「朝メシは?」
「水」

とりあえずまず一発殴る。
お昼休み、藤原君と美香は学食に行って、私たちは教室。
最近の日課となった、野口の食生活チェックだ。

「痛い」
「昨日の夕飯」
「えーと、ホットブランデーエッグノッグ?」
「………それなに?」
「ブランデーとラムベースのカクテル」
「死ね」

もう一発頭を殴る。
ああ、こいつは本当にもう、どこまで行っても馬鹿すぎる。
ていうか朝も夜も食べてないって、なんでお腹空かないんだ。
分からない。
理解できない。
三食食べないとお腹が空いて仕方ない私には、まったく理解できない。

「ひどい、栄養あるもの食べなきゃ駄目かなって思って、エッグノッグにしたのに」
「酒は食事とは言わない!」

そもそもそれは食べてない。
カクテルは、飲む、だ。
食べ物ではない。

「ねえ、私の言ってること分かってる?」
「うん」
「分かってない!ちゃんと食事をしろ!朝はせめてシリアルぐらいは食べろ!野菜を食え!肉も食え!魚とご飯も食え!」
「聞いただけで胃がもたれそう」
「言ってる場合か!」

我慢できなくて、机の下の足を蹴りあげる。
こいつがこんなガリガリなのも非力なのも体温冷たいのも、絶対食事ちゃんととってないせいだ。
野口は困ったようにため息をつく。

「暑いと食欲落ちるんだよね。涼しくなればもうちょい食べれるかも」
「食わないから体力落ちるんだよ!食え!次は殴るからな!」
「もう殴ってるし」
「お前が悪い!」

もう一発頭を殴っておく。
せめてもうちょっと栄養あるもの食えばいいのに。
そしたらここまで怒らない。
けれど私の怒りを余所に、野口はなんだか嬉しそうに目を細めている。
いつもの嫌みなチェシャ猫の笑い方ではなく、本当に機嫌が良さそうだ。

「何笑ってんだよ」
「嬉しいから」
「は?」
「怒られるの、幸せ」
「………変態」

もしかしてわざとやってるんじゃねーか、こいつ。
怒るのは逆効果なのだろうか。
こいつ、怒っても喜ばせるだけなのか。

「てことで、三田、腹減った」

人の悩みをよそにして、野口は現金に催促する。
そりゃその食生活だったら腹が減るだろうよ。
とりあえず今日のお説教はここまでにして、仕方なく私はお弁当を二つ取り出す。

「今日は何?」
「鶏肉のハーブ焼きと春雨のサラダに豆ご飯がメイン」
「うまそう」

前より栄養に気を使うようになってしまって、前よりもずっと弁当作りに時間がかかる。
食欲が落ちてるこいつに合わせてメニューを考えるのも一苦労。
夜のうちに仕込みをするのも、面倒くさい。
けど、こいつは食わせないと死ぬ。
少しでも栄養のあるもの食わせないと、死ぬ。

「ちゃんと食えよ」
「はい」

箸を差し出すと、素直に頷く。
いつもそれくらい素直だったらいいのに。

「あーんてして」
「死ね」

もう一発足に蹴りをくらわせる。
ひどい、と無表情に言って、ようやく素直に食べ始めた。
それでも食が細いんだけどね。
明日は肉だんごの黒酢あんかけにするかな。
冷凍してあった肉だんごあったし。

「あ、ねえ三田」
「何?」
「今日部活ないよな」
「うん」

うちの部はそこまでやる気もないので、あまり活動もしていない。
私も真剣にやる気はないので、それくらいでちょうどいい。

「今日ちょっと付き合ってほしいんだけど」
「どこに?」
「俺の家」
「ぶはっ」

飲んでいたウーロン茶を吐きだしてしまう。
野口は無表情に目を瞬かせる。

「大丈夫?」
「な、な、な、なあ!」
「猫?」
「違う!」

慌てて手で口の周りを拭って、息を整える。
余りにも不意打ち過ぎて、油断しすぎていた。
最近あえて考えないようにしていたのに。

「おま、お前、待つって言ったじゃん!」
「そろそろ我慢できなくてムラムラと」
「するな!」
「そんな無茶な」

無茶なのか。
しかもムラムラとか、美香と言語センスが一緒だし。
やっぱり似ているこいつら。
野口が小さく笑う。

「ていうのは冗談として、家には多分人がいると思うから平気」

あ、なんだ、そういうことなのか。
早く言え、それを。
焦って損した。
ちくしょう。

「人?」
「母さん」
「へ?」
「今日来るって言ってたんだよね」

野口はウインナーを食べながら、首を傾げる。

「何もしないから、一緒に来て?」



***




「ね、ねえ、手土産とか」
「あ、大丈夫。絶対いらないから」
「で、でも」

失礼じゃないだろうか。
初めて会う、彼氏のお母さん。
礼儀のなってない子だと思われたらどうしよう。
でもこいつ、手土産買う時間もくれないし。
めったに会える人でもないのに。

