく度にふわふわと揺れる。 2年前より、背が伸びた。 手足が伸びた。 まだまだ幼さは抜けきらないけれど、男臭くなった。 私より少し小さいくらいだったのに、私を抜いて見下ろしている。 小型犬のような愛らしさは、大型犬の精悍さを備え合わせた。 けれど、誰でも警戒を解いてしまうような無邪気な笑顔は変わらない。 高めの甘い声で、私の名前を呼ぶのも変わらない。 「芙美さん芙美さん、また会えて嬉しいよ」 この場から逃げ出したかった。 この男と、二度と会いたくなかった。 逃げたのに。 だから逃げたのに。 無様に、情けなく、この上なくみっともなく逃げたのに。 忘れ去ったと思ったのに。 もう、過去だったと思っていたのに。 いまだに痛みを持って、あの頃の屈辱が、哀しみが、苦しみが、蘇る。 ああ、この無邪気な顔を叩き潰してやりたい。 私をかき回して、私を振り回して、そして私を否定した。 この男が、怖い。 「芙美さん芙美さん、一緒に映画に行こうよ」 私の名前を2回繰り返して呼ぶのは、この同級生のくせ。 自分の名前はあまり好きではない。 厳格な祖父のつけた名前は古風で、堅苦しい響きが自分にぴったりで嫌だった。 だから嫌がるのを分かっていて名前を繰り返すこの男が好きではない。 「名前を呼ぶのはやめてください。行きません」 私はできる限り冷たく、切り捨てる。 同級生にも敬語なのは、私を教育した祖父の影響。 厳しく自分を律し、他人にもそれと同じものを望む人。 誰に対しても敬語で接していたせいで、当然のように私もそれにならった。 「なんで?俺、芙美さんの名前好きなのに」 「あなたの好みなんて聞いていません。私が嫌なんです」 「俺は好きなんだから問題ないよ」 しかしこの男は私の態度なんて分かろうともせず、いや、分かっていても意に介さず無邪気に笑って再度人の名前を呼ぶ。 何度も繰り返したやり取りに、いらつきが増す。 「私はこれから塾です。あなたに付き合っている時間はありません」 「芙美さん、あんなに頭いいのに塾なんて必要なの?」 「頭はよくありません。勉強をしているから成績がいいんです」 女にしては背の高い私より、幾分小さな背。 ふわふわの髪、そばかすを浮かせた顔。 幼い顔は、中学3年生にもなったのにまるで小学生のようだ。 無邪気な笑顔はすべての人の警戒をとき、引き付けた。 「あはは、俺芙美さんのそういうところ好き。自分の努力を卑下しないところ」 「勉強もしないくせに、そこそこ成績のいいあなたのほうが頭いいでしょう」 「あ、そうかも。俺あんまり努力しないでも割となんでもできちゃうし」 「私はあなたのそういうところが大嫌いです」 心からの言葉だった。 何度も突きつけた。 この男が、大嫌いだった。 何もしないでも何でも出来る能力。 誰からも愛される魅力。 人のコンプレックスばかりをわざと付いてくる無神経さ。 そのすべてが、気に障る。 横っ面殴りつけて泣かせたい。 笑うことなんて出来なくなるぐらい、叩きのめしてやりたい。 「うーん、そのクールな言葉!たまりません!俺、芙美さんのその蔑んだ目で見られるとドキドキしちゃう!」 「変態」 「そうなの、変態なの!もっと俺を罵ってー!」 「…………」 これ以上付き合ってられなくて、私はもうその男を見なかった。 後ろから響いてくる高く甘い声を無視して、今日の塾の宿題を思い浮かべる。 「芙美さん芙美さん、無視しないでよー!遊ぼうよ!」 「この成績はなんだ」 「………すいません。でも…」 「言い訳はするな」 びしりと言い切られて、言葉を呑む。 小さい頃から変わらず祖父の前は緊張して、背中に嫌な汗が流れる。 声を荒げるのでもない、淡々と私を裁く声はいつだって冷たい。 塾から帰って早々、祖父の自室に呼び出された。 この前の模試の結果がお気に召さなかったようだ。 あの日は微熱があって、頭にゼリーでもつまっているように重く粘ついていた。 その結果が見事に点数として現れてしまった。 