あなたが笑うでしょう。 「お母さん、100点取れました!」 学校から帰ってきて一目散に母の元へ向かった。 母は俺を見て、表情を緩める。 けれど、開いた口が言葉を紡ぐ前に、冷たい声が割って入る。 「あの子はそんなことで自慢なんてしなかったわ。なんてでしゃばりでみっともない子」 「す、すいません、お義母様」 わざわざ普段立ち寄らない部屋の近くに来てまで、祖母は俺と母を見下ろす。 冷たい目で、冷たい声で、俺を、ひいては母を責める言葉を口にする。 「育ちの悪い子。弁えた子は、そんなはしたないことをしないわ。志藤家に相応しくない、出来の悪い子ね」 「………申し訳ありません」 何度も何度も頭を下げて謝る母を一瞥して、祖母は去って行った。 母を庇いたいが、それも出来ない。 それをすれば、ますます母は責められるから。 祖母が廊下の先に消えるまで見送って、母は哀しい顔をして笑う。 「いい子ね、縁。いい子。でも、お祖母様の前では、あまりそういうこと言わないでね」 「………でも」 たしなめられて、でも、理不尽に憤る気持ちでいっぱいだった。 兄さんは、いい点を取ったら皆から褒めてもらっていた。 でも100点なんて兄さんは取ったことはない。 俺の方がすごいのに、俺は誰も褒めてくれない。 どうして、兄さんは皆ちやほやするのに、俺は何をしても怒られるんだろう。 いい点を取ったら、お母さんが褒めてくれると思った。 祖母も、母を責めないと思っていた。 予想と外れたことに、消化しきれない感情を持てあましていた。 「ね、縁、お願い。お兄ちゃんは、そんなことしなかったわ」 「………はい、ごめんなさい」 でも、お母さんが哀しい顔をするから、何も言えなくなる。 俺は、いつも暗い顔をしているお母さんに笑ってほしかっただけ。 それと、少しでもいいから、兄さんではなく俺を見て欲しかっただけ。 でも、お母さんが哀しい顔をして、お祖母さんが怒るなら、何も意味がない。 「でも、勉強を頑張ったのは偉かったわね。その調子で頑張って。お兄ちゃんに負けないように頑張ってね」 「はい!」 けれどお母さんが頭を撫でてくれるから、頑張れる。 次はお祖母さんも褒めてくれるかもしれない。 それなら、俺は頑張れる。 そう思っていた。 けれど、出来そこないの俺に、母を笑わせることは出来なかった。 俺はただ、彼女を追い詰めた。 「お母さん、怖い、怖い!お母さん、怖いのが来る!」 「縁、縁、そう言うことを言わないで。どうしてそういう嘘をつくの」 人とは違うものを見ていることに気付いたのは、いつだっただろう。 真っ黒く怖いものが、あらゆるところに見えた。 世界は怖いものに満ちていた。 でも、周りの誰も、それを理解してくれない。 「お母さん、助けて!」 「縁、何もいないわ。気をひくためにそう言うことを言うのはやめなさい」 母は信じてくれない。 母は困った顔で、俺を窘める。 「さすが育ちの悪い女が育てた子は違うわ。妄想癖が酷いこと。あなたの家に変な血が入っていたんじゃなくて?病院に連れて行ったのではいいのではない。それにくらべてあの子は優秀だこと」 祖母は鬼の首を取ったかのように、怖いものに追われて泣き叫ぶ俺を罵り、母を貶める。 自分が泣けばますます母が困り、祖母に責められると分かっていても、自分に絡みつく化け物を無視することは出来ない。 何度も何度も闇に纏わりつかれ、逃げ纏い、泣き叫ぶ。 「あいつらが来るよ!怖い!助けて!食べられちゃう!」 「縁、どうして、そういうことを言うの!どうしてお母さんを困らせるの!どうして、どうして!お兄ちゃんはあんなにいい子なのに!どうして!」 母はどんどんヒステリックになっていく。 俺を見ると顔を顰めるようになっていく。 俺を打ち、罵り、責めるようになっていく。 「化け物化け物化け物!こんな子私の子じゃない!こんなの私の縁じゃない!」 まるで、あの怖いもののように。 