実力テストの結果が出た。 大丈夫。 大丈夫なはずだ。 ずっとずっと勉強をしてきた。 実力テストの日も、微熱が続いていてぼんやりとしていたけれど、いつも通りに解けていたはずだ。 それなら、10位以内から落ちるはずはない。 お祖父様には1位ではないことを怒られるかもしれないが、10位以内なら受験には響かない。 問題ない。 大丈夫。 大丈夫なはずだ。 私は大丈夫。 私には、勉強しかないのだから。 職員室の前に、成績表は貼り出される。 だるい体を引きずって、1階まで足を運ぶ。 職員室前は、普段では考えられない歓声が上がっている。 成績表の前で騒がしくなるのは、教員達も黙認しているようだ。 成績があがったさがったで、一喜一憂。 ちゃんと勉強すれば上がるし、しなければ下がる。 それだけのことだ。 成績が下がったことを笑い混じりに冗談に出来る同級生は、私を苛立たせる。 近づくにつれ、雑音は大きくなる。 けれど、今日のそれは、いつもよりより大きなざわめきとなっていた。 「嘘だろー!」 「お前何したんだよ!」 「えー、本当ー?」 ざわざわと、耳障りな声が暴力となって私の襲い掛かる。 うるさい。 鬱陶しい。 わずらわしい。 騒ぎの中心にいる人物が、見るともなしに目に入ってくる。 得意げな顔をして笑っている、幼いそばかすの浮いた顔。 嫌な予感がした。 ぞわぞわと、不安が足を絡めとり、自然と歩みが遅くなる。 黒くてどんよりとしたものが、足先から私を包み込んでいく。 一番、誰よりも何よりも嫌いな男が、私を見て顔を輝かせる。 「芙美さん芙美さん、賭けは俺の勝ちだね!」 その言葉は、私が今までうけたどんな罵りの言葉よりも胸をえぐった。 唇が震える。 嫌がる足をたしなめて、ふらふらと、成績表の前に立つ。 6番の位置に、加賀谷の字が悠然と踊っている。 私は壁に張り付くようにして、自分の名を探す。 加賀谷より前には、名前はない。 分かっていたけれど、それは大きな衝撃。 「芙美さん芙美さん、約束だ!デートだね!」 明るい加賀谷の高くて甘い声。 けれどそんな言葉は頭には入らない。 自分の名前が、10番以内にない。 信じられなくて、何度も何度も見直す。 辺りから、嘲笑が響く。 親切な同級生が、ここだと私の名前を指差す。 私は、100番以内にもいなかった。 周りの嘲笑がふりかかる。 私を嘲る言葉が襲いくる。 学校でも休み時間もなく机にかじりついて勉強をしていたのだ。 それなのに、この順位。 ガリ勉女の、哀れな末路。 すべての人間が、自分を指差して、笑っている。 ああ、そうだったのか。 この男は、こうやって人前で私を見世物にするために、あんな賭けを申し出たのか。 ようやく、分かった。 やれば出来る男。 頭のいい男。 ああ、そうだ、頭がいい。 こんなにも効果的に私を打ちのめすことできるのだから。 「芙美さん、ね、約束だ!」 私に向かって無邪気に笑う幼い顔を、思い切り殴りつけた。 中途半端に力の乗った平手は、情けない音をたてたけど、まだ2筋の傷がうっすらと残る顔をゆがめることが出来て、少しだけ嬉しかった。 「こうやって、私を笑いものにしたいならすればいい!!」 辺りが静まりかえった。 ひそひそと、ついにガリ勉がイカれた、なんて声が聞こえる。 もうなんだって、いい。 どうでもいい。 最初から、周りの目なんてどうでもよかった。 勉強さえ、あれば、よかった。 「私はあなたに負けた!どうとでも言えばいい!大嫌い!消えて!私の前から消えて!!いなくなってしまえ!!」 その時、彼がどんな顔をしたかは覚えていない。 私は彼にその言葉を叩きつけて、その場から逃げ出した。 家にかえって早々、祖父の部屋に呼び出された。 理由は嫌になるほど分かっている。 じわりと手に汗をかく。 背筋に寒気がする。 