「今帰りました」
「分かってる。危ない」

台所に立っていた私に、後ろから抱きついてくる力強い腕。
昔から変わらない、強い強い、腕。
いつだって心地よくて、安心できる。

「つれない、疲れて帰って来たんだから慰めてー」
「お疲れ、お帰り」

わざと冷たくそう言ってやると、後ろの男は冷たいーと言いながら泣いたふりをしてみせる。
そんないつもと変わらずふざけた様子に、私は思わずふきだしてしまう。

「うーん、真衣の笑った顔を見ると癒されるわー。明日も頑張ろうって気になります」
「安い男」
「健気と言って」

しかめっ面が作ってられない。
頬が緩んで、私は絡み付いてくる腕に手を添えた。
この男はいつだって、温かい。

「お帰り。今日はチキンシチュー」
「うっわ、嬉しい。マジ嬉しい。俺の大好物じゃん」
「近頃、あんた疲れてたから」
「……ありがと、愛してるよ、真衣」
「…………私も」

私がこの男にしてあげられるのは、これくらいしかない。
温かくて、私を守ってくれる、大切な男に。
宏隆がくれる、抱擁も、言葉も、温もりも、私が返せるものは少ない。
だから、せめてこの家が、宏隆にとって心地いい場所であればいい。

そういえば、あいつはビーフシチューのほうが好きだった。
あの頃は、私が料理を作ることなんてなかったけれど。
私は貰うだけだった。
私は奪うだけだった。
何かを返したいと、思ったことはなかった。

「………」
「…真衣さん?また考えてるでしょ」
「あ……」

少しの間の沈黙で、この聡い男は気付いてしまう。
私が誰のことを考えているか、分かってしまう。
今更取り付くうことなんて無意味だから、私はいいわけはしない。
隠し通せるわけがない。
何もかもを曝け出して、そして受け止めてもらった。

宏隆につける、嘘なんてない。

「……まだ辛い?」

いたわるような、柔らかい声。
心からの気遣いが、そこにはある。

激しさはない。
熱もない。
性急さもない。

ただ、穏やかに何もかもを受け止めて、この男はここにいる。

「たまに、苦しくなる」

もっと激しい熱を知っている。
私を捕える腕を知っている。
何もかもが考えられなくなるような、そんな苦しさを知っている。

たまにあの熱が懐かしくなる。
けれど、どうしても慣れることができなかった。
受け止めることができなかった。

怖くて、苦しくて、逃げ出した。
あの腕から、逃げ出して、この男にすがった。
哀しいあいつを見捨てて逃げた。

「こんなんで、いいの?」
「何が?」
「私はいまだに、壊れてるよ」
「全然、俺もたぶん壊れてるしね。皆そんなもんじゃないの?」

気負うこともなく、なんでもないようにそう答える男。
相変わらずの、どこか突き放すような客観的な言葉。
冷たくも聞こえるけど、この男のこんな率直な言葉はすんなりと心に落ちる。

「あいつに憎まれてると思うとね、すっごい気持ちいいんだ」
「………」
「俺は、きっと真衣に激しく愛されることないだろうね。執着されることも。でも、俺も君を何もかもを投げ出すほど愛することはできない」
「………うん、知ってる」

知っている。
宏隆はすべてを受け入れて、許せる人。
だから、激しい感情を持ったりはしない。
いつでも穏やかで、感情の波が、少ない。
私もこの男が愛おしいけれど、あいつに対してみたいな感情を持つことはできない。

「だからね、嬉しいんだ。殺したいほど俺のこと憎んでる奴がいる。すっごいゾクゾクするね。どんな感情でも、それだけ俺に執着してくれる奴がいる。それってすっごい気持ちいいね」
「ドMだね」
「俺もそう思う、ほら、俺も壊れてる」
「うん、似てるね、私たち」

そういって笑うと、絡み付いていた男もふっと吐き出すように笑った。
湿った息が耳にかかって、ゾクリと背筋が震えた。

「でもね、私、あんたが、好きだよ」
「俺もだよ。愛してる、真衣が好きだよ」

居心地のいい空間。
愛おしい、力強い腕の男。
お互いをいたわりあって、許しあって、曝け出して。
そして、騙し続ける。

私たちは間にあいつを挟みながら、ずっとお互いを愛し続けていくだろう。

それが私たちが、望んだこと。






もしくはこんな…


TOP