ぴんぽんぴんぽんぴんぽーん! リズムをつけて鳴らされたチャイムが、遅い朝食兼昼食をとっていたダイニングに響き渡った。 菊池がちょっと不機嫌そうに眉をあげてから立ち上がる。 キッチンのすぐ隣の壁にかかっていたインターフォンに手を伸ばした。 「はい」 カチャ。 取った直後に、菊池は無言でインターフォンを置いた。 橋本はダイニングテーブルに座り込んだまま、首をかしげる。 「誰だったんだ?」 「浄水器の押し売り」 「へー」 こんな高いところまで大変だなあ、と思いつつトーストに再度かじりつく。 菊池もテーブルにつこうとする。 ぴんぽんぴんぽんぴぽぴぽぴんぽーん!!!! しかし再び鳴り響いたチャイムの音に橋本は口に含んだトーストを噴き出した。 「おいおいおいおい、ずいぶんアグレッシブな押し売りだな」 「ち」 「な、なんだ?よほどノルマに困ってるのか!?」 「無視しろ」 すげなくそう言って、菊池は眉をしかめたまま、テーブルについてしまう。 しかしいまだにチャイムは鳴り響いていて、橋本はおろおろと玄関と菊池を交互に見る。 「な、なあ、俺が出て追い払おうか?」 「無視だ」 どんどんどんどんどん! ぴんぽんぴんぽんぴんぽん! さらに放置していると、今度はぶち破るかのようなノック音まで合わさりなんとも不快なハーモニーを奏でる。 橋本は困ったように、無言でスープをすすっている菊池に再度促した。 「な、なあ、近所のおばさんにまた怒られるんじゃねーの」 「くそ」 最近近所からの苦情のせいで母親からよく怒られる菊池は小さく毒づいて乱暴に立ち上がった。 どすどすと不機嫌そのものの足音で、玄関まで向う。 橋本もなんとなく気になって、リビングの入口のところから玄関を覗きこんだ。 押し売りが乗り込んできたら加勢しようかと、近くに武器になりそうなものを探しながら。 玄関先につくと、菊池はチェーンを掛ける。 そして、細くドアを開けると一言言い放った。 「帰れ」 押し売りへのあまりに冷たい態度に、橋本が思わずつっこみそうになる。 しかし、その前に聞きなれた声がリビングまで伝わってきた。 「お前!チェーンまでつけてんなよ!どんだけ友達甲斐ないんだよ!!」 「押し売りはお断りです」 「お客さーんそりゃないよー、ちょっとでいいからさー。本当にいい商品なんだって。今なら皮バッグまでついてお得!ローン組んでも大丈夫だよ!」 「困るんです」 それは、どっからどう聞いても、悪ふざけが大好きなクラスメイトの声だった。 橋本は自然と玄関先まで足を向ける。 「あれ、鈴木?」 「あ、橋本君!この人ひどいんだけど!ちょっと入れてよ!もう満足したでしょ!?いくら二人でいたいからってさー!」 菊池は苦虫を噛み潰したような表情を崩さないまま、ドアを閉めようとする。 鈴木はとっさにドアに足を差し入れた。 わずかな隙間を残して、ドアは閉じることを阻害される。 「とっとと帰れ」 「なになになにー、なんでそんなに不機嫌なわけ?俺はあれよ、いわばキューピット?二人のキューピット!俺がいなきゃお前らなんて未だにやれてないんだからな」 「うるさい」 言い争いを続ける鈴木と菊池。 どうフォローしたものかと、困って立ち尽くす橋本。 その不毛な時間に終止符をうったのは、いつぞやと同じ人間の手によってだった。 「ごほ」 体格のいい中年女性が仁王立ちでこちらを睨みつけている。 三人は一瞬で無言になり、素直に謝った。 「す、すいません……」 「ごめんなさい……」 「……ご迷惑おかけしました」 中年女性は何かいいたげにしていたが、溜息をついて去っていく。 鈴木は焦った表情を浮かべる菊池に、にやりと笑いかける。 「入れないと、また騒ぐ」 「……く、押し売りよりタチ悪りーな。とっとと帰れよ!」 「ったくもー、最初からそうしてればいいのに」 「やかましい!」 何かデジャヴを感じながら、菊池はしぶしぶチェーンを外した。 「よし、それじゃあとりあえず帰れ」 ようやく室内に潜入した鈴木がリビングのソファに座り込んだ途端、菊池はそう告げた。 さすがに不平を訴える鈴木。 「扱いひどすぎない!?なんなの、俺追い出してそんなにイチャコラしたいわけ!?せっかくヤッてるところ突入するのは遠慮してやったのに!」 「いっぺん死ね」 表情を動かさないまま、菊池はさらに言い放つ。 一応鈴木は協力者だ。 まあ、歓迎されるとは思っていなかったが、ここまで邪険にされるとは想像はしていなかった。 