朝、扉を開けると、そこには野口が無表情で立っていた。
私は飛びのいて、ドアに背中を強かにぶつけた。

「な、なななな、何してんだ!?」
「彼女を迎えにきてみた訳だが」
「え、あれ嘘でしょ!?」
「お前、昨日の今日で嘘だとばらしてどうするんだ」
「あ、そうか!」

そういえばそうだ。
野口と付き合うといった次の日に嘘だと暴露したらすべてが台無しだ。
しかし、野口と登校。
今更ながらに、気持ちがどん底まで落ちていく。

「………やっぱやめね?ていうかそこまですることなくね?」
「根性無し」
「く」

絶対違う気がする。
ここで引くのは根性がないとかでは絶対ない気がする。
しかし、そう言われては引く気はない。
私は唇をかみしめて、ドアに貼りついてた背中をひきはがす。

「うけてたってやる。行くぞ、こい」
「はいはい」

私はまた野口に乗せられて、学校へと向かう。
ドアを開く前に踏み出すことを恐れていた足は、もう震えてない。
野口を通り過ぎて私はずかずかと大股で通学路を向う。
置き去りにする勢いで歩くのに、リーチが僅かに高い男はゆったりと後ろからついてくる。

「せっかくだから手とかつないでみる?」
「うげ」
「また素直な反応だな」
「正直だから」

そう言いながら差し出された手に、私はしぶしぶ手を重ねる。
もうやけだ。
どうにでもなれ。

藤原君の手より細い、しなやかな手。
女みたいに、手が綺麗だ。
というか女の私より、手が白くて綺麗だ。
私は日に焼けているし。
ていうか何このすべすべな肌。

むかついたから、力をいれてやった。
眼鏡の男は右眉を跳ね上げて痛みを表現したが、何も言わなかった。
野口の手はその性格と同じように、冷たかった。

「ひでえ顔。やっぱあんまかわいくねえな、あんた」

昨日の夜、泣きはらした私は、朝起きたら大変なことになっていた。
これでも冷やしたタオルで、だいぶ良くなった方だ。
化粧だってして、目の腫れも頬の赤みも隠したのに。

「やかましい」

私は足で思いっきり野口の汚いスニーカーを踏みつける。
隣の男は今度こそうめき声をあげた。
本当に野口は腹が立つことしか言わない。
まったくムカつく男だ。
朝からなんでこんな男と一緒にいなくちゃいけないんだ。
ムカついてしょうがない。

だから私は怒りで、哀しみを紛らわせることができる。



***




クラスの話題は一色に染まっていた。
私と野口が手をつないで登校したからだ。
藤原君にメロメロだった私が野口にべったりとしていることに、周りは驚きを隠せない。
昨日の話は本当だったのか、なんて聞こえてくる。

だからと言って、私たちには何も聞けないらしい。
遠巻きに、何かひそひそと話している。
藤原君と美香は複雑な表情でそんな私たちを見ている。
クラスメイトからは何かを聞かれているようだ。
困ったように首をふるばかりだが。
知ったことか。

昼休みも、私たちは一緒にお弁当を囲んでいた。
はっきりいって気持ち悪かったが、しょうがない。
ここまで来たら、徹底的にやってやる。
見ていろ、藤原、美香。

「はい、野口あーん」
「すいません、正直無理です」
「私がここまで無理してんだから、我慢しやがれこの冷血男が!」
「ごめんなさい。分かりました」

野口は無表情のまま、私の差し出した卵焼きを口に入れる。
薄い唇が思ったより大きく開いて、少し驚いた。
しばらく咀嚼して、ひとつ頷く。

「あんた、やっぱり普通に料理うまいね」
「え、そ、そう?」
「故意にあんな犬のエサみたいの作れるんだから、料理をまずく作れるツボが分かってると思ってたんだよね」
「………あんたって本当に素直に人をほめられない人間だよな」
「え、ものすごい全力で褒めてるんだけど」
「いつか友達失くすな、お前」
「大丈夫、藤原みたいな優柔不断タイプには好かれるから、俺」

なんて話していると、噂の張本人がいつの間にか傍らに立っていた。
体が硬くなる。
手が震えて、取り落としたウインナーがお弁当箱の上に落ちる。
野口がそれをちらりと見て、薄く笑った。
くそ。
ムカつく。

「野口、ちょっと話がある」
「俺はないけど」
「いいから来いよ」

藤原君はいつになく苛立った様子だ。
目の下にはクマが出来ているし、顔色があまりよくない。
恐る恐る視線を向けると、視線があってから目を逸らされた。
胸が、痛くなる。

でも、ちょっと嬉しかった。
私がふったことで、少しでも動揺してくれているのが、嬉しかった。
傷ついてくれただろうか。
惜しんでくれただろうか。
野口を怒ってくれるだろうか。

ほんの少しでも、私を好きでいてくれた?