「き、緊張してきた」
「なんで?」
「だ、だって、か、彼氏のお母さんとか」

やばい、心臓バクバクして、口から飛び出そう。
服とかもっとちゃんとしたのに着替えてくればよかったかな。
でも、ちゃんとした服とかもってないしな。
ああ、こんな時のためにちゃんとした服買っておけばよかった。
印象悪くしたらどうしよう。

「わ、私変じゃないよね。格好とか、あ、スカート短すぎる!?」
「もっと短くていいと思う」
「うっせー、死ね」

こいつに聞いたのが馬鹿だった。
こいつに常識が分かるはずがない。

「まあ、多分平気なんだけど」
「え?」

そうこうしているうちに、もうマンションについてしまう。
こうなったら、覚悟を決めろ。
笑顔。
笑顔と敬語だ。
化粧、濃くないよな。
大丈夫、私は体育会系、礼儀は身に付いている。

「そんな緊張しないでも平気」

私の緊張をよそに、野口はさっさと鍵をあけてドアを開いてしまう。
ああ、もうちょっと時間が欲しかった。
もっとちゃんとシミュレーションしたかった。
ドアを開いて、野口はぼそっと呟く。

「あ、やっぱり」
「何?」
「とりあえず入って」
「お、お邪魔、します」

ああ、緊張する。
声が震えてしまった。
駄目だ、もっとしっかりしなくては。

「………」

けれど促されて入った室内には、人の気配はない。
どこにも明りがついてないし、物音ひとつしない。
リビングに辿りついても、やっぱり誰もいない。
そういえば玄関には靴はなかったか。

「………おい、誰もいないんだけど」

騙されたのか。
これは騙されたのか。
まんまと罠にはまったのか。

「嘘はついてないから」
「………」
「そんな疑いの眼で見ないで。傷つく」
「………」
「さっきまでいた」
「え?」

野口はリビングのテーブルの上に乗っていた紙きれを取って一瞥する。
そしてそれを私に差し出してきた。

「ほら」

そこには女性らしい細い文字で、短い文章が綴られていた。

『良ちゃんへ お父さんのご飯作らなきゃいけないから帰るね。また今後今度はお父さんと来るね。体には気をつけて』

あっさりとした、簡潔な文章。
文面からして、これは野口のお母さんが残したもの、なんだろうけど。

「………何、これ」
「置き手紙?」
「そんなことは分かってる!だって、久々に、家に、帰ってきたんでしょ?」
「荷物取りに来るって言ってたから」

そうじゃない。
そうじゃなくって。
なんでこんなあっさりした文章一つで、もういないんだ。
まだ、7時にもなっていない。
外はまだ明るい。

「普通、息子に、会ってから、帰らない?」

ていうか一泊ぐらい、しようと思わないのだろうか。
うちのお父さんとお母さんなんて、二人で旅行行くのだって、私と妹が大丈夫かって心配して大騒ぎなのに。
たった一泊旅行で、何度も家に電話がかかってくる。

「うちの母さん、父さんのこと超ラブだから」

野口は気にした様子もなく肩をすくめた。
それは本当にこれが、いつものことなんだと、思わせた。
父親がラブっていうのはいいんだけど、でも、もうちょっと、野口を気にかけても、いいんじゃないだろうか。
人の家のことは分からないけど、私だったらこれは、寂しい。
うちのお父さんとお母さんの過保護がウザいって思いながらも、なかったらそれはそれで寂しい。

「まあ、いないとは思ったけど。いたら三田、見せたかったんだけどな」
「見せたかったって」
「俺のラブってことで」

本当に、それだけだったんだろうか。
お母さんに紹介したかっただけなんだろうか。
いつもと変わらない様子の野口に、なんだかぐるぐるぐる胸が騒ぐ。

「まあ、いないもんは仕方ないな。ごめん、付き合わせて。外行くか」
「………」

玄関に戻ろうとする野口の腕をつかんで、引きとめる。
なんだろう、この気持ちは。
分からない。
でも、ぐるぐるぐるぐる、気持ち悪い。

「三田?」
「………野口」
「はい?」

振り返った野口の腕を引っ張ると、非力な男はぐらりとふらつく。
引き寄せた冷たい印象の顔に、伸びあがって近づく。
目測を誤って、体温を感じない唇の少し横に触れた。
その上勢いがありすぎて、歯がカチリと当たって痛かった。

「………」

一瞬だけ触れて急いで顔を離すと、野口は自分の口を抑えた。
無表情に、パチパチと目を瞬かせて、私を見る。
ああ、顔が熱い。
何やってんだろ、私。
でも、こうしたかった。
衝動的に、やってしまった。