祖父は黙って、頭を伏せる私を見下ろしていた。 いつも淡々と私を切り捨てる絶対者は、今は怒りをあらわにしている。 怖くて怖くて、すぐにもここから逃げ出してしまいたかった。 体が震えるのを押さえようと、拳を握って畳に抑え付けた。 「……………」 「………申し訳ございません」 「なんだこの成績は!!」 ただ、頭を伏せて謝罪を繰り返す。 いつも押さえているのに、今は声を荒げている祖父が怖くて仕方ない。 罵倒される、否定される、いらないものだと、言われてしまう。 「お前はそれでも篠崎の長女なのか!」 「………すいません」 「この出来損ないが!」 傍にあった文机から、硯が投げつけられる。 石がぶつかることはなかったが、中に入っていた墨が頭から降りかかった。 髪から、ぽたぽたと墨が落ちる。 伏せた頭から伝い落ちて、よく手入れされた畳に黒い染みを作った。 苦しい。 苦しい。 苦しい。 息ができない。 頭が痛い。 胃が痛い。 もうどこが痛いのか分からない。 何が痛いのかも分からない。 「真一と厚子がお前が継ぐから大丈夫だと言うから大目に見ていれば!」 「申し訳ございません、すいませんすいませんすいません…っ」 私のせいで、父と母まで責められている。 私がいけないのだ。 私が出来損ないのせいで、父と母が祖父にいじめられる。 畳に頭をすりつけるように更に頭を伏せる。 延々と続く罵倒。 父と母を貶す言葉。 祖父は態度で、言葉で、私のふがいなさを断罪する。 震える体を抑え付け、体を小さくして、私はただ謝罪を繰り返した。 バタン! その時、ふすまを乱暴に開き、入ってきた小さな体。 ふわふわの髪。 華奢な手足。 大きな目に、赤く小さな唇。 誰もが手を差し伸べたくなる、母によく似た人形のように愛らしい妹。 いつもは笑っている妹が、今は祖父に対して全身で怒りを表現する。 そうしていてなお、彼女は可愛らしかった。 死人のようにみすぼらしい私とは違って。 「おじいちゃん!!」 「なんだ千津!口出しするんじゃない!」 「お姉ちゃんをいじめないで!」 妹は祖父から私を隠すように、前に立ちはだかる。 墨にまみれて、土下座をしている私。 体が弱いのに、私を守ろうと祖父に立ち向かう妹。 こんな時なのに、私はその構図がおかしくて仕方がなかった。 思わず、笑ってしまいそうだった。 「芙美のふがいなさを叱っているだけだ!」 「もういいじゃない!今回は調子が悪かっただけよ!」 両手を広げて、弱弱しい体に力をみなぎらせて立ちはだかる。 可哀想な妹にすら、庇われる私。 可哀想な可哀想な妹。 そんな可哀想な妹に、守られる出来損ないな私。 祖父は、そんな役立たずな私を更に糾弾する。 「妹に庇われて情けないと思わないのか!千津は体が弱いにも関わらず優秀な成績を収めているぞ!」 「私はお姉ちゃんみたいに、頭のいい学校じゃないもの!」 「お前は体が弱いんだから仕方がない。ああ、本当にお前が体が丈夫だったらよかった。そうしたらこんな出来損ないに任せることもなかった」 言葉が、ずたずたに心を引き裂く。 血があふれる。 苦しくて、息ができない。 しかしそんな痛みよりも、次の言葉に、一気に頭に血が上った。 「私、もう丈夫になったよ!だから、お姉ちゃんを責めないで、私が勉強すればいいじゃない!この家は私が継ぐよ!」 真っ白になった。 目の前も、頭の中も真っ白になった。 祖父の部屋の畳が抜け落ちて、真っ黒な穴に投げ出されたような絶望感。 これすらも、奪われるのか。 この女は、私から勉強すらも奪うのか。 私のすべてを、奪うのか。 「余計なことを言わないで!!」 思わず、前に立っていた妹を突き飛ばしていた。 華奢な妹は、力なく前に倒れこむ。 祖父はその妹を壊れ物のように、優しく支えた。 「芙美!」 妹をそっと座らせた祖父は、私に向かって歩み寄る。 