「拝啓、庭の桃の木がつぼみをつけ、春の訪れを知らせています。今年の厳しい寒さに、お体など壊されていませんでしょうか」

こんな手紙を書き始めて、もうどれくらいになるだろう。
手紙は一週に一度。
返事が返ってくるのも一週に一度。

一か月に二通。
面倒くさがりの俺なのに、この手紙だけは続けている。
祖父譲りの堅苦しい筆跡を更に堅くするよう心がけ、丁寧に書く。

古めかしい言い回し。
この手紙を書き始めるまで、頭語が必要だとか結語が必要だとか時候の挨拶が必要だとかそんなマナーすら知らなかった。
最初は教本の時候の挨拶を丸映しだった俺も、今では自分なりの工夫ができるまでになった。

手紙に書くネタを探して、道を歩いている時も周りを見渡したりする。
松の木のみの虫、花壇の霜柱、花の匂い。
そうすると今まで気付かなかったものが、世界には満ちていることを知った。
いや、小学生の頃は、知っていたかもしれない。
けれど、いつの間にか忘れていた様々なものが、視界に入ってくる。

これまでずっと歩いていた道。
単純で小さいけれど、まるで違った新鮮さを毎日感じる。
そしてその小さな驚きを、手紙にしたためる。
俺の周りの奴らだったら、きっと馬鹿にするような、ほんの些細なこと。

何軒先の何々さんの庭の花が咲いた、とか。
公園にいったら子供が転んだけれど、一人で立って偉かった、とか。
大根がおいしい時期になった、とか。

そんな呆れるほどにどうでもいい日常。
けれど、苛立ちや怒りや嫌悪、そんな汚いものがない世界。
ただ、穏やかさと優しさに充ち溢れた世界。
書いているうちに、自分まで穏やかな気分になってくる。
普段の俺は、ごく普通の一般的に軽薄な大学生なのに。

「中津和真より。倉敷いと様」

そしていつものように、そう締めくくる。
手紙の内容にふさわしい古風な名前。
便箋と揃いのシンプルなけれど上質な和紙の封筒に入れ、封をする。
これで、二週間に一度のお務めは終わり。

明日投函しようと思いつつ、俺はいつものように手紙を書いた後の心地よい疲労感を感じたまま、就寝した。



***




「なあ、和人。手紙を書いてくれないか」
「は?」

祖父、中津和真の見舞いに病院に訪れると、唐突にそんなことを言われた。
壮健だった祖父は、入院してからの二か月で急に痩せ衰えているように感じる。

「実は爺ちゃん、文通しててな」
「へ、誰と?」
「とびっきりの美人でな」

そこでにやりと厭らしく唇を歪める。
それが歳をとってもいつまでも若々しい祖父らしく俺は肩をすくめて苦笑した。

「いつの間にそんな女に手を出してたんだよ」
「爺ちゃんも、まだまだ捨てたもんじゃないだろ」

かっかっかと力強く笑う。
そうしていると、病に倒れる前の矍鑠とした祖父が戻ってきたようでほっとする。
共働きで留守がちの俺には、親以上に近しい祖父だった。
怒ると怖い一本筋の通った頑固爺。
ケンカもしたし、よく殴られたが、祖父がいたせいで寂しさは感じなかった。

「どうも、この頃あんまり手がきかなくてな」

そう言って、手をひらひらと振って苦笑する。
元気そうに見えても病の影は濃い。
医者から長くはないだろうと、言われていた。

「手紙の相手は爺ちゃんの学生の頃の初恋の人でな」

ちょっと照れくさそうに、祖父は頭を掻きながら話し始めた。
手紙を書き始めたのは十年程前から。
蔵を整理している時に、遠い昔に初恋の君にあてた恋文が出てきたらしい。
勇気がなくて、その時は渡せなかった。
見つけてしまうと、それが悔しく、名残惜しくなった。

だから、気まぐれに手紙を書いてみたらしい。
懐かしさと切なさをのせた手紙。
近況と、どうしているか、それだけを聞いた手紙だ。

遠い遠い昔だ。
それこそ祖父の学生の頃など、戦前戦中だ。
住所が変わっているだろう。
名前も変わっているだろう。

残り少ない人生、そんな道楽もいいだろう、と思ったそうだ。
届けばよし、届かなかったらそれはそれで。
博打気分で手紙を出したらしい。

すると、どういう経緯をたどったのか、手紙は三ヶ月後に帰ってきた。
返ってきた差出人の住所は、祖父が出したものとは違っていたらしい。
苗字も、違っていた。

色々な人の協力を経て、手紙が自分の元に来た。
貴方の事はよく覚えている、手紙をくれて嬉しい。

と、そんな内容が書かれていたらしい。
祖父は本当に喜んだ。
もう諦めかけていた所に戻ってきた手紙だ。
しかも色々な人の協力を経て。
相手も自分のことを覚えているらしい。
まるでそれは奇跡に感じた。
神様が最後に自分にくれたご褒美だと思ったと、そう祖父は皺を刻んだ顔をくしゃりと小さくして笑った。

