結局、美香の家まで連れてこられた。
かわいいけれど、あまり物のない、シンプルな美香の部屋。
家にも帰りたくないし、学校にもいたくなかったからちょうどよかった。
美香の淹れてくれた甘いカフェオレの湯気に、少しだけ心が穏やかになる感じがする。

「それで、何があったの?」
「………」
「言いたくないなら、言わなくてもいいよ。落ち着くまで、こうしてよ」

隣に座った美香がそっと私の肩に寄り添うように体を傾ける。
クーラーの効いた部屋は寒いぐらいだから、美香と手の中のカップがあったかくて気持ちがいい。

「………」
「………」

それ以上、美香は何も言わない。
ただじっと寄り添っていてくれる。
一口甘い甘いカフェオレを啜って、そっと息をつく。
ゆるゆると、強張った心がほどけていく。

「………あの、ね」
「うん」

美香はそっと、頷く。
隣同士だから、顔は見えない。
それがちょうどよかった。

「野口、昨日、までは、普通だった。いつも通りだった」
「うん、いつも通りだったね」
「それで………」

そう、昨日までは普通だったんだ。
いつも通り、馬鹿な話して、殴って、笑って。
それが、とても、心地よかった。

「野口の家に行って」
「うん」
「………それで」

野口は、私を好きだと言った。
私が欲しいと言った。
だから、私も覚悟した。

「野口と、ヤった」
「………」

美香が小さく息を呑む。
ああ、そういえば美香には言おうと、思っていたんだ。
放課後、お茶でもしながら、言おうと、思っていたんだ。
ついに、私も、ヤってしまった、と、そう、報告しようと思っていたんだ。
本当なら、こんな形じゃなかった、はずなのに。

「………それで、帰る時は、でも、普通だった」

確かに、普通だった。
いや、いつもより、優しいぐらいだった。
送るって、何度も言われて、でも、恥ずかしくて断った。
野口は笑っていた。

「………いつも通りの、野口だった」

最中のことは必死だったから、野口がどんな様子だったか、なんてあまり覚えてない。
噛まれて、キスされまくって、痛くて、熱くて、汚かった。
ただ、何度も好きだって、言われた。
何度も名前を呼ばれた。

「………それで」

それで、嬉しそう、だったと思う。
終わった後も、何度もキスされた。
嬉しそうに、目を細めて、笑っていた。
確かに、笑っていた。
それなのに。

「今日、別れようって、言われた」

分からない。
思い返してみても、何がいけなかったのか、分からない。
確かに野口は、私を好きでいてくれたと、思う。
例え三番目でも、野口は私を好きでいてくれたと、思う。
それともアレも全て、嘘だったのだろうか。
私をただ、騙していたのだろうか。
前の時と、同じように。

「待ってね」
「………」

美香が私から離れて、顔を覗き込んでくる。
頭が痛いように額を抑えて、ちょっとの間考え込む。

「えっと」
「………」

しばらくしてから、確かめるようにゆっくりと話し始める。

「昨日まで野口君は、普通だった」
「うん」
「それで、えっちした」
「………うん」
「それで、今日別れようって言われた」
「………」

小さく、頷く。
美香が、また額を抑えて、眉を顰める。

「………」
「………」

私は、やっぱり、つまらない女だろうか。
ガサツで、かわいくなくて、乱暴で、すぐに野口を殴っていた。
そんな女、やっぱり、嫌だったのかな。
本当は、嫌々、付き合っていたのだろうか。

「………殴る」
「は」

考え込んでいると、ぼそりと美香が言った。
何を言われたのか分からなくて、俯いてしまっていた顔を上げる。

「野口、殴る」

そして美香が本当に立ち上がった。
私は慌てて、咄嗟にスカートを引っ張って動きを止める。

「ま、待った!待って、美香待った!」
「待たない!」
「待って!」
「何それ、意味分かんない!あいつなんなの!?ふざけんな!?泣くまで殴る!」
「えっと、うん」
「土下座して謝らせる!」
「うん、待った。待った!待って、落ち着いて!」

本当にドアに向かおうとする美香の足にしがみついて、必死に止める。
なんでこういう時に本当に行動力あるかな、この子は。
美香がなぜか私を見下ろして睨みつける。

「あの男なんて言ってたの!?」
「え、えっと、別れようって」
「なんで!」

えっと、なんで、ってそんなの私が知りたい。
でもえっと、なんだったっけ。
何か言われていた。

「………あ、飽きたから?」

そう、確か、飽きたって、言ってた。
私に、飽きたって。
そうか、飽きられたの、か。

「ヤらせて飽きられた?」

美香の声が一段と低くなる。
そういうことに、なるのかな。
やっぱり、つまらなかったのか。
一回ヤって、がっかりしたのかな。
まあ、そりゃ、そうかな。
私みたいの、つまらないよな。

