「みずほ…、なんであんな奴が好きなんだよ…」

ボソボソと俯きながら聞いてくるのは、幼馴染。
昔から私が好きだと言ってやまない、馬鹿な男。
まあ、私は美人だし、スタイルもいいし、気は優しいし頭もいい。
好きだという気持ちは分からないでもない。

が、自分で言うのもなんだが、趣味が悪いと思う。
私みたいな女、好きになるなんてよほどのマゾだ。

別に彰が嫌いなわけではない。
好きの部類に入るだろう。
少々優柔不断ではっきりしなくて、うじうじしたところがあって、潔癖で夢見る乙女みたいなところがあって、幸せに育ちまくった苦労知らずの空気の読めない発言が鼻に付くが、性格も容姿もそう悪くはない。
善良で明るくて、正義感に満ちている。

しかし、どこをとっても好みのタイプではない。

「だから言ってるでしょ、すべてよ」
「……みずほは、金さえあれば、誰でもいいのか」

こういうところが、空気の読めない発言なのだが、まあ今更言っても仕方ない。
私も人のことは言えないし。
しかしこいつ、女にもてないだろうな。

「まあ、金があるに越したことはないわ。ていうかそれは大前提ね」
「…じゃあ、あいつ以上の金持ちが言い寄ってきたら、なびくのか?」
「そうね、考えるわ。でも、できれば直哉がいいわ」
「……なんで?」

なんとも愚かな発言。
そんなこと、言われないと分からないのだろうか。
私は鼻で笑って、彰を見下す。

「好きな男の子供を産みたいというのは、女の本能でしょ?」

その言葉に、なぜか彰は鳩が豆鉄砲くらったような顔をする。
それはずっと言っていること。
今更なぜ驚くのだろう。

「何よ、その顔」
「みずほって……、もしかして本気で直哉が好きなのか…?」
「あんたの耳は飾りなの?今まで私が散々言っていたこと、なんも聞いてないの?それとも記憶力が欠陥品なのかしら?」

淡々と女にしては低い声で追い詰めると、彰は慌てて手を振る。
いつもはガキ大将のように暴れまわって威張っているくせに、私の前では面白いくらい大人しくなる。
小さい頃からの力関係だろうか。
私を好きなんて、本当に、馬鹿で、可哀想。

「いや、だって財産目当てだと!」
「直哉の財産は心から愛してるわ。でも、同じぐらい、あいつ自身も好きよ?言ってるでしょ」

私は彰を見つめて、心からの笑顔を見せる。

「直哉のすべてが好きなの」



***




世の中には自分の力だけじゃどうにもできないことがあると、私は知っている。
それは天候だったり、人からの暴力だったり、自分の記憶力だったり。

突然襲いくる貧乏だったり。


私は小学生の頃、赤貧という言葉を知った。

「みずほ…お父さん、逃げちゃった…」
「………」

その言葉で始まった、長い忍耐の日々。
小さい頃は優しく頼もしかった父。
リストラにあい、酒とギャンブルに溺れる日々を経て、女と逃げた。

父は好きだった。
いなくなって、悲しかった。
けれど、私はその時ほっとしたのだ。

これで父に殴られ罵られる母を見なくてすむ。
酒代の工面に苦しむ母を見なくてすむ。

けれど、本当の苦労はこれからだった。
父は莫大な借金を作り、その上家にあった金も盛大に持ち逃げていた。
絵に描いたような見事なろくでなしっぷりだ。

家はなくなった。
家財道具もなくなった。
親戚は消えた。
近所づきあいもなくなった。

あるのは、母と借金、そして周りの白い目。

つい、3年前ほどは温かいばかりだった世界が、がらりと様子を変えて冷たく黒い世界になる。
誰にも頼れない。
誰も助けてくれない。

母と私は途方にくれて、日々来る借金取りに怯えて、毎日泣いて、眠れない夜が続き。

そして。

母がキレた。

「……泣いててもしょうがないわね…」

その時の、穏やかで女らしく弱かった母の決意に震える背中を忘れない。

「このまま泣いてたって、誰も助けてくれないもの。ううん、母さんみずほを守らなきゃいけなかったんだ。みずほを、助けなきゃいけなかったんだ。ごめんね、みずほ、母さん弱かったわ」

難しい事情なんて分からない。
なぜ友達がいなくなったのかも分からない。
なぜ周りが冷たくなったのか分からない。
陰口を叩かれるのか、罵声を浴びせられるのか、分からない。

