彼女は恋をしました。



***




「あ、見た、今の見た!?」
「………何が」
「あの人今、くしゃみした!」
「……………」
「な、何その冷たい目!?なんか言いたいことあるならいいなさいよ!」
「いい加減にしろ」

私は彼女にもよく分かるように大きくため息をついた。
彼女は背の低い私を見下ろしながら、きゃんきゃんと何かを叫んでいる。
しかし付き合っていられない、この娘の戯言を聞かされ続けてすでに半年になる。
私は女にしては背の高い彼女の額を軽く平手で叩いた。

「うるさい」
「あんたそれでも女なの!?乙女の一途な恋心が分からないの?」
「分からなくて結構。ていうかあんたのは一途っていうか異常」
「ひどい、この人でなし!」
「人でなしはあっちの車両に行くから、1人で頑張って」
「あー、すいませんすいません、ごめんなさい!許して、1人にしないでー!」

本気で見捨てるつもりで私は彼女に背を向ける。
しかし無駄に長い手で、肩をつかまれ引き止められた。
これまた無駄に整った顔を情けなくゆがめて、泣きそうな声ですがりつく。
本当に無駄に外見だけはいい女だ。

「はあ」
「そんなに大きなため息つかないでよー…」
「いい加減、そんな無駄なことやめろ」
「無駄じゃない!無駄じゃないもん!」

無駄な美貌に、無駄な行動。
彼女のすることはいつでもなんでも無駄だらけ。
いらないものを買って、いるものを捨てて、ゴミにしか見えないものをためこんで、しなくていい遠回りをして、道に迷う。

そしてそんな無駄だらけの彼女は、とっても無駄な恋をした。



***




彼女が顔を赤らめて、スカートを翻して駆け寄ってきて言った。

『あのね、私、好きな人できた!』

それは半年前の、朝の教室でのこと。
受験が押し迫る、灰色の秋。
単語帳をめくりつつ、席についていた私はその言葉に顔をあげた。

『は!?』

それはとても意外な言葉だった。
いや、言葉自体はそこで意外ではない。
ただ、その言葉が彼女の口からでることが意外だった。

彼女は背が高く、細く、腕も足ものびきって、ついでに胸もでかい。
一重の切れ長の目をして、きつい印象を与える、けれど整った顔。
見た目は近寄りがたい美人だけれど、話してみると結構気さく。
というよりバカ。
そのギャップがまた愛嬌があり、男からも女からも人気があった。
だから近づいてくる男も後を絶たなかったし、たまには妹志望の女の子もいた。
しかし彼女はそれをすべて断ってきた。
自分にはあまりそういうことに興味がない、と。
どれでも選べるうらやましい立場にいながら、それでも彼女はすべてをはねつけてきた。

『すごい、嬉しいんだけど、困っちゃうな…』
『何それ、モテ自慢?最悪。うせろ』
『ち、ちが!ちがくて!』

そんな会話を何回も重ねた。
だからこそ意外だったのだ。

『あのね、電車の中でね、出会った人なんだどけね!』

こんな風に、いつもおっとりとした彼女が興奮していたことが。

『………出会った?うちの学校?』
『え、学校?』
『何、社会人?』
『あ、ううん、制服着てたから、同じ年ぐらいだと、思う』
『思う?知り合ったんじゃないの?』
『え、う、ううん、違う、その、見かけた、ていうか…』
『それは出会ったとは言わない』

私はため息を付くと、立ったまま私の机に屈んでいた彼女の額を平手で叩いた。
彼女は痛い、と軽く叫んで額を押さえる。
そんな彼女を尻目に、私は単語帳に目を戻した。

『ひどい!何すんの!』
『うるさい、驚かせんな』
『だって、とりあえずあんたに伝えようと思って』
『さっさと学校と名前ぐらい突き止めて来い』
『あ、そ、そっか!学校と名前……、ど、どうしよう』

