恐る恐るノックをすると、空いているとだけぶっきらぼうに答えられた。
心臓が跳ね上がって、手が震える。
唾を飲み込み深呼吸。

落ち着け落ち着け落ち着け。
深い深い青い色。
澄み渡り、どこまでも広がる青い海。
よし。

「………お邪魔します。岡野、大丈夫?」

部屋の中に入ると、ふわりと甘い匂いがした気がした。
中はナチュラルカラーでシンプルにまとめられていて、やや雑然とした、でも綺麗な部屋だった。
部屋の主はベッドの上に腰掛けて、不機嫌そうに綺麗に整えられた眉を顰める。

「………女が寝込んでるところに顔出すとか、どんだけ空気読めないの」
「ご、ごめん」

いつも派手なメイクをして髪もきっちり整えられているから、あまり見ない寝乱れた髪とすっぴんの顔はやっぱり新鮮だ。
幼く見える表情が、かわいい。
睨みつけられて怖いのは、いつも通りだけど。

「で、でも、俺が休んだ時、来てくれたし」
「化粧もしてない、髪も整えてない、パジャマ姿なんて見られたい女がいる訳ねーだろ」
「ご、ごめんなさい!」

低い声で言われて、反射的に謝る。
やっぱり無神経だっただろうか。
岡野は怒っているのだろうか。

「で、でも岡野は、化粧してなくても、き、綺麗だし、あ、勿論化粧してる時も、綺麗だけど」
「………」
「あ、で、でも、ごめん、すぐ帰るな!」

じろりと睨みつけられて、慌てて回れ右をする。
来なければよかった。
二日間学校を休んでいる岡野が心配で顔が見たくて、電話で声は聞いていたけれど、やっぱり会いたくて。
でも、無神経だった。
俺はどこまでも気の使えない駄目男だ。

「待て」
「で!」

慌てて部屋から飛び出そうとすると、後頭部に衝撃を受けた。
何事かと振り向くと足元にティッシュケースが落ちている。
これをぶつけられたのか。
そりゃ痛い。

「な、何すんだよ!」
「誰も帰れなんて言ってない」
「で、でも」
「勝手に帰ろうとすんな」

いや、明らかに帰れって言ってるようなもんだったけど。
なんて言ったら、もっと怒られそうな気がする。

「えっと、いて、いいの?」
「お見舞いに来たんでしょ?それ何」

岡野が俺の手に持っているものを顎で指す。
そういえば忘れるところだった。

「あ、槇と佐藤と藤吉から預かったんだ。みんな予定が合わなくて来れないって言って、俺だけになっちゃったんだけど」
「………」
「岡野?」
「いや、なんでもない」

皆でお見舞いに行こうと言っていたのだが、槇が用事を思い出したといって佐藤を連れて行ってしまって、藤吉も委員会の仕事があるとかでいなくなってしまった。
お土産の指定とお金だけ預かってしまったので、俺も来ないと言う訳にもいかず一人で来ることになってしまった。

「えっと、槇が、岡野はこのゼリー好きだって言ってた。ゼリーなら食える?」
「別に病気じゃないし、だるいだけで」

近くの洋菓子屋さんのフルーツゼリーを差し出すと、岡野が表情を緩めた。
よかった、機嫌がちょっと治ったのかな。

「邪気酔いしたんだな」

あの後志藤さんが手当てと処置をしてくれたのだが、やっぱり抵抗力のない体には負担が大きかったらしい。
岡野は体調を崩して休むことになってしまった。

「あんたは、平気なの?怪我もしてたでしょ」
「俺は慣れてるから」

邪気に触れることも飲み込むことも、初めてではない。
天に祓ってもらったし、力も受け取り満ちているから自分でもなんとかなる。
腕の怪我はまだじくじくと痛むけれど、生活に支障はない。
岡野はつまらなそうに肩をすくめた。

「………あいつは?」
「え」
「あの変態野郎」

岡野が示している人間は、一人思い当たる。

「………阿部?」
「それ」

阿部はすぐに祓いを施され、今は宮守の系列の病院に入っている。
意識はあるが、言葉も思考もおぼつかなく普通の会話すらできない状態だ。
だから、何があったのか分からない。

「まだ意識がはっきりしないみたい。元に戻るって、一兄は言ってたけど」
「………そう」

岡野が少し目を伏せて、頷く。
それから顔をあげて鼻で笑った。

「ま、あのレイプ野郎がどうなろうと知ったこっちゃないけど」
「………」
「あんたのせいとか思うなよ」
「………うん」

それでも、罪悪感やすっきりしない気持ちはなくならない。
阿部がああなった理由は、やっぱり俺にもある。
全部ではない。
それは分かっている。
でも一因ではあるはずだ。

