病院に送られた後のことは、ぼんやりとしか覚えていない。
ただ、白い部屋で、体に力が戻っていくのを感じた。
ああ、死ぬことはないんだ、と思った。
生きたいと感じたこともないが、死にたくはないと思った。
死ぬのは、嫌だった。
それがどうしてかは分からない。
でも死ぬのは、嫌だった。

病院で、お母さんはとか、お父さんはとか、色々な人間に聞かれた。
それが何かは、分からなかった。
お父さんもお母さんも、何を指しているのかわからなかった。
俺はその時、犬の名前と、隣の女をお姉さん、と呼ぶことしか知らなかった。
長い間、白い部屋にいた気がする。
狭い四角い部屋ではなく、白い四角い部屋は、なんとなく居心地が悪かった。
白いお姉さんがいっぱいいて、優しくしてもらった気はする。
甘いものを、沢山もらった。
これで死ぬことはないと、思った。
だから、嬉しかった。
それは覚えている。

その後どういう経緯があったのかは知らない。
病院から出た後連れてこられたのは、あの狭い部屋ではなかった。
初めて見る、日本家屋。
でかい家だった。
その部屋ですら、俺の住んでいた部屋の4倍はありそうな。畳敷きの大広間。

「ふ、ん、あいつにそっくりだな」

そこで、その男にあった。
俺を引き取ったのは、父親とかいう奴だった。
白髪混じりで、もうだいぶ歳だった。
あの女とは、おそらく20は離れているだろう。
深い皺に、威厳に満ちたピリピリとした空気を纏う男。
病院であったセンセイとかと同じ大人の男だが、どこか何か違った。

男は興味深そうに、俺をじろじろと見ている。
なんとかなく居心地が悪くて、俺は視線を逸らす。
男の声は、低く、しゃがれて太かった。

「お前、名前は?」
「名前?」
「お前の名前は?」
「………私に、名前があるの?」

俺は、その時女言葉で話していた。
それ以外知らなかったからだ。
名前と言うのは知っている。
女がペットによく話しかけていた。
それがきっと名前だ。
後は、テレビに出てくる人も、色々名前を持っていた。
だが、自分にもそれが、あるとは知らなかった。
そういえば、白いお姉さんは何か自分に言っていただろうか。
男は呆れたように、隣に立っていた中年の男に視線を送った。

「………おい」
「はい、お名前は京介様です」
「だ、そうだ。お前の名前は京介だ」
「私の、名前?きょうすけ?」
「ああ、あとその気持の悪いオカマ言葉をやめろ」
「オカマ言葉?」

なんのことか、分からなかった。
男の言うことは、何もかも分からないことばかり。
しかし男はうんざりとしたように溜息をつくと、頭をふった。

「ああ、面倒くせえ。誰かに教育させろ」
「かしこまりました」

中年の男は立ち上がると、俺の傍らにくる。
そして手をひいて立たされた。

「さ、京介様、こちらに」
「はい」

はじめての父親との会話はそれだけ。
なんの感情も湧かない対面だった。

でも。

京介。
自分にも名前があると知ったことが、少しだけ、嬉しかった。

京介。
それが、自分の名前。



***



それから、父は俺に色々な教育係をつけた。
言葉、勉強、マナー、武道。
俺は、もの覚えがいい方だった。
そのすべてを、高水準でこなしていたらしい。
確かに色々とすぐに覚えられた。
何も与えられなかった生活から、過剰なまでに与えられる生活になった。
学ぶのは、嫌いではなかった。
知ることは、楽しかった。
与えられる知識は心地よかった。
乾いた砂に水がしみ込むように、俺はそれを吸収した。

「おい、生意気なんだよ!妾の子供のくせに!」

ただ、面倒だったのは本妻の3人の子供。
2人の兄と、弟が1人。
それが俺の兄弟だと教えられても、何も感じなかった。
学校で会う、他人以上にどうでもいい存在だった。
うるさくて、わずらわしい。
不快な存在だった。

