「いた……」

冬子(とうこ)はひねった足に鋭い痛みを感じてもう一度その場にしゃがみこんだ。
急に飛び出してきた猫に驚き、転んだのだ。
右足はみるみる内に腫れて、細い足首が醜くゆがんでいる。

ついてない。
せっかく迎えが来ていないのに。
街を歩けるいい機会だったのに。
これでは車を呼ぶしかないだろう。

自分の情けなさにため息が出た。
今日は冬子の祖母の祝い事があり、運転手が全員出払っていた。
渡りに船と、1人で下校することにしたのだった。
密かにしてみたいことが沢山あった。
帰りにアイスを食べたり、服を見てみたり。
同じクラスの女の子がやるようなことを、やってみたかった。

家と、自身のプライドの高さから、一緒に遊ぶような友達はいなかったが。



*



キキ、と何か軋んだ音がした。
夕日に照らされ、座り込んだ冬子に影がさした。
「お前何してんの?」
そちらを向くと、自転車にのった長身の男。
同じクラスの春日だった。
目立つ男だった。いつでも多くの人に囲まれ、笑っている。
見目は悪くないが、その乱暴な所作がそれを台無しにしていた。
下品で、粗野で、女好きで、いつでも女子に声をかけていた。
冬子の嫌いなタイプの男。
いつでも話せば衝突していた。
「なんでもないわ」
一瞥した後、また視線を下に戻す。
「なんでもないって…、そんなところに座り込んで?」
「ええ、なんでもないわ。貴方には関係ない」
にべもなく切り捨てる冬子。
対して春日は自転車のハンドルに体を預け、空を向く。
立ち去る気配はない。
「さっさと行ったら?」
「なあ」
「何?」
苛立ちを含ませる声。さっさと立ち去れという気配を全身から漂わせた。
こんな情けない姿を誰にも見せたくなかった。
特に、こんな男に。
「パンツ見えてる」
「なっ」
とっさに足を正し、スカートを直す。
足を直した際に、ひねった足を変に動かしてしまった。
「つっ……」
声をあげるのは抑えたが、うめき声が出てしまった。
足首をそっとさする。
それが見えたのか、乗り出してくる春日。
「何?足ひねったの?」
「うるさいわね!貴方には関係ないっていってるでしょう!さっさと行って!」
思わず怒鳴ってしまう。
こちらの感情に気づかない、目の前の無神経な男が腹だたしかった。
「ドジだなー」
荒げた声にものんびりと返す飄々とした男。
「……っ!」
目の前が真っ赤になる。
こんな弱みを人に見せるなんて!

ガチャン。
その音に顔を上げると、春日が自転車のスタンドをたてた所だった。
冬子に近づき、手を差し伸べる。
「送ってやるよ。ほら」
その手を見つめ、一瞬呆気に取られた。
しかしその後、唇をかみしめ顔をそらす。
「結構よ!」
取り付くしまもなく断られた春日は、それでも手を差し伸べる。
「そんなこと言ったってお前、その足でどうするんだよ」
「迎えを呼ぶわ!貴方になんか送られたくない!」
言ってしまった瞬間、少々後悔した。
後ろの一言は、必要なかった。失礼だったと思う。
けれど口から出てしまった言葉はもう戻せない。
そっぽを向いたまま、目を伏せた。
沈黙が落ちる。
しばらくして、大きなため息が聞こえた。
「へーへー、わかりました。じゃな」
冬子にかかっていた影が、なくなる。
急に夕日が眩しく感じた。
自転車が遠ざかっていく音がした。

一つ、息をついた。
自分でしてしまったことなのに、わずかな罪悪感が胸を覆う。
いつでもこうだった。
自分の意地で人を遠ざけてしまう。
けれど、春日だって親切ごかしてあんな風に言ったけど、もしあの誘いに乗ったら明日は学校で何を言われるか分からない。クラス中に笑われるかもしれない。あんなお高く止まってて実は結構ひょいひょいついてくるんだぜ、とかなんとか。
それくらいなら、今までどおり嫌われて陰口を叩かれる方がマシだ。
馬鹿にされるよりは。

もう一度息をつくと、鞄の中身を探る。
迎えを呼ぶために、携帯を探すが、見当たらない。
少々焦って、鞄をひっくり返す勢いであさるが、やはり見当たらない。
どうやら、忘れたようだ。
悪いことは、重なる。
無性に悔しくなって、鞄を地面に叩き付けた。
ペンケースが飛び出し、ペンが散らばる。
それでまた、情けなくなった。
唇を噛んで、親の敵のようにペンを見つめる。
しばらくして、そうしていても何もならないことに気づく。
ぱんと、両手で頬を叩いた。

しょうがない。少しづつでも歩こう。
電話があったら、そこで呼べばいいし。

散らばった荷物を一つ一つ片付け、鞄にしまう。
気合をいれると、おそるおそる立ち上がった。
つきん、とやはり痛みが走った。
眉をしかめるが、唇を強くかみしめてやり過ごす。

こんなことぐらい耐えられる。

そうしてゆっくりと歩き始めた。
歩みは遅い。
痛みの走る右足を庇うため、左足に重心がかかる。
歩き方はぎこちなく、疲れがひどかった。



*



10分たって、ほとんど進まない。
苛立ちが強くなる。
私の帰り道は、なんだって坂道なのだろう!