けれどここで言い訳しても、結局自己管理が出来てないと叱られるだけだろう。 胃が痛む。 近頃ずっとだ。 でも、顔をしかめたりしたらまた何か言われる。 正座をしたまま、頭を伏せる。 少しでも早く終わってくれることを祈った。 「もっと努力をしろ。篠崎の家でお前のように頭の悪い奴はいなかった。これだから女はな」 「はい、申し訳ありません」 代々医者の家系である篠崎の家で、医者になることが祖父の中では絶対で当然のことだ。 私が女に生まれたことを、ずっと嘆いている。 「お前のように出来の悪い奴は、人の3倍努力してちょうど人並みだ。せめて篠崎の名を汚さないようにしろ」 「……はい」 「今日から1時間睡眠時間を削れ。いいな」 「……はい」 「全く、こんなことならやはり洋二の家から養子を取るべきか」 それからたっぷり30分同じ事を聞かされて、ようやく祖父から解放された。 私は空っぽの胃に何かを入れようと台所に向かう。 痛む胃に食欲はない。 けれど、明日の行動に差し支えないように食事は必要だ。 栄養を摂取しなければ、頭が働かず勉強の効率も悪い。 これから、また夜半まで勉強しなければいけないのだから。 今年は受験だ。 もっともっと勉強をして、祖父の望む名門の高校へ入って、祖父の望む名門の大学へ入って、祖父の望むように医者にならなければならない。 私には、それしかないんだから。 リビングを通り過ぎようとして、楽しそうな笑い声が聞こえてくる。 父と母と、妹だ。 テレビを見ながら、くだらないことにじゃれあって笑っている。 リビングの扉は開いていて、見つかりたくなかったのに見つかってしまう。 明るく朗らかな声で、愛らしい仕草で妹が手を振る。 「あ、お姉ちゃん、お帰り!」 「……ただいま」 2つ下の体の弱い妹は、昔は母と一緒に母方の田舎に静養に行っていることが多かった。 忙しい父は祖父を嫌って本家に足を向けることは少なかったが、母と妹を案じて週末にはよく田舎へと足を伸ばしていた。 私は、祖父と家政婦に育てられた。 「お姉ちゃん、テレビ一緒に見ようよ、これすっごい楽しんだよ!」 妹の無邪気な笑顔が、たまらなく憎たらしかった。 寝ているだけで、父や母や祖父の関心も愛情もすべてを手に入れることができる妹が、嫌いだ。 私が妹を愛しているだろうと、信じている妹の純粋さを踏みにじってやりたい。 でも。 昔から、自由に遊ぶこともできなかった可哀想な妹。 自分の体がままにならないもどかしさに苦しんでいることを知っている。 私を心から慕っているのも、知っている。 可哀想な可哀想な妹。 妹のほうが、私よりか、ずっと可哀想。 だから、私は喉元まで出てきた罵りの言葉を飲み込んで、笑ってみせた。 可哀想な妹を罵るなんて、私のプライドが許さない。 「私は、勉強があるから」 「ほら、お姉ちゃんはお勉強があるんだから」 たしなめるようにやんわりと妹の止める母。 けれどその顔は、妹のかわいいワガママを心から愛しいと言っている。 「もう、お姉ちゃんはお勉強ばっかりでつまんない。勉強なんていいじゃない!」 「千津はもっと勉強が好きにならないとダメだろう」 「もう、パパ嫌い!」 ろくに顔をあわせることがない、いつもしかめ面をしている父の、冗談をいう姿。 笑い声。 遠い遠い、笑い声。 テレビの向こう側のように、遠くてリアリティのない笑い声。 リビングと廊下の距離が、とても遠くのように感じる。 付き合ってられなくて、私はその場を後にした。 胃が痛む。 頭が痛い。 いつもの偏頭痛。 食欲も全くない。 でも栄養をとらなくては。 台所で、立ったままスナック状の栄養補助食品を牛乳で流し込む。 冷たい牛乳が喉を伝わっていく感触が、気持ち悪い。 胃の痛みが、増す。 胃薬を飲む。 頭痛薬を飲む。 しばらくその場でうずくまっていたら、なんとか落ち着いた。 勉強をしなくては。 勉強をしなくては。 勉強を、しなくては。 |