母の部屋で本を漁っていた時だった。 ふざけ半分で開いた、分厚い、もう何年も開いていないと思われる家庭の医学と書かれていた本から紙きれが一枚落ちてきた。 「………守?」 もうだいぶ茶ばんで汚くなった紙。 掠れた文字で、守という名前らしきものと住所が書いてあった。 中学生の頃、修学旅行でいったきりの地域だ。 そしてもう一枚、同じページに挟んであったと思われる紙きれ。 それは、先ほどのものよりは新しくもっとしっかりとした紙だった。 開いてみるとそれは母の名前が中心に、私の名前や兄の名前や父の名前が書いてある。 「えっと、戸籍、かな」 始めて見るものだったが、戸籍謄本と呼ばれるものかもしれない。 そこには私のよく知る人達の名前と共に、知らない人の名前が一つ記載されていた。 「………守?………養子?」 初めて見る名前。 それは母の実子と、なっていた。 その家は、閑静な住宅街にぽつりと建っていた。 周りの家と比べて大分古ぼけていて、今にも壊れそうなほどにも見える。 「ここ、なのかな」 煤けた塀には不釣り合いに立派な「池」と書かれた表札と、綺麗なチャイムが設置されていた。 名前は、私のものとは違う。 でも養子に出されたってことは、苗字が違うのだろうか。 それとももう引っ越してしまったのだろうか。 本当にここに住んでいるのだろうか。 分からない。 でもせっかくここまで来たのだ。 それなら当たって砕けろだ。 いないならいないで、仕方ない。 「えい!」 思い切ってチャイムを鳴らすと、インターフォンから男性の声が聞こえてきた。 『はい。どちら様ですか』 「あ、あの、こちらに、えっと、守さん?って、いらっしゃいますか」 『セールスでしたらお断りですが』 「あ、いえ、あの、私、黒幡、愛って言って」 『………』 インターフォンの向こう側が無言になって、不安になる。 やっぱり引っ越しているのだろうか。 いや、でも守って言って、否定はされなかったし。 『少々お待ちください』 ごめんなさいって謝って逃げようかと思ったその瞬間に、インターフォンの人はそう言って通話を切った。 てことはやっぱりいるのだろうか。 心臓がバクバクしてきた。 「お待たせしました」 そう言って、ボロっちい家に不釣り合いな立派な重そうな両開きのドアが開き中から人が出てきた。 男性にしては少しだけの高めの声、背が結構高い二十代半ばほどに見える細い男性だ。 飾り気のないジーンズとシャツを着ていて、真っ黒な少し長めの髪。 目は大きくないけれど、黒目が大きくて人形のようだ。 「あなたが、守、さん?」 「そう、池、守です」 穏やかな口調で話す人は、穏やかに笑った。 顔は、お母さんの若い頃の写真に少しだけ似ているかもしれない。 やっぱり、この人がそうなのだ。 「あ、あの、私、黒幡愛って言います!その………」 「うん。分かった。とりあえず上がって」 とりあえずと言われて、家の中にあげられた。 古びてボロボロの家だが、中はところどころリフォームをしているらしい。 通された居間は小ざっぱりとした畳敷きで清潔だった。 お茶を淹れてくれた守さんは、私の顔を見てマジマジと見る。 「そう、君が愛………ちゃんか。大きくなったね」 懐かしそうに目を細める守さんは、とても優しげだ。 お兄ちゃんと比べると随分細くて、なんだか儚くて弱そうな感じの人だ。 「あ、あの、私たち、会ったこと、あるんですか?」 「うん。君が本当に小さい頃に」 そう、なのか。 全然記憶にない。 「す、すいません」 「ううん。本当に小さかったから。家族には、言って来てないよね?勿論」 「えっと、内緒で来ちゃいました」 「そう。今、いくつだっけ」 「高校、2年生です」 内緒で来たってことに怒られるかと思ったが、守さんはふうっとため息をついた。 「本当に大きくなったなあ。俺も年取る訳だ」 「今、何歳なんですか?」 「32歳。君のお兄さんと同じ年だよ」 「ええ!」 「見えない?」 「若いです」 ありがとうと言って守さんは笑う。 帰ったらあの戸籍をしっかり見てみよう。 