ベランダにちゃんと洗濯干しがあったことに軽く感動する。 一応生活してたんだな、あいつも。 人間だった。 正直本気で、疑ってしまった。 ベランダからは、今日も真っ青な空に白い雲が浮かんでいる。 いい天気で気持ちがいいが、動いているとどんどん汗を掻いてくる。 ああ、化粧落としたいな。 半端に落ちて、最高に気持ち悪い。 後で外行った時に、メイク落としでも買おっかな。 でも、コンビニで買うと高いんだよなあ。 「あれ、起きたの?」 洗濯ものを干してベランダから帰ると、リビングのソファで眠りこけていた野口がじっとこちらを見上げていた。 眼鏡のないその顔は、やっぱりどこかあどけなくて幼い。 「うん」 「じゃあ、ベッド行きなよ」 「やだ」 また子供みたいなことを。 風邪引いてるんだから、ベッドで寝ろっつってんのに。 ここがいいと言って聞かずに、そのまま布団を私に持ってこさせてソファで寝ている。 狭いだろうに。 「何してたの?」 「洗濯干してたの」 「乾燥機は?」 泊まると決めた時に、乾燥機はやめてしまった。 畳んでおいておいて、改めて外干し。 なんかお母さんがやっぱり太陽の下で干すのが一番よね、って言ってるのがこびりついてしまっている。 「んー、やっぱり外で干すのが一番じゃん?今は乾燥機のがいいのかもしれないけど」 「本当にあんたって、内面はベタベタなぐらい家庭的だよね。おばあちゃんみたい」 お母さんまでは許すとしておばあちゃんってどういう意味だこの野郎。 「ケンカ売ってんのかてめえ」 「褒めてるの」 どうしてこいつはこう、素直に褒められないかな。 まったく嬉しくない褒め言葉を言わせたら、こいつの右に出る奴はいない。 小さい頃から、お母さんの手伝いはしていたから一応一通りの家事は出来る、つもりだ。 最近はお弁当作りも始めたし、料理の腕もあがっている。 まあ、それが女らしさに結びつくかと言われれば、まったくと言っていいほど結びつかないんだけどね。 家事が出来ようがなんだろうが、美香の方が女らしいし、私はガサツ。 そんなもんだ。 ま、仕方ないんだけど。 自分が女らしくできないのが、いけないんだから。 「ま、いいけどね。お昼御飯食べれる?なんか食べたい?」 「三田」 「黙れ、死ね」 ああ、口を開けばロクでもないことしか言わない。 風邪なのに少しも弱りやしねえ。 ていうか、風邪になってから余計に馬鹿になってる気がする。 風邪だから馬鹿になってるのか。 駄目だ、こいつのペースに巻き込まれたら、終わりだ。 「食欲はあるの?」 「腹、減った、かな?」 「なんで疑問形なんだよ」 「微妙」 本当に不思議そうな顔で、ソファの上で首を傾げる。 そういえばこいつ、食べ物にあんまり執着しないよな。 出かける時はさすがに一緒になんか食べるけど、アレ食べたい、コレ食べたいってないし。 ジャンクフード大好きだから、マックとか多いけど。 つーか、なんでも適当だよな。 その辺にあるもの食べるって感じで。 「………ねえ、あんたって、家で何食べてんの?」 「何って?」 「台所に、食べ物がまったくなかったんだけど」 最低限の調味料も、パンもシリアルさえもなかった。 あるのは飲み物だけ。 どんな生活してたらそうなるんだ。 「あー、腐るからあんまり買わない」 「朝は?」 「俺、朝弱いから食欲も時間もない」 「………抜いてるの?」 「牛乳ぐらいは」 それは食事とは言わねえ。 朝食べないと元気が出ない私には考えられないことだ。 三食きっちり食えと母から叩き込まれている。 だからダイエットうまくいかないんだけどさ。 「昼は?」 「学校で食べてるでしょ」 まあ、私の弁当にたかったりしてるな、確かに。 それ以外は、パンか。 パンだな。 パンを一個か二個。 それにコーラ。 朝食べなくて昼あれだけかよ。 今までなんとも思ってなかったけど、不健康すぎる。 「夜は?」 「バイト先で、食欲あったら食べさせてもらう。腹減ってなかったら食べないかな」 「………バイトない時は?」 「気分によって」 「食べるものを変える?」 「食べたり食べなかったり」 「この馬鹿!!」 思わずソファの上に転がる男の足を蹴りつける。 なんでその食生活で生きていられるんだ。 普通に死ぬぞ、おい。 「痛い」 「だからそんなガリガリなんだよ!ちゃんと食え!死ぬぞ!」 「腹減ったら食ってるよ。面倒なんだよね」 「うるさい、減ってなくても食え!」 「つってもなあ」 困ったように頭をポリポリと掻く。 その細い腕に、無性に苛々する。 ちくしょう、私なんて夏になっても食欲が減りやしない。 部活の後は油ものがおいしんだよ、ふざけんな。 ああ、なんか腹立つ。 無性に腹立つ。 「私は自分より細い彼氏なんていらない!」 野口はぱちぱちを目を何度か瞬かせる。 