そして無駄に整った顔を情けなくゆがめて、私を見るのだ。
これもいつものこと。

『知るか』
『た、助けてよ!友達でしょ!』
『誰が?』
『ひ、ひどい!!!』

そう言って、本当に泣きそうな声を出すから、しぶしぶに私は折れる。
彼女を泣かすと、それこそやっかいだから。
しつこくぐじぐじ泣いて、私が周りに責められる。
それは本当に面倒なので、そうなる前になだめなければいけない。

本当に面倒くさい女だ。

『で、どこの電車だって?』

大きなため息をつきながらそう言うと、彼女は顔を輝かせた。



***




そして、半年後。
こうして着々と彼を付けねらう日々が続く。
学校はうちの3駅隣の進学校。
朝は7時39分の電車にのる。
帰りはバラバラだから分からない。
名前は下だけ知っている。
いつか彼の友人が呼んでいたのを偶然聞いたのだ。
私がもう付き合うのも面倒なので、直接聞きに行こうとした全力で止められた。
恥ずかしいそうだ。
ウザイ奴。
それから、こんな風に朝、彼を見ることが、彼女の仕事となった。

「あのさ、これってストーカーって言わない?」
「大丈夫!80年代の少女マンガでは一途な恋って言ってるから」
「………ほんっとに無駄なことが好きだね、あんたは」
「無駄じゃないってば!」
「無駄。超無駄、マジで無駄、バリ無駄メチャ無駄無駄無駄無駄」
「ひどい!!!」

そう言ってまた彼女はきゃんきゃんと叫びだす。
ああ、うるさい。
長身だから、上からかぶさってくるような甲高い声が、耳に障る。

「うるさい」
「なんでそんな邪険にするのよ!」
「こんなのに半年付き合わらせる身にもなれ」

半年間、彼女はただ見つめるだけ。
彼を見て楽しみ、彼が具合が悪そうだと悲しみ、彼に人がぶつかったと怒り、彼が笑ったといって喜ぶ。
ほんっとうに、ウザイ。
私だったらこんな風に観察している人間がいたら、激しく嫌だ。
しかしそれを言っても彼女には通じないことは分かってる。
彼女に行動を促しても、何もしないことも分かっている。
だから私は仕方なく不満を口にしながら、彼女の無駄な行動に付き合うしかない。
本当に、無駄な行動。

「はああああ」
「あ、やだな、感じ悪いな、そのため息」
「いい加減、話しかけるぐらいしてみれば?正直マジウザイよ」
「う、だ、だって…恥ずかしいしさ……」
「本当に無駄だらけな女だね」
「無駄じゃないってば!」

そうして、また彼はいつもの駅で降りる。
その後姿を、彼女は幸せそうに見つめる。
そんな彼女の横顔は、確かに恋をしていて、いつもよりも綺麗に見える。
とてもとても、嬉しそうに、微笑むから。

「声ぐらい、かければいいのに」
「……いいの!」
「無駄な行動」
「無駄じゃないもん」

もう半年間、こんな会話をしている。
朝だけ、しかもたった30分ほど一緒の電車に乗っているというだけで、よくもここまで盛り上がれるものだ。
尊敬すらする。
その想像力と持続力は、確かに褒めてやってもいい。

付き合わされて見ていたが、まあ彼は悪くはない人間だった。
老人や妊婦には進んで席を譲り、この前は乗り換えに困っていた旅行者らしき人にさりげなく駅を教えていたりした。
善良で、穏やかそうな人だ。
私達の世代で、そんな人は珍しい。
やろうと思っても照れてしまって出来ないことを、自然にできる彼は確かにいい男かもしれない。

