「俺たちもそろそろ、籍入れよっか」 夕食を終えた後の一時、コーヒーを飲んでいると急に宏隆がそんなことを言いだした。 「は?」 「は?」 当然弟と私は、なんのことか分からず呆けた声を同時に出してしまう。 それが同じタイミングだったのが面白かったのか、眼鏡の男が楽しそうに笑う。 「あはは、そういう変なところだけ、本当にそっくりだよな」 朗らかに笑う宏隆に、さっきのは冗談だったのかと首を傾げる。 けれど冗談を続けるらしく、にこにこと先を続ける。 「でさ、いつ籍いれようか。やっぱ大安吉日?」 「何言ってんの、あんた」 千尋はため息をつきながら、侮蔑の感情を隠そうともしない。 眉間に皺を寄せて、同居人を睨みつけている。 「だってさー、お前らは籍入ってて、苗字一緒じゃん。俺だけ仲間はずれじゃん、ずるいじゃん」 「ずるいって………」 困惑して、声が掠れてしまう。 苗字が同じって、それはそうだ。 だって、私と千尋は、姉弟なのだから。 生まれた時から、苗字は一緒だ。 そしてきっと、変わることはないだろう。 ないだろうと、漠然と思っていた。 「だからさ、俺と清水姉で籍いれようよー」 「ありえない」 宏隆の甘えるような声を遮ったのは、千尋だった。 不機嫌そうにコーヒーを啜り、吐き捨てる。 そんな千尋の態度に、宏隆が苦笑する。 「仲間はずれにされるからってひがむなよ。清水弟」 「俺と真衣ちゃんが同じ苗字じゃなくなるでしょ」 相変わらず変な時だけ子供のようになる千尋に、私も苦笑してしまう。 でもそうか、宏隆と結婚したら私は千尋と違う苗字になるのか。 それはとても不思議な感覚だ。 ずっと一緒にいた弟。 これからもずっと一緒にいるであろう弟。 同じ苗字じゃないのは、違和感が酷い。 「俺と清水弟は養子縁組ね。それで皆同じ苗字じゃん」 「はあ!?」 宏隆の続く爆弾発言に、千尋はらしくなく大きな声を上げる。 私も声が出なかったが、驚いた。 何を一体言っているんだろう。 「根木麻衣に、根木千尋に、根木宏隆か。座り悪いかなあ、俺が真衣の籍入ればいいのかな。清水宏隆?そっちのがいいかな」 けれど宏隆は本気のようで、ぶつぶつと言いながら首を捻っている。 私と根木が結婚して、根木と千尋が養子縁組。 確かに、そうしたら、全員家族で、全員同じ苗字だ。 いや、それはそうなんだが。 そういう問題じゃなくて。 「………馬鹿じゃないの」 千尋はコーヒーをテーブルに置いて、立ち上がった。 そしてさっさとリビングから出ていこうとする。 「なんでだよ。家族になるじゃん!家族になろうよ!」 「馬鹿らしい」 「千尋の就職前のが混乱がなくていいと思うんだけど」 「俺はもう寝るよ」 「えー。ちょっと考えておいてよ」 千尋はすでに会社の内定を貰っている。 このタイミングでの養子縁組とかいいんだろうか。 内定取り消しとかにならないだろうか。 いや、そうじゃなくて。 問題はそこじゃない。 「………宏隆」 私は隣に座っていた宏隆を見上げる。 眼鏡の男は好奇心に満ちた目で私を見下ろしている。 「真衣は反対?」 反対か、反対じゃないか、よく分からない。 驚き過ぎて、分からない。 でも、私と、宏隆と、千尋が、全員家族になる。 それは、胸がなんだかくすぐったくなる想像だった。 千尋とは、何がどうあっても、姉と弟という関係は切れることはないだろう。 例え別れが来たとしても、それだけは繋がっている。 でも目の前の男は、他人だ。 いつでも切れてしまう縁だ。 それを考えると、何か繋がりを欲しいと思う。 でも、ただでさえ歪な今の関係が、更に歪になるのだろうか。 「反対っていうか」 それはこの男を更に縛り付けることだ。 私達の壊れた関係に付き合わせているこの男を、更に暗い場所に引き摺りこむことになる。 一度はお互いを選んだ私と千尋だが、傷つけあい憎しみ合い、また宏隆を頼った。 