「それから、ずっと文通を続けてきたんだがな、どうも最近はうまいこと書けなくてな」

ちょっと寂しそうに、首を傾げる。
そして、ベッドに座ったまま俺に深々と頭を下げた。

「だからな、すまん。代わりに俺のふりをして書いてくれ」
「ば、頭なんて下げんなよ!」
「でもな………」
「ば、か、書くよ!書くってば!」

いつも堂々としていた祖父が、俺に頭を下げる。
俺は焦って祖父の頭を上げさせた。
すると、俺の言質を取った祖父はしてやったりというようににやりと笑った。
くそ、やられた。

「いとさんも、もうお歳なのに楽しそうに書いてくれてる。俺から返事がなくてがっかりさせたくないし、心配もさせたくなくてな」
「しょってんなよ。清々するって思われるかも知れないぜ?」
「ばーか、お前とは違う。爺ちゃんはもってもてなんだからな」
「調子のんな、じじい!」

そう言って、笑い合った。
正直、面倒だし、重かった。
祖父はともかく、女性のご老人なんて何を書いたらいいのかわからない。
けれど、祖父に頼られたのが、純粋に嬉しかった。
そして何より、祖父の最後かもしれない願いを、聞いてあげたかった。

それから、俺は不思議な文通を始めた。



***




最初は義務感だけの面倒くさかった作業も、徐々に楽しくなってきた。
いとさんから返ってくる手紙は、祖父の手紙と同じように些細なこと。
こちらが送った近況に楽しげに答えてくれて、そして自分の身の回りの優しい出来事を伝えてくる。

この電脳社会に、文通なんてまどろっこしい真似。
メールだったら一瞬ですむところを、二週間に一度のゆったりとしたやりとり。
もどかしいけれど、不思議と穏やかな時間。
あちらの返事を待ち遠しく思い、次に何を書こうと辺りを見渡す日々。
俺はいつしか、この文通を楽しんでいた。

最初は祖父の言うことを筆談していた。
元々字の書き方も祖父に教わった俺は、少々荒いながらも祖父そっくりの達筆だ。
それでも更に気合いをいれて、祖父の字に似せるよう時間をかけて手紙を書く。
俺の知っている祖父とは違う、ロマンチストで心細やかな男がそこにはいた。
何十年も前の、若々しく初々しい少年の姿。

照れくさそうに文章をつづる祖父をからかいながらも、俺は微笑ましく思った。
十年も、こんな些細なやり取りを楽しみにしていた祖父と女性を、羨ましくも思う。
俺にこんな付き合いができるだろうか、そんなことも考えた。

だんだんと、いとさん、という姿も知らぬ女性に想いを馳せる。
彼女の世界は温かな色で満ちていて、その素朴だが美しい文章が心を揺らす。
変な話、俺は少しだけ祖父に嫉妬していたかもしれない。
それだけ、いとさんとの文通は楽しかった。
そして、いとさんという祖父と同世代の女性に心惹かれていた。

手紙を書くときになって、祖父から昔の手紙も見せてもらった。
女性らしい線の細い、けれど美しい字。
それがまた、いとさんの人柄を思わせる。

「なんか、いとさん、しばらく前からちょっと字が乱れてるな」
「いとさんももう歳だからな。体も徐々にきかなくなってるらしいしな」
「………そっか」

それでも、一か月に二通の手紙をかかさない。
いとさんの優しさと、二人の細く、けれど確かな絆の強さを感じさせる。
なんて純粋で穏やかな絆。

「爺ちゃん、いとさんてどんな人なんだ?」
「手紙通りの人さ。心根の優しい人でなあ。道端の花にも気を配る美しい人だったよ」
「今も美人なの?」
「きっと美人に決まってる」

不思議な言い回しに、首を傾げる。
十年も文通していたはずなのに。

「きっとって…?」
「学生の頃以来、会ったことないからな。今は分からん。だが美人に決まっとる」
「会ってないのかよ!」

信じられなかった。
住所はそう遠い街ではない。
頑張れば日帰りでもいけるような場所だ。
それなのに、この十年間会ったこともないのか。
祖父は俺の反応に、豪快に笑う。