でも、しゃべったこともない人間に、ここまで盛り上がれる気持ちが分からない。

「もう少しで卒業だよ、最後ぐらい、話しかければ?」
「う、うん……」

そう、後少しで終わり。
私達は卒業し、彼は何年生だか知らないが、とにかく電車で会うことはなくなるだろう。
それこそ、本当にストーカーでもしないとだめだ。

「最後、だよ」

私は念を押すように、もう一度繰り返す。
彼女の無駄な行動も、そろそろ終わりにするべきだ。
しかし彼女はまだ困った顔をして、小柄な私を見下ろしている。
助けを求めるように。
その見慣れた情けない顔を冷たく見つめると、私は更にもう一度繰り返した。

「いいじゃん、最後なんだから、罵られても笑われてももう会うこともない」
「………うん」
「最後、なんだからね」
「うん………」

彼女の消え入りそうな声は、電車の音でかき消された。



***




そして3年の登校日がそろそろ終わろうとする2月の中旬。
私はなんとか志望の私大にもぐりこんだ。
彼女は受験はしなかったので、今日の今日まで楽なもんだ。
本当に金持ちは羨ましい。

「いいの?」
「え」
「もうすぐ終わりだよ。ていうかあっちが3年だったらあっちが先に学校終わるかもよ。そしたらもう会えない」
「………」
「あんたの無駄な行動に付き合ってきたんだから、最後ぐらいはオチをみせてよ」
「無駄じゃないってば!」
「じゃあ最後ぐらいは綺麗に笑わせるなり感動させるなりさせて」
「笑わせるってねえ!」

頬を膨らませてぶちぶちと口の中で何かをつぶやく。
美人は何をやってもかわいらしく見えるから得だ。
まったく本当に無駄な美貌を持っている。

「で、でもさ、このままだったら綺麗な青春の1ページ、みたいな」
「………」
「そ、そんなに睨まないでよ!」
「睨みたくもなる」

彼女は決まり悪そうに眼をそらした。
さすがに私には悪いと思ってくれてはいるらしい。
まあ思ってなかったら殴り倒すが。

「ほら、もうそろそろ彼が下りるよ」
「う、きょ、今日はやめておく」
「それ、昨日も聞いた。一昨日も聞いた。先一昨日も聞いた」
「意地悪ー!!!!」
「ああ、もうやかましい!!!」

そして彼が下りる駅に停車して、電車が大きく揺れる
終点近くて乗客の少ない車内に立っていた私達は、つられてバランスを崩す。
扉が開いて、ぞろぞろと人が消える。
反対側の扉近くにいた彼は、最後にようやく降りていく。
ホームに、扉が閉まることを知らせる軽やかなメロディが流れた。

「ほれ」
「え、いや、あの、今日はその、天気も悪いし」
「いい加減にしろ!」

私は彼女の背中を思い切り蹴りつけた。
彼女は半ば転がるようにして、電車を下りる。
私はその後ろをゆっくりと追った。
私が車内から降りると同時に、扉が閉まる。

彼女は転がり下りると同時に、彼の背中に突っ込んだようだ。
驚いて振り向く彼と、その背中に手をついていた彼女が目を合わせる。

「す、すいませんすいませんすいません!!!!」
「え、あ、別にいいけど」

ぺこぺこと髪を振り乱して何度も頭を下げる彼女に、彼は困ったように小首をかしげた。
私は彼女の後ろにそっと忍び寄ると、その背中を叩いて行動を促す。

「あ、えと、その」
「はい?」

なにやら気迫を感じたのか、彼は律儀に付き合って立ち止まってくれる。
彼女は助けを求めるように振り返るが、私は冷たく睨み返す。
無駄な行動にこれまで散々付き合ってきてやったんだから、最後ぐらいは1人で決めろ。
彼女は泣きそうな顔で、再び前を向いた。

「その、ありがとうございました。では!」
「じゃねえだろ!!!」

ぺこりともう一度謝ると逃げ出そうとした彼女の首根っこをひっつかみ、再び彼の前に引きずり出す。
彼女は更に泣きそうな顔で私を見下ろしながら、ジタバタと逃げ出そうとする。
が、頭をはたいて黙らせた。

