その首を噛み千切って血を啜り、一滴残らず飲み干したい。 君の心音が途切れるまで抱きしめて、その呼吸の最後の一息まで一人占めしたい。 おそらく俺は、マザコン気味なのだろう。 自分の一般平均よりやや過剰な愛情表現は、母の影響から来ているってことは、大分前から自覚している。 母さんはいつまでも、俺を産んで母になっても、40近くなった今でも、十代の少女のような人だ。 ぶっちゃけて言えば頭が弱くてブリブリの、痛い女だ。 きっと学生時代は大層同性に嫌われていただろう。 水飴のような甘ったるい声で話し、ゴキブリでも出れば泣きながら息子にしがみつき、道を歩けば迷子になる。 無意識で自然に誰にでも甘えかかり、自分の弱さをたてにして、嫌なことはしようとしない。 実年齢よりは遥かに若く見える外見だからこそ許される所業だ。 あれが太っていて容姿の優れないおばさんだったら、それこそ袋叩きだろう。 「良ちゃん良ちゃん」 彼女は俺を抱きしめてよく愛おしそうに頬ずりをした。 顔中にキスをして、私の宝物と誰に憚ることなく恥ずかしげもなく口にした。 「良ちゃんは優ちゃんに似てるから、将来は絶対いい男になるよ!」 少女のような人は満面の無邪気な笑みを浮かべてそう言うのだ。 母の一番はいつだって、父だ。 父のことを若い頃からそのまま優ちゃんと呼び、愛情を隠そうとしない。 大恋愛の末に結ばれた夫を、彼女はその頃の情熱のままにいつまでも愛していた。 恋愛なんて何年もすればテンションダウンするものだろうに、彼女のテンションはMAXを振り切ったまま戻らない。 メーターか何かが壊れてるんだと思う。 「優ちゃん大好き!優ちゃんが一番好き!」 そう言って夫に抱きつく母さんは、子供の目から見ても幸せそうで、一番綺麗だった。 母の一番は自分ではないってことは、幼い頃から分かっていた。 彼女の中の80%は父で占められ、残りの20%ぐらいが自分だっただろう。 でも、愛されているのは、分かってた。 彼女のだだ漏れの愛は、見ないふりをするには難しい。 例え二割でも、溢れんばかりに愛された。 ただ、父さんがいつだって一番なだけだ。 父さんは幸い常識人だったので、母も俺も平等に愛そうとした。 父として子供を優先に考え、俺の意志の尊重をしようとした。 けれど、俺に愛情を注ぐ父を見て、母は泣きそうに顔を歪める。 「良ちゃんばっかりずるい。私だって優ちゃんにぎゅってしてほしい」 「お前はお母さんだろ、少しは我慢しなさい」 「そんなのずるい!」 子供のように口を尖らせて、駄々をこねる。 父が叱りつけて、母は黙り込む。 そんな母が可哀そうで、俺は父を母に譲る。 「父さん、俺はもういいよ。母さんの傍にいってあげて」 「良、父さんはお前が大好きなんだぞ。母さんに遠慮しなくてもいいんだからな」 「うん、俺も父さんが大好きだよ。でも、母さんも父さんが大好きだよ」 そう言うと、困ったように父さんは母さんを宥めにいく。 それが、いつものことだった。 二人はよく、俺のことで喧嘩していた。 何回かは離婚騒ぎにまで発展したことすらある。 母の病的な父への愛は時に重すぎ、時に俺をないがしろにすることで、父を悩ませていた。 けれど喧嘩するたびに、母は泣くのだ。 「どうしよう、優ちゃんに嫌われたらどうしよう。どうしよう。私どうしたらいいんだろう」 そういえば母方の祖父母には会ったことがないのでその辺に何か理由でもあるのかもしれない。 確かめたことはないけれど、きっとどこか母は壊れていた。 笑う母はとても可愛くて綺麗だったので好きだった。 泣く母は胸が痛くなるので、嫌いだった。 だから俺はいつしか両親から距離を置くようになっていた。 何もかもを自分でするようになれば、父も母も自分に構うことはない。 そうしたら、父が俺に気を使うことはない。 両親はお互いを見ていられる。 それなら、母さんが泣くことはない。 そう分かったから。 転勤族の父さんは、日本全国かけめぐっていた。 俺たちは基本的にはそれについていったけれど、短期だったりする場合は置いていかれることもある。 