「いとさんが俺に惚れたら困っちまうからな。あの世に行った時婆さんに叱られる」

祖母は、俺がまだ幼いころに亡くなった。
俺にはほとんど祖母の思い出ではない。
もう亡くなってから二十年以上だ。
それなのに、祖父はそう言って笑う。

なぜだか、俺は複雑な気分に陥る。
祖父の祖母への想いを、温かく思いながら。
いとさんに対して失礼だ、とも思いながら。
色々な感情に、胸がもやもやとする。
だから、つい口を尖らせてこんなことを言ってしまった。
俺自身、いとさんに会いたかったのかもしれない。

「いとさんは、会いたがってるかもしれないのに」
「いとさんも会おうとは言わないからな。俺に惚れたら死んだ旦那に悪いと思ってるんだろ」

そう言って、やはり祖父は豪快に笑う。
だから俺はかなわないと思い、肩をすくめる。

「調子のんな、クソ爺」
「ひがむなクソガキ。いいんだよ、爺ちゃんたちはこれで。もう老いらくの恋もないもんだ。想い出に浸るぐらいがちょうどいい」

そして、ベッドの上で窓の外に視線を向けた。
窓の外には病院の広い庭が広がっていて、冬の風は冷たそうだ。
けれど、祖父は穏やかな目をして目を細めていた。

俺にはそれがよく分からなかった。
ただ、少しだけ、羨ましかった。



***




一月、二月と経つうちに祖父の容体は悪化していった。
三月も経つと一文考えるのにも苦労するようになった。
だから俺は徐々に自分で考え書くことが多くなった。
今では全部俺が書いている。

いとさんという、まだ見ぬ女性に想いを馳せながら。

「なあ、爺ちゃん。………爺ちゃんのこと、いとさんに、言わないのか?」
「ん?なんだ」
「だって、そうしたら、お見舞いとか、来てくれるかもしれないし…」

ベッドに横たわることが多くなった祖父に、今日もいとさんからの返事を読み上げた。
祖父は穏やかな顔をしてそれを聞いている。
嬉しそうに眼を細めながら。

白いシーツの上で、祖父はすっかり小さくなった。
医者じゃなくても分かる濃い死の影。

だから、俺は合わせてあげたかった。
祖父の初恋の人に。
素敵な心優しい女性に。
そうしたら、祖父は少しでも長く生きてくれないだろうか。
ここに、とどまってくれないだろうか。

「ばーか、余計なことするんじゃない」
「でも………」
「いいんだよ、いとさんに余計な心配をかけるんじゃない」
「だけど!」
「………ありがとうな、和人」
「………礼なんて、言うな!」

情けなく、俺の声は上ずっていた。
俺に頭をさげ、俺に礼を言う。
そんな祖父らしくない行動は、ひどく俺を不安にさせる。
俺にゲンコツを喰らわせていた爺は、ひどく優しい顔で笑いかける。
そんな穏やかな顔も、見たくはない。

「………なあ、和人」
「なんだよ!」
「じゃあ、俺が死んだらいとさんの家に行ってくれ」
「…し、死ぬとか、言うな!」
「男のくせにめそめそしてんじゃねえよ」

いつかのクソ爺のように、祖父はにやりと笑う。
それはとても弱々しいけれど、けれど確かに俺の知る祖父で。
余計に胸が痛くなる。

「いとさんに、伝えてくれ」
「………なんて」
「俺が死んだことと、今まですごい楽しかった。何十年も若返った気分だった。最後の時を穏やかに迎えられた」
「…………っ」

俺はもう声がでなかった。
祖父の横たわるベッドから目を逸らす。
覚悟はしていたはずなのに。
分かっていたはずなのに。
それなのに、どうしても、受け止めきれない。

「ありがとう。ご苦労さんだった。もういいってな、伝えてくれ」
「………自分で、つた、えろ、よ」
「俺が死んでからつってんだろうが。そっちの方がろまんてぃっくだろ。綺麗な思い出だ」
「くそ、爺」
「ああ、和人。お前もありがとうな」

祖父はそう言って、弱々しく、けれど豪快に笑った。
俺は耐えきれずに祖父のベッドに突っ伏す。
小さい頃のように、祖父にすがりついて泣く。

「俺は幸せもんだった。お前たちのおかげで、満足だ。本当にありがとうな」



***




それから、一月たたずに祖父は旅立った。
大往生とまではいかないが、それでも長く太く生きた。
葬式は湿っぽいことが嫌いな祖父の望みどおり、賑やかに和やかに済まされた。
祖父の死に顔は、穏やかだった。
だからきっと、本当に満足だったのだ。