父は、俺をかわいがっていた。
らしい。
父とはほとんど会うことがなかった。
たまに顔を見かけても、一瞥するだけだ。

ただ、気に添わない行動をするとすぐに殴った。
気に入った行動をすれば、小遣いをくれた。

今となっては、もしかしたら不器用な愛情の表現だったのかもしれないと思う。
あの女に、父は惚れぬいていたらしい。
だから、トラブルの元にしかならない妾の子を引き取ったのだろう。
それが俺のためになるかどうかは別としても。
確かに父は、俺を気にいっていたのだと思う。
けれどその時の俺には、分からなかった。
人の感情に、興味がなかった。

「なんとか言えよ、泥棒の子」

だから、こうやってつっかかってくる人間の感情もよく分からなかった。
俺の何が気に入らないのかも、よく分からなかった。
興味がない、というよりも俺の存在が人にどう関わるのか分からなかった。
あの女にとって、俺はモノだったから。
俺の存在が、誰かの感情の触れるものだとは思っていなかった。

とりあえず、血を分けた兄弟から与えられたのは、暴力。
罵声と、痛みと、憎しみ。

人の見えないところで、よくリンチを受けた。
父も気づいていただろう。
武道の師範だって、分かっていただろう。
周りの人間は分かっていただろう。
いつだって傷だらけだったから。

だが、何もしなかった。
弱い人間は、この家では生きてはいけない。
そういうことなのだろう。
父は俺を気にいっていたようだが、それとこれとは違うらしい。

俺自身で歯向かえばろくなことにならない。
あの女がしたように、歯向かえば殴られるだけだ。
面倒くさい。
学校でも学んだ。
目立つ奴は、好かれるかはじかれるか。
どちらにせよ、面倒くさい。
人の感情は、理解できず面倒くさい。

人は嫌いだ。
世話係の人間も、家での立場を守るため、すべて兄弟とその親につながっていた。
俺の動向を監視し、逐一自分の飼い主に報告をしている。
俺が何も言わないことをいいことに、裏で殴られたりもした。
誰も、信用できない。
人は、嫌いだ。

俺はこの家では立場が弱い。
姿を消した妾の子供。
息を潜めて生きないと、放りだされるかもしれない。
家がなくなるのは怖かった。
食べるためには、家は必要だ。
食べ物がなくなるのは、恐怖だ。
じわじわと体がから力が奪われ、めまいがして、食料のことしか考えられなくなる。
寸前に見える、死。
明日はものを食べられるだろうか。
それともこのまま死ぬのだろうか。
そう、毎日考える日々。

死にたくなかった。
そんなみじめに死ぬのは、嫌だった。
生きたいと思ったことはない。
けれど死にたくはない。

だから、俺は何をされても黙っていた。
兄や弟にとって、そんな俺は格好の生贄だったようだ。
幼さゆえの無邪気さと柳瀬の者の残酷さを滲ませ、おもちゃのように遊ばれた。

水に突き落とされ、気を失う寸前まで沈められた。
あばらが折れるまで、蹴り続けられた。
顔が腫れあがって何も食べられなくなるまでサンドバックにされた。
血を吐き、歯が折れ、内臓を痛めた。
ションベンをするにも痛みを伴い、手当てもされずに布団にうずくまる。

特に、何も感じなかった。
人に傷つけられるのは、慣れていた。
痛みは好きではないけれど、死なない限りなんとも思わなかった。
さすがに殺すのはまずいと思っていたのだろう、いつも寸前で止められた。
だから、我慢できた。
死にたくなければ、息を潜めて生きなければいけない。

助けてくれる人間もいない。
それも当然のことだった。
俺に飼い主はいない。
あの犬のように、可愛がる人間はいない。
だから、こういう扱いをうけるのも当然のことだ。





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