「さよなら」って言えたら、よかったのに。 「今日は、吉岡と約束があるんだ」 私はきっと、がっかりした顔をしただろう。 傷ついた顔をしただろう。 やめようって、思っているのに。 こんな顔をしたら、余計に彼にウザいと思われるだろう。 だからそれを振り切って、笑顔を見せる。 うまくできているか、わからないけれど。 「そっか、分かった」 「じゃ」 そう言って、彼はそっけなく手を振る。 じわじわとした痛みが、静かに胸に広がっていく。 うまく息が、できない。 未練たらしく彼のシャツの背中を見たまま突っ立っていたら、思いがけずそのその背中が振り返る。 虚をつかれて、表情が作れなかった。 彼は私の顔を見て、きゅっと眉間に眉を寄せた。 ああ、また、彼を苦しめた。 「………ごめんな」 私こそ、ごめんね。 さよならって、言えなくて。 彼とは、新歓コンパで知り合った。 たまたま隣の席で、二人ともあんまり大学生飲みのノリについていけなくて隅っこの席でちびちびと飲みながら話していた。 とろうと思っている一般教科が一緒で、音楽の趣味なんかもあった。 騒がしい中に入っていけない残された者同士、ぎこちなくだけど、そこそこ盛り上がって。 その後もなんとなく、顔を見かけたら挨拶して、世間話して、授業では隣の席に座ったりして、共通の話題が増えていった。 お互い、サークルも違うのに入ったし、交友関係もどんどん広がった。 けれど、最初の刷り込みなのだろうか、彼と一緒にいるのはとても落ち着いた。 ひょろりと背の高い彼は、目立たないけれど清潔感があって、実は結構かっこよかった。 私のひいき目かもしれないけれど。 穏やかで物静かだけれど暗くはない。 友達も多くて、一緒に騒ぎまわるってわけじゃないけれど、信頼されている感じだった。 私の知っている同世代の男の中で、一番大人だと感じた。 聞いたところによると、一浪しているらしい。 でも、一浪の人なんて沢山いるし、一つ年上だからって落ち着いているわけじゃない。 だから、彼の大人っぽさが、一つ年上というところから来るわけではないと思う。 彼は私の話をゆっくりと聞いてくれる。 そんな男の子は初めてだった。 どんなばかばかしい話でも、穏やかに微笑んで聞いてくる。 他の友達に話したら、何マジになってるのって笑われそうな、哲学的な話とか、好きな作家の好きな言葉とか。 二人とも寺社仏閣が好きだから、一緒に史跡の多い大学の周りを散歩したりした。 そんな他の友達とだったらできない、じじむさいことをしたりした。 「あのね、近くにすっごいいいお寺があったの!」 「へえ、どんなの?」 アーモンド形をした眼を細めて、テーブルに手をついて小首を傾げる。 これといって特徴のない顔で目立たないけれど、やっぱり整っていると思う。 何よりも、本当に興味深そうに耳を傾けてくれる。 そしてゆったりと余裕をもって話す。 その年に似合わない穏やかな態度が、とても落ちついた。 私は甘えるように安心して、いろいろな話ができる。 愚痴とかもこぼしたりする。 「ほんっとにムカつくんだけど、あいつ!もうサークルやめよっかな」 「まだ入って一か月だろ。あいつ、語学で一緒だけどそんなに悪いやつじゃなかったよ?」 「それは、あんたがあいつのこと知らないからよ!」 「まあな、知らないから、あんまりなんとも言えない。でもサークルやめるほど我慢できないことなのか?」 そんな風に諭されて、ちょっとむっとして口を閉ざす。 一緒に冗談で騒いでほしい時とかは、ちょっと落ち着きすぎて、たまに物足りなくなる時もある。 少々説教臭いところも鼻につく。 「………まあ、もうちょっと様子見てみろよ。他の友達とかは楽しんだろ?」 「うん、それは、まあ」 「本当に我慢できなかったら、愚痴くらいは聞くよ。あんまり愚痴聞くのはうまくないけど」 彼はそう言って苦笑する。 自分が説教くさいことを、わかっているのかもしれない。 