「おはよう」 お互いの気持ちを確かめ合ってから、二日。 玄関を開けると痩せぎすな男が嫌みそうな笑顔を浮かべて立っていた。 その顔を見た瞬間心臓が跳ね上がって、体温が二度ぐらい上がった感じがする。 「………おはよ」 動揺を知られないように殊更ぶっきらぼうに言って、私は玄関から駆けだす。 家族に見つかっても面倒だ。 隣に行くと、野口は軽く首を傾げて聞いてくる。 「手、つないでいい?」 「………ほら」 色々言うのも面倒だったから、私は素直に手を差し出す。 野口はふっと薄く笑って、冷たい手を重ねる。 いつもと違うフレームの眼鏡の奥の目は、少し優しい気がする。 「………」 「………」 そのまま登校を始めるが、なんとなく二人とも無言だ。 緊張して、何を話せばいいのか、分からない。 もう暑い季節でもないのに、じわりと手の平に汗を掻いてくる。 きっと、野口にも気づかれているだろう。 「困った」 「な、何が?」 「何話したらいいか、分からない」 野口が前を見たまま、全然困った様子もなくぼそりと言う。 同じことを考えていたのかと思って、また一つ心臓が大きく跳ねる。 付き合い始める前も後も、一緒にこうやって歩くのなんて、何度もした。 それなのに今の私たちは初対面のように何を話せばいいのか分からない。 「い、いつも通り話せばいいだろ」 「いつも、俺って何を話してたっけ」 「くだらないこと」 「話したいこといっぱいあるのに、何話せばいいのか分からない」 自分も話せない癖に偉そうに言う私に、野口はやっぱり平坦な声で困惑を口にする。 こいつも緊張しているのだろうか。 まるで子供のように無防備な野口が、なんだかくすぐったくて、嬉しい。 だから私はやっぱり、ちょっと偉そうに言ってしまう。 「話したいこと、話せばいいんだよ」 「そっか」 「うん」 そうだ、緊張することなんて、ない。 ただ話したいことを、話せばいいんだ。 話したいことなんて、沢山あるんだから。 いつも通り、どうでもいいことを、だらだら話せばいいんだから。 野口は前を向いたまま、一つ頷く。 「じゃあ、三田好き、好き。大好き」 「………おい」 「好き、本当に好き。好き、好き」 「おい、やめろ」 顔が一気に熱くなって、手の平の汗が増して、じっとりと湿る。 つないだ野口の手まで、湿っていく。 止めているのに、野口はまるで歌うように続ける。 「話したいことだよ。好き、好き、大好き。一緒にいたい。好き、好き」 「………」 「ずっと一緒にいたい。傍にいたい触れたい手を繋ぎたい。三田の体温を感じたい」 ああ、もう、心臓が痛くて、痛くて、痛くて、涙が出そうだ。 言葉って、すごいんだ。 こんなにも私を混乱させて、体調まで悪くしてしまう。 ものすごい威力の武器。 「キスしたい、舐めたい、揉みたい、つっこみたい」 「死ね、この馬鹿!」 ロマンチックに浸っていると、続けられた馬鹿な言葉。 私は野口に向かい合って足を振りあげた。 手は繋がれていたので、つい足が出そうになる。 けれど野口は動揺せずに、いやらしくにやりと笑う。 「殴るの?」 「………な、殴らない」 渋々足を、ゆっくりと下げる。 ちくしょう、こいつ、さっきまであんなにしおらしかったくせに。 なんだこのふてぶてしさ。 「調子出てきたじゃねーか」 「うん」 野口はくっくっと喉の奥で笑う。 そして手を引き寄せて、私の肩に頭を載せる。 さらりとした髪の感触が頬をくすぐる。 「だって三田、ずっと一緒にいてくれるんでしょ?俺が好きなんでしょ?」 一瞬、ふざけんなって言い返しそうになった。 けれど、仕方ないから、ぐっと我慢した。 「………好きだよ、馬鹿」 帰ってきたのは、道端での頬へのキスだった。 昼休み、以前のように四人でお昼を囲む。 今日はいつもとちょっと違って屋上でお弁当を広げた。 「ようやく元サヤだ」 「………うん」 美香がからかうように私の顔を下から覗き込む。 ばつが悪くて目を逸らしつつ、頷く。 仲直りした日に美香には電話で報告しておいたが、二人揃って合うのは今日が初だ。 昨日は野口が休みだったので、ようやく面と向かって美香と藤原君に礼を言うことが出来る。 「よかったな」 藤原君が本当に嬉しそうに目を細めて笑う。 心から祝福してくれてるのが分かって、胸が温かくなっていく。 私はこんな友人達を持てて、幸せ者だ。 今はしみじみ、そう思う。 なんだろう、世界が全部、自分に優しいとすら感じる。 