「野口」
「まだ飯食ってるところなのに」
「野口!」
「はいはい」

野口は自分のパンを机に置くと、面倒そうに立ち上がる。
クラスの全員がこちらを固唾を飲んで見守っているのを感じた。
藤原君ももっとスマートにできないものだろうか。
まるで見世物だ。

「じゃ、あとで」
「あ……うん………」

野口はそんな周りの目も気にならないように手をひらひらとふった。
藤原君は、野口のもう一方の手をとって、歩きだす。
私はそのあとをしばらく見つめて、そして立ち上がった。



***




そしてまたも人気のない体育館脇。
本当にワンパターンだ。
私が駆け付けると、苛立った叫び声が聞こえてきた。
藤原君の声だ。
見つからないように、物陰に隠れて、どうにか見える位置をキープする。

「どういうつもりだよ!!」
「どーもこーも別に」
「お前、三田と付き合うってどういうことだよ」
「そのままの意味だけど」
「お前な!」

感情を昂ぶらせる藤原君と逆比例するように、野口は落ち着いている。
というか野口が焦っているところは見たことがないが。
飄々として受け流す野口に怒りが頂点に達したのか、藤原君が野口の胸元に掴みかかる。
薄い男はその反動で少しよろけるが、冷静に男を見下ろす。

「なりゆきで付き合い始めたのに、少しは情が移った?それとも単に人にとられるのがいやなだけ?」
「…………っ!」
「お前そういう勝手な所あるよね。手に入らないものがあんまりないから」

野口はいつもの冷笑を浮かべている。
それはいつもよりずっと人を食ったような、嫌な笑い。
相変わらず人の触れられたくない所をピンポイントに狙ってくる奴だ。
弱点を見つけ出し、効果的にそこを狙ってくる。
本当に嫌な男だ。

言葉につまった藤原君は、何回か言葉を探そうとして口を開いて、閉じる。
その悔しそうな表情に、野口は愉しそうに嘲笑った。
藤原君は乱暴に野口の胸元をつかんだまま、体育間の壁に叩きつける。

「三田を傷つけるなよ!!」
「誰が一番傷つけてるんだよ」
「だっ」
「お前だろ」

けほっと少しせき込むが、焦りも怒りも見られない。
ただ冷静に、藤原君をさらに追いつめる。
猫のように残酷で気まぐれな男。

「俺はっ、そんなつもりじゃなくて…ただ……」
「言い訳ならあっちにしてやれよ」

野口は顎で後方にいた私をさした。
ていうかばれていたのか。
というかふるなよ、こんなところで。

「いるんだろ。出て来いよ」

一瞬逃げ出そうかと思ったが、根性なし、という野口の声が脳裏に聞こえてきた。
仕方ないから、唇を強く強くかみしめる。
あいつに笑われるのだけは、耐えられない。
震える足を一発叩いて黙らせて、なんとか茂みから姿を現す。

「………三田」

藤原君は驚いたように眼を見張った。
顔色が、青ざめたように見える。

「……藤原君」

と、言ったものの、なんて続ければいいのかわからなくなる。
そもそも私は悪女になる予定ではなかったのか。
藤原君をふって、親友にお下がりをあげる、悪女だ。
ここで私が知っていたことをばらしたら、すべてが台無しじゃないか。
野口め。

藤原君はしばらく私の方をじっと見ていた。
向こうもこの展開に何を言ったらいいのか分からないようだ。
しょうがなく何か言おうと、無理やり口を開こうとする。
しかし、その前に藤原君が動いた。

「お、まえが、言ったのか!」

焦りを浮かべた表情で、野口を更に壁に押し付けると、その拳を振り上げた。
止める間もなく、その拳は振り下ろされる。
まるでスローモーションのように感じた。
野口の白い頬が、歪む。
嫌な音が、静かな空間に響く。

「…………っ」

野口の小さく呻く声が聞こえた。
藤原君の上ずった吐息が、耳に響く。
私は、気づかないうちにかけ出していた。

「こんのへたれがあ!!!」

走る間に私も拳を作る。
走った勢いをそのまま乗せて、その右手を振りかぶる。
そして驚いてこちらを見た藤原君の頬に、その手を思いきりふりぬいた。
がつ、と綺麗に入った音がした。