さすがに菊池のテンションが最悪なことに気づき、小さな声で隣に座っていた橋本に問いかける。 「……ねえ、橋本君、なんでこんなに菊池君機嫌悪いわけ?」 「え、えー……」 「せっかくラブラブでなんかうざい感じになってるかと思って楽しみにしてきたのに」 「うーん……」 「ま、いいや。それでどうだったのよ、橋本君、ひと夏の初体験は」 「あ、えーと………」 質問を次々に投げかける鈴木に、居心地悪そうに視線を彷徨わせる橋本。 照れていたり、焦っていたりする様子ではない。 ただひたすら、困っている。 鈴木はそれに気づいて、小首をかしげた。 「どうかしたの?」 「……いやあ」 更にもごもごと言葉を濁す橋本。 菊池はむっつりと黙りこんだままだ。 どうにも、鈴木が想像していたようなできたてカップルのスイートな朝☆という様子ではない。 ただひたすら気まずい。 鈴木は珍しく困惑して、眼鏡を直す。 「なんか、二人とも、本当にどうしたの?」 「いや、なんでもないけど……」 「あ、あれでしょ、わかった!失敗しちゃったんだ!だから菊池君、こんな機嫌悪いんだ!」 ガシャン! 場の空気をどうにかしようと冗談で放った一言に、菊池がコーヒーが入っていたカップを倒す。 幸い中身はなかったので、テーブルを汚すことにはならなかった。 橋本は顔色を失っていた。 鈴木は笑顔のまま固まった。 「……………」 「……………」 「……………」 更に気まずい沈黙が、それほど広くないリビングを支配する。 鈴木は笑顔で固まったまま、首をかしげる。 「え」 「……………」 「……………」 そこでようやく、鈴木は理解した。 この重く気まずい、どうしようもない黒い空気のその訳を。 真顔になって、声を低くする。 「………マジすか」 菊池はこれから人を殺しそうなほど凶悪な表情で、机に肘をつきやさぐれていた。 橋本は、視線をそらす。 「…………勃たなかったの?」 「いや!そうじゃないけど!」 恐る恐るとした鈴木の問いに、橋本が即座に否定する。 その答えに、鈴木は考えを巡らすように眼鏡の位置を直す。 「挿れるところわかんないって訳じゃないだろうし」 「もう追及すんな!」 「あ、先にいっちゃったとか?本番前に。な訳ないよな、きっとお道具が足りなかったとか……」 カラカラカラカラ…… 。 無言でテーブルに転がっていたカップを直そうとしていた菊池の手から、カップが滑り落ちた。 フローリングの床を、タンブラー型の丸いカップが転がっていく。 「……………」 「……………」 「……………」 このままだと窒息するんじゃないかと思われる淀んだ空気。 まだ日は高いというのに、心なしか部屋の中は暗い。 「あー………」 「……………」 「……………」 鈴木は真面目な顔を作り、向かいに座っていた菊池に慈愛に満ちた声で優しく語りかけた。 いつものどこか悪ふざけをしそうな雰囲気はそこには見られない。 「ほら、男ってさ、結構デリケートだし」 「…………」 「そういうことって、あるよ。気にすんなよ」 「慰めるな!お前に慰められるとすべてに負けた気分になる!」 暗い顔をして黙り込んでいた菊池は、真剣に慰められて、切れた。 テーブルを叩いて声を荒げる。 鈴木はそれでも真面目な顔を崩さず、労わりを含んだ表情で言葉を続ける。 「いや、本当にそう思ってるのよ?」 「嘘つけ!お前がこういうネタを喜ばないはずねーだろ!」 「えーでも、ほら、あんまり笑ったりして菊池君が再起不能になったら橋本君が困るし」 「やかましい!!笑いたいなら笑え!」 「せっかく遠慮してるのにー」 「お前に慰められるよりはましだ!笑え!さあ笑えよ!!」 もう何か守っていたものが決壊してしまったのか、普段みられないぐらいヤケになっている菊池。 指を突き付けられて、鈴木は肩をすくめる。 「じゃあ、遠慮なく」 きりっと表情を正すと、ひとつ咳払いをした。 一瞬、リビングが静まりかえる。 「ぎゃっはははははは、あ、はっ、はははは、げほっ、ぷ、く、あっはははは」 そして一瞬置いた後、これまた隣のおばさんに怒られそうな大音量で笑いだした。 途中むせながらも、菊池に指を突き付けて笑う。 「早い!早いよ!かあっこいー!よ、憎いねこの早漏王!Mr.オフサイド!」 テーブルに手を打ちつけて、鈴木は壊れたように涙を浮かべて笑い続ける。 「あっはははははははは、あんだけかっこつけてぎりぎりで失敗かよ!