昨日の朝起きたら、世界が輝いてすら見えた。 とんだ色ボケだ。 「うん、二人とも、ありがとうね」 とりあえず、迷惑をかけた二人へ感謝の気持ちを表わす。 美香はちょっと怒ったように悪戯っぽく笑う。 「うん、よかった。もう二人とも迷惑かけないでよ!」 「うん、ごめんね、ありがと美香」 一番、美香に迷惑をかけた。 誰よりもコンプレックスを刺激されてウザくて愛しく頼もしく優しい友人。 大好きな大切な親友。 「野口君」 親友は私に向けていた笑顔を引っ込めると私の隣に座っていた野口に視線を向ける。 そして冷たい表情のまま、低い声で言い放つ。 「次、由紀を泣かしたら切り落とす」 「何を!?」 不穏な言葉に思わず全力でつっこんでしまった。 けれど言われた方の野口は動揺せずに、冷静なまま一つ頷いた。 「泣かしはするかも」 「………」 泣かすのかよって、つっこみそうになるが美香が野口をじっと見ているので口をつぐむ。 なんだか訳の分からない緊張感。 「でも、もう逃げない」 野口は静かに、まっすぐに美香を見つめてそう言った。 きゅーって心臓が引き絞られて、唇が震えた。 「まあ、よしとする」 「うん、ありがとう」 偉そうに言う美香と素直に頷く野口に見られないようにぎゅっと瞼を瞑って熱くなる目を誤魔化した。 ああ、もう駄目だ、なんか体がおかしい。 涙腺が、ぶっ壊れている気がする。 「これでまた、皆一緒にいれるな。俺、嬉しいな」 藤原君がにこにこと笑う。 それでほわりと場の空気がより和んだ。 優柔不断で情けない人。 でも、優しくて、穏やかな、人。 この人と付き合ってたことを後悔はしていない。 この人と友人でいれてよかった。 「私、藤原君のそういうところ好き」 美香がにこにことかわいらしく笑って藤原君に言うと、藤原君は顔を一気に真っ赤にした。 強い美香と優しい藤原君、本当にお似合いの二人だ。 二人が幸せだと、嬉しい。 二人が、仲良くてよかった。 今は本当に、素直にそう思える。 ああ、もうまた泣きそうだ。 私は誤魔化すように弁当箱を包んでいたナプキンを開いて、野口に差し出す。 「ほら」 「ありがとう」 また野口の弁当作りを、再開した。 いつのまにかガリガリになっているこいつをせっせと太らさなけばいけない。 本当に、切実に。 「三田、食べさせて」 また下らないことを言い出す変態。 とりあえず私はため息交じりに切り捨てた。 「ふざけんな」 「食べさせてくれないと食べない」 「おい、この変態!」 「はい、あーん」 思わずその頭をはたき倒そうと手を振りあげる。 すると野口はにやりと笑った。 「殴る?」 その言葉に私は拳をぎゅっと握った。 そしてそのまま静かに地面に下ろす。 「………くそっ」 ああ、殴りたい。 本当にこの馬鹿を殴りたい。 でも、殴れない。 「あれ、殴らないことにしたの?」 「………」 美香の不思議そうな問いに、答えることは出来なかった。 野口がチェシャ猫のようににやにやと笑う。 「俺は殴ってもいいけどね」 「………殴らない」 「三田がくれる痛みなら、俺は大満足」 ああ、本当にこの変態。 どうしようもない変態。 「もう、殴らないってば!」 思わず苛立って怒鳴ってしまう。 美香がきょとんと面喰った顔をする。 「どうしたの?」 「………」 やっぱり私の口から言うことはできない。 けれど美香は不思議そうに首を傾げて答えを求めている。 野口がちらりと私を見たので、私は諦めて頷いた。 「うん。一昨日、三田にとび蹴りされたんだけど」 「………」 怒りにまかせて、ドアを開けた野口を蹴り倒して乗っかった。 だってあの時は本当に頭に血が上っていたのだ。 仕方ないじゃないか。 「あばらにヒビが入ってた」 「………」 「………」 美香と藤原君が、黙りこむ。 その沈黙が、耳に痛い。 「三田の愛が痛くて感動です」 野口が痛みが結構ひどかったので一応病院に昨日いったところ、見事にヒビが入っていたらしい。 まあ、あばらのヒビは病院に行ってもどうにもならないんだけどさ。 痛いだろうに、野口はとっても上機嫌だ。 「俺の骨を折るぐらい、俺が好きだったんだよね」 「………くっそ!」 私は、DV加害者にはなりたくない。 もう殴らないと決めたのだ。 でも殴りたい。 心のそこから殴りたい。 美香が、かわいらしく無邪気に笑った。 「二人とも愛が痛いね。色々な意味で」 「折ろうと思って折ったんじゃない!お前が薄いからいけないんだよ!