「乗れた………」

黒髪を結い上げた少女は、震えて小さい、けれど抑えきれない興奮を含んだ声を漏らした。
「乗れたわ!」
今度はその興奮を顔いっぱいに表し、少女、冬子は自転車に跨ったまま後ろを振り返った。
学校指定のジャージとTシャツで身に包み、少し汗ばみ顔を赤くしている。
けれど上気しているのは、決して疲れからだけではない。
振り返った先には、冬子にとって大切な人間が2人。
距離は約10Mほど。
それが、冬子の辿った道筋だ。
その距離を満足感と共に眺め、自転車を立たせ、再度振り返る。
「乗れたわ、春日君!!みさ、じゃなくてゆ、ゆっこ!」
いつも学校ではすました表情しか見せない冬子が、顔いっぱいで喜びを表している。
「おめでとう、タッチー!!!」
10Mの距離を一気に駆け寄ってきた三沢が、冬子に力いっぱい抱きついた。

激しい動きをしても、ピンで器用にまとめあげた髪は崩れることはない。
見るからに活発で、鮮やかに彩られた目元と、よく変わる表情とひらひらと動く短いスカートは、生き生きとした魅力にあふれている。

三沢はいつもこんなふうに抱きつく事が多い。
その少々激しすぎる感情表現に、やや戸惑いながらも照れた笑顔を見せる冬子。
「あ、ありがとう」
その声には、抱きついている少女に対する感謝の気持ちがこめられていた。
「おめでとー冬子!」
少し遅れて、冬子より頭一つ大きな体が三沢とは反対方向から抱きつく。

長身で中途半端な長さの金髪を、ヘアバンドで止めている。
耳にいくつもつけたピアスと、派手で柄の大きめなシャツは少年を少々軽薄に見せる。
けれどその笑顔は無邪気で、人から警戒心を奪うものだった。

ほのかに香水の香りをさせる堅い体に、冬子は一気に硬直した。
春日はそんな冬子に気付かないはずもないのに、冬子の髪に頬ずりをする。
「よくやった冬子!俺は感激だー!!!!」
「あ、そ、あの、か、春日く……」
「コーチとして、お前は俺の誇りだ!」
「や、あ、で……」
すでに意味のある言葉を紡がない冬子が、倒れるのではと思うほど顔を赤くしている。
「よーしよし!」
綺麗にまとめていた長い髪をぐしゃぐしゃにさせながら、春日は冬子の髪をなでくりまわす。
「いい加減にしろ!」
そして、冬子が本当に倒れる前に救ったのは、やはり三沢だった。
するどいストレートが春日の鳩尾に決まる。
「ぐはっ!」
春日は低くうめいてしゃがみこんだ。
「この性犯罪者が!」
「く……いい拳だぜ……」
しゃがみこむ春日に、顎を突き上げ拳を握り締める三沢。
その姿は惚れ惚れするほど男前だ。
「あ、あの………」
冬子は戸惑ったように二人に視線を送る。
三沢はくるりと勢いよく振り返ると、冬子にもう一度抱きつく。
「ほんとうに頑張ったね!タッチー!」
三沢は自分のことのように、顔をくしゃくしゃにして喜んでいる。
冬子は、自転車に乗れたこともさることながら、そんな風に自分のことで喜んでくれる他人が、いや友人がいることに心から温かいものが溢れてきた。
喜びを分かち合える人がいる。
それがこんなにも嬉しいことだと、今までは知らなかったのだ。
「本当にありがとう、ゆ、ゆっこ。それと、春日君も」
一度三沢の柔らかな体を放し、顔を赤らめながら冬子はしっかりと2人を見つめる。
伝えきれない感謝の気持ちが、少しでも伝わるように。
「私、貴方達にあえて、よかったわ」
一方言われた方はその率直な視線と言葉に動きが止まる。
「ぐはっ、相変わらず館乃蔵さんてばストレート……」
「タッチーてば、もう、ダイレクトすぎー……」
思わず目線をそらして、顔を抑える。
幼馴染のこの2人は、どこか仕草が似通っている。
「あ、な、なんかしてしまったかしら、ご、ごめんなさい」
うずくまって顔を赤らめる友人二人に、理由が分からない冬子はおろおろと動揺する。
「あー、いや、うん、いいのいいの」
「そうそう、それがタッチーのいいところだし」
「なんつーかボディに来るよね、館乃蔵の言葉は」
「うんうん、いいのが入るね」
幼馴染同士で分かりあう会話に、冬子は首を傾げるしかない。
「わ、私、また何かやってしまったかしら」
ここ最近で自分の世間知らずを思い知っている冬子は、自分の仕草に何か不自然なことがあったのかと、更に焦った様子をみせる。
そんな冬子の慌てた様子に、二人は顔を見合わせて笑うと立ち上がった。
「違うってば、すっごい嬉しいって言ったの!」
そう言って、三沢はもう一度冬子を抱きしめた。
乱れた髪を更にくしゃくしゃにしてしまう。
「私もタッチーに会えてうれしいよー!」
自分で口にした言葉のくせに、冬子は再度顔を赤らめる。
「え、え、ええ、えええ?」
手をばたばたとさせて、意味のない動きで感情を表現する。
「俺も嬉しくてよ、冬子!」
そして春日も、どさくさに紛れて後ろから抱きつく。
冬子は可哀想なくらい顔を赤らめると、ぱくぱくと口をあけて、すでに呼吸もできない。
「あ、あの………」
「くー、あの館乃蔵がこんなに素直になるとは!お兄さんは嬉しいぜ」
ぐりぐりと猫のように冬子の華奢な肩に顔を擦り付ける春日。
その慣れない感触に、冬子は体中の血が顔に昇っているのではないかと思うほど、熱くなった。
「だから止めろって言ってんだろこの変態!」
三沢の回し蹴りが春日の背中を捕える。
冬子を巻き込んで少しよろめきながら、春日は軽く咳き込む。
「お、お前なあ!少しは手加減ってもんをなあ!」
「手は使ってないよ、足」
「そんな屁理屈聞きたくありません。後、ミニスカートで足を上げるんじゃありません。お前のなんて見たくねえ」
「はー?私だってあんたなんかに見せたくないわ。金払え金」
「ちょ、ちょっと二人とも止めて頂戴」
隙をついて春日の腕の中から逃げ出した冬子は、言い争いを続ける二人に割ってはいる。
元からじゃれあっているに過ぎない幼馴染達は、すぐに口論をやめ冬子に向き合う。
ようやく止まった一連の流れに、冬子は大きく息をついた。
「か、春日君、その、すぐにそうやって抱きつくのはやめて頂戴。そ、そういうことはあまりしてはいけないことよ」
小さい子に諭すように、やや顔を赤らめたまま指を立てて注意する。
春日は片眉を上げて、素直に頷いた。
「はーい」
「やーい、怒られてやんの」
「三沢さんも」
「はい?」
「春日君の言うとおり、そんな短いスカートで、あんな風に足を上げたりしたら駄目よ。助けてくれたのは嬉しいのだけれど」
「はーい」
「やーいやーい」
「二人とも!」
『はーい』
「返事は伸ばさないの!」
『はい!』
そこまで来て、三人は顔を見合わせて笑ってしまった。
口うるさい小言だが、冬子の口調は冗談を言うように軽いものだったから。
ふざけてばかりの幼馴染達だが、その言葉には温かみが感じられたから。
しばらく柔らかく穏やかな笑い声が公園に響く。
夕暮れの中、それはとても優しく感じられた。