まるで、祖母のように。 「どうして、馬鹿にされるようなことするのよ!あんたがそんなじゃ、あの女を見返してやれない!あんたがあの子より出来がよくて、ようやく見返すことができるのに!」 母が泣き叫ぶ。 俺をぶつ。 止められない。 母の思い通りになることが出来ない自分を責めることしか出来ない。 「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」 俺の出来が悪いから、母が祖母に責められ、泣く。 俺が兄のように出来ないから、母は怖いものになっていく。 「お兄ちゃんに勝てるような子じゃなきゃ意味がないのよ!それじゃなきゃ、あんたなんていらないのよ!」 母が俺を打つ。 俺は頭を抱えて蹲り、何も感じないように心を殺す。 「出来そこない!化け物!あんたなんて私の子じゃない!あんたなんていらない!いらない!いらない!!」 母の泣き叫ぶ声が聞こえる。 俺はただ、何も感じないように、目を閉じて、耳を塞ぐ。 「………夢、か」 起きた瞬間、夢の残滓は消え去っていった。 情けないことに、いまだに時折見てしまう夢。 でも、以前ほどの、衝撃はない。 この夢を見た時は、いつも生々しく激しい感情で溢れていた。 夢と現の区別がつかず、酷い時は嘔吐した。 けれど、今はすぐに夢として、整理出来る。 終わったことなのだと、思うことが出来る。 夢の名残で心臓が強く波打っているので、胸を抑える。 目を閉じて、呼吸を深くする。 「大丈夫。私は、強い」 そう言ってくれた人がいる。 だから俺は大丈夫。 『志藤さんは優しい人です。いい人です。俺は、あなたが大好きです』 必死な声が、鮮やかに蘇る。 胸に温かさが灯る。 自然と、強張った頬が緩み、笑みがこぼれる。 「私は、大丈夫」 あれは過去。 あれは終わったこと。 もう、俺を捕えることは出来ない。 俺はもう、あれから解放された。 そう、俺は大丈夫。 広大な土地を持つ宮守家の周りを歩いていると、明るい声が名前を呼んだ。 「志藤さん!」 心臓が、僅かに震える。 振り返ると、予想通りジャージ姿で駆け寄ってくる少年の姿があった。 朝の陽射しを浴びて、彼の笑顔は、酷く眩しく感じた。 「朝から会えるなんて、珍しいですね。どうしたんですか、こんな時間に」 「………その、目が覚めてしまって、少し散歩に」 「そうですか、運が良かったな」 嬉しそうに無邪気に笑う彼に、少しだけ罪悪感を抱く。 嘘は言ってないけれど、故意にこの出会いを作り出したのは確かだ。 三薙さんが時折家の周りを走っていることは知っていた。 普段は宮城さんに見つかったら問題なので、こういったことはしない。 ただ、今は酷く、彼の顔が見たかった。 「その、ご一緒してもいいですか?」 「はい、後はダウンで少し歩こうと思ってたんです。ちょうどよかったです。嬉しいな」 なんの躊躇いもなく頷いてくれる彼に、胸が締め付けられる。 三薙さんはまっすぐに喜怒哀楽を伝えてくれる。 その感情表現は、年齢よりもずっと幼く感じる。 人との付き合いが少なかったと言っていたが、そのせいなのだろうか。 「さっきから、いい匂いがするんです」 歩き始めて、三薙さんがにこにこと笑ってそんなことを教えてくれる。 それでようやく、漂う香りを感じとることが出来た。 ふわりと香る、甘い匂い。 「沈丁花かな」 三薙さんは香りを更に感じるために、大きく息を吸い、胸を反らす。 筋肉はついているもののまだ細い手足、少年の色を残す高めの声。 彼の兄弟達に比べると派手さはなく落ち着いているが、清潔感のある目鼻立ちをしている。 何よりその豊かな表情に、強く印象づけられる。 「いい香りですね」 「はい!」 彼と話すようになる前、私はずっと彼を嫌厭していた。 優秀な兄弟に囲まれ小さくなって萎縮し、おどおどと暗い顔をしている彼を、同情し、侮り、侮蔑すらしていた。 その卑屈な態度が自分を見ているようで、嫌だった。 