「ぐ、たっ」

藤原君が衝撃によろめく。
野口がその間に藤原君の手から逃れる。
そして、頬を押さえて壁にもたれかかった藤原君を見て、眉をひそめる。

「ひでえな、お前」
「うるせえ!」

藤原君は痛みや怒りよりも、驚きを浮かべている。
そりゃそうだ、藤原君にベタ惚れだった私だ。
こんなことするとは思わないだろう。
目を丸くしている端正な顔に、私は指を突き付けた。
背の高い男は、怯えるように一歩後ずさる。

「このへたれ!何、人のせいにしてんだよ!本当のこと言われて逆ギレしてんじゃねーよ!全部あんたが悪いんでしょ!あんたが嘘をつくから!あんたが、あの時頷くから!あんたが、私に優しくするから!」
「………三田」
「最初から言えばよかったでしょ!美香が好きだって!お前なんて眼中ねーよブスとか!私馬鹿みたいじゃん!すっごい……」

そこまで言って、堪え切れなかった。
藤原君が私の顔を見て、息を呑む。
ああ、みっともない。
最後まで、強くありたかった。
せめて、藤原君の前で泣いたりしたくなかった。

「………三田」

上ずった声を出して、藤原君がきゅと唇をかむ。
ああ、そんな顔をさせるつもりはなかった。
困ってほしかった。
少しは惜しんで欲しかった。
悲しんで欲しかった。

でも、あなたの罪を突き付ける気はなかった。
だって、私もそれに便乗したんだから。

「………でも、三田。俺、お前がかわいいって思ったのは本当なんだ。確かに俺、雪下が好きだった。間違ってお前に告白した」

顔が見れなくて、視線を逸らす。
藤原君の手は、私の肩をつかもうと宙を彷徨う。
けれど拳を握ると、その手を下におろした。

「でも、頑張ってかわいくしようとしているお前がかわいかった。俺のことを好きだと言ってくる三田が、本当にかわいくて」

これが、ずっとずっと前だったら嬉しかった。
知らなかったら嬉しかった。
何も知らなかったら、嬉しかった。
今もまだ、痛みと同時に喜びを覚える。
だって、私はあなたが好きだった。

「俺は、たぶん、三田が好きになりかけてた。だから野口と付き合うってこと聞いて、悔しくて、ムカついて」
「………でも、藤原君は美香が好きなんでしょ」
「うん、雪下がやっぱり、好きで、どうしたらいいか分からなくて。でも、お前に本当のこと言うの、辛くて…。それに、このままでもいいかな、って思って………」

ああ、なんてバカなんだろう。
こんな言葉さえ嬉しいなんて。
こんな、最低で身勝手な言葉すら嬉しいなんて。
少しでも、私はあなたの視界に入っていた。

でも、私はもうあなたを信じられない。
私の隣にいる限り、あなたは美香を見続けるから。

「優柔不断」
「………うん」
「最低」
「………うん」
「へたれ」
「………うん」
「自己中」
「……………」

藤原君は泣きそうに顔をくしゃりと歪める。
そんな顔をされると、抱きしめて慰めたくなるからやめてほしい。
なんて卑怯者。

「本当に、俺、最低だ。野口の言うこと、本当だ。人にとられるのが嫌なんだ、俺。最低だ」

あなたは本当に優しい。
優柔不断と言われてしまうほど、優しい。
この根性無し。
それでも、あなたが私を惜しんでくれたことが嬉しい。
少しでも、好きでいてくれたことが嬉しい。
でも私は我儘だから、ほかの女を見ている男なんて、いらない。

「………へたれ男」
「うん、おれ、すごいへたれだ。ごめん、本当に、ごめん」
「泣くな!男がぐじぐじするな!そんなへたれに美香はあげないからね!」
「え」

だからきっぱり振ってあげる。
あなたなんていらない。
私を好きになりかけていた男をふる。
私は悪女だ。
最後はクールに決めてやる。
あなたなんて、熨斗つけて美香にくれてやる。

「さっさと好きな奴のところに行けばいいでしょ。最初からあんな告白なかった。それでいいよ、もう。私、野口いるし」
「………野口と付き合うってのは」
「野口、あんたよりずっとずっといい男だし。あんたみたいなへたれより100倍マシ。私と付き合いたかったら顔を洗って出直してこい」
「………三田」
「分かったら、さっさと美香のところ行きやがれ!あんたぐらいのは美香ぐらいでお似合いだ!私にはもったいない!」