そんな時、母さんはよく泣いた。 「良ちゃん、優ちゃんに会いたいよ。優ちゃん、まだ帰ってこないのかな」 毎晩のように電話して、週末には会いに行って、それでも母は足りずに父を求める。 水のように、空気のように、父の存在を常に感じていないと、母には足りないのだ。 俺を抱きしめて、母はよく泣いた。 俺はただ母を抱きしめて、大丈夫だよ、すぐ帰ってくるよというしかなかった。 その言葉が届かないことは、すぐに思い知ったけれど。 彼女が求めるのは、あくまで父さんであって、俺ではない。 俺では、代わりになることすら、出来ない。 あれは父が三カ月の地方勤務を終えて、ようやくまた一緒に暮らせるようになった時のことだ。 空港に二人で、父さんを迎えにいった。 ゲートから出てきて、俺たちに笑顔で手を振る父さん。 母さんと一緒に駆けだして、つるつるに磨かれた床でうっかり俺は転んだ。 「痛い!」 大きな声を上げて、痛みを訴える。 けれど母さんは俺に見向きもせずに、父の元へ走った。 俺は床に倒れ込んで、それを見ていた。 父さんに満面の笑みで抱きつく母さんを、見ていた。 母さんは薄情なのではない。 ただ、その時、父さん以外見えなかっただけなのだ。 俺の存在も、臆面もなく泣いて笑う母をじろじろと見るギャラリーの存在も、彼女は見えない。 彼女に見えるのは、ただ愛する夫、それだけ。 彼女の世界には、父さんしかいない。 ああ、いいなあ、とその時思った。 俺が転んでいることに気付いた父が慌てて駆け寄ってくるのを見ながら、いいなあと思った。 何がいいなと思ったのかは分からない。 父さんのように母さんに愛されたいと思ったのかもしれない。 詳しくは、分からなかった。 ただ、いいな、と思ったのだ。 「俺はきっと、あの時、多分、母さんのことが羨ましかったんだろうな」 「は?」 三田が突然の俺の言葉に、不思議そうに呆けた声を上げる。 三田の部活が終わるのを教室で待っていた。 もう暗闇に沈む教室で、照れくさそうにお待たせと言った三田を見て思った。 そう、きっと俺は母さんが羨ましかったのだ。 「俺も、幸せものだよね」 「は?何言ってんの?」 当然のことながら、三田は訳が分からないというように眉を顰める。 そんな顔すら愛しくて、食べてしまいたい。 抱きしめてキスして体中舐めまわして触りまくってつっこみたい。 体中に、俺のモノだってしるしを残したい。 誰にも見せないように隠してしまいたい。 俺だけで、三田の中をいっぱいにしてしまいたい。 一分一秒だって、離れたくない。 母の病的な愛情は、俺にも少々受け継がれているらしい。 俺は我儘で甘えたで寂しがり屋。 一人でいるのは、耐えられない。 転勤族で学校を転校してばっかりだったので、友達なんて出来てもすぐに別れてしまった。 手紙書くよなんて言い合って、お互い出すのは最初に二、三回だけ。 父に何度も謝られたけれど、仕方のないことだった。 母が、父と別れるのは嫌がったから。 中学になって、受験も考えて二年からは今のマンションで過ごすようになった。 その代わり母は一人でなんでもできるようになった俺を遠慮なくおいて父を追いかけて行くようになった。 暗い部屋は、一人でいるのは広すぎて、夜の街へ飛び出した。 そして、そこでミツルと出会った。 大人の男に、夢中で、他の何も見えないくらいにのめり込んだ。 毒のある余裕たっぷりな男は、俺を抱きしめてまだ余る広い胸を持っていた。 その力強い腕の包容力に、初めて知った肉の快楽に、ただひたすらに溺れた。 そこから離れたくなくて、なりふり構わずミツルを追いかけた。 ミツルの傍にいたくて、ミツルに見ていてほしくて、ミツルと一緒のものになりたくて。 ミツルに、愛してほしくて。 「でもきっと、駄目だったんだろうな」 「だからさっきから何を言ってんだ、お前」 怪訝そうな三田が、さっさと帰るぞと促す。 ミツルとは全然違う、薄い胸、丸みを帯びた体、いつだって慌てふためている余裕のない幼い少女。 