おまえ外さないなー!おいしいなあ、ずるいなー!あ、外しちゃったのか!発射場所を!大外れー!ぶ、ぎゃははははは!!気をつけて、男は急にはとまれない!」 ゲラゲラとリビングに転がりながら笑い続ける鈴木。 鈴木の声しか聞こえないような時間の後、おそるおそると鈴木に語りかける声があった。 「…あの、そろそろやめてやってくれ、鈴木」 「けほっ、げほっ、え、、へ?」 笑いながらむせていた鈴木は、その声の主に視線を向ける。 そこには橋本が沈痛な表情で、鈴木の肩を押さえていた。 「………頼むからそれくらいにしてやってくれ、本気で菊池が再起不能になりそうだ」 その言葉に菊池に視線を向けると、菊池は怒りすら浮かべていない。 ただひたすら無表情で無言だった。 その目は、どこかここではない場所を見詰めている。 鈴木は、さすがに口をつぐんだ。 「……あらやだ、本当にやばいわね。じゃあ、からかうのはこれくらいで」 「………………」 鈴木は眼鏡を取り外して涙のせいで曇ったレンズをシャツで拭う。 かけ直して真剣な表情を作ると、菊池の肩をポンと叩く。 「いや、本当によくあることだと思うよ」 「おせえよ」 橋本がつっこむが、菊池は反応がなかった。 遠いところへ行ってしまったようだ。 鈴木がとりなすように、話題を逸らす。 「えーと、つーか、若いんだし、一回ぐらい失敗してもすぐにリリースすんでしょ?もう一回挑戦すればよかったのに」 「あ、えーと……」 橋本は眼を逸らしてもごもごと言葉を濁す。 鈴木はその反応に、すべてを悟ってしまった。 「………え、なに、復活すらしなかったの?うわ、気の毒」 「………橋本のせいで萎えたんだよ」 「何、いいわけ?男らしくないわね」 ずっと黙っていた菊池が、視線を下にしたままぼそっと反論する。 鈴木は茶化したが、菊池は据わった視線を橋本に向けた。 「………人が焦ってるところに『勃て!勃て!勃つんだ、ジョン!』はねえだろ」 「………や、あれはこう、場のムードを和ませようと……」 「和まねえよ!」 橋本は気まずそうに小さく答えると、菊池は全力で突っ込んだ。 そしていったん落ち着いていた鈴木の笑いの発作が再発してしまう。 「ぶは、あっははははは、やば!あはははははは!ちょ、面白い!レポート、レポート提出!詳細に!そこんとこ詳細に!」 「……………」 「やっべ、マジおもしれえ。素早さはあるのに、回復力がいまいちね、菊池君!転職しなきゃ転職!ジョブチェンジ!」 「………頼むから、本当にやめてやってくれ」 橋本がフォローしたが既に遅く、菊池はずぶずぶと沈みこんでいった。 テーブルにつっぷしてぴくりとも動かなくなる。 家にずっといたせいで、セットされていない髪はふにゃふにゃとしていて、そこがまたみじめだった。 「あーらら、しばらく帰ってこれなさそうね。かわいそう………」 「誰のせいだ」 気の毒そうに憐れみに満ちた声を出す鈴木。 橋本は低い声でつっこむ。 鈴木は器用に片眉をあげると、にやりと笑って今度は矛先を橋本に向けた。 「橋本君はいいの?こんなふがいない男で。ふがいないっていうかふにゃ●んな男で?」 「いや、立派ではあったぞ」 「あ、そっか、じゃあこんなフライングな男で」 「…………フライング、か……」 「あああああ、気にするな菊池!」 突っ伏して顔の見えない菊池から絶望に満ちた声が漏れてくると、橋本は慌ててまたフォローをいれる。 先ほどからの橋本の健気な様子に、鈴木は楽しそうににやにやと笑う。 「あらあら、甲斐甲斐しいわね。ラブラブね。妬けるわね」 「…いや、もう本当にやめてやってくれよ、鈴木」 「何、橋本君、本当にこんな暴発男でいいの?こんな男でも好きなの?あなたそれでいいの?」 橋本が以前よりもずっと菊池を気遣う様子を見せるのが、鈴木には新鮮だった。 いっつも仲をからかうと焦って否定する橋本が素直に菊池を庇っていることを、そう茶化してみせる。 けれど橋本は焦った様子を見せずに、うつむいて顔を赤らめた。 「………えーと」 「ん?」 「なんか、昨日こう、えっち、まあ未遂だったんだけど、して、菊池が好きだなあって思って」 「………へ?」 赤くなって慌てるかと思った質問に、思った以上にストレートに返されて鈴木は呆けた声を出す。 橋本はそんな鈴木に気づかず、赤くなりながらも拙く、でも真剣に続ける。 