お兄ちゃんも若く見えるが、この人はそれ以上に若く見える。 あれ、お兄ちゃんと同じ年ってことは、この人はお兄ちゃんを知ってるのか。 「お兄ちゃんとも知り合いなんです、よね。やっぱり」 「うん、知り合いだね。もう随分会ってないけど」 笑って頷く守さんは、やっぱり少しお母さんに似ている。 間違いなく、この人が私のもう一人のお兄ちゃんなのだろう。 和樹お兄ちゃんと私が半分しか血が繋がっていないって言うのは聞いていた。 この人もお母さんの子供ってことは、私と半分血が繋がっているのか。 お母さんの別れた旦那さんに引き取られた、とかなのだろうか。 なぜ、うちの家族と知り合いだったのだろう。 あんな風に隠してあったし、誰も何も言ってないってことは、なんだか隠されたいる雰囲気を感じた。 だから誰にも聞かなかったのだが、どういう事情があるのか聞きたくてうずうずする。 もしかしたら守さんにも拒絶されるかと思ったが、守さんは随分友好的だ。 私を妹だと思ってくれてるのだろうか。 そうだと嬉しい。 「家族の皆さんは元気?」 「はい、元気ですよ。お父さんはここ最近で大分太っちゃって、血圧上がって、今お母さんとダイエット中だけど。お母さん私にまでお菓子禁止するから大変」 へえと言って守さんは懐かしそうに目を細める。 なんだかとてもとても懐かしそうな顔をするから、胸がきゅうっと痛くなった。 なぜか、哀しくて、切ない、不思議な気持ちになる。 「あ、そうだ。愛ちゃんは、甘いものは好き?」 お父さんとかとは付き合いがあったのかと聞こうとすると、唐突に守さんは話を変えた。 「え、はい。好きです」 「アレルギーとかはある?」 「いいえ?」 「そう。ちょっと待っててね」 そう言うと暖簾をくぐって台所に入って、しばらくして戻ってきたその手にはケーキが乗った皿があった。 テーブルに置いて、小皿とフォークを用意する。 「これ、食べる?」 「わあ、シフォンケーキ!美味しそう!」 ふわふわのスポンジは、横には生クリームとジャムも添えられていてとてもおいしそうだった。 私が飛び上がって喜ぶと、守さんは嬉しそうにくすくすと笑った。 「よかったら食べて。うちの人だけじゃ食べきれないから」 「はい!」 「フォンダンショコラや、にんじんのケーキじゃないんだけどね」 「へ?」 「ううん、こっちの話」 待ち切れずにフォークを突き刺して口に運ぶと、ふわりと紅茶の香りが広がった。 甘さ控えめだがオレンジのジャムと生クリームとの相性もよくて、とてもおいしい。 ぱくぱくとがっついていると、守さんがじっと私の顔を見ていた。 途端に恥ずかしくなって、口元を手で拭う。 「あ、ご、ごめんなさい」 「美味しい?」 「はい、美味しいです!」 「よかった。シフォンケーキはあまり得意じゃないから心配だったんだ」 「へ、これ、えっと、あなたが作ったんですか?」 「うん」 「う、わああ」 お店で買ったと言われても納得できるような出来栄えのケーキだ。 私もお菓子作りをするが、こんなにうまくスポンジが膨らんだことがない。 いっつもお母さんが苦笑いで、お父さんとお兄ちゃんが顔をしかめながら食べるのだ。 「お兄ちゃんに見習わせたい!あの人、全然料理とか出来ないの。それなのに私にばっかり手伝えって」 「へえ。お兄さんは元気?」 「元気ですよ。もう、元気すぎ。ちょっと出かける時でもうるさいし!今回も誰と行くんだ、どこへ行くんだ。彼氏だったら承知しないとか、もう、お父さんよりうるさい!」 年の離れた兄は、なんだかお父さんよりもお父さんらしい。 スカートが短いだの、帰ってくるのが遅いだの、彼氏が出来たら連れてこいだの、もう家を出てると言うのにいまだに妹に過干渉だ。 お父さんは私にひたすら甘甘だから、その分厳しくするのだと言って聞かない。 もう、うざったいったらない。 「ふーん、和樹がね」 守さんは楽しそうに私の愚痴を聞いて笑う。 お兄ちゃんと守さんは、親しかったのだろうか。 年も同じだということだし。 でも、それなら名前を聞いてもいいだろう。 