女にしては背が高くて、運動をしている体はしなやかな筋肉がついて堅くて、きっと俺より強いけれど、それでも俺の腕の中におさまる華奢な体。 俺が力を込めれば、潰せてしまいそうな細い首。 「ほら、もう遅いから帰ろうよ」 「ねえ、三田」 「何」 俺が惚れるのは、いつだって年上の人間ばっかりだった。 ミツル以外は、藤原みたいな真面目で鈍感で純粋な人間ばっかりだった。 三田みたいに弱くて強くて卑屈でかわいらしい人間はいなかった。 恋は不思議だ。 今はなんで三田を最初から好きじゃなかったのか分からない。 どうしてもっと早くに、藤原なんかにひっかかるより前に三田を手に入れられなかったのか分からない。 「三田、疲れた。動けない。抱っこして」 「お前マジキモイ」 「雪下に若干似てきたね」 「私はお前のお母さんじゃない」 ちょっと口を尖らせて言う三田に笑ってしまう。 まあ、三田は俺の母さんのこと知ってるし、不安になるのかもな。 母さんの代わりにしてるんじゃないか、なんて馬鹿なことを。 「当たり前だろ。母さんには勃たない」 「ばっ」 途端に顔を真っ赤にする。 もう全身舐めまわして隅々まで見たっていうのに、随分純粋な反応だ。 カマトトっていうのはこういうことを言うのだろうか。 「三田は母さんじゃない。俺の大事な大事な、彼女」 「………」 意地っ張りな彼女は、照れくさそうに口をつぐんで俯く。 ああ、かわいくて鼻血が出そうだ。 頭からばりばりと噛み砕いて飲み込みこんでしまいたい。 確かに俺はマザコンだ。 母さんにどっぷり影響を受けている。 俺は、母さんがずっと羨ましかった。 「い、いいから、さっさと帰るぞ!」 照れ隠しに乱暴に言って、さっさと教室を出てってしまう。 俺はただぼんやりと、その背中を見つめて暗い部屋の中机の上に座りこんだまま。 「母さんが、羨ましかったんだ」 すっかり日が落ちた教室の中、グランドの明りがわずかに差し込んでいる。 あの時、いいなと思ったのは、母さんに愛されたかったんじゃない。 父さんが羨ましかったんじゃない。 「お前、なんで来てないんだよ!」 「抱っこ」 「出来るかボケ!」 バタバタと帰ってきた三田は怒鳴りながらも俺の元までやってきてくれる。 俺をちゃんと見て、俺の元まで来てくれる。 そしてその堅い手で、手を掴まれた。 しっかりと繋がれた手が、力強く俺を促す。 「ほら、さっさと帰るよ!」 愛しい。 愛しい愛しい愛しい。 この手が嬉しくて、愛しさが溢れそう。 「三田、好き。大好き。ありがとう。大好き、好き、好き」 「この、馬鹿!分かったから、ちょっと黙れ!」 「だって好き。大好き」 何度言っても言い足りない。 何度抱きしめてもまだ足りない。 母さん、あんたが羨ましかった。 あんたのようにただ一人を、愛したかった。 他の何も見えなくなるぐらい盲目的に、病的に、壊れるほどにのめり込みたかった。 そしてそれを受け入れて欲しかった。 寂しがり屋で甘えたの俺は、ただひたすらに愛を注ぎたい。 そして、それを受け止めてもらいたかった。 「三田、好き」 「分かったよ!私も好きだよ!この変態馬鹿!」 俺は今とっても幸せ。 この恐らくやや過剰すぎる愛を逃げないで受け止めてくれる、愛しい恋人を背中から抱きしめる。 筋肉のついた堅い体は、それでも女性らしい柔らかさと甘い匂いで俺を誘う。 「三田、大好き。俺、すごい幸せ」 愛しくて馬鹿になりそうだ。 どうしたらいいのか、分からなくなってしまいそう。 その首を噛み千切って血を啜り、一滴残らず飲み干したい。 君の心音が途切れるまで抱きしめて、その呼吸の最後の一息まで一人占めしたい。 「だから、私も、好きなんだってば!」 でも真っ赤になってそう返してくれる君を失いたくない。 振り向いて俺を抱きしめてくれる腕が、何よりも嬉しい。 だから君を食べてしまいたいけど我慢する。 一気に食べてしまうより、キスする方がきっとずっと楽しいから。 「三田、好き」 だから俺は、噛み千切る代わりに、君の喉にキスをする。 |