宏隆は、苦笑しながら、裏切った私を再び抱きしめてくれて、そして壊れかけた千尋すら受け止めてくれた。 千尋も、宏隆という理解者を得て、前よりも穏やかになった。 今、私達は、宏隆が間にいて、ようやくバランスを保っている。 傷つけることなく、触れあえる。 宏隆がいなくなったらと思うと、怖くて叫び出したくなる。 この男を失いたくない。 でもそれは、私達の我儘だ。 「あんたは、いいの?」 宏隆は天井を向いて、少し考え込む。 「んー、このままいっても、お前達以上に楽しいことも執着出来ることもなさそうだし、だったら根性据えて、形を作っちゃうのもいいな」 「でも、お母さんとか…」 「あの人は俺が決めたことなら何も言わないよ。ちゃんとしっかり責任取るならね」 確かにあのサバサバした宏隆のお母さんは、反対とかはしさなさそうだ。 でも、それでも、まともなことじゃない。 普通じゃない。 「ま、孫とかは兄貴に任せるとして、どうせ清水姉弟もその辺は諦めてるだろ?」 「………」 子供を、作ることなんて、考えたこともない。 そんな怖いこと、考えたくない。 「ほら、おいでおいで」 宏隆が私の体を引き寄せ、ぎゅっと抱きしめてくれる。 そうすると不安がゆるゆると溶けて安心していく。 太陽の匂いのする、明るい男。 いつだって、暗い所に落ちていく私を明るい所に引っ張り上げてくれる。 「難しいことはいいじゃん。俺と結婚しようよ。好きだよ、真衣。千尋ごと真衣を愛するからさ」 それは眩暈がするほど、嬉しい言葉。 耳から優しい毒が注がれて、体が全て蕩けていく。 千尋は憎んで愛して、結局離れることが出来ない、体の一部ようなものだ。 それごと愛してくれるなんて、なんて恐ろしく奇妙で甘い口説き文句。 嬉しくて嬉しくて、この男から離れることなんて、やっぱり想像が出来ない。 「俺は真衣と千尋と一緒にいるのが何より楽しいんだ」 宏隆が私を強く抱きしめて、くすくすと笑いながら耳元で囁いた。 「ただいま」 仕事から帰ってリビングにいくと、すでに宏隆と千尋は帰っていた。 ソファに座っていた宏隆が指を一本立てて、静かにするように促す。 宏隆の膝には、頭を預けて無防備に眠りこんだ千尋の姿がある。 「………」 その光景は、いまだにとても不思議に思える。 千尋は、宏隆の前で、一番無防備な姿をさらけ出す。 私の前では苦しそうな顔をするばかりなのに、宏隆の前では穏やかで安心しきった表情を見せる。 それが少し悔しくて、嬉しくて、妬ましくて、でも気持ちが分かって、とても複雑な気持ちが胸を締め付ける。 宏隆に嫉妬しているような、千尋に嫉妬しているような。 でも千尋が安心出来る場所があるのが嬉しくて、宏隆がそれを受け止めてくれるのが嬉しくて。 「これ」 目の前の光景に見入っていると、宏隆がテーブルに置いてあった紙をとってひらひらと振る。 私はコートを脱ぎながら近づき、その紙を見る。 「え、これ」 「こいつって本当にヤンデレでツンデレだよなあ」 宏隆がくすくすと笑いながら、養子縁組届と書かれた紙を見る。 そこにはすでに養子の方の名前が書かれていた。 つまりこれは、このやや神経質そうな綺麗な文字を書いた人間が持ってきたということだろう。 「………千尋」 名前をそっと呼んで宏隆の膝の上で眠る弟の頭を撫でる。 「………おかえり、真衣ちゃん」 千尋はゆっくりと目を開けると、私の顔を見て柔らかく笑う。 その笑顔が切なくて、胸が痛くて、いっぱいになる。 「いいの、千尋?」 「別に、家族なんてどうでもいいけど、この苗字を捨てられるなら、それでもいい」 私よりもきっと、家を親を疎んじていたのは千尋だ。 でも、きっと、千尋がこれを持ってきたのはそれだけじゃないだろう。 「こーのツンデレめ!」 宏隆が楽しげに笑いながら、千尋の髪をくしゃくしゃにしてしまう。 