「結局あの家、なんだったの」
「わから、ない。誰かが張った結界に、誘いこまれたみたいだけど」
「阿部がやったの?」
「じゃ、ないと思う」

阿部にはやっぱり術を扱う力なんてなかった。
今もあんなに衰弱してるところを見ると、利用されただけなのだと思う。
邪気を飲み込み利用されたにしては、内部はそれほど喰われてなかった。
何もかもが中途半端だ。

「岡野は、何も覚えてないんだよね」
「………うん、買物して、家に帰ろうとしたところまで、覚えてるんだけど」
「うん」

岡野は商店街を出ようとしたところで、意識を失ったらしい。
そして気が付いたら、あの家にいた。
何があったのか、判明しないことばかりだ。

「ま、過ぎたことでしょ。気にすんな」
「………多分、岡野は巻き込まれただけなんだ、ごめんな」
「………」

気にしないなんて、出来ない。
だって、岡野は、巻き込まれたのだ。
この前の夕暮れの街と今回のこと。
偶然とは、思えない。

「俺が、狙われたんだと、思う。ごめんな。本当にごめん。怪我させて、こんなことになって」

俺が人に近づくと、ろくなことがなかった。
こんなことは初めてだけれど、でも今までも、いいことなんてなかった。

「やっぱり、俺、人に近づいたり、しちゃ………」
「宮守」
「え」

俺の言葉を遮るように、岡野が名前を呼ぶ。
いつの間にか俯いていた顔を上げると、岡野が無表情に手招きをしていた。

「な、なに?」
「いいから」

聞くが答えず、ただ手招きをする。
恐る恐るベッドサイドに近づく。
ブルーのパジャマは布地が薄くて、少しだけドキドキした。

「いった!」

なんて考えていると頭を思い切りはたかれた。
指輪がなかったからいいものの、それでも目の前に星が見えるほどに痛い。

「な、何!?」
「だからそういういじけた発言すんなって何度言ったら分かるんだよ、このタコ。あんたの頭は本当にスポンジでできてんの?」
「で、でも」
「でもじゃない!」

もう一度頭をはたかれ、黙らさせられる。

「あんたは助けてくれた。私は何もなかった。あんたのせいじゃない。悪いのはその結界?とやらを張った奴。あんたじゃない」
「でも」
「まだ言うつもり!?」

もう一度叩かれて、さすがに口を閉じた。
岡野は眉を吊り上げて、吐き捨てるように言う。

「私がいいって言ってるんだから、いいんだよ。あんたは、悪くない」
「おか、の」

どうして、この子はこんなに強いんだろう。
あんな目に遭ったのに。
痛かっただろし、怖かっただろう。
それなのに、俺と違って岡野は強さを失わず、こんなにも綺麗で、頼もしい。
なんて、眩しいんだろう。

「うじうじする暇があったらこんなことした奴をぶちのめしてやるぐらい言ってみろ」
「………う、うん。ぶちのめすは、できないかもしれないけど」

でも、と続けようとする前に、もう一度頭を思い切りたたかれた。

「次に愚痴愚痴言ったら殴る」
「もう殴ってるだろ!」

さすがに頭がずきずきと痛い。
手加減なしに殴られている。
俺は頭を抑えながら、まっすぐ岡野を見つめる。

「俺は弱いから、あ、殴るな!続くから!」
「よし、続けろ」
「うん………、その、弱いけど、でも、もう、岡野に怪我はさせたくない。頑張る。俺、頑張るから」
「それでいい」

岡野は顎を持ち上げ悠然と頷いた。
パジャマを着て寝乱れていても、まるで強く気高い女王様のようだ。

「愚痴言う暇あったら、勉強でもしとけ」
「う、うん」

岡野の乱暴な言い方に、つい笑ってしまう。
そこで岡野がちょっと表情を緩めて、目を伏せる。

「………でも、あんたも、怪我すんなよ。………あんたの家のことは知ってるから、危険なことするななんて、言えないけど、でも、怪我すんなよ」
「………うん、なるべく」
「しないって言いきれ!」
「む、無理だよ!」

さすがにそんなあり得ない約束は、出来ない。
俺はこれからも怪我をするだろう。
元々力のない俺は、どんなに頑張っても兄達や弟のようにうまくなんて出来ない。
でも、傷ついてもいいから、少しでも強くなりたい。
だから、これからも、強くなるため努力はするだろう。
それがたとえ無理なんだとしても。

「へたれ」
「ご、ごめん」
「あんたのその馬鹿正直なところ、いいけどね」

岡野が、ふっとため息をつく。
そして少しだけ呆れたように苦笑する。

「いいよ。あんたがへたれな分、私が強くなるから」
「………おか、の」
「あんたに守られるほど、私は弱くないんだから。むしろ私が守ってやるよ」

堂々と言い切る岡野は、かっこよくて強くて、でも綺麗でかわいい。
胸に熱いものがこみあげて、溢れていく。
苦しい。
邪気を呑みこんだ時のような苦しさ。
でも、まったく違う熱と質量。
こんな感情は知らない。
この感情は、なんなのだろう。
衝動、と呼ぶような激しい感情。