しばらくして、春日が両手を打ち合わせる。軽く力強い音がした。
「さって、じゃあ館乃蔵の悲願達成を祝って、祝杯でもあげますか!」
「おー、たまにはいいこというじゃーん。宴会しよ、宴会」
「え、宴会………?」
「そ、パッとやりましょ、パッと」
「おいしいもの食べよー、カズのおごりで」
相変わらずの二人の息の合い様に、冬子は中々ついていくことができない。
それでも、二人が自分を祝ってくれるのがこそばゆくて、恥ずかしくて、嬉しかった。
ポンポンと次々と出てくる二人の軽口に目を細める。
それはとてもとても幸せそうな、穏やかな笑顔だった。

と。
その空気を切り裂くように電子的な音楽が流れ出した。
弾む曲調の音楽は、春日から鳴り響いていた。
「おっと、俺だ、失礼」
春日は慌ててポケットから携帯電話を取り出すと、いくつもピアスをつけた耳に当てる。
「はーい、はいはい、一清でっす。もっちろん覚えてるよー。愛してるよー」
出るやいなや春日特有の子供のような無邪気な笑顔を浮かべる。
聞こうと思わないでも耳に入ってくる内容は、今日の約束の確認のようだ。

しばらくして春日は通話を終えると、少し申し訳なさそうに頭を掻いた。
「てことで、今日はこれでお開き。今度は館乃蔵のお祝い!明日計画しような!」
「何、また別の女?この前の子どうしたの?」
どこか冷たい目で、呆れたように問うのは三沢。
「聞くな!そして人聞きの悪いこと言うな!俺はいつでも付き合うときは一途!ただ1人だけを愛します!」
「ああ、すぐふられるから回転早いだけか」
「ぐはっ」
胸を押さえてしゃがみこみ、ダメージを表す春日。
三沢はその様子に嬉々として追い討ちをかける。
冬子は、その様子をぼんやりと眺めていた。

「てことで、お疲れ様。本当によくやったな」
ほんの少し後、春日はそう言ってすでに見るも無残になった冬子の髪を更にくしゃくしゃとかき回す。
その仕草には、からかいやふざけた様子などなく、本当に優しいいたわりを持ったものだった。
冬子もされるがままになりながら、嬉しげに、少し誇らしげにはにかむ。
「ええ、春日君と、ゆ、ゆっこのおかげよ」
「おうよ!俺のコーチング技術とお前の情熱の成果だ!」
「うん、本当に、ありがとう」
素直な感謝の言葉に、春日はにかっと形容するのにふさわしいような明るい笑顔を向けた。
「よーし、イイコだ!」
そして更にくしゃくしゃと頭を撫でる。
くすぐったくて、力強い手が温かくて、嬉しかった。
だから、その手が離れた時、ちょっと哀しかった。

「よし!そんじゃまたな!」
そう言って軽く手を上げて、冬子の練習用の自転車を引きずって春日は帰っていった。
夕日で赤く染まった春日の派手なシャツが、目に焼きつく。
冬子はしばらくその背中を見ていた。
明るく声をかけてきた三沢に、ようやく意識が戻る。
「そんじゃ私達もそろそろ帰りますか」
「ええ」
二人でゆっくりと、練習場である公園を後にする。
入り口にある車止めまで来た時、冬子は自分でも言うつもりのなかった言葉が口をついて出た。
「春日君は、女性に、好かれるのね」
「あー、あいつ変態だし馬鹿だけど、女にマメだしそれなり優しいしねー」
ほんっと馬鹿だけどね、そう告げる三沢に、確かに、と笑って相槌を打つ。

けれどその時、ちくり、と何かが冬子の胸を刺した。
優しい春日。
軽薄で悪ふざけが過ぎるところがあるけれど、優しくて強くて、人に好まれる男。
その男の優しさが、自分以外の大勢に向けられているものだとは知っていた。
けれど、それを再確認した今。

冬子は少しだけ、寂しかった。






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