「それでは、三薙さん、失礼いたします」 車を駐車場に回す前に、志藤さんが俺を玄関先で下ろしてくれる。 駐車場まで付き合いたかったが、そういう訳にもいかないだろう。 名残惜しく車を眺めると、後部座席にある荷物を見つける。 風呂敷に包まれたそれは、布に隠れていてさえ、確かに力を感じる。 母さんの実家で作られている呪具だろう。 「それ、天に持っていくんですよね」 「はい」 「俺も、天のところに行くので、持って行きます」 話したいこともあったから、ちょうどいい。 お手伝いになればいいのだけれど。 志藤さんは少しだけ考えてから、微笑んで頷いた。 「………それでは恐れ入りますが、お願いいたします」 「はい」 荷物を受け取って、運転席に顔を近づける。 それから小さな声で言う。 「………また、ドライブしてくださいね」 志藤さんは一瞬びっくりしたように目を丸くしてから、ふわりと笑う。 花が綻ぶように。 「私などでよろしければ」 それはきっとお世辞なんかじゃないと感じられて、心がほわりと温かくなった。 ノックをする前に、部屋の中から声が響く。 「どうぞ」 いつものことながら、気配に敏すぎる弟が怖くすらある。 何か使鬼でも放って監視しているのではないかと思うぐらいだ。 「お邪魔します」 「うん」 天はドアを入った向かい側にある机に向き合っていた。 ペンをさらさらと動かしながらこっちを振り向きもしない。 「勉強してたのか」 「後少しで受験だしね」 そういえば、こいつは受験生だった。 すぐに忘れてしまうのだが、一応中学生なのだ。 俺が受験の時はもっと焦って追い詰められていた気がする。 こんなに落ち着いていると、そんなことを忘れてしまう。 天の学力なら、うちの高校ぐらい問題ないとは思うが。 「大丈夫、か?」 「さあ。結果が出ないと分からないかな」 生意気な弟はいつものように皮肉げな答えを返す。 もうちょっと可愛げのある返事をしてくれてもいいのに。 おかげで全く心配は感じないのは、いいのか悪いのか。 そこで天はようやく後ろを振り向いてくれる。 「それで、なんの用?」 「あ、これ、志藤さんから」 「ああ」 俺から風呂敷を受け取って、中身を確認するように触れる。 「うん、どうも」 納得いったのかそのまま机に置く。 中身をすぐに確認しないということは、志藤さんの仕事を信頼しているのだろう。 「………お前、志藤さんのこと、気に入ってるよな」 「そうだね、あの人は役に立ちそうだ」 天は何でもないように頷く。 ちゃっかり志藤さんを好きなように扱っている。 俺は志藤さんと話すのも一苦労なのに。 「俺には、近づくなって言った癖に」 「兄さんと違って、俺は別にあの人と友人になろうだなんて思わない。便利に使おうと思うだけ」 意地悪く笑って、肩を竦める。 俺たちみたいな年下の人間が、志藤さんを使う、だなんてなんだか滑稽だ。 雇用関係にあるのだとしても、うちの主従の関係は他のところより縛りが強いように感じる。 まるで近代以前の身分制度ある頃のようだ。 「………変なの。こんな現代で、何やってんだろうな」 「その通り。この現代で、いつまでもカビの生えて腐ったような伝統を有り難がって崇めるのがこの家だよ」 天は俺の言葉に、一つ頷く。 その毒を含む言い方に、雫さんの言葉を思い出した。 今まで考えたことなかったけれど、やっぱりそうなのか。 「………天は、宮守の家のことが、嫌いなのか?」 「どうしたの?」 唐突な質問に、天は首を傾げる。 俺はこの家を嫌いだという発想が浮かばない。 俺を生かしてくれるこの家が、兄弟が、両親が、家の人達が、とても大切だ。 「雫さんが、そう言ってたから」 「雫さんがね。なるほど」 納得したように、大きく頷く。 特に驚いた様子も、怒ったりする様子もない。 「嫌い、なのか?」 「好きになれると思う?小さい頃からスパルタ教育されて怪我して休みもなくこき使われて。これで家が大好きなんて言える思春期の男がいたら見てみたいよ」 「………」 並べられると、確かにそうだ。 力がない代わりにぬるま湯に漬かるように育てられた俺と違って、一兄と天の教育は本当に厳しいものだったのだろう。 天の体に残るいくつもの傷が、それを表わしている。 そういえば、一兄も体に傷があったはずだ。 そんな辛い思いをすれば、嫌いにもなるかもしれない。 「お前、大変だもんな」 「まあね」 「………うん、今まで、お前の大変さ、分からなくて、文句ばっかり言って、ごめんな」 前だったら、天の言葉が、力のない俺へ対する当てつけに感じたかもしれない。 いや、今も正直羨ましい。 何も持たない俺は、持ちすぎるがために苦労する天が、やっぱり羨ましい。 でも、一方的に妬み憎むということは、もうしない。 「………だから気持ち悪いってば」 と、誓っているのにけれど心底嫌そうに顔を歪めた天に、やっぱりイラっとする。 どうしてこいつは俺の言うことを一つも素直に聞いてくれないんだ。 「たまには、大人しく頷けよ!」 「そっちこそ、急に態度を変えないでよ。俺も結構兄さんに酷いこと言って酷いことしてるのに、よくそんな風に言えるね」 それは、確かに色々言われたし、色々された。 言われる、に対しては俺が悪いことが多いから、仕方ない。 された、の方は、まあ、実験だったと思えば、分からないでもない。 なぜそこまでして儀式の相手になろうとする理由は分からないし、感情的にも納得は、出来ないけれど。 「………だって、お前は弟だ。仲違いしたままでなんて、いたくない」 でも、それでも弟だ。 小さい頃は仲良くてよく遊んだ。 ずっと一緒にいた。 今だって、俺はなんだかんだでやっぱり天を頼りにしている。 天も、俺の言うことを聞いてくれて、助けてくれる。 それは分かっているのだから、険悪な仲なんて、続けたくない。 「………」 「俺は、お前と、もっと、近づきたい。もっと、知りたい」 天のことが、知りたい。 昔とどうして違ってしまったのか、知りたい。 じっと俺の顔を見ていた天が、ふっとため息をついて目を伏せる。 「………俺も仲違いなんてする気はないよ。俺は兄さんに悪感情を持ってる訳じゃない」 「いつかは、言ってくれるんだよな。こんなことする、理由」 天の行動に理由があるのは、分かった。 でもその根本の理由が分からない。 それさえわかれば、天のことが理解できる気が、する。 天は俺の顔を見て、深く頷いた。 「そうだね誓って。きっと近いうちに」 「なら、待つ」 「ありがとう」 天は約束を破らない。 だったら俺は信じられる。 待っていられる