「う、ん………、岡野、強いからな」
「そうよ。あんな変態、私一人でどうにかなった」
「う、ん」

本当にどうにかしちゃったしな。
天が術を解いたのだとしても、最後に打ち破り阿部を払いのけたのは岡野だ。
本当に強い。
強い強い綺麗で優しい女の子。

「………でも、やっぱり、岡野のことは、俺が守りたいな」
「………」

でも、その強さを、俺が守りたいと思う。
岡野は強くて助けなんていらないかもしれない。
でも、守りたい。

「こんな怪我なんてさせないように、強くなりたいよ。岡野を、守りたい」
「………」

友達を守りたいと思う。
誰も傷つけたくないと思う。
でも誰よりも、岡野を守りたいと願う。

「だったらこれからも守ってみせろ」

岡野が俺の頭をくしゃくしゃと撫でて、笑う。
優しくにっこりと笑う。
飢えを感じている時のように、喉が渇く。

触れたい。
抱きしめたい。
胸が痛い。

「姉ちゃんー!お茶持ってきたよ!」

その時、部屋のドアが乱暴に開け放たれる。
焦って慌ててベッドから離れようとして、後ろにひっくり返った。

「わ、わわわ!」
「何?はい、お茶」

現れたのは岡野によく似た猫のような目を持つ小さな少年。
岡野の弟の竜君は俺の慌てぶりに不思議そうに首を傾げる。
そしてお盆に載ったお茶を差し出してきた。

「あ、ありがとう」
「勝手に開けんなつってんだろ、ボケ」
「なんだよ!せっかく持って来てやったのに!」
「あ、まあまあ。ありがとな」

姉弟喧嘩が勃発しそうだったので、宥めてとりなす。
竜君は口を尖らせながら出ていった。
かわいい弟だ。
天もはるか昔は、あんなだっただろうか。
いや、もっと素直で、かわいかった。

それにしてもびっくりした。
まだ心臓がバクバクいっている。
でも、竜君が来てくれてよかった。
少し落ち着こう。

「えっと、ほら、岡野、お茶」
「ん」

カップを渡そうとすると、岡野が頭を押さえていた。
顔色が悪い。
まだ本調子じゃないようだ。

「………やっぱりまだ、辛そうだな。俺、そろそろ帰るな」

岡野は何か言いたげに顔を上げたが、黙って頷いた。
そしてベッドに倒れ込む。

「………うん。くっそ、あんなのに」
「仕方ないよ。無事で、よかった。そういえば前に藤吉も邪気に触れてたけど、あいつはなんともなかったな」

そうだ、藤吉はあの鬼ごっこの時、鬼を蹴り飛ばしたっけ。
そういえば、肝試しの時も蹴りつけてた気がする。
でも、なんともなかった。
邪気になんて負けない強い奴。

「………」

強い、けれど、あり得るのだろうか。
いや、邪気に耐性のある奴は、いる。
いても、おかしくない。

ああ、でも、何かがひっかかる。
なんだ。
何がひっかかるんだろう。
ずっと、何かが、喉に刺さった小骨のように、引っかかっていた。
なにが、あったっけ。

商店街で岡野と一緒にいた、藤吉。
そうだ、それで、俺は藤吉に電話して、確かめて。
確か、藤吉は、何も知らないと言った。

『なんか二人で、あの家にいるらしいんだ』
『家?片山町の?どうしてそんなところにいるんだ?なんで、岡野が………』

なんで、藤吉は、片山町の家だと、分かったんだ。

「宮守?」
「あ」
「どうしたの?」

岡野の声に慌てて首を横に振る。
何を考えているんだ。

「あ、な、なんでもない」

何もおかしくない。
邪気に耐性のある奴はいる。
それにあの屋敷のことは話したことがある。
すぐに繋げたのだろう。
いや、そもそも俺が会話中に片山町の家だと言ったのかもしれない。
電話の内容なんて全部覚えてない。
きっと、俺が言ったんだ。
そうだ、そうに違いない。

「………じゃあ、俺、そろそろ帰るな」

そうだ。
変なこと考えるな。
友達にこんなこと考えるなんて、最低だ。

「じゃあ、岡野、お大事に」

考えを振り払うように頭を強くふって、バッグを取り立ち上がる。
ドアに手をかけたところで、小さな声が背中に響く。

「………宮守、ありがとう」
「え」

振り向くと岡野はベッドの上で、そっぽを向いていた。
でもその頬が少し赤くなっているのが、分かる。
冷たくなった胸に、ほわりと温かさが落ちる。

「こっちこそ、ありがとう」

礼を言いたいのは、こっちだ。
岡野と出会って、俺は様々なことを知った。

「岡野………」
「何?」

触れたい。
抱きしめたい。

「………ううん」

でも、それは俺には、許されないこと。
ただ、岡野を守りたいと望むだけは、許されるだろうか。





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