めそめそいつまでも泣いていたら、それこそ祖父に殴られるだろう。
男らしくないと、怒られる。

だから葬式からしばらくして、俺はよく知った住所を尋ねた。
何度も何度も書いた、もう暗記してしまった住所。
日帰りでいけるぐらい近くて、けれど訪れてはいけなかった場所。

祖父の想いを胸に、そして自分自身、いとさんに会えることを楽しみにしながら。
文章でしか知らない、声も、顔も何も知らない。
けれど、心優しい温かい女性。
会った時、俺はがっかりするだろうか。
それとも喜ぶなのだろうか。
少しの不安と、大きな期待。

地図を片手に一泊の予定で、なんもない住宅街を散策する。
鈍行を乗り継いで、たどりついたのはもう夕方近かった。
自分の家と似たような、少し寂れた田舎町。
古い住宅が立ち並び、どこからか夕飯の匂いがする。
はじめての場所なのに、どこか懐かしい。

目的の場所は、その中にあった。
ブロック塀に囲まれた、小さな平屋建ての一軒家。
昔ながらの日本家屋だ。
玄関先に、ちょうどプランターに水をやっている若い女性がいた。
俺よりも、少しだけ年上だろう、華奢な女性。

「あの……」
「はい?」
「こちらは倉敷さんのお宅ですか?」
「はい、倉敷はうちですが………」

怪訝そうに首を傾げる女性。
地味ながらも清楚で美人だ。
いとさんのお孫さんだろうか。
想像の中のいとさんも、こんなイメージだった。
俺が黙り込んでいると、女性は不審げに顔を曇らせる。

「あの……」
「あ、す、すいません!あの倉敷いとさんにお会いしたいんですが」
「あ、祖母のお知り合いですか」
「はい」

ようやくほっとしたように表情を緩める。
やっぱりお孫さんだったのか。
となると、やはりいとさんも美人なんだろう。
期待が頸をもたげてくる。
女性は手に持っていたジョウロを塀の上に置くと、頭を下げた。

「会いに来てくださってありがとうございます」
「は、はい」

深々と頭を下げられ、俺は思わず背筋を伸ばす。
年上の女性に、こんな丁寧な態度をとられることなどしがない大学生にはそうない。
長く綺麗な髪が、白いうなじに散って色っぽかった。
ドキドキとして、緊張する。
だがその緊張も次の瞬間吹っ飛んだ。

「せっかく来てくださって大変申し訳ないのですが、祖母は、五ヶ月ほど前に他界いたしました」

聞いた瞬間、何を言われているのか分からなかった。
五ヶ月と言うと、俺が自分で手紙を書き始めてもうしばらく経っていた頃だ。
自分の文章になって、ばれやしないかとヒヤヒヤしたが、それでもいとさんは優しい返事を返してくれた。
ほっとして、祖父の期待を裏切らずにすんで嬉しかった。
それを、覚えている。

「え、だって、そんな、え」
「………どうされました?」

混乱する俺を、女性は気遣うように見上げる。
何がなんだか分からなくて、思わず責めるように叫んでしまう。

「だって、いとさんは俺の手紙に、ずっと返事を!」

女性は、目を大きく見開いた。
身を乗り出すように、一歩こちらに歩み寄る。

「………もしかして、中津さんですか?」
「え」
「中津、和真さんのお孫さんか、何かかしら?」
「は、はい、中津和真の孫です」

真剣に詰め寄る女性にあっけに取られ、混乱も忘れて素直に頷く。 女性はそう告げるとくしゃりと、顔を歪めた。
懐かしい友人にあったような、切なげな表情。

「あなたにお伝えしたいことがあります。入ってください」



***




家に通され、居間にある仏壇に手を合わせた。
そこには上品そうな老婦人の写真が置かれていて、信じられないながらも確かにいとさんは亡くなっているということを認識した。
写真でありながらも、それはいとさんだと、確信できた。
優しく穏やかに微笑む彼女は、確かに、いとさんだった。

「どうぞお茶です」
「あ、ど、どうも」

仏壇の前に置かれていたテーブルに、女性が湯呑にはいった緑茶を置く。
改めてテーブルに向かいあい、俺は乾いていた喉を潤した。
俺が一息つくのを見守ってから、女性はゆっくりと口を開く。

「中津さん、十か月前ぐらいから、手紙書き始めましたか?」
「え!?な、なんで!?」
「やっぱり。字がちょっと、崩れたなって思ったんです。ご病気なのかどうか心配していたんですが」

