しあわせでしあわせでしあわせで(その手)



笑い声が聞こえる。
一階から、皆が笑ってる声が聞こえる。
お母さんとお義父さんと義弟が笑っている声が、聞こえる。

お腹が空いて、腹がきゅうきゅうと鳴いている。
けれど、ここで下に下りていくとこの笑い声が止まってしまう。
三人とも、虫でも見たように眉を顰め、口を閉ざす。
慣れたとはいえ、やっぱりその顔を見るのは、自分のせいで静まり返る空間にいるのは、辛い。

だから、俺はここで息を潜める。
ご飯が終わってからも、三人は居間で楽しく会話をする。
だから、下にはいけない。
俺はここにしか、いられない。
和樹の塾がない日は、こうしてここにいるしかできない。

どうか誰にも気付かれませんように。
俺の存在に気づきませんように。
俺の存在を知られてはいけない。

顔を顰められるのは嫌だ。
罵られるのは嫌だ。
俺がいらない存在だと感じるのは嫌だ。

ああ、いっそこのまま消えてしまえたら、楽だろうか。
このまま、空気のように、居間にある観葉植物のように、俺という存在が無くなって、そこにいて許されるものになれればいいのに。

そうしたらきっと、幸せなのに。


***



笑い声が聞こえる。

下から、じゃない。
すぐ傍から、聞こえる。
この低く通りのいい堂々とした声は、家族のものではない。
もっと、嬉しくなる声。

「あっははは、鷹矢君、もっと飲め飲め」
「い、いえ、もう飲めませんから!」

この少し少年の面影を残した高い声も、嬉しいもの。
とても大好きなもの。

「新堂君、いい加減にしないか」

怒っていても優しく穏やかなこの声は、つい微笑んでしまうほど気持ちがいい。
ずっとずっとこの声に抱かれて眠っていたい。
誰よりも落ち着く、愛しい声。

「鷹、飲んでもいいけど吐くなよ」
「大丈夫、だと、思う」

そしてこのまるでビキューナとかいう最高級の布のように心地よい声が染み込んでくる。
聞いているだけで涙が出そうになるほどに、胸が痛くて苦しく熱い感情が溢れてくる。

「おや、起きたのかい、守君」

目を開いたのに気付いたのか、耕介さんの声が聞こえてくる。

「ん」

そこは、見慣れた古ぼけて煤けた居間だった。
もう日付も越えたと言うのに酒盛りはまだ続いていて、酒の弱い俺はそんな飲んでもいないのに早々に眠ってしまったらしい。
そこには先輩と耕介さんと新堂さんと鷹矢がいる。
何度も瞬きする俺を、皆が見ている。

「なんだ。どうした、守、寝ぼけてんのか?」

笑い交じりの新堂さんの声。
随分酔っているらしくて、顔が赤くなっている。
俺はいつのまにか掛けられていた毛布を引きずって耕介さんの元まで歩く。

「守君?」

そしてどこよりも落ち着く耕介さんの膝に頭を預けて寝っ転がる。
酒の匂いに混じって耕介さんの匂いがして、つい頬が緩んでしまう。
一瞬驚いていた耕介さんが、それでもいつものように頭を撫でてくれる。

「どうしたんだい?」
「ふふ」

胸がくすぐったくて、ふわふわとして、まだアルコールが残っているようだ。
酩酊した状態で、向かいにいた先輩に手を伸ばす。

「先輩、手、貸してください」

すると先輩は何も言わずに手を差し出してくれた。
何よりも愛しいその手をぎゅっと握りしめる。
ごつごつとした豆と傷だらけの大きな堅い手。
俺の大事な宝物。

「守?」

鷹矢が不思議そうにのぞきこんでくる。

「鷹矢大好き」
「は?」
「耕介さんも新堂さんも大好き」

そして目をまた閉じる。
宝物を引き寄せて、軽く口づける。

過去の記憶なんて、今はもう遥か遠く。
今の幸せを噛みしめるためのスパイスにしかならない。
だって現実はこんなにも幸せ。

しあわせでしあわせでしあわせで。