悲しくて、辛くて、父を恨んで。
毎日泣いて泣いて泣いて。

でも。

「ふふ、そうね、いい機会だわ。強くなりましょう。みずほ、いい、私たちは負けないわよ!周りは8割敵よ!人を見たら泥棒と思いなさい!戦って戦って勝ってやりましょう!母さん強くなるわ!みずほ、あんたもついてきなさい!私たちは、何をしてでも生き残ってやるわよ、このまま家族心中なんて冗談じゃないわ、いつかあの男を見返してやる!!」

私は元々、なんで男に生まれなかったのかと嘆かれるほど気が強く、乱暴だった。
母のやけっぱちな、でも前向きな力強い言葉に、ようやく私も自分を取り戻す。

そう、ケンカで負けるなんて、冗談じゃない。
男だろうが、女だろうか、私は勝ってきた。
いつだって、私は強かった。

だから、こんなことじゃ負けない。
これからの人生が戦いだというのなら、私は勝ってみせる。

いなくなった父を恨んでも仕方ない。
いなくなった親戚の薄情さを罵っても何にもならない。

屈辱を生きる意欲に。
怒りを力に。

母が力強く私を抱きしめる。
その腕の頼もしさを、私は一生忘れないだろう。

「みずほ、ごめんね、でも、かあさん負けないから!」

それが私たちの戦いのゴングとなった。



***




それから母や昼も夜もなく働くようになった。
水商売にも手をつけた。
そんな母を軽蔑したり、不潔だと思ったりしたことはない。
母のふっくらとしていた頬はそげ、目にはいつでもクマを浮かべていた。
でも、瞳には強い光が宿り、美しかった。
必死で戦っていることが、分かった。

私はそんな母をより好きになって、愛した。

学校ではぶられるようになったことを話した私に、母は俯いて、でも力強く私の肩を抱く。
自分も辛いのに、母は弱音をはかない。
けれど、私の境遇には眉をひそめ、泣きそうに顔をゆがめる。

「みずほ、逃げてもいいわ。どうにもならなかったら言って。そしたらもう一緒に逃げましょう。どうなったっていいわ、あんたが一番大切。母さんはみずほが一番好き。いつでも逃げていいわ」
「……うん」
「でも、私がいつまでみずほを守れるか分からない。大きくなったら、あんたは1人で戦わなきゃいけない、母さんは守ってやれない。いつかは絶対戦わなきゃいけない。弱いままだと、母さんみたくくじけてしまう」
「うん」
「だからみずほ、どうしようもなくなったら逃げましょう。なんだったらあんたをいじめた奴ら殴りにいくわ。そんなしつけのなっていないガキに親ともども説教してやる。辛かったら私に怒鳴りなさい、怒りなさい、愚痴っていいわ。でも、できる限り」

母は私の目を、真剣に覗き込む。
そこには娘を想う優しさ、不安と、申し訳なさ。
それ以上にある、強さ。

母の手を、頼もしく想う。
母の言葉が勇気をくれる。
母がいれば、私はなんだってできる。

「強く、戦って」

私はその言葉に、大きく頷いた。

弱音を吐いてもいい。
逃げていい。
愚痴っていい、罵っていい。

けれど、私は戦ってみせる。



***



学校は敵だらけだった。
からかう男子がいた。
陰口を叩く女子がいた。
無神経な教師がいた。

けれど、私は負けない。

暴力を振るう男子は、泣くまで殴った。
ぶつけられる罵詈雑言には、冷静に叩きのめした。
必死で勉強し、スポーツに励み、教師に何か言われる隙をなくした。

気を張るあまり、柔らかさとか、優しさとかそういうものをなくしていたと思う。
周りの8割は敵だと思っていた。
刺々しくて、寄る人を傷つけていた。

恐らく、敵だらけじゃなかったと思う。
優しさやいたわりをもって近づく人もいたと思う。
それでも、私は気付けなかった。

すべてが、冷たく黒く、自分を闇に引きずろうとしているとしか、思えなかった。

そんな時、彰はよく声をかけてくれた。
いじめられたら、守ってくれた。
心配そうに、差し出される手。

でも、それすら持っているものの傲慢さにしか思えなかった。

私はあのままだったら、本当にどうしようもない人間になっていただろう。

そんな時、私は直哉に出会った。



***




「うわあ、そのお弁当シンプルだね」

それは遠足の時。
友達のいない私は1人で、そして貧乏な私はとてもおかずの少ない質素なお弁当をつついていた。
指差して笑っているクラスメイトがいるのは知っている。
別にそれは全然かまわなかった。
ただ、そんな風に近づいて感心したのはそいつだけだった。