「あれ、そういえば、ここまでって結構遠いよね。今時の高校生って、簡単に旅行とか出来るの?」 最初に聞かれると思っていた質問をようやく聞かれた。 どこかふわふわとした人は、少しだけずれているらしい。 私はつい苦笑いしてしまう。 「友達と、ライブに来るって行って来たんです。今友達二人はライブに行ってて、私は別行動」 「ああ、なるほど。そう。でもあまりご家族に心配かけないようにね」 「はあい」 一応常識的なことを言うが、どうやら怒られることはなさそうだ。 本当はライブもとても見たかったのだが、まだ見ぬ兄という響きに惹かれてつい飛び出してしまった。 これを逃したら、次はいつチャンスがあるか分からない。 友達との旅行というのも、ものすごい反対されたのだ。 だから、絶対にきたかった。 会ってみたかった。 あの時戸籍を見てから、ずっと知りたかった、この人のことを。 「あ、あの、で、あの、その、守さん?」 「うん」 「守さんって、私の、お兄さん、なんです、よね?」 母の子供と言うことは、私の兄と言うことだ。 それは間違いない。 でもなぜこの人は養子に出されているのだろう。 もしかしたら本人は自分のことを養子だと知らないかもしれないし、私のことを妹と知らないかもしれないとも思った。 その場合は一目惚れしたから話してみたかったとかなんとか言って、逃げようかと思っていた。 でもこの人は、家族のことも、私のことも知っている。 てことは、私が妹だってことは知っているはずだ。 お兄ちゃんはもうすでに一人いるけれど、離れ離れの兄妹っていうのも、なんだかドラマみたいで素敵だ。 守さんは、少し考えるように首を傾げる。 「俺の存在って何で知ったの?」 「えっと、お母さんの部屋に、戸籍と、ここの住所があって」 「へえ。それだけでここまで来ちゃったの。すごい行動力だね」 「いや、だって、もう一人お兄ちゃんがいるなら、会って、みたいなって」 「そう」 守さんは、少し困ったように笑う。 それから、穏やかに笑いながらけれどきっぱりと言った。 「でも、ごめんね。俺は君のお兄さんじゃないよ」 「え!」 「君とは全くの赤の他人」 「え、だって」 急に冷たく否定されて、私は全身の血の気がひいていく。 だって、兄妹ってことは確かなのだ。 私が嬉しいように、喜んでくれると思ったのだ。 けれど守さんは、前言は撤回してくれず、困ったように笑うだけ。 「うん。まあ、確かに血は繋がってるね。ただ、俺は黒幡の家の人を家族だとは一切思ってないんだ。ごめんね」 「………」 その言葉は穏やかで優しいけれど、完璧な拒絶が含まれていた。 優しげな人に突然感じた壁に、私は何を言ったらいいか分からない。 「戸籍、養子になってた?」 「あ、はい」 「そう。それなら、その通り。もう随分前に苗字も変わったしね。俺はもう、黒幡の家に関わり合うつもりもないんだ」 私は、泣きそうだった。 この穏やかな人が、私の家族を否定する。 それが、悔しいのか哀しいのか、なんだか分からないが、泣きそうだった。 「………」 「ごめんね」 何か、あったのだ。 よく考えれば、分かるはずだ。 父も母も兄も、何も言わなかった。 この人の存在のことは一切話に上がらなかった。 それなら、何かあったと、分かるはずだ。 けれど守さんは穏やかに笑う。 「でも、君に会えて嬉しかったよ、愛ちゃん。君がケーキを食べてくれて嬉しかった」 「………まも、るさん」 「帰っても、家では俺の名前は絶対に出さないようにね。トラブルの元だから」 「………何が、あったんですか」 「君は家族が大事?大好き?」 「えっと………、はい、好きです」 この年になって家族を好きだというのは、恥ずかしいものがある。 けれど真面目に聞いてくる守さんには、真面目に答えなきゃと思った。 太っていて禿げてきたけどそれでも私に甘くて頼もしいお父さん。 口うるさくて厳しいけど、優しくて相談にも全部乗ってくれるお母さん。 過保護で過干渉で鬱陶しいけど、お小遣いくれて遊びにつれていってくれる、頭が良くてかっこいい自慢のお兄ちゃん。 