そして小さくくすくすと笑った。 「ふられるのは嫌だな」 「なら食え!」 指を付きづけて命令すると、素直にこくりと頷いた。 「分かった。努力する」 「絶対だな。確かめるからな」 「はい」 「よし」 とりあえず、私より腕とウエストが細いとかはやめて欲しい。 本当に、一緒に並んでいてこいつの方が格段に細いし。 私なんてガタイはよくて筋肉質なのに、若干ぽにょっとしてたりするし。 ああ、駄目だ落ち込んできた。 気分転換しなきゃ。 「昼ご飯作るけど、下したりしてないんだよね」 「うん」 「じゃあ、うどんにしようかな。食べれそう?」 「うん」 胃腸の調子は悪くなさそうだけど、消化がいいし食べやすいしうどんにしよう。 また買物いかなきゃな。 近くにスーパーあるかなあ。 コンビニで売ってんのかな。 「あ、この辺にドラッグストアある?ついでにクレンジング買ってこよ」 「クレンジングとかあるよ」 「………なんであんだよ」 「母さんの」 なんだ、そうか。 一応ここで一緒に住んでたこともあるんだもんな。 うん。 それならいい。 「………なんだよ」 野口がじっと、猫のように表情の見えない目で、私を見上げている。 「妬いた?」 「死ね」 「ひどい」 別に、何も思ってない。 何も考えてない。 妬いてなんかない。 「基礎化粧品もサンプルとか一杯あるから、使っていいよ」 「でもメイク道具持ってないんだよね」 「すっぴんのあんたも結構かわいいからいいよ」 「………」 一生懸命化粧してるのに、すっぴんもかわいいってどういうことだ、とか。 結構ってどういう意味だ、とか。 色々言いたい。 言いたいんだけど。 ああ、もう本当に毒されている。 こんな言葉が、飛び上がりたいほど嬉しいなんて。 本当に、最低だ。 「じゃあ、おかゆ、冷蔵庫に入ってるから、レンジであっためて食べて。後、アイスとかも入ってる。食欲なくてもちゃんと食えよ。食後にちゃんと薬を飲め。ちゃんと水分もとって、大人しく寝てろよ。あ、クーラーで温度を下げすぎないで。ちゃんと定期的に換気はしろ。夜は涼しんだから窓を開けて風を通してクーラーは切る。いい?」 ようやく熱は下がったけれどちょっとだるそうな野口が、玄関先まで見送ってくれる。 もうすっかり夕方だ。 結局なんか一緒にテレビ見たり、野口が寝ている間に洗い物したり、軽く掃除してたりとかしたら、こんな時間だった。 掃除はいつもしてるみたいで、部屋は綺麗だったけど。 自分でも口うるさいかなと思うが、こいつは平気で何食でも抜く上にクーラーで冷蔵庫並みに部屋を冷やすとかやりやがる。 それこそお母さんかおばあちゃんみたいにやかましい私を、野口がじっと見ている。 「………なんだよ」 「幸せ」 「は?」 「愛を感じる」 「………何言ってんの?」 「言い聞かされるのって、嬉しい」 「………早く寝ろ」 まだ風邪の名残は残っているらしい。 素直っていうかストレートっていうか、とにかくなんか壊れてる。 だんだん慣れては来たけど、落ち着かない。 「今日、寝て起きてさ、あんたがいて、家の中パタパタ動きまわってて、なんか幸せだった」 「………」 「家の中に、あんたがいるっていいね」 目を細めて、少しだけ優しく笑う。 いつも無表情だから、そんな微かな表情でも、珍しくてドキっとする。 なんか、すごい、まるで付き合っている人達みたいな休日だった。 いつもの喧嘩腰のやりとりとは、違う。 なんか変な感じ。 変な感じだから、私の頭も変な感じになって、変な感じのことを言ってしまう。 「………ったら」 「何?」 「………なんだったら、また、食事、私が、作りにくるから」 恥ずかしくて、視線を落としてしまう。 顔が、ものすごい熱い。 また、真っ赤になってるんだろうな。 珍しく、なんか、すごい恋人みたいなことを言ってしまった。 「いいや」 「………っ」 けれど私の言葉は、あっさり却下される。 この野郎、人が下手に出れば調子に乗りやがって。 野口のくせに生意気だ。 なんて、心の中では悪態をつくが、実際に出てきた言葉はかなり弱々しかった。 「………そりゃ、私、そんな料理おいしくないかもしれないけど」 「いや、三田は料理センスあると思うよ。あんたの料理おいしいし」 「………」 「あ、赤くなった」 「うっさい!!!」 私を持ち上げたいのか、突き落としたいのか、どっちだ。 人が家にいると、嬉しいとか言ったくせに。 結局私の料理なんて食べたくないってことか。 「じゃあ、なんで」 「お弁当とか作ってくれるのは嬉しいかも。でも家には来なくていいよ」 「………」 私を家に入れたくないってことか。 自分の家に、他人は入れたくないのだろうか。 私なんて、所詮三番目の女だしさ。 なんか彼女ぶって、色々余計なことしちゃったし。 