大きく手を振りかぶるのが、スローモーションのようにゆっくりに感じた。 振り下ろされる手。 見えていたけれど、避けることも、構えることも出来なかった。 鋭い衝撃。 勢いで、墨で汚れる畳に倒れこむ。 打たれた頬が、ジンジンとして熱い。 しかし、それ以上に、怒りに拳を震わせ私を見下ろす、祖父の軽蔑した目が痛かった。 「妹に八つ当たりするとは情けない!お前の顔なんてもう見たくない!出て行け!わしに顔を見せるな!さっさと出て行け!」 言い訳する暇も与えられない。 祖父は私に言うことなんてないというように、背を向けて妹に近づく。 頭を撫でて、突き飛ばされたことを慰める。 私を庇って、祖父に立ち向かった勇気を褒め称える。 祖父に言われたからではなく、その光景を見ていられなくて、私は一礼するとその場から立ち去った。 自室に戻ろうとして、ふらふらと歩く。 どこもかしこも痛い。 墨で汚れた髪と顔が、気持ち悪くてみじめだった。 ぼんやりとした頭は、何もかもがリアリティがないくせに、痛みだけが現実感を伴って襲ってくる。 リビングを通り過ぎようとした時、父と母が、駆け寄ってくる。 いつもは忙しい父が、家にいるのが、不思議だった。 自分に話しかけるのが、不思議だった。 「芙美、どうしたんだ、この成績は?」 「芙美さん、ちょっと調子が悪かったのよね?次は大丈夫よね?」 次々と聞かれる疑問に、答えることができない。 私自身、どうしてこうなってしまったのか、分からないのだから。 あんなに勉強したのに。 あんなに頑張ったのに。 いや、努力したからどうにかなるなんて、信じるほど子供でもない。 ようは、私が出来損ないなのがいけないのだ。 父と母に頭を下げる。 再び謝罪を繰り返す。 これから、祖父に責められるのは二人なのだ。 私のせいで、2人が責められるのだ。 「千津は体が弱いんだから、お前が頑張ってくれないと困るだろう」 「お祖父様に私たちから謝ってくるから、あなたも後で謝りに行くのよ、ね?」 「……千津が、お祖父様の部屋にいます」 「え、どうして?」 「私を、庇ってくれようとして…」 「まあ、あの娘ったら、いやだわ」 「とりあえず、父さんの部屋に」 そう言って、2人は慌しく祖父の部屋に向かう。 取り残された私は、しばらくそこで突っ立っていた。 それから、何も考えずに一旦逃げ出した祖父の部屋に向かう。 謝ろうとしたのか、ただ人のいる場所に行きたかったのか。 なぜそうしたのか、分からない。 なぜそうしてしまったのか、分からない。 祖父の部屋の前まで来て、部屋の中から声が聞こえてきた。 祖父と父と母と、妹。 私の家族。 私を抜かした家族、私の家族。 「芙美はもういい。あんな奴、これからもどうにもならん」 「お祖父様、そんな……」 「お姉ちゃんに余計なこと言った、私が悪いのよ」 「本当に千津はいい子だ」 「違うわ!お祖父ちゃん!」 「洋二の家から、養子でも貰えばいいだろう、芙美は使い物にならん」 「お祖父様……」 「でも、あの娘のためにも、それがいいのかもしれないな」 「あなた…」 「あの娘は、あんまり勉強ができないようだし、無理なことさせるより…」 これ以上は聞いていられなかった。 もう、空っぽだった。 ただ、足の赴くままにこの息苦しい家から、飛び出した。 もう何もない。 私には何もない。 私の存在意義など、ない。 私がここにいる理由もない。 いや、出来損ないの私に、最初から居場所なんてなかったのだ。 私が勘違いして、必要とされていると思い込んでいたのだ。 いや、必要だと思いたかったのだ。 信じて、いたかったのだ。 私は、この家に、必要なかったのだ。 そんな簡単なことに、ようやく気付けた。 それなら、いっそ。 いなくなってしまえばいい。 車が激しく行きかう大通りに、私は足を踏み出した。 |