「春ですね。温かくなってきたし」 三薙さんが愛おしそうに、空を見上げる。 上には、春の薄曇りの空が広がっていた。 「………」 その横顔は清々しく伸びやかだ。 なんて、勘違いをしていたのだろう。 あまりの愚かさに、消え入りたくなるぐらい恥ずかしい。 こんなにも彼は私とは違う。 こんなにも三薙さんは強くしなやかだ。 「志藤さん?」 「ああ、いえ、春ですね。桜も芽吹いている」 「うん。花見、できるかな」 常に全身で周りのものを受け止めようとする、その素直さが好ましい。 陽射しの温かさを、花の香りを、季節の移り変わりを、私の気付かないものを、教えてくれる。 「三薙さんは、春がお好きですか?」 聞くと、三薙さんは少しだけ表情を曇らせた。 今まで笑っていたのに、一瞬で表情を変える。 そのくるくると変わる表情から、目が離せなくなってしまう。 「今まで春って苦手だったんです。クラス替えがあるから。期待して、その度にがっかりしてばっかりだったから。怖くて、期待して、それで、寂しくて」 彼が寂しそうに俯くと、胸が締め付けられる。 どうしたらいいか、分からなくなってしまう。 でも、幸いすぐに、暗い表情を消し去り、はにかむように笑う。 「でも、今は、ちょっと怖いけど、普通に楽しむことができそうです。友達とクラス、変わっちゃうかもしれないけど、でも、それでも、友達でいられると、思うから。花見したいねって言ってたし」 最近友達が出来たと教えてくれた。 彼が、どれだけその友人達を大切にしているかは、痛いほどに伝わってくる。 その照れくさそうな表情は、微笑ましくて私まで嬉しくなってくる。 「だから、今は春が好きです」 「そうですか」 「夏も楽しみだな。海、行きたいな。秋と冬は受験でそれどころじゃないかな。でも、志藤さん、一緒に紅葉とか見たいですね。雪も見たいな。どこか一緒に、出かけられたらいいですね」 キラキラと顔を輝かせ、希望を語る。 彼のささやかな夢の中に私も入っていることに、喜びが胸に満ちる。 温かさでいっぱいになる。 「志藤さんは季節はいつが好きですか?」 普段なんとも思わない道が、こんなにも明るく楽しく感じる。 広大な宮守の家の一周が、とても短く感じる。 「そうですね。今まであまり考えたことはなかったですが………、秋から冬にかけてが好きかもしれません」 「秋もいいですよね。過ごしやすくて、なんでもうまいし」 その頃から、私は季節を感じるようになった。 それまでは、季節なんて、なんとも思わなかった。 寒いと言っていたけれど、寒さなんて感じていなかった。 暑いと言っていたけれど、暑さなんて知らなかった。 笑っていたけれど、笑ってなんかいなかった。 怒っていたけれど、怒っていなかった。 「そうですね。いい季節です」 でも、今は、秋の枯れ葉の美しさも、冬の風の冷たさも知っている。 そして春に向かう暖かさと、花の香る風の匂いは、今教えてもらった。 「きっとこれからは春も夏も、好きになると思います」 「え?」 「どの季節も、きっと、楽しいです。一緒に、皆さんと一緒に過ごせたらきっと楽しいです」 私の言葉に不思議そうに首を傾げていた三薙さんが、嬉しそうに笑う。 「そうですね!」 あなたが哀しむでしょう。 私の胸は締め付けられて、叫び出したくなるのです。 あなたが泣くでしょう。 その涙を止める術を、なんとしてでも探したくなるのです。 あなたが笑うでしょう。 私の心は喜びに満ちて、その笑顔を守りたいと思うのです。 あなたが笑うでしょう。 花が鮮やかに彩られます。 あなたが笑うでしょう。 風の匂いに心奪われます。 あなたが笑うでしょう。 空の青さに気付きます。 あなたが笑うでしょう。 陽射しの眩しさと温もりを感じます。 あなたはおかしいと言うでしょうか。 でも、私はあなたと出会って、それを得た。 あなたが、笑うでしょう。 そして私は、世界を知るのです。 |