もっとカルシウムを取れ!」 「いや、由紀のそれはどうかと思う」 「う」 分かってる、暴力はいけない。 何があろうと暴力はいけない。 骨にヒビを入れるとか、本当に私の方が変態になってしまう。 悪いのは私だ。 調子に乗った野口は、口を開いて促す。 「てことで三田、はい、あーん」 「………お前」 「ああ、肋骨痛むわ」 「あ、あばらとこれは関係ないだろ!」 「眼鏡の度数も合わなくて見づらい」 「う」 「卵焼きが食べたいな」 「は、はい、あーん」 仕方なく私は卵焼きを掴んで、野口に差し出す。 友人達の前での羞恥プレイに、恥ずかしさにこのまま死ねる気がした。 くそ、全部私が悪いんだけど。 悪いんだけどさ。 「そういえばいつもと眼鏡違うね」 また美香が余計なことに気づく。 野口が楽しそうに卵焼きを咀嚼しながら答えた。 「いつものは三田が握りつぶした」 「………」 「………」 野口の眼鏡を取って持っていたら、いつのまにか床に落ちて、ひんまがっていたのだ。 ソフトボール部の握力が悪いんだ。 全部ソフトボールが悪いんだ。 「だから三田がカルシウム取らせて?俺を健康にして?面倒見て?」 ますます調子に乗る野口に、美香がにっこり笑う。 「野口君マジキモイ」 「元々キモイだろ、俺は」 「三割増しキモイ」 美香はにこにこと笑っていて、野口も特に気を悪くした様子はない。 けれど何か温度の低いやりとりに、藤原君が恐る恐る割って入る。 「な、なあ、二人とも、仲悪い、訳じゃ、ないよな」 二人は同時に藤原君に振り返った。 「ないよ?」 「ないよ?」 「そ、そっか」 ある意味、息が合っている。 なんかこの二人、時折ものすごい分かり合っている気がする。 ちょっとチクって胸が痛む自分の嫉妬深さに呆れてしまう。 「結局、お前全然変わってないじゃん」 「これでも変わろうと努力してるんだけど」 「どこが!」 「三田を監禁してないし、自傷行為で引き留めようともしてない」 ぜんっぜん変わってない。 この前あんなに頼りなくて情けなかった姿が幻のようだ。 うっかり絆されてしまったが、やっぱり早まっただろうか。 野口が肩をすくめる。 「三田は俺にどんな風に変わってほしいの?」 「そ、そりゃ、もうちょっとは優しくて、普通の発言して、だから、なんかもっと普通の感じの、ちょっとは藤原君みたいな感じで」 って、藤原君の名前を出すのは色んな意味でまずかっただろうか。 でも、元々私の好みって、藤原君みたいなタイプだったしな。 野口は全くタイプじゃない。 ていうか野口みたいなタイプなんて想定もしていなかった。 こんなの想像できるか。 野口は気を悪くした様子はなく、首を傾げる。 「いいの?」 「いいのって?」 「前にも言ったけど、俺は恋するとそいつ色にとことん染まるよ?だから三田が俺に藤原みたいになれっていうなら、なってみせるけどいい?」 「え?」 「三田の好みになってみせるけど」 「え」 「甘くて中身のない優しい言葉を吐きまくって、どこ行くにも三田のお伺い立てるような優柔不断な男になるけど、いい?」 藤原君のように優しく笑って、優しく慰めてくれる野口。 私をかわいいって言っていっぱい褒めてくれる野口。 「………おい、野口」 ひどい言われように藤原君がさすがに親友に不満を漏らす。 けれど野口は全く聞こうとしない。 「いい、三田?」 「………それは」 そんなの、野口じゃないな。 全く別の何かだ。 私がそう思ったのが分かったのか、野口がくすりと笑う。 「嫌でしょ?」 「………キモイ」 視界の片隅で藤原君が傷ついたような顔をした。 いや、藤原君はそれでいいんだよ、藤原君は。 そういう人だから。 でも、野口はそうじゃない。 「だよね、だって三田は俺が好きだもんね?今の俺が好きだしね?」 野口はにっこり笑って、耳元で囁いた。 息のかかった耳が、熱湯を浴びたかのように熱を帯びる。 「ほ、本当に、お前タチが悪い!」 慌てて飛び退いて耳を抑える。 抗議する私に、野口はいつものチェシャ猫の笑顔で言うのだ。 「だから三田がずっと見張ってて、俺を躾けて?」 ああ、本当にこいつはどこまでも最低の変態だ。 全く何も変わってない。 猫のように人を嬲って弄ぶ。 気まぐれで甘えたで、そのくせ気難しい、タチの悪い野良猫。 だから仕方ない。 もう仕方ない。 私はずっとずっと傍にいて、この野良猫が馬鹿なことをしないように見張って躾けてやらなきゃいけないのだ。 |