キキ、どこかで聞いた音がした。
今度は前方から影が差す。
いつのまにか下を向いて歩いていた冬子はゆっくりと顔を上げた。
そこには古びた自転車に乗った春日の姿があった。
どこか、呆れた顔をしている。
「何してんの」
さっきと同じ言葉。
一瞬呆けていた冬子は、顔に一瞬にして朱がさす。
「なんでもないわ!」
そうしてまたそっぽを向く。
「迎えを呼ぶんじゃなかったの」
「……っ!あなたには関係のないことでしょう!どうしてさっきから!」
春日はハンドルに体をもたらせかけ、困った表情で頭をわしわしとかく。
「どうしてって言われてもなあ…。そんな足引きずって苦しそうに歩いている女、放っておくわけにもいかねーだろ」
「ずっと見てたの!?」
「ずっと、て言うか、気になって帰ってきたら坂道で捕まってるし」
そう言って片眉を上げ、少し笑う。
血が出そうになるほど唇をかみ締めた。
顔が羞恥でますます紅くなる。
本当に人の心が分からない男だ。
なぜ見て見ぬふりをしてくれないのだろう。
「気が済んだでしょう。さっさと帰ってちょうだい」
「気が済むって?」
「私の情けない姿を見て、楽しんだでしょう。だったら早くいなくなって!」
呆気にとられたような顔をする春日。
白々しい、いつもいつも人につっかかって馬鹿にしているくせに。
春日が大きくため息をついた。
踵を返し、自転車のハンドルを元来た道の方に向ける。
その様子に、冬子は胸をなでおろした。

これで、いい。

しかし、春日は自転車を後ろにむけてスタンドを立てた。
「春日君?」
思わず声をかけてしまう。
春日は無言ですたすたとこちらに来る。
その動きに冬子が反応する暇もなく、左足に重心をかけて辛うじて立っていた腰を掴み、抱えあげる。
「ちょ、ちょっと!離してよ!」
「暴れんなよ、落とすぞ。お前結構重いし」
「な、失礼ね!」
「はいはい!」
抱えあげられたまま背中を叩いて抗議する冬子に、話半分に対応する春日。
そのまま自転車の後部座席に座らせてしまう。
素早くスタンドをはずすと、自分は運転席に乗る。
「降りるわよ!」
横のりしていたので、すぐに降りようとする。
が、その前に自転車が走りだしてしまった。
二人乗りでバランスが崩れ、大きく揺れた。
「あっ」
思わず前の背中を掴んでしまう。
笑う気配がした。
「ちゃんと掴まってろよ。危ないからな」
「………」

降りてしまえばいいのかもしれなかった。
春日の運転は意外に丁寧で、揺れが少ない。スピードも緩やかだ。
冬子は横のりになっていたし、降りようと思えば降りられるかもしれない。
けれど、正直怖かった。
冬子は二人乗りなんか初めてだった。
というかそれ以上に自転車に乗ったのが初めてだった。
ひねった足で、慣れない自転車から飛び降りたらどうなってしまうか分からない。
悔しくて、恥ずかしくて何も言えなくなった。

「お前さあ」
「………」
しばらく無言で走ってから、春日がのんびりと声をかけた。
「ケガした時ぐらい、人に頼ってもいいと思うけど」
「………」
「1人でなんでもしようとするのもいいけどさ、こんな時ぐらいはいいじゃん」
「なんで」
「ん?」
「なんで私に構うの?」
自転車を運転しながら、肩をすくめる。
「言ったじゃん。怪我人は放っておけないって」
「人がいいこと」
冬子は鼻で笑った。
せめてもの、意地だった。
馬鹿にするならすればいい。嫌うなら嫌えばいい。
「だーかーらーそんなにツンケンすんなって。ほんっとお前性格ねじまがってんなー」
「そう思うなら放っておけばいいじゃない。わざわざ嫌いな人間なんて構うことないわよ」
出来るだけ嫌味ったらしく聞こえるように言った。
「は?俺別にお前のこと嫌いじゃないよ?」
けれど思ってもみない返事に、冬子は驚いて言葉を失う。
「確かにお前、ツンケンしてるし、捻じ曲がってるし、意地っ張りだし、時々マジ本気でむかつくけど」
「悪かったわね」
むっとして言い返す。そんなことは自分でも分かってる。
春日は聞き流し、先を続ける。
「責任感あるし、なんていうか、いい意味でプライド高いよな。そういうとこ、結構俺好き」
「な……、馬鹿にしているの!?」
好き、という言葉に思った以上に衝撃を受けた。声が震える。
「だからなんでそう、悪い方にとるんだよ。この前クラスで雑用任された時にさ、皆さっさと帰っちゃったのに、お前最後まで残って作業してたよね。結局俺とお前だけになっちゃってさ。その時正直見直した。」
そうだった。春日と冬子が何かと衝突するようになったのもその時からだった。
それまではお互い口もきかない仲だった。
そういえば、冬子に本音で話しかけてくれる人間は彼だけだったかもしれない。
「そんなの、当たり前のことでしょう」
「うん、当たり前。でも、当たり前のことって結構難しいよ」
春日は前を向いたままだ。表情は見えない。
見えないことが、今の冬子にはありがたかった。
そのまま、また2人無言でしばらく走る。
「変な人」
「はは、お前もな」
夕焼けの中、狭い道を走りながら春日が体をゆすって笑った。
自転車が少し揺れた。
冬子の中の苛立ちが、不思議になくなっていた。
穏やかな、凪いだ気持ちになる。
少しだけ勇気を出して、口を開いた。

「ありがとう」

小さな小さな声は、突風にかき消された。
「え?何?」
冬子は言い直さなかった。
その代わりに、背中を掴む手に少し力を入れた。
少し肌寒い風が、心地よかった。






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