「………歯、痛い」
「うっさい!!」

どうせ下手だよ。
どうやってもかっこよくいかないよ。
悪かったな。
野口はにやりと意地悪く笑う。

「それは、覚悟が決まったってことでいい?」
「違うわ、ボケ!!」

このエロボケ眼鏡。
そういうんじゃなくて、ただ、なんかそうしたかったんだ。
そういうつもりは、全然なかったんだ。
なんだか、茶化されたようで腹が立つ。
照れとか怒りとかで頭が熱くなる。
こんなこと、するんじゃなかった。

「帰る!」
「嘘です。帰らないで」

野口の横をすり抜けようとすると、後ろから抱きしめられる。
細い腕が体の前に回って、引きとめられる。
野口の胸に、背中が、当たる。
野口の息が、首筋に、触れる。

「ありがとう。大好き三田」

それはとても、小さく微かな声。
閉め切って暑い室内の中、私にだけ届く声。

「ね、もっかいして」

野口に触れられたところが、熱くなる。
夏の暑さだけではなく、体の内側から、熱くなる。

「三田、もう一回」

それはいつもと変わらない感情のこもらない声。
けれど、私の気のせいかもしれないけど、どこか縋るような響きがあった。

「俺を慰めて、優しくして、甘やかして」

ぎゅっと、私の体に回した腕に力が込められる。
冷たい体温を伝える肌は、けれど少し汗ばんでいる。

「お願い、三田」

胸がぎゅーっと、引き絞られて、痛い。
ああ、苦しくて、息ができない。

「………離せ」

言って、野口の腕を振りほどく。
野口はあっさりと腕を解いた。
ゆっくりと振り返って見上げた野口の顔は、いつもの通り無表情だった。
ただ、じっと私の行動を見ている。

「………」

日に焼けて黒い私の手で、野口の白い顔を挟み込む。
白と黒のコントラスト。
まるで私の手の方が、男みたい。
ちょっと手に力を込めて促すと、野口は素直に顔を傾けてきた。

「………」
「………」

伸びあがって、野口の冷たい唇に、今度はゆっくりと触れる。
野口は自分で動かないで、されるがまま。
一回離れてちらりと見上げると、野口は眉を寄せて私を見ていた。

「………」

もう一度、伸びあがって、目を瞑る。
唇が触れた途端、今度は背中に腕が回された。
優しく、力のこもらない、緩い抱擁

「ん」

冷たい湿ったものが、唇に触れる。
体がちょっと震えたが、抑えて、唇に入っていた力を抜く。
そのまま何度か私の唇をなぞったそれは、するりとあわいから入り込んでくる。
ぞくりと、背筋に寒気が走る。

「………っ」

入りこんできたそれは、縮こまっていた私の舌を、誘うようにつつく。
何度かそうされて、ゆっくりと、自分の舌も、それに絡める。
ぬめぬめとした感触が、舌に伝わる。
変な、感じ。
気持ち悪い。

「ん、ぅ」
「ん」

野口の顔に触れていた手に力が入らなくて、縋りつくように細い肩にしがみつく。
背中に回された腕に、力がこもる。
口の中の舌は、遠慮をなくしたように、好き勝手に動き回る。
歯をなぞって、唇を辿って、上顎を舐める。
唇が濡れていて、気持ち悪い。
ふとした瞬間にぴちゃりと濡れた音がして、耳が熱くなる。

頭が真っ白になっていく。
ぼうっと、熱くなっていく。

「ん、ん」

息が苦しい。
どうやって呼吸をしたらいいか、分からない。

「は、ぁっ」

逃げ出すように顔を離して、酸素を求めても、すぐに野口に塞がれる。
呼吸困難になりそうだ。
苦しい。
口の中に唾液が溜まっていく。
飲みこめなくて口から溢れると、それすら野口は舐め取る。
汚い。
いやらしい。

「………もっ」

苦しくて、体を押しのけようとするが、余計に力を込められ抱きしめられる。
非力な野口の腕に、逆らうことが出来ない。
体がより密着して、冷たい体温に、熱い私の体が触れる。
野口の付けている香水の匂いに、頭がくらくらする。
が。

「ま、待った!」

一気に正気に戻って、思いっきり顔を離した。
離れる時に、二人の間に唾液が伝って、ものすごいエロくて、見ていられなかった。
でも、今はそれどころじゃなかった。

「何?」

野口はどこか不機嫌そうだが、それを気にしている余裕はない。
今もまだ私は野口の腕の中にいる。
野口の非力な腕が、珍しく私を強く抱きしめている。
ぴったりと、体がくっついている。

「………な、なんか」

それで、お腹の下の方に当たる、この感触は。
この堅い、感触は。
この位置にある、これは。

「ああ」
「………」

体温が一気に下がっていく。
野口は気が付いたように、小さく頷く。
そして珍しい優しい笑顔で言った。

「生理現象です」
「はなせー!!!!」

耐えきれなくて、野口を殴り倒した。





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