笑顔を作れているだろうか。
野口みたいな、皮肉な冷笑を、作れているだろうか。
自信はない。
頬は冷たい。
でも、最後は笑ってやる。
私は、あなたを切り捨てる。

「………ごめん」
「謝るな。勘違いするな。私が、あんたをふるの」
「………うん」

力を振り絞って、藤原君を見つめる。
藤原君は泣き笑いのような顔を作っていた。
目尻に涙を浮かべている。
本当に、へたれ。
どうしてこんな男が好きだったのか。

でも好きだった。
今もまだ、胸が痛い。
きっと、そんなところが好きだった。

くるりと踵を返して、後で見ていた野口の元へ歩く。
また肩を貸してくれるかと思ったが、野口は私の腕をぽんと叩くとバトンタッチというように藤原君の前に進み出た。
私はつられて今来た道を振り返る。

「藤原、俺殴られてるんだけど」
「あ、ご、ごめん」

冷静になった藤原君は、慌てて頭を下げる。
しゅんとして、叱られた犬のようだ。
元々、人を殴ったりできない人だ。
よほど頭に血がのぼっていたんだろう。
そう思うと、嬉しい。
私のことで怒ってくれたのが、嬉しい。
野口を当て馬にして、私もなんて最低。

「まあ、お詫びはこれでいいよ」

野口はいつものようにうっすらと笑うと、藤原君の襟首をつかんだ。
藤原君は殴られるのかと目をつぶって身構える。
けれど、次の野口の行動は私にとっても予想外だった。

襟首を引きよせ、自分より高い位置にある唇に噛みつくように口づける。

「………っ」

藤原君は眼を丸くして、体を固くした。
私も突然の出来事に言葉が出ない。
なんで、元カレとその親友のキスシーンなんて拝まなければいけないのか。

「ごちそうさん」

10秒ぐらい、結構長い間くっつけていた唇を離す。
ちらりと藤原君の形のいい唇を舐めると、にやりと笑って体を離した。
藤原君は呆けて、ただ突っ立っている。
まあ、そりゃそうだ。

しかし相変わらず野口は動じない。
冷たい笑顔を浮かべて、くるりとこちらを振り向いた。
そして私の肩を抱くと、ひらひらと後ろに手をふった。
藤原君は茫然自失。
可哀そうに。

「じゃ、俺と三田は行くから」

されるがままに肩を抱かれて、私はその場を後にした。
想いも何も、そこに置き去りにして。
さようなら、藤原君。
私は、あなたにはもったいない。
だから、とっとと血統書付き同士、幸せになるといい。

しばらく一緒に歩いて、沈黙が重くなる。
隣の男はやっぱりいつも通りで、泣いて顔を赤く腫らしているのは私だけ。
泣き顔なんて、もう何度も見られてしまったけれど。
それでもやっぱり、野口にそんなところを見られるのは決まりが悪い。
誤魔化すように、私はぼそりと隣の男に告げた。

「………ずるい」
「何が?」
「私だってキスしてない」

その言葉に、肩を抱いていた男は眼を丸くする。
そして眉を吊り上げた。

「は?3週間付き合って?」
「私は純真なんだよ!」
「はー、そりゃもったいない。おすそ分けする?」

馬鹿にしたようにぼりぼりと頭をかく。
そしてこちらに視線を向けて、首をかしげた。
私は意味が分からず、野口を見上げる。

「おすそ分け?」
「間接だけど」
「いるか!」

とんでもないことを言い出す野口を、いつも通り殴りつけた。
全く変わらない態度だが、こいつも堪えてはいるのだろうか。
私に嫌みの一つもいいやしない。
なんとなく調子が出ない。
だから、つい仏心を出して、そんなことを言ってしまった。

「………野口、胸貸してやってもいい」
「ん?」
「出世払いでいい」

私の言った意味が分からず、首をかしげる野口。
けれどすぐに意志をくみ取った、くすりと笑って肩に回していた腕を解く。
そして前に回り込むと、お辞儀をするように私の胸に頭を乗せた。

「固い。あんまり泣き心地はよさそうじゃないな」
「うっさい!本当にお前は、かわいげのない!!!」
「でも、あったかいな」
「素直に礼でもいっとけ!」
「……ありがと」

野口は泣きはしない。
ただ、その苦しそうな体制でしばらく私の胸に頭を乗せていた。
私は、なんとなく、その細くやわらかい髪に手をまわした。
くしゃくしゃ、とかき回すと、野口がひっそりと笑う声がした。





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