千尋がため息をついて起き上がり、ソファに座りこむ。 その手を宏隆がぎゅっと握りしめた。 「なんかまるでゲイ婚みたいだな。幸せにするぜ千尋!」 「やめろ、気持ち悪い」 心底嫌そうに顔を歪めて、千尋がその手を振りほどき払いのける。 それでも宏隆はめげずに今度は千尋にぎゅっと抱きつける。 「もう、この可愛いリアルツンデレめ!」 「やめろ!」 千尋はジタバタと暴れて、宏隆の手から抜けだす。 宏隆が私にも手を伸ばして、楽しそうに笑う。 「ほらほら、真衣もおいで」 私はちょっとためらってから、宏隆の腕の中に飛び込む。 宏隆は私と千尋を両腕にぎゅっと抱きしめる。 「俺がいれば二人も世間の目も欺けるし、いいことだらけでしょう」 「………あんたは、それでいいの?」 「こういう酔狂に人生を費やすってのも、楽しそうじゃない?」 宏隆は時折、危ないものに触れたくなるという発言をする。 歪んだ生き方をする人間が羨ましいと言う。 私たちこそ、宏隆の眩しさが、羨ましいのだけれど。 「俺は俺なりに、君たち二人を愛してるんだからさ!」 「きもい」 「なんだとこの、ちゅーするぞ、ちゅー!」 「離せ!」 千尋のほっぺたにキスをしようとする宏隆を、千尋が手で押しのける。 でもその肩に乗った腕を払いのけることはしない。 「………宏隆」 「俺は君が好きだよ、真衣。君は?」 昔からくれるその言葉が、とても嬉しかった。 千尋以外誰からも関心を払われない私を見てくれた男が、愛しかった。 この明るい太陽の匂いがする男が、欲しかった。 そうしたら、私も明るいところへ行ける気がしていた。 今も、暗い場所に光を照らしてくれている。 「………私は、宏隆が好きだよ」 告げると、宏隆は破顔した。 その笑顔に温かな気持ちで、体がいっぱいに満たされる。 だから、これで、いいのだと、自分を騙す。 常識から真実から、目を逸らす。 「真衣ちゃん」 ぐいっと反対の手が強く引かれた。 咎めるような、縋るような、帯びるような目。 その全身で私を求める弟に、暗い優越感に浸る。 「勿論千尋、千尋も好きだよ。千尋から、離れられる訳がない」 私が、私でいられる理由。 私にも存在意義を感じることが出来る、執着。 手放すことなんて出来ない、ずっとずっとこんな私を求めてくれる弟。 「二人とも、好きで、ずっと、一緒にいたいよ」 千尋がほっとしたように、私を引き寄せる。 宏隆の上のもつれ合うように抱きしめあう。 歪な形、歪な関係。 「んじゃ、一足先に誓いのキスだね。真衣、死が二人を分かつまで、俺たちを愛し続けると誓いますか」 宏隆が楽しそうにくすくすと笑って、私の手を握る。 思わず私も笑ってしまう。 「なにそれ」 「こんなじゃなかったっけ?」 覚えてないが、俺たちなんて、おかしい。 でも、そんなのどうでもいい。 私が大切で、大好きなのは、この二人の男だ。 例え、どんなに最低だろうと、誰に何を言われようと、失うことなんて、出来やしない。 「はい、誓います」 だから、自然と微笑んで、告げる。 宏隆が満足げに頷いて、自分の腕の中にいる弟に尋ねる。 「千尋は?」 千尋は少しだけ宏隆を見る。 宏隆はただ面白そうに笑っている。 そして、諦めたようにため息をついた。 「………誓います」 「俺も誓います!」 千尋が告げるとすぐに宏隆も誓約する。 そしてその力強い腕で、私達を強く強く抱きしめてくれる。 「幸せになろうね!式は三人であげようぜ!」 「馬鹿じゃないの」 「まあ、ひどい!」 「あ、でも真衣ちゃんのドレスは見たいかな」 「え、やだ」 「だーめ」 笑いながら、千尋が私にキスをする。 私もキスを返し、そして宏隆にもキスをする。 宏隆は私を抱きしめて、キスを返してくれる。 三人でいれば、何も怖くない。 三人でいれば、満たされる。 なんて歪。 なんて最低。 なんて醜悪。 なんて歪んで完成された関係。 |