「えっと、一、で、二、で三」
「そうそう」

体調不良で学校を休んでしまった三薙は、夕方頃帰ってきた兄達に勉強を教わっていた。
簡単な漢字をノートになぞりながら、ふと首を傾げる。

「よん、は、棒が四つ?」
「いや」

棒が一個づつ増えているからと単純に考えて、隣にいる長兄を見上げる。
長兄が小さく笑って答えを教えようとすると、暇つぶしに部屋にいた次兄が馬鹿にしたように笑う。

「な訳ねーだろ、ばーかばーか」
「馬鹿じゃない!」

馬鹿にされたことが悔しくて、三薙は小さな顔を赤くして言い返す。
けれど次兄はそんな弟の抗議など痛くも痒くもなく、更に嫌みな口調でせせら笑う。

「三薙はお馬鹿、馬鹿馬鹿ばーか」
「馬鹿じゃないもん!」

いつも意地悪する双馬に必死で抗議するが、それでも馬鹿にされ続けているうちに哀しくなってきてしまう。
そしてとうとう目尻に大粒の涙がじわりと浮かぶ。

「う、うー」
「おー、泣いた泣いた、泣き虫三薙、弱虫三薙」
「なっ、ないて、ない、ないてない、ひっ、く」

慌てて目を擦って、唇を噛みしめるが、一度出てしまった涙は止めることは出来ない。
ぼろぼろぼろぼろと涙が出てきて、それがまた悔しくて哀しくて、三薙は泣いてしまう。

「やめろ、双馬」

そこで一矢がため息をついて制止する。
それから隣にいる小さな弟の頭を撫でる。

「三薙、泣くな」
「一矢お兄ちゃん」

いつでも自分を守ってくれる兄に三男はしがみつく。
そしてその胸に顔をこすりつけて更に泣いてしまう。

「ひっ、ううー」
「お前ももうちょっと泣くの我慢しろ」
「泣き虫ー。すぐに兄貴に助けを求める、ずるっこー」
「双馬」

低い声でたしなめられると、双馬は小さく鼻を鳴らして部屋から出ていってしまった。
一矢は、まだ泣いていた弟の背中を優しく撫でて宥める。

「ほら、泣くなって」
「僕、馬鹿?」

頬と鼻を真っ赤にして涙と鼻水でべちゃべちゃな小さな顔が、不安そうに兄を見上げる。
ティッシュで顔を拭いながら一矢は苦笑する。

「まだ習ってないんだから、分からなくて当然だろ」
「双馬お兄ちゃん、でも馬鹿って言ったよ」
「あいつはお前がそうやって泣くから喜ぶんだ」
「双馬お兄ちゃん、意地悪だよ」
「そうだな。ちゃんと叱っておくからもう気にするな」
「あ、怒らなくていいよ!」
「どうしてだ?」

いっつも双馬に苛められては泣いているが、いざ一矢が怒ると三薙は双馬を庇う。
理由は分かっているが、笑いながら一矢はもう一度聞く。

「だって、双馬お兄ちゃん、可哀そう。この前一矢お兄ちゃんに怒られて、双馬お兄ちゃん泣いちゃった。双馬お兄ちゃん、意地悪だけど、僕も、悪いの。僕が泣き虫じゃなければ、いいんだよ」
「三薙は双馬が好きか」
「うん!双馬お兄ちゃん、すごいんだよ。この前ね、あのね、庭にあるビワの木ね、すっごい早く登ったの!それでね、僕と四天に、ビワとってくれた」

どんなに苛められても後ろをついていって、また苛められるということを繰り返している三男は、それでも兄のことが好きらしい。
活発で友達が多く次々に色々なことを思いついては弟たちを引きつれて遊ぶ次兄は尊敬の対象でもある。

「三薙は、いい子だな」
「僕、いい子?」
「ああ」
「えへへ」

誰よりも敬愛する長兄に褒められて、三薙は嬉しそうに笑う。
すっかりさっきまで泣いていたことを忘れて、上機嫌ににこにことしている。

「じゃあ、もうちょっと勉強しようか」
「うん!あ、ねえ、一矢お兄ちゃん」
「ん?」

再度ノートと教科書に目を落とした三薙は、思いついたように明るい声を上げる。
そして一つの漢字を指さす。

「一って、一矢お兄ちゃんの字、だよ」
「ああ、そうだな。もっと大きくなったら習うけど、これはかず、とも読むんだ。漢字には色々読み方があるんだ」
「そっか、難しいんだね」
「そうだな。とりあえず、いちって覚えておこう」
「うん!」

大きく頷いてから、いち、いち、と口の中で繰り返す。
そしてまた、大きな声を上げる。

「あ!」
「ん?」
「だから、一矢お兄ちゃんは一番なんだ!」
「え?」

嬉しそうに顔を輝かせて、隣の兄を見上げる。
そして、難しい問題の答えが解けたと言うように興奮して、目を丸くする一矢に説明する。

「一矢お兄ちゃんは、頭いいし、かけっこ早いし、力も使えるし、強いよ!なんでも一番!だからね、一なんだよ!」

兄に教え諭すように、それがただ一つの正解なのだと疑わないように三薙は自信満々だ。
胸を張って、にっこりと笑う。

「だから、一矢お兄ちゃん、は、一なんだね!」

そこで一矢が耐えきれずに、吹きだした。
口元を押さえて笑いだす。

「く、くく」
「一矢お兄ちゃん?」
「はははっ」
「どうしたの?」

瞬きして不思議そうに見上げる弟の頭を、兄は大きな手で撫でる。
そして優しく目を細めた。

「ありがとう、三薙」
「なんで?」
「三薙は、いい子だな」
「うん、僕ね、いい子だよ!」

お礼を言われた理由は分からないが、褒められたことが嬉しくて三薙は笑った。



***




「………」
「それからしばらくしてからだったかな、『いちばんのおにいちゃん』で、『いちおにちゃん』から『いちにい』に変遷していったのは」
「………」
「どうした、三薙」

家でくつろいでいた兄と会話していた三薙は、居間のローテーブルにつっぷしていた。
一矢はそんな弟の様子を見て、くすくすと笑う。

「ば、馬鹿すぎる」
「そうか?」
「そ、そんなんだったっけ」
「俺が覚えてる限りではな」

なんで『いちにい』と呼ぶようになったのかを、三薙は全く覚えてなかった。
だから理由を覚えているかと一矢に聞いたところ、出てきたのがこの話だった。
暴露された幼い頃の恥ずかしい思い出に、三薙は顔を真っ赤にして頭を抱える。

「そ、そんな理由だったなんて………。よ、呼び方やめようかな」
「一矢お兄ちゃんにでも戻すか?」
「いや、戻さないけどさ!てか今更お兄ちゃんとか言えないし!それなら一矢兄さんとかだろ!」

恥ずかしがって顔を覆って絨毯の上でのたうちまわる三薙に、一矢が笑う。

「俺は嬉しかったけどな。もう俺は一番じゃないか?」

そこで三薙はぴたりと動きを止める。
しばらく顔を覆ったまま、沈黙する。
それから、一息置いて答えた。

「………言わねーよ!」
「そうか」

一矢が読んでいた本をぱたりと閉じる。
ちらりと手の隙間から覗いた一矢の余裕ある表情に、三薙が悔しそうに呻く。

「一兄のバーカ!」

その言葉に、また長兄は笑った。





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