「すいません、朝の忙しいところにお時間をとらせてしまって。その、この娘がちょっとお話があって」
「は?」

そういって、私は人気のないホームの彼と彼女を無理矢理引っ張っていく。
彼は人のいいことに黙って付き合ってくれた。
隅につくと、すでに辺りには人が減っていた。
本数の少ない電車では、さっきのものがピークだったらしく、学生の波ももうない。
私は彼女の背中をもう一度叩いた。

「ほら、言え!」
「あ、う………」
「朝は時間がないんだよ、さっさと言え!」
「そ、その」

首根っこをつかまれまま動けない彼女は、青くなったり赤くなったりしていたが、もう一度殴りつけると大人しく覚悟を決めたようだ。
大きく息を吸って、吐いた。
彼をまっすぐに見つめると、口をひらく。

「だ、第2ボタン下さい!」
「それかよ!」
「だ、だって欲しかったんだもん!想い出じゃん!」

80年代90年代少女漫画が大好きなこいつのセンスに任せたのがいけなかった。
が、よくよく考えると別に私が告白まで考える必要はどこにもない。
こいつがそれでいいというなら、それでいいのだろう。
そこまでやきもきする必要は、ない。
言われた相手は驚いたように目を何度か瞬かせていたが。

「あの……」
「あ、変なことに使ったりしません!ただたまに眺めてにやにやするぐらいです!付け回したりもしませんし!私安全なストーカーです!」
「十分キモイっつーの!」
「だ、だって!!」
「いや、あの……」
「あ、やっぱり図々しかったでしょうか!?すいませんすいませんすいません!!!」
「すいません、こいつバカだけど犯罪とかはしないんで!」
「いやそうじゃなくて、俺の制服ボタンないんだけど」
『え!?』

そう言われて、動きを止める私達。
よくよく見直せば、彼の制服はファスナーの学ラン。
ボタンなんて、ない。

「あ……」
「う……」

あまりの恥ずかしさに顔を見合わせて言葉を失う。
そのまま何も考えられず、次の行動を見失ってしまった。
彼は困ったように首をかしげていたが、しばらくして彼女に申し訳なさそうに謝った。

「あー…、えーと、それに、悪いんだけど、俺、彼女いるんだけど」
「あ、そ、それは全然いいんです!なんかこう、勝手にこっちが好きだっただけで!付き合おうとかそんなおこがましいことは!眺めて満足だったというか!想い出が欲しかったと言うか!」

彼女は勢い込んで手を体の前でバタバタと振る。
ものすごい勢いで、風が起こるぐらいだ。

「じゃ、じゃあ彼女に悪いですよね!ほんっと図々しくてごめんなさい!忘れて下さい、ごめんなさい!!」

そう言って、また駆け出そうとする。
私が引き止めるより前に、隣にいた筋ばった手が彼女の腕をとった。

「あ、ちょっと待った、てごめん、掴んじゃって」
「あ、いえいえいえいえいえ」

彼に触れられたせいか、彼に引き止められたせいか、彼女はゆだってしまうぐらいに赤い顔をしていた。
彼はすぐに手を放すと、襟元から何かを取り外して彼女に差し出す。
彼女は思わず手で胸の前に出し、それを受け止めた。

それは鈍い青をした、四角い小さな陶器。

「第2ボタンは無理だけど、校章でいいかな」
「え、え、え、そ、そんな悪いです!」
「まあ、もう卒業でいらなくなるし、後一個あるから、いいよ」
「で、でも彼女さんに申し訳ないというか!!」
「あははは、彼女は校章とかほしがらないしね」
「……え、と、で、でも」
「あー、えーと、迷惑だった?」
「いえ、欲しいです!めっちゃ欲しいです!家宝にします!」
「ぶ、そこまで大げさにしないでも、でもよかった。貰ってくれる?これで貰ってもらえないと、俺かなり間抜けなんだけど」
「は、はい………」