くすくすと笑う女性。
俺は見破られたことが悪く、俯きながら言い訳をする。

「あれは………爺ちゃんが、代わりに書いてくれって……」
「ふふ」
「な、なんですか?」

また女性が楽しそうに笑って、身構える。
すると女性は悪戯ぽく指を一本立てた。
そうした仕草はかわいらしくて、思ったより女性が若いことに気付く。
落ち着いた格好をしているからもっと年上のなのかと思っていた。

「私もです」
「え?」
「祖母の手紙、倉敷いとの手紙は、私が一年半前ぐらいから書いていました」
「えええ!?」

唐突に明かされた真実に、俺は大きな声を上げてしまう。
女性は楽しそう声をあげて笑った。
悪戯が成功した子供のように。

「病気で右手が動かなくなってしまって、それでも手紙が書きたいって、和真さんに心配をかけたくないって」
「お、俺もです!俺も爺ちゃん入院しちゃって、でもいとさんに手紙が書きたいからって。あ、じゃあ途中で筆跡変わってたのは、あなたが…」

思わず黙り込んでお互い見つめあう。
しばらくして。
どちらからともなく、小さく吹き出す。
すると、耐えきれなくなって、どんどんおかしさがこみ上げてくる。

「ふ、ふふ」
「あ、あははは」

そのままお互い転げるように笑い続けた。
ただ、おかしくておかしくて。
何十年も会ったことない二人が、同じ行動をしていることが、おかしくて。
しばらく笑い続けて、女性が目尻を拭って声のトーンを落とす。

「祖母から、伝言を預かっているんです。二週間に一度の和真さんからの手紙が来なくなったら、ありがとう、楽しかったって伝えてくれって。もういいよって手紙を送ってくれって」
「あ」
「祖母はきっと、気づいていたんですね。和真さんが書いているんじゃないこと」

少し寂しげに、でも嬉しそうに笑っている。
そこで、俺も祖父の言葉を思い出す。
祖父が、いとさんに伝えてくれと、言われた言葉。

『俺が死んだことと、今まですごい楽しかった。何十年も若返った気分だった。最後の時を穏やかに迎えられた』
『ありがとう。ご苦労さんだった。もういいってな、伝えてくれ』

考えてみれば、おかしな言葉だ。
ご苦労さんとは、いとさんに向けた言葉かと思っていたが、おかしい。
ありがとう、は分かるが、ご苦労さん、なんて信頼し合った長年の文通相手に送るにはふさわしくない言葉だ。

「祖父も………ご苦労さんって、ありがとう、もういいって……」
「え………」
「楽しかったって………」
「………和真さんも、気づいてたんですね………」

女性は、笑いたいような泣きたいような判断に困ったような複雑な表情を浮かべる。
俺も、つられて顔が歪む。
してやったり!という祖父の得意げな顔が脳裏に浮かぶ。

最初は、きっといとさんは祖父に心配をかけたくなくて。
祖父はそして、いとさんと、そしていとさんの意志をくみ取った誰かの想いを無駄にしたくなくて。
祖父からの手紙じゃないことに気付いても、いとさんはその祖父の想いをくみ取って。

お互いに、優しく穏やかな嘘をついた。
優しい優しい世界に生きていた二人は、最後まで優しい時を過ごした。
お互いの存在を信じて、ただ穏やかな時を迎えた。

もう絞り尽くしたと思った涙が、溢れてくる。
悲しい訳じゃない。
騙されたのが悔しい訳じゃない。
ただ、胸が熱い。

「あ、す、すいません」

女性の前で、なんてみっともない。
慌てて涙を拭うが、それでもまた出てきてしまう。

「う、わ、すいません」
「いいえ」

女性も目が赤くなっている。
いたわりに満ちた優しい表情。
華奢で地味だけれど清楚で美人な。
俺のイメージ通りのいとさん。

そうか、いとさんは、半分はこの人でも、あるのか。

なんだか幽霊にでもあったような、不思議な気分に陥る。
古い友人にあったような、懐かしい気分にも似ている。

「すいません、自己紹介まだでしたね、倉敷絹といいます」
「あ、俺、中津和人って言います」

ずっと文通したいたはずだが、名前を知るのも初めて。
なんだかおかしくて、涙も忘れて笑ってしまう。
絹さんもくすくすと笑った。

「あの、いとさんのこと、教えてもらえませんか」
「はい、喜んで。私にも和真さんのこと教えてください」
「勿論です」

そして、俺たちは話し始める。
穏やかで優しい、けれど悪戯好きの彼らのことを。





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