でも、彼のゆったりとしたしゃべり方を聞いていると、心が落ち着いてしまう。 ちょっと言い争いしても、うまく引いて私の怒りをいなしてしまう。 彼は優しい。 本当に、優しい。 一緒にいると、私でも優しい気持ちになれる人だった。 そんな風に過ごしていれば、私が彼に特別な好意を抱くようになるのは当然だった。 こんなに穏やかに恋をしたのは初めてだった。 ずっと一緒にいて、ゆっくりと話していたいな、と思えた。 彼とだったら、沈黙も気にならない。 ただ黙って、隣にいられるような人は初めてだった。 今まではただ、そわそわして、落ち着きなくて、どうしたら好かれるか、こんなことを言ったら嫌われるだろうか、とかを考えて、右往左往していた気がする。 相手の話なんて聞こうともしなくて、自分を押し付けるようなことをしていた気がする。 それは確かに、今でもあるけど。 でも、彼の話を聞きたいと思う。 彼が何を考えているか知りたい、と思う。 性急ではない、ゆったりとして、あったかい感情。 寒い冬の日に入る、お風呂みたい。 じわじわと指先まで熱がしみわたっていく、そんな感じだ。 ていうかなんでこんな情緒のない言い方しかできないだろう。 とにかく、私は彼に恋をした。 そして、彼も私のことを好きだと感じていた。 付き合ってと言ったら、OKされると確信すらしていた。 別に私は特別かわいかったり美人だったり性格よかったりしない。 でも、別に見るに堪えないほどじゃないし、年頃の女性らしく身なりには気を使っているつもりだ。 よくもないけど、性格は悪くないと思う。 彼は私と一緒にいることを楽しんでてくれてたし、私以上に近い女性なんていなかった。 だから、彼は絶対、私を受け入れてくれると信じていたのだ。 そして決戦の水曜日、私は彼を外につれだした。 2限が一緒の水曜と金曜は、昼食を一緒にとるのが習慣になっていた。 いつもは学食で済ませることが多いのだが、さりげなさを装って、大学近くのファミレスまで連れ出す。 前の授業がちょっとずれこんだせいで、ファミレスは空いていた。 案内された席の周りをきょろきょろと見回す。 大丈夫だ、知り合いはいない。 一部には私たちは付き合ってると思われていたから、別にいいと言えばいいのだが、それでもやっぱり告白する瞬間を見られたいわけはない。 食事をして世間話をしながら、タイミングを見計らう。 そわそわして上の空で、ミートソースをはねて服を汚してしまった。 なんて幸先が悪い。 「どうかした?」 「え!?」 「なんか、落ち着かないから」 「い、いや、なんでもない!」 あ、馬鹿だ。 なんでもないって言わずに、本題にもってけばよかったのに。 断られないとは思っているけれど、やっぱり落ち着かない。 心臓が波打って、治まる様子をみせない。 はずまない会話をしながら、とうとう食事は終わってしまった。 もう今日はやめておこうかな、なんて弱気な思いがふつふつとわいてくる。 服汚したし、なんか今日は運が悪い気がする。 また金曜日にしようか。 弱気がどんどんと攻めてくる。 他にライバルがいるわけじゃない、いいんじゃないだろうか。 いや、いないのだろうか。 本当にいないのか。 そういえば、彼のサークルのあの女の子、一緒にいるのをよく見る気がする。 あ、政治学で一緒のあの子、結構隣に座ってたりするよな。 今言わないと、先を越されるのではないだろうか。 それはまずい。 でも、なんか今日はあんまりよくない気がするような気がするような。 食事が終わっても言い出せなくて、黙りこくったまま時は過ぎていく。 3限は二人とも授業が入ってないからのんびりできるけど、まだ余裕はあるけど、どうしたものか。 そんな私の様子をどう思ったのか、彼のほうから切り出してきた。 「………なんか、俺に話あるの?」 今思えば、それは少し硬い声だったかもしれない。 でもその時、私はそれに気付けなかった。 