彼女はその言葉でその小さな贈り物を手に握り締めた。
大事そうに、胸に押し付けるようにして、強く握る。
うつむいて、潤んだ目を隠すようにして鼻をすする。
彼はその様子に、ちょっと顔を赤らめて小さく笑った。

「じゃ、大事にしてね」
「はい!絶対します!ありがとうございます!」
「こっちこそ、その、ありがとう。ごめんね」
「いえ、いいんです!本当に、すいません!あ、ありがと、ありがとうございます!」
「じゃあ、俺学校あるから」
「はい、引き止めてすいませんでした。そ、そのお幸せに!」
「あはははは」

彼女の言葉に、彼は大きな声を上げて笑った。
彼は思ったとおりに穏やかで、善良な人。
恋人いるのに他の女にプレゼントするのはどうなんだ、とか中途半端な優しさは残酷だ、とか色々思うことはあるけれど。

彼女に必要なのは、間違いなく、こんな綺麗な想い出だったから。

「いつも、同じ電車だったよね、そういえば。綺麗な子だな、って思ってた」
「う、え、ええええ!?」
「彼女が好きだから、残念だけどね」
「は、はい……」

そういって彼は優しそうに笑った。
そうして、彼はもう一度ありがとう、と告げるとホームから去っていった。
気が付くと周りには誰もいない。
この時間じゃ間違いなく遅刻だろう。
私達も遅刻だ。

残ったのは人気のないホーム。
私と彼女。
そして、彼女の手の中に残った鈍い青をした校章。

冬の寒い風が、コートの上からでも体温を奪っていく。
結局、なんだったのか、この半年は。
あんなちっぽけなものが、残っただけ。

それなのに。

「……ほら、無駄なんかじゃなかった」

ぽつりと彼女がつぶやく。
その言葉に、私は彼女を見上げる。

彼女は、笑っていた。
とても幸せそうに、言葉でなんか形容できないぐらい。
本当に、とてもとても、綺麗に嬉しそうに。

「無駄なんかじゃ、なかったよ」
「……無駄じゃん、結局何にも残らなかった。そんなちっぽけなもんだけ」
「ちっぽけなんかじゃない。私すごい嬉しい。すごい幸せ」
「………」
「私、恋をしたよ。すごいすごい、恋をしたよ。あの人が大好きだった。あの人を見ると嬉しくて、あの人を見ることが出来ないと、哀しかった。あの人が笑うと、私も笑えた。あの人がいてくれただけで、幸せだった」

彼女の言葉が、静まり返ったホームに響く。
こんな時に限って、電車はこない。
こんな無駄な言葉聞くための時間は、私にはもったいない。

「私、恋ができたよ。楽しかった。とてもとても楽しかった」
「…………」
「だから、そんな泣きそうな顔しないでよ」
「………泣いてなんかない」

そう、私は泣いてなんかない。
こんな、最初からどうにもならないような恋をする人間を見て、涙するような優しい心は持ち合わせてない。
こんな意味のない行動をする、無駄な人間のために、痛める心は持っていない。

「優しいね、私が傷つき過ぎないように、ずっと付き合ってくれてた」
「勘違いだ」

この女は、バカなくせにしてこんな時だけ分かったような口を聞く。
人生を悟ったような言葉を吐く。

「ありがとう。私ね、あんたと一緒に最後にこんなことできたのも、すごくすごく、嬉しい」
「こっちは受験期なのにあんたに付き合わされた大迷惑だった」
「あはは、ごめんね」