「ふざけんな!」
「え!?」

美香が珍しく乱暴な言葉で吐き捨てる。
びっくりして思わず呆けた声が出てしまう。
私はともかく、美香がこんな言葉づかいをするのは本当にめったにない。

「捨てろ!前にも言ったけどそんな男捨てろ!いらない!こっちから捨てろ!願い下げだ!」
「う、うん。うん、えっと」
「由紀にはもっといい人いる!私が見つける!」
「えっと」
「とりあえずあの男は殴る!泣くまで殴る!」

そしてまたドアに向かおうとする。
ていうか出てってどうするつもりだ。
野口のバイト先知ってるのか。
なんか美香が怒ってくれてるから、変なところで冷静になっている。

「ま、待った!待って!落ち着いて!」
「なんで!」
「だ、だって」

なんでって言われても。
美香こそ、なんでそんなに怒っているんだ。
慰めてくれるかな、とは思ったけど、こんなに怒るとは思わなかった。

「由紀、悔しくないの!?」
「………悔しい、っていうか」

胸がしくしくと、痛む。
小さな針を何十本も胸に刺されたように、痛い。
血が溢れて来て、止まらない。

「私は悔しい!ムカつく!殴りたい!」

悔しくも、ムカついても、ない。
ただ、ぽっかりと胸に大きな穴があいている。
痛い。
苦しい。

「で、でも、美香が殴るって、なんか、違う、気がするし」
「じゃあ、由紀が殴るの!?」
「え、いや」
「なんで!?」

確かに、私は殴っても、いいのかもしれない。
殴る権利はあるだろう。
けれど、殴る気にはなれない。
それに、ふられて、殴るって、なんだか。

「………なんか、みっともないじゃん」
「は!?」

美香が眉をきっと吊り上げる。
美少女はそんな顔していても、とてもかわいい。
ぼんやりと美香を見上げながら、そんなことを思う。

「みっともないとか言ってる場合!?」

だって、ふられて、縋りつくなんて、みじめだ。
ただ私に魅力がないだけなのに。
それを棚にあげて、縋りつく、なんて、なんてみっともなくてみじめなんだ。
野口はそんな私を見て、嘲笑うだろうか。
それとも眉を顰めて嫌悪されるだろうか。

「もっと怒りなよ!」

美香には分からない。
恵まれている美香には、こんなみじめな気持ちは、分からないだろう。
美香が私のために怒ってくれているのは、分かる。
でも、八つ当たり気味の怒りがちらりと沸く。
ただでさえみっともなくてみじめな野良犬が、ますますみすぼらしくなるのなんて、嫌だ。
もうこれ以上、痛い思いはしたくない。
これ以上、みじめにはなりたくない。

「………でも、美香は、関係ないし」
「………」

美香がきゅっと唇を噛む。
それから、しゃがみこんで、私の目をじっと見てくる。
睨みつけるように、まっすぐに私の目を見る。

「関係あるよ」
「え」
「私は由紀の友達。由紀が大好き。だから由紀を傷つける奴は、許せない。私の友達が傷つけられてるのがすごくムカつくの。だからこれは私が怒ってるの。由紀のためとかいうより、私が殴りたいの」
「………美香」

ああ、本当にどこまでも、いい奴だ。
なんでこんなまっすぐで、綺麗なんだろう。
なんでこんなに性格がよくて、かわいいんだろう。
美香になりたかった。
私が、美香だったら、こんな思いをしなくても、済んだだろうか。

「由紀は、これでいいの?」

いいわけ、ない。
よくない。
苦しい。
痛い。
でも。

「………分からない」

どうしたらいいか、分からない。
もう手を振り払われなくない。
飽きた、なんて言われたくない。
自分を否定されたくない。

野口に、拒絶されたくない。

「………野口君が、好きなんでしょ?」
「う………」

胸が熱い。
息が苦しい。
言葉が、出てこない。

「………っ」

堪え切れなくて、目頭が熱くなって、ぼたりと手の甲に水の粒が落ちた。
ぼたぼたと、美香の部屋の床が水滴で汚れる。

「ごめん、言いすぎた。一番混乱してるのは、由紀だよね。ごめんね」

美香が私の頭を抱え込んで、自分の胸に押し付ける。
柔らかくて、甘い匂いがする。

「う、う………」

それにほっとして、涙が次から次へと零れてきた。
美香が私の頭を優しく撫でる。

「う、ああ!」

そして私は美香の腕の中で声をあげて泣いた。





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