私は、家族が好きだ。 「小さい頃の君も、そう言っていたよ。今も君がそう言っていて、よかった。家族を大事にしてね」 「………」 守さんは、とても穏やかに負の感情なんて一切見せずに笑う。 何かあったのだろう。 でも、何があったかを、言う気はないのだろう。 それからしばらく他愛のない話をして、私は暗くなる前にホテルに帰ることになった。 玄関先で、駅まで送る、いや結構ですというやりとりをしばらく繰り広げてしまったが。 周りを見て帰りたいと言うと、それならと言って、ケーキとタクシー代にはやや高すぎるお金を貰ってしまったが。 ケーキを食べてくれたお礼と言われたが、お礼を言うのはこっちの方だ。 「もう、ここには来ないようにね。後、俺のことは絶対に家族には言わないように」 「………もう、来ちゃ駄目なんですか」 「うん、駄目」 優しく穏やかに、けれどきっぱり守さんは言った。 優しい家族、優しい守さん。 けれど、この二つは、交わることはないのだ。 どうしてなのだろう。 でも、聞くことも出来ない。 家族も守さんも、教えてもくれないだろう。 私がもっと大人になったら、聞くことが出来るのだろうか。 「あ」 その時、守さんは私の後ろを見て声をあげた。 私はつられて後ろを振り返る。 「何、人のいない間に女連れ込んでんだ」 「あんたじゃあるまいし。客ですよ」 低くよく通る、耳に心地いい映画の吹き替えの人のような声。 私の後ろにいたのは、背の高い守さんよりも、更に高い大きな人。 顔は私の好みではないが、とても男っぽい格好いい人だった。 「お帰りなさい、峰矢」 「ただいま」 守さんは門から一歩出ると、ごく自然に大きな人にキスをした。 大きな人も守さんの腰を抱いて、キスを返す。 「………」 あれ、えっと。 「結構早かったですね」 「二週間後にはまた出る」 「忙しいですね。寂しいです」 「体が?」 「心がですね。適度な禁欲は夫婦生活には必要です」 えっと。 あれ、この人達、男同士だよね。 あれ。 「おい、固まってるぞ、この女」 「ああ、本当だ。愛ちゃん、愛ちゃん、大丈夫?」 「愛?どっかで聞いたことあんな」 「黒幡愛ちゃんですよ」 「ああ」 大きな人が私を見て、にやりと笑う。 その顔を見て、なぜかとても怖くなった。 くるりと後ろを振り向いて逃げ出したくなる。 「へえ、あのチビか」 「大きくなりましたよね」 そこでようやく、なんとか口と体を動かすことが出来た。 大きな人から逃げるように、守さんの背中に隠れる。 「あ、あの、守さん、この人は」 「ああ、池峰矢」 「池って」 「そう、俺の家族」 私が表札に目を向けたのが分かったのか、守さんは一つ頷いた。 えっと、守さんは今、池守って言う。 えっと、それでこの人は家族。 あ、お父さん、とか。 いや、ないだろう。 兄弟? 「えっと、あの」 「ま、深く考えなくていいと思うよ。さっさと帰って忘れちゃいなさい」 「は、はあ」 その方がよさそうだ。 私には理解できなさそうだ。 「それじゃ、俺も夕メシ作るから、暗くならない内に帰りなさい」 「………もう、会えないんですか?」 「そうだね。君が大人になってから、友達としてならありかもしれないね」 「今は、駄目なんですか?」 「高校生の友達なんて、他人から見たら犯罪者だし」 真顔で冗談を言う守さんに、つい笑ってしまった。 「………分かりました」 「うん。それじゃあ、元気でね。会えてよかった」 「………はい」 私は手を振って、その場を離れる。 とてもとても寂しかった。 歓迎してもらえると思っていた。 妹だといって泣いて抱きしめてくれるんじゃないかとも思っていた。 でも現実はそんなに甘くないらしい。 「もう来んな」 「小さい子苛めないでください。それじゃあね」 「はい、じゃあ大人になったらまた来ます」 大きく手をふって、日が暮れかけた街を駆けだす。 初めて会った血が繋がっているけど家族じゃない人は、ケーキが作れて変な家族がいて、ふわふわした不思議な、けれど優しい穏やか人だった。 |