そう言って朗らかに笑う。
おっとりと、穏やかに、何の影もなく。
そうして、もう一度手の中の宝物を強く握る。

「これで私、なんの未練もなく、お嫁にいけるよ」
「………なんで」
「恋、できたもん。友達と一緒に遊べたもん。だからもう、幸せなお嫁さんになるよ」

なんて無駄な恋。
無駄な行動。

卒業したら、結婚するのが決まっている女の、最後の恋。

「何度も言うけどね、嫌いじゃないんだよ、兄さんのこと。むしろ好き。あっちも私を大事にしてくれようと努力してくれてるし、絶対幸せになれる。幸せな家族に、なれるよ。でもね」

一旦言葉を切って、息を吸う。
空を見上げる彼女に釣られて私も空を見上げる。
冬の澄んだ空気に、空は抜けるように青かった。

「一回でいいから、恋をしてみたかったんだ」
「………」
「言ってなかったけどね、さすがにね、ブルーだったんだ。マリッジブルーって奴?人生の墓場とか言われちゃってるしさ。なんか人生が終わっちゃう気がして、怖くて、イヤだった」

それははじめて聞く、彼女の感情。
彼女はいつでも穏やかに楽しそうに笑っていた。
結婚だって、もう行く場所が決まっていて将来安泰だ、とか受験しなくてラッキーとか、そんなことを言って、決して愚痴なんてこぼさなかった。

「そんな時さ、電車乗ってて、もう、飛び込んじゃおうかな、とか一瞬思ったんだ。危ないよね。危険。でもね、そしたらね、その時横にいたのがあの人だったの」

彼のことを話す彼女は、ウザイくらいに綺麗で、楽しそう。

「あの人、外見ててね、すっごく穏やかそうに目を細めて笑うからね、何かと思ったら、外に虹があったの。それがすっごくすっごく印象的だった。すごい綺麗だった」

恋をしていた彼女は、いつもよりずっとずっと、幸せそう。

「その時、あの人が好きになったの。一緒に並んで虹を見れて、嬉しかったの」

初恋に笑って泣いて、怒って悲しんだ彼女。
無駄な結果になることが分かっていたのに、それをとめることは出来なかった。

だって、そんな彼女を見ているのが、嫌いじゃなかったから。

「いつかね、兄さんと結婚して、子供とか出来たりしたらね、話すのよ。母さん、素敵な恋をしたのよって。これを見ながら。それで兄さんがヤキモチやいて、不機嫌になったりして、それを私と子供で笑うのよ。そんな幸せな家族になるの」

くすくすと、校章を握り締めて笑う彼女が見ていられなくて、私は目をそらす。
しかし急に視界が遮られた。
柔らかなコートに、顔がうずまる。
長い腕が背中に回る。
いい香りにする髪が、顔にかかった。

「だからね、幸せよ。私楽しかった。私恋をしたんだもん。無駄なんかじゃ、ない」

顔は見えない。
無理矢理顔を上げて、見る気にもなれない。
だって、彼女が笑っていることは分かっていたから。

「ありがとう、大好きよ。大好きよ」

だから、この涙は、泣くことのできない、彼女の代わりの涙。



***




そして、彼女は卒業とともに姓をかえた。
一度会わせてもらった彼女の旦那は、真面目で優しそうな人だった。
幸せ上手な彼女も、好き嫌いが多いという旦那にいかに料理を食べさせるかに今は燃えている。
その持ち前の想像力と持続力で、どこでだって彼女は笑っていられる。
きっと、どこでだって幸せになれる。

仲のいい幸せな夫婦は、そのうち仲のいい幸せな家族になるだろう。
家族を増やした後は、もっともっと穏やかな人達になるのだろう。
そして、彼女は子供に素敵で、少し切ない初恋の話をするのだ。
旦那様は、それを聞いて少しヤキモチをやいて不機嫌になる。
それを子供と2人でからかうのだ。

彼女はずっとずっと笑顔を忘れないで生きていくだろう。
小さな恋の想い出を、たまに眺めてにやにやしながら。




でも、私は知っている。
私は忘れない。
彼女があれを手にした時を。
あの笑顔を。



***




彼女は、素敵な恋をしました。