「菊池がさ、いつも違う感じで、いっつも触りっことかはしてたけど、やっぱ全然違くて、なんか、こう、ドキドキしたっていうか」 「…………へー」 「やっぱり、こいつと一緒にいたいなあ、とか、こっちを選んじゃったこと失敗じゃないなあ、とか。そんなこと、なんか、思って…、こう………やっぱ、好き、だな、とか」 照れたように、でも嬉しそうに言葉を続ける橋本に、鈴木は呆れたように口を開けた。 正直、橋本の反応が予想外だった。 ポリポリと頭をかいて、珍しく表情を曇らせる。 「………砂吐きそうなんだけど、橋本君」 「え、え、え?」 「ものっそいストレートなノロケね。カウンターパンチ食らったわ。何この敗北感」 「あ、だって本当に菊池のこと、好きだな、て」 しつこくノロケを続行する橋本に、鈴木は何を言っても無駄だと目を細めて口をつぐんだ。 そこでテーブルの向こうで沈みこんでいた菊池が、のそりと起き上がる。 表情は沈んでいたが、少しだけ感じいったように、橋本を見つめる。 橋本は自分のカップをいじりながら、たどたどしく続ける。 「………橋本」 「なんか必死になって挿れようとしてるところとか、イっちゃったあと呆然としてる姿とか」 「…………」 「その後必死にごまかそうとしてるところとか、勃てようとしてるのに焦って余計に萎えちゃった時とか」 「…………」 「ああ、なんかかわいいなあ、って。ほほえましいなあ、って。俺、こいつのこと好きだなあって」 そこまで来て、今度は鈴木が橋本の腕をつかんだ。 焦ったように、橋本を止める。 「橋本君、お願いだからやめてあげて!菊池君のヒットポイントはゼロよ!」 「え、あ?ええ!?え、菊池!?だ、大丈夫か!?」 その言葉に菊池を見ると、菊池はもはや床に倒れこんでいた。 ぴくりとも動かない。 焦って橋本が菊池の元へ走る。 「し、しっかりしろ!菊池!」 「……………もう、いいよ。笑えよ、笑えばいいんだよ」 「あ、菊池、そうじゃなくて、そうじゃないんだ」 「………いいんだよ、なんとでも言えよ、フライング王だろうが、不発弾だろうが」 「いや、むしろ暴発だけどね!」 「お前は黙ってろ、鈴木!」 その後懸命な橋本と鈴木のフォローの甲斐なく、菊池のテンションが回復することはなかった。 すっかり日が暮れて、そろそろ菊池の両親が帰宅する時間となった。 気まずい雰囲気のまま、鈴木と橋本は菊池の家を後にする。 ダメージを負いすぎてふらふらとなった菊池も、一応玄関先まで見送りにきた。 鈴木を先に玄関から出して、橋本は靴を履きながらちらりと菊池に視線を送る。 「じゃあ、俺、帰るけど………」 「………ん」 未だに死んだ魚のような目をしたまま、菊池は小さく返す。 橋本はしばらく視線を彷徨わせた後、菊池にしっかりと目を合わせる。 そして、はっきりとした声で話し始めた。 「あのさ、菊池」 「…………」 「さっきは、その…ああいう風に言っちゃったけど」 菊池は何も言わない。 けれど、その眼は逸らされていなかった。 「その、かわいいって思ったのは、本当なんだ。ごめん」 「…………」 「でも、お前、いっつもかっこつけてて童貞じゃないし、経験値あるし、ちょっと悔しかったんだよな。お前大人の男って感じで、男として負けてるって感じで」 訥々と続ける橋本に、菊池は相変わらず無表情。 それでも橋本は一生懸命、菊池に自分の想いを伝える。 「お前、嫌かもしれないけど、なんか昨日さ、なーんだ、やっぱ俺とタメの普通の男じゃん、と思って」 「…………」 「なんか、お前のこと、もっといっぱい、好きになった。嫌な意味じゃなくて、なんか愛しいな、って思った」 「…………」 「て、ちょっとなんかキャラ違うこといってて、めっちゃこっ恥ずかしいんだが!」 やっぱり黙り込んだままの菊池だか、少しだけ表情が和らぐ。 それに気づいて、橋本もほっとしたように肩から力を抜く。 伸びあがり、上がりかまちにいる菊池の襟首をつかんで引きよせ、ちゅと音をたててキスをする。 そして、驚いたように目を丸くする菊池に笑いかけた。 「お前と、やりたい。今回俺ぐだぐだだったけど、次は俺もちゃんとするから」 「…………うん」 「一緒に、頑張って気持ちよくなろうな!」 「………ばーか」 まるで何かスポーツ競技でもするかのように意気込むように気合いを入れる橋本。 菊池はそれに呆れたように、小さく毒づいた。 かすかに笑いながら、照れたように目元を赤らめて。 そして二人はもう一度重ねるだけのキスをした。 |