名前は知っている。
有名人だった。
金持ちなくせに、教育方針とかで学区の普通の公立に通っているお坊ちゃま。
頭がよく顔がよく穏やかで朗らかで、愛される要素をすべてもった人間。

「そうよ、日の丸弁当って言うの、覚えておきなさいお坊ちゃん。いつか役に立つわよ」

私は金持ちが大嫌いだったから、そっけなく冷たく返した。
しかし目の前のお坊ちゃんは気を悪くした風でもなく更に問いかけてくる。

「へえ、なんで日の丸?」
「ご飯の中に梅干が入っているのが国旗の日の丸に見えるでしょ、だからよ」
「あー、そっか!すごいね!」
「すごいでしょ。一つお勉強になってよかったわね。感心したなら金よこしなさい」

目の前のにこにこと笑う男の子を見ようともせず、私を弁当に集中する。
が、次に帰って来た言葉に、耳を疑った。

「うん、いいよ。いくらがいい?」
「……は?」
「ん、お金?」

相変わらず人好きのする笑顔を浮かべたまま、直哉は首を傾げる。
最初は驚き。
ついで、怒り。
腹の底から熱くなるような、憤りがわいてくる。

「……あんた、馬鹿にしてるの?」
「え、なんで?」
「私が貧乏だと思って、ケンカ売ってるの?」

刺々しく、苛立った声に、けれど直哉はペースを崩さない。
私が何を言っているの分からないというように、緩く首をふる。

「ううん、単に本当に感心したから、お代を払おうと思って」

あまりにも、純粋に言われたから、私は言葉を失った。
熱くなった頭が、急速に冷えていく。
怒りが、冷たい何かに変わっていく。

「みずほって、貧乏なんだ。僕、お金がない生活って分からないから、色々聞かせて?」
「………」
「みずほってすごいよね、頭いいし、運動神経あるし、強いし。それって貧乏だからなの?僕ずっと、みずほと話してみたかったんだあ」
「…………」

なんて無神経さ。
目の前が真っ白になるほどの、傲慢さ。
自分が間違っているなんて、考えもしない、どう言ったら人が傷つくかなんて、分かりもしない。

これがすべてを持っているものの、強さ。
持たざるものの心なんて、理解することができない。

そして、私は心から、感心した。

そうか、これが強さか。
何にも囚われない。
何かに敵意を持ったりもしない。
感情を荒げたりしない。
人の気持ちを考えたりしない。

絶対に揺らされない、強さ。

そういえばこいつがよくいじめられていたのを知っている。
そのたびに彰が暴れて助けていたので、記憶に残っている。

けれど、恨んだりしない。
怒りもしない。
殴られてもたかられても、にこにこと笑っていた。

気の弱い奴だと思っていた。
穏やかなだけで、戦う強さをもたないこいつを、嫌悪していた。
腹がたって、見ているだけでむかついた。

でも、ようやく気付いた。
ああ、そういうことか。
こいつにとっては、そんなこと、きっとどうでもいいことなんだ。
自分以下の人間のすることは、動物にじゃれかかられるようなものなんだ。

それはなんて、強さ。
人好きのする笑顔の下の、どこまでも冷酷な無関心。
自分への絶対の自信。
優しさに見せかけた、周りの人間への見下した視線。

富めるものとは、こういうものなのだ。
すべてを傷つけるわけじゃない。
すべてを敵と思っているわけじゃない。

最初から、彼にとってはすべてが敵ではない。
傷つける必要すら、感じないもの。

私は、その時に直哉に落ちた。
その圧倒的な強さに、憧れた。
何もかもが本当はどうでもいいあいつの、興味を引いてみたい。

だから私は直哉、あなたが欲しい。



***




私が柔らかさを取り戻したのは、直哉のおかげだ。
直哉の言葉で、私は冷静さを取り戻した。
人の優しさや、思いやりに気付けるようになった。
私の世界は、少しだけ温かさを取り戻した。

本当の敵とは、きっと直哉のような人間を言うのだ。
悪意がぶつけられるわけじゃない、笑ったまま、人を傷つける男。
罪悪感など何も持たず、何もかもを切り捨てられる、悪魔のような男。

背筋がゾクゾクするような、傲慢さ。

納得しないように眉をひそめる彰。
直哉が唯一執着するもの。
馬鹿で単純でお人よしで、純粋な男。

私は笑う。

「直哉のすべてが、好きよ」

そう、あいつのすべてを手に入れて見せる。
それがきっと、私の強さの証明。






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