お勉強をしましょう。 「あ、そこはね、不定詞だからこっちになるの」 「ん、了解。なるほど」 駿君が素直に頷く。 なんだか神妙な顔で頷く駿君が幼くてかわいくて、つい私は笑ってしまった。 すると駿君は据わった目で隣に座る私を見てくる。 「…なんだよ?」 「な、なんでもないよ!」 手をパタパタとふって誤魔化そうとするけど、駿君は更に目を細める。 なんだか夏だというのに、辺りが寒くなってくるぐらい、怖い。 「お前、なんかさっきから嬉しそうだよな」 「え、いや、そ、そうかな…?」 「ずっとにやけてる」 「え!嘘!」 そんなに顔に出ていただろうかと、咄嗟に顔に手を当ててしまう。 その瞬間、駿君が頭を殴った。 「痛い、ひどい!」 「うるさい、そんなに人が苦しんでるのが楽しいか」 「ち、違うよ!」 駿君の夏休みの宿題を一緒に片付けている。 しっかりものの駿君らしく、大方夏休みの前半に終わらせてしまったみたいだけど、苦手な英語でいくつか分からないところがあったらしい。 残っている問題について、私に聞いてきたのだ。 ただ、宿題を片付けるという面倒かつ退屈かつイライラする作業に、駿君の機嫌は悪かった。 「じゃあなんで、そんな嬉しそうなんだよ」 「怒らない?」 「内容による」 「……じゃあ言わない」 「……分かった、怒らない」 「え、いや、そのさ、なんか駿君がかわいい…痛い!」 言い終わる前に殴られた。 怒らないって言ったのに。 「嘘つき!やっぱり怒ったじゃん」 「怒ってない。殴っただけだ」 「そんなのへ理屈!ひどい、ずるい!駿君の嘘つき!!」 「うるさい、かわいいって言うな!」 そうやって睨みつけられて、つい黙ってしまう。 ひ、ひどい。 これは絶対私は悪くない。 悪いのは駿君だ。 でも言えない。 怖いから。 「…………」 黙り込んじゃうし。 ずるい。 私悪くない。 悪くないよね。 悪くないはずだ。 「…………」 でもやっぱり、こうやって無言になられると、私が悪い気がしてくる。 というか、どっちにしろ謝らないといけない気になってくる。 うう、弱い。 「い、いっつも私が駿君に教えてもらってる立場だからさ、なんか、教える立場って、新鮮で、嬉しかったんだもん」 黙々とノートに向かってる駿君に、言い訳がましく訴えてみる。 こっちを向いてくれない駿君に、だんだん悲しくなってくる。 「なんか、駿君のほうがしっかりしてるし、色々知ってるから、こういうこと、あんまりないし…」 最後のほうがちょっと鼻声になってしまった。 そんなに怒らなくても、いいのに。 ちょっと、笑っただけなのに。 悪い意味じゃないのに。 「ご、ごめんなさい。う……」 全然こっちを向いてくれないから、つい、目と鼻から水が出てくる。 それでもここで泣くのは、みっともなさすぎるから、必死にそれを我慢する。 しばらく私の鼻をすする音がして、そして大きなため息が部屋に響く。 「…ごめん」 「え?」 「ごめん…俺が悪かった」 ため息と共に吐き出されたそれはどこか不貞腐れているようだった。 でもこっちを向いて、気まずそうに眉を垂れる。 親に怒られた子供のような落ち込んだ顔は幼くて、やっぱりかわいかった。 もう一度ため息をついて、駿君が私の目尻の涙を拭う。 「泣き虫」 「だ、だって駿君怒っちゃうし」 「怒ったていうか…、ああ、もう、俺が悪かったよ!」 今度は声を大きく上げて、癇癪を起こしたように頭を下げる。 謝ってるんだろうけど、そんな顔と声で謝られると、怖い。 「お、怒ってない?」 「怒ってない。ごめん」 「う、うん」 どうやら、本当に怒ってないらしい。 今度は優しく声を抑えて、私の頬に触れてくる。 めったに見ない素直な駿君が、首を傾げて見上げるように許しを請う。 「許してくれる?」 「うん」 「よかった」 年下の男の子は、ひそやかに3度目のため息をついた。 私の涙と鼻水もとまって、些細なすれ違いが不発に終わったことに安心した。 駿君がわざとおどけたように、ノートをペンで指す。 気まずくなった空気が、徐々にもとの温かいものに戻る。 「それじゃこれ、教えてくれる先生?」 「はい、勿論です」 そして2人で、同時に声をあげて笑った。 *** しばらく真面目に2人で英語の宿題を片付けていると、急に駿君がノートを見たまま問いかけてきた。 「なあ?」 「何?」 「全部終わったらさ、ご褒美くれる?」 突拍子もない言葉に、私は頭が真っ白になった。 咄嗟に言葉がでてこなく、間抜けな声をあげる。 「へ?」 「頑張った生徒にご褒美くれよ、先生」 「ええ?」 ご褒美、という言葉の意味を図りかね、私は困惑する。 お金とか持ってないし、料理は駿君のがうまいし、なんかあげられるようなものあったっけ。 そんなことを考えていたら、駿君が私の顎と強引に掴んで向かい合わせられる。 ちょっと首を捻って、痛い。 「ご褒美、前借りな」 私が反応する隙も与えず、伸び上がって駿君が近づく。 そして、かすかに柔らかなものが唇に触れて、去っていった。 一瞬だけの、キス。 それでも、私の頬を熱くするには、十分。 すぐにノートに向かってしまった駿君に、私は悔し紛れに毒づく。 「……駿君の、ませガキ」 「ガキって言うな」 ポカリと一回殴られる。 でもそれは、全然痛くない。 それに、横を向いた駿君の耳が真っ赤に染まっていることを、私は知っているんだから。 |