もしかして、誰か連れ込んだりしてるのか。 部屋綺麗だったのは、その人に掃除してもらってるから、とか。 「怖い顔」 「う」 くすりと酷薄に笑って、野口が私の頬をすっと撫でる。 どうして私ってこう、表情に出ちゃうんだろう。 「ていうかね、別に来てもいいなら、来ていいよ」 「は?」 だから、来るって言ってんだろ。 人差し指で顎をすくいとり、うつむいていた私の顔を持ち上げて、視線を合わす。 野口がいつものチェシャ猫のような笑いを浮かべている。 「分かってる?」 「何が?」 「俺、一人暮らしだよ?」 「え、うん」 「作ってくれるのって夕飯だよね?」 「うん?」 何が言いたいんだ。 野口が耳元に口を寄せて、息を吹き込むように続ける。 「一人暮らしの彼氏の家に、夜に遊びに来るんだよね?」 「………っ」 「あ、赤くなった」 「う、うっさい!!」 考えてなかった。 何も考えてなかった。 そんなこと本当に何も考えてなかった。 そうか。 そういうことなのか。 いや、でもただご飯を作るって言っただけだぞ。 「てことで、三田が来る覚悟があるなら、いつでも歓迎します」 「りょ、料理作るだけだろ!!」 「俺、エプロン付けてキッチンに立ってる三田がいたら、料理より先に三田を喰う」 「アホか!」 「この場合、俺に罪はない。三田が悪い」 罪だらけだろ。 私は何も悪くないだろ。 「お前はそれしかないのか!」 「ありません」 「………」 真面目な顔で言いきられると、さすがに咄嗟には何も言い返せない。 なんか今、一瞬納得して頷きそうになるぐらいの迫力があった。 相変わらず、野口は言っている内容とそぐわない真面目な顔をしている。 「健全な男子高校生なんて、ヤることしか考えてないでしょ」 「なんか、もっと、遊びに行ったりとか、その、お話したり、とか」 「それもいいけど、セックスもしたい」 このエロ眼鏡。 涼しい顔しやがって。 「あ、あんたは体にしか興味がないのか!」 「そんなに自分の体に自信があるの?」 「………死ね!!」 思いっきり足を踏んづける。 私だって、言っていてそんな価値ないよなってセルフつっこみしたさ。 こいつはどうせ色っぽいお姉さんとかあのおっさんとか、経験豊富なうまい人とヤりまくってるんだろうしさ。 でも、ヤりたいって言ってばっかりだから、それだけなのかな、とか思うじゃん。 私は、野口と話してるだけでも、そこそこ楽しいのに。 セックスしか興味ないのかな、とか。 そりゃ、私だって興味はあることにはあるけどさ。 「だからセックスしたいだけだったらもっと別の人とするってば」 「そんなことしたら殺す!」 「え」 「あ」 「………」 何言った。 私今何言った。 また何言ったんだ、この口は。 最近この口は言うことを聞かな過ぎるぞ。 「うわあ!!」 がばりと抱きつかれる。 そして猫がマーキングするように、頬や首に、頬を寄せられ擦りつけられる。 頭や背中を撫でまわされる。 「あー、かわいい。かわいすぎる」 「離せ、この馬鹿!死ね!」 恥ずかしい。 死ぬほど恥ずかしい。 むしろ今私が死にたい。 「大丈夫、しない。俺は浮気はしない男です」 「うっさい、馬鹿!」 「三田の体だから、興味がある」 優しく抱きしめられて、耳元で囁かれる。 掠れた声。 いつもはしない、汗の匂い。 湿った感触。 ぎゅーっと心臓が引き絞られるように痛くて、目を強く瞑る。 「心も体も、全部ひっくるめて、あんたとしたい。一緒に気持ち良くなりたい」 「………」 痛い。 心臓が痛い。 本当に私って、馬鹿だ。 こんな最低なエロ眼鏡。 口を開けばシモネタばっかり。 「てことで、うちに料理を作りに来てくれる時は覚悟を決めてください」 「………」 「今日はありがとう。三田、大好き」 「………っ」 ちゅっと音をたててほっぺたにキスをされる。 ただ唇が触れているだけなのに、そこが燃えるように熱い。 ほっぺたを思わず抑えると同時に、野口の体が離れていった。 「ああ、許可取るの忘れてた。ごめん」 「べ、別に、いい」 「そう?ありがとう。頬なら風邪もうつらないよな。次は舌を入れて絡めて唾液を呑み合うキスしよう」 「死ね!」 最後までロクでもない男を殴りつけると、相手はくすくすと楽しそうに笑った。 ああ、おかしい。 心臓がおかしい。 私の頭もおかしい。 「じゃあ。またね」 「………おとなしく、寝てろよ」 「大丈夫、三田を思い出してオナニーとかしないから」 「本当にお前、いっぺん死んどけ!!」 そう言い置いて、玄関から飛び出す。 野口が後ろで笑っている気配がする。 本当におかしい。 私はおかしい。 絶対におかしい。 すっかり野口に毒されてしまった。 野口に常識を塗り替えられてしまった。 ちょっとだけ、それでもいいから、また来たい、なんて思ってしまった。 |