ただ、舞い上がってしまった。 もう、逃げられないと、覚悟を決めた。 「あ、あのさ」 声が上擦って、震えた。 とても、みっともない声。 氷の溶けてしまった水の入ったグラスを意味もなく両手で玩びながら、目を閉じる。 彼が静かな声で促す。 「うん」 「そ、その、私たちって、仲いいよね?」 「………うん」 彼の態度なんて、目に入らなかった。 私はただ、次のセリフを考えるのに精いっぱいだった。 「そのね、だから、付き合ったりしても、いいんじゃないかなあ、とか」 言いながら、自分でもダメダメだと思った。 昨日の夜、ちゃんとシミュレートしたのに。 ちゃんと告白してから、好きだから、付き合おうって言って、それで、今度の休日一緒にどこかでかけないかって、言って。 そうだ、思い出してきた。 「じゃ、なくて!」 「あ、ああ?」 いきなり顔をあげた私に驚いたように身を引く彼。 ああ、顔が熱い。 握りしめたグラスが砕けてしまいそうなほど力が入っている。 ありったけの勇気を振り絞る。 「す、好きです」 「…………」 「だから、付き合ってください」 なんで、敬語になってるんだろ。 わけわからない。 でも、最後は、震えずに言えた。 ほっとして、反動で椅子にずるずると沈み込む。 ドキドキとして、怖かった。 手は力が入りすぎて震えていた。 けれど、私はいい答えが返ってくると信じていた。 じゃなきゃ、告白なんてしない。 私は臆病だから、期待がなければ、行動なんてできない。 彼が自分を好きだと信じていなければ、私はきっと黙り込んでいた。 それなのに。 でも、彼は言葉に、詰まった。 眉間に皺を、寄せた。 「………」 何かを言おうとして、口を開こうとして、閉じる。 それを何回か繰り返す。 そして、目をそらす。 いつも微笑んで私を見つめていてくれた優しい目が、逸らされる。 火照っていた顔から、一気に血の気が引いたのがわかった。 指先が、冷たくなっていく。 なんで、なんで、なんで。 どうしてどうしてどうして。 「………あ」 彼は、優しかった。 彼は私に優しかった。 間違いなく私と一緒にいて、楽しかったはずだ。 自然に、二人一緒にいた。 まだ出会ってそんなにたたないのに、なんの気も使わずに一緒にいれた。 どんなことでも話せた。 穏やかに、私の話を聞いてくれた。 手がふれて、ドキドキした。 彼もちょっと顔を赤らめて手をひいた。 中学生の、カップルみたいに。 飲み会の帰り、甘えたようにふざけて肩に頭を乗せたこともある。 そんな試すような仕草も、彼は受け止めてくれた。 「……このままじゃ、ダメかな」 「え………」 「このままで、いられないかな」 「あ、わたし、のこと、好きじゃ、なかった?」 全部全部勘違いだったのだろうか。 なんて恥ずかしいのだろう。 なんてみじめなんだろう。 胸がきゅっと絞られる。 口の中が苦い。 だめだ、涙が、こぼれそうだ。 目を閉じて、うつむく。 「違う、そうじゃない、違う!」 彼が、声を荒げる。 そして、周りを気にしてちょっと視線を巡らせた。 とんとんとテーブルを指でたたく。 彼らしくなく、いらいらとしたような落ち着きのない態度。 私は、失敗してしまったのだろうか。 もしかして、友達としてすら、一緒にいられなくなってしまうのだろうか。 私は大事な人を、失ってしまったのだろうか。 「…………」 「…………」 ついさっきのように沈黙がテーブルを支配する。 でもそれは、さっきよりもずっと重くて暗い、沈黙。 何を言えばいいのだろう。 何か言ったら、すべてが壊れてしまいそうで、怖い。 本当になんてバカなことをしてしまったのだろう。 こんなところで勘違いして、告白なんてしなければ、ずっと友達として、一緒にいれたのに。 さらに続く沈黙。 子供が騒ぐ声が、響く。 水を注ぎにくる店員すら、現れない。 最初に沈黙に耐えきれなかったのは、我慢のきかない私だった。 視線をそらしたままの彼を見られなくて、私も少し視線をそらす。 横目にちらりと、それでも彼がうつる。 「あ…、その……、私のこと、友達としか、思えなかった?」 「…………」 やっぱり彼は答えない。 ただ、とんとんと机をたたくのをやめて、髪をくしゃりとかき回す。 その一つ一つの動作が、私を苦しめる。 だめなら、はっきりダメと言ってほしい。 そうしたら私は立ち上がって、「じゃあ期待させないでよ!」って怒鳴りつけて、平手で叩いて、走り去っていけた。 まあ、本当にはできないだろうけど。 でも、我慢してる涙を、我慢しなくてもよくなる。 泣く権利ぐらい、手に入れられる。 だって。 だって、考えてなかった。 ふられるなんて、考えてなかった。 もっとずっと、仲良くなれると思っていた。 もっともっと近くなって、笑っていられると、思っていたのだ。 なんて浮かれポンチ。 なんて自意識過剰女。 なんて、馬鹿な女。 早く引導を渡してほしい。 もうこんな沈黙はいやだ。 自分が恥ずかしくて、みじめで、情けなくて、泣きそうだ。 何より、さみしくて、悲しい。 せっかく会えた大事な人を、失ってしまうことが、悲しい。 泣く寸前ギリギリに、彼はようやく口を開く。 まだいらだたしげに、髪をくしゃくしゃとかき回していたけど。 「………このままじゃ、いられない?」 「…………」 このまま。 友達のまま、といことだろうか。 ふられたことなんて忘れて、このままいつも通りの日々に戻る。 それは、なんて魅力的。 何もなかったかのように、彼のそばにいて、笑っていられる。 でも、考えるまでもなかった。 そんなの無理だ。 もう彼に笑って話しなんてできない。 笑えない。 なんでも話す、なんてことできない。 隣にいることすら苦しい。 少なくとも、ずっとずっと時間がたたないと、無理だ。 私は首を横にふる。 だって、私は彼が好きなのだから。 「………だよな」 「……………」 彼が深い深い溜息をつく。 ずたずたと心が切り裂かれていく。 彼を困らせている。 彼にウザがられている。 勘違い女が、彼に迷惑をかけている。 恥ずかしくて、逃げ出してしまいたい。 「………俺も、お前のこと、好きだ」 「………え?」 だから、私は彼のいうことが理解できなかった。 だって彼は眉間に皺を寄せたまま。 「………一緒にいられなくなるのは、いやだ」 「………え」 私は再度間抜けな声をあげた。 唐突な話題転換に、ついていけない。 「………付き合おうか」 ため息に乗せるようにひそやかに、彼がそんなことを言った。 でも、やっぱりわからない。 彼が何を言っているのか、理解できない。 私は彼に告白をした。 彼は告白を受けた。 私は彼を好きだと言った。 彼も私を好きだと言った。 私は彼に付き合おうと言った。 彼も私に付き合おうと言った。 要点だけまとめてみるとなんて簡単。 なんて幸せなこと。 それなのに。 なのになんで私たちは浮かれてないの。 なんで彼は辛い顔をしているの。 なんで、私はこんなに悲しいの。 どうして、こんなに胸が痛いの。 「………やっぱり、嫌か?」 私の沈黙をどう受け取ったのか、彼が自嘲気味に笑う。 すでにぬるくなっているだろう水を、一口煽る。 嫌なのは、あなたじゃないの。 同情なんじゃないの。 面倒くさいから、言ってるだけじゃないの。 そう聞こうとして口を開いた。 でも、聞けなかった。 それで肯定されてしまったら、どうしたらいい。 もう、彼とはいられない。 ここで、うなずいたら、いいじゃないか。 そうしたら、彼と一緒にいられる。 彼と一緒にいられないのは、いやだ。 何が、穏やかな恋だ。 何が、優しい気持ちでいられる、だ。 こんなにも苦しい。 こんなにも悲しい。 こんなにも熱い。 こんなにも冷たい。 こんなにも、激しい。 同情でもいい。 流されてるのでもいい。 好きでも何でもなくてもいい。 だって、私は彼が好きなのだから。 あの日からしばらくたって、もう梅雨の時期だ。 あっという間にも感じるし、長かった気もする。 あの日頷いたことを、毎日よかったと安堵する。 そして、私は、毎日後悔する。 彼と一緒に、いられる。 でも、以前のように穏やかな気持ちなんて、なくなってしまった。 毎日苦しくて、嬉しくて、悲しくて、楽しい。 彼はやっぱり、優しい。 彼はやっぱり、私のことは好きでないようだ。 デートをする。 一緒に食事をする。 寄り添って抱きしめる。 とても仲のいい恋人のように。 でも、彼から笑顔が減った。 日に日に私を見て辛い顔をすることが、増えていく。 きっと彼は後悔している。 あの日、私の告白に頷いてしまったことを。 1週間ほどたったあたりから、それがあからさまになった。 約束を、破られた。 一緒に映画に行こうと、言っていた。 前から楽しみにしていた映画で、彼も約束していた時は、乗り気だった。 時間に正確な真面目な彼を待たせないように、20分前にはついてしまった。 わくわくしながら、待つことを楽しんだ。 学校の帰りとかじゃなくて、休日に待ち合わせてでかけるのは初めてだった。 浮き立つ心に、時間が過ぎるのが遅く感じる。 それでも待つことすら楽しくて。 なのに、約束の時間に彼はあらわれなかった。 何かあったんじゃないかと心配になって、不安になった。 メールを送って、電話をして。 彼からメールが入ったのは、約束の時間から15分ほどたってからだった。 サークルの子と出かけることになって、いけないということだった。 そっけないメールだった。 必要最低限の言葉しかなかった。 なんて、冷たい。 付き合う前は、こんなメールはなかった。 もっと、温かい言葉が伝わってきた。 しかも、相手は女だ。 彼と同じサークルの、よく一緒にいるのを見かける女。 楽しみにしていた分、心配していた分、腹がたった。 イライラとして、メールを削除する。 頭が熱くなって、何も考えられない。 悔しくて、腹がたって、涙がにじむ。 なんで私はこんなところに一人で立っているんだろう。 服を選ぶのに二時間かかって、香水をつけて、化粧に気合をいれて。 なんで、こんなみじめな気分になっているのだろう。 絶対殴ってやる。 怒ってやる。 とりあえず文句だけでも言ってやる。 むかむかとしておさまらない心のまま、私はケータイの履歴から彼の名前を探す。 私の着信も発信も、彼の名前で埋まっている。 毎日のように、電話もメールもしている。 付き合うようになってから、ぎこちない関係になった。 前のように、気を使わずに何でも話す、なんてことできなくなった。 いつもどこかに、しこりがあるように、空々しい会話になる。 でも、それでも、もっと一緒にいればなくなると思った。 たとえ彼が私を好きじゃなくても、きっと好きになってくれると思った。 嫌われてないことは、わかっていたから。 昨日だって、夜楽しく話した。 映画を見て、前から気になっていたレストランでちょっと奮発して食事をとろうといった。 「あの人ちょーおーかっこいいよね!」 「お前、映画を見るのか、俳優見に行くのかどっちだよ」 「かっこいい俳優が出てる映画を見に行くの!」 電話口で彼は笑った。 楽しそうに笑った。 息を耳に吹き掛けられているようで、ドキドキした。 昨日は前のように、気軽に話ができた。 だから嬉しくて嬉しくて、調子に乗りすぎて夜半まで話してしまった。 それなのに、なんで、なんでこんな仕打ちをうけているのだろう。 急な予定が入るのはしょうがない。 なんでもっと早く言ってくれなかったの。 なんで女とでかけるの。 なんでもっと優しい言葉をかけてくれないの。 私たちは、付き合ってるんじゃないの。 我慢できなくて、一粒涙がこぼれてしまう。 悔しい悔しい悔しい。 悲しい悲しい悲しい。 彼の電話番号を選択して、発信を押そうとして、指が止まる。 指が震える。 もしかして、昨日調子に乗りすぎたのだろうか。 彼の気に障ってしまったのだろうか。 お情けで一緒にいてもらってるだけなのに、踏み込みすぎただろうか。 ウザがられてしまったのだろうか。 怒りと悲しみには、恐怖に変わっていく。 しつこくしたら、嫌われてしまうだろうか。 一緒にいて、くれなくなるだろうか。 どうしたらいいんだろう。 どうして、彼は私を好きになってくれないんだろう。 なんで、一緒にいてくれるんだろう。 どうして、もう別れよう、気の迷いだった、って言ってくれないんだろう。 こんな風に、態度でしめさなくても、いいのに。 私のほうが、愛想を尽かすのを待ってるのだろうか。 だったら、別れてやる。 彼がそう望むんだったら、別れてやる。 もういい。 こんなことされるくらいなら、もういい。 一緒にいられなくてもいい。 こんな辛くて、悲しい思いをするくらいなら、いらない。 もういらない。 悲しさと怒りと恐怖に心がぐらぐらと揺れながら、家に帰った。 結局電話はできなかった。 一人暮らしの1ルームはせまくて、引き籠るにはちょうどいいけど、誰もいなくて寂しさが倍増した。 服を着替えないまま、ベッドに倒れこむ。 本当はシャワーを浴びないままベッドに潜りこむのはいやなのだけれど、そんなのどうでもよくなった。 自分を温めてくれるものが、ほしかった。 枕に顔をうずめて、我慢するのをやめる。 こらえていた涙が滝のように流れてきた。 悲しいのか。 悔しいのか。 怒っているのか。 もしくは、そのすべてなのか。 自分でも自分の感情が理解できない。 ただ、彼に約束を破られたことが、ショックで心にぽっかり穴が空いていた。 だって、彼は今までこんなことしなかった。 確かにそんなに長い間一緒にいたわけではないけれど、それでもわかっている。 彼は穏やかで大人で優しくて、約束を破ったりしない人だ。 信頼に値する人だ。 たとえ破ってしまうときでも、あんなひどいやり方はしない。 しなかったはずだ。 じゃあ、どうして今そんなことをするのか。 それは、私が彼と、付き合っているからだ。 そんなに、私が嫌だったのだろか。 少しは好きでいてくれたんじゃないだろうか。 だからOKしてくれたのではないのか。 わからない、何もわからない。 どうしてどうしてどうして。 どれだけ泣いていたか分からない。 家のチャイムが鳴った頃には、すっかり家の中まで暗くなっていた。 初夏に近づいたとはいえ、まだ日が落ちるのは早い。 時計を見ると、それほど時間はたっていなかった。 ぼんやりとしていると、もう一度チャイムがなる。 でたくなんてなかったけれど、宅配物だったりすると再配達を頼むのも面倒だ。 私はしぶしぶ起き上がると、インターフォンをとる。 「はい」 泣いたばかりの声はしわがれて、ひどいものだった。 顔もひどいだろう。 宅配のお兄さんも引いてしまうかもしれない。 でももうどうでもいい。 ひくならいひけ。 それで失礼な態度でもとられたら、文句の一つでもいってやる。 八つ当たりしてやる。 そんな刺刺しい気持ちで返事を待っていたら、思いがけない声が返ってきた。 『…あ、俺………』 「え」 それは間違いなく、彼の声だった。 私はあわてて玄関へ走る。 狭い1ルームなのに、玄関までが遠く感じた。 少しでも遅れたら、彼が帰ってしまいそうで、怖かった。 ちゃんと直さなかったインターフォンが、ガチャガチャと音をたてて落ちたのがわかった。 鍵をあけるのももどかしく、ドアを思いきり開け放った。 ドアの前にいた彼が、あわてて身を引くのが少しだけ楽しかった。 「だ、大丈夫か?なんかすごい音が……」 そこまで言いかけて、彼が私を見て言葉を失う。 どうしたのかと問う前に、温かいものが私を包んだ。 彼の顔が見えなくなってしまった。 そのはずだ。 私は彼のシャツに顔を埋めていた。 「………え」 「……ごめん、ごめん、本当にごめん、ごめんな……」 何が起きたのかいまいち理解できないまま、彼が繰り返す言葉をぼんやりと聞く。 どうしたのだろうか、何で、謝っているのだろうか。 なんで謝っているの。 どうして、抱きしめてくれるの。 「本当にごめん、怒っていい、殴っていいい、本当にごめん、ごめん」 「……………」 彼の謝罪は続いている。 殴ろうと思っていた。 思いきり罵ろうと思っていた。 でも、彼の声は本当に辛そうで、苦しそうで、私の怒りなど、溶けてしまう。 もしかして、後悔してくれているのだろうか。 私をまだ、嫌いではないだろうか。 彼が何を考えているかは、わからない。 でも、彼はそれしか言えないように謝罪を繰り返す。 彼の体温はあったかい。 だから、私は怒れない。 温かい体温と、彼のかすかな石鹸と汗のにおいに、ゆるゆると心がほどけていく。 「ごめん、ごめんごめん」 「…………うん、わかった」 だから、そう言ってしまった。 彼は意外そうに声をあげる。 もしかしたら、彼は私が怒って別れを告げることを期待していたのかもしれない。 でも、この暖かい体温を知って、そんなことは、できない。 「……怒らないの?」 「……怒ってるよ。もう、しないでね」 ただ、そうとだけ言った。 他に何も言えない。 何を言ったらいいのか、わからない。 彼はひそやかに、溜息を洩らす。 それが、どんな感情を示しているのかも、わからない。 でも、私はそんなことどうでもよくて、ただ、彼の背中に手をまわす。 「……もう、俺のこと、嫌いになった?」 「…ううん、好きだよ」 「………俺も、好きだ」 苦しそうだった。 でも、やさしい声だった。 私が好きになった、穏やかな声だった。 それは、嘘なのだろうか。 でも、嘘でもいい。 別れるなんてできない。 この優しさを、手放したくない。 あなたが言わないなら、私は自分からは手を放さない。 手を放せない。 そんなこと、できない。 あなたが自分から言わないなら、私は絶対逃がしてなんてあげない。 自分の中の思わぬ女のいやらしい部分に驚く。 そんな自分が嫌になる。 でも、あなただって悪い。 何も言わない、あなたが悪い。 あなたの優しさが好き。 でも、あなたのそんな優しさは嫌い。 けれど、私はその優しさにすがる。 もうしないでね、って言ったのに、彼はたびたび約束を破るようになった。 私の前で、ほかの女と親しげにしてみせるようになった。 でも、私は何も言えなくなってしまう。 言って、嫌われたら怖いから。 彼に、逃げられたくないから。 自分でも情けなかった。 他の女と仲良くするなって、怒鳴りつけてやればいいのに。 それすらできない。 昔は馬鹿にしていたのに、こんな女。 浮気をされる女が馬鹿だ、なんて言っていた。 そんな男とは別れてしまえばいいって思ってた。 私は昔笑っていた、恋愛にすべてをかけるダメな女そのものだ。 こんな風にお情けをかき集めるようにして、彼と付き合っている。 あの日頷いたことを、毎日私は自分をほめる。 そして、私は毎日後悔する。 彼は、私に冷たくした後、必ず私に優しくする。 辛そうに、悲しそうに、私を抱きしめる。 どうして、そんな顔をするの。 そんなに、私と別れたいの。 私とそんなに、一緒にいたくないの。 それでも悪者になりたくなくて、別れをつげないのだろうか。 卑怯で、臆病だ。 そんなあなたが大嫌いだ。 だから、絶対別れてあげない。 私からは何も言ってあげない。 あなたが言いだすまで、私は何も言わない。 あなた苦しそうでも、見て見ぬふりをする。 あなたのサインを気付かないふりをする。 それを見て痛む胸の痛みも、なかったことにする。 私もずるいから。 私も卑怯だから。 私は、あなたが好きだから。 だから「さよなら」なんて言ってあげない。 でもね、毎日思ってる。 「さよなら」って言えたら、よかったのに。 そうしたら、あなたは前のように、笑ってくれるかしら。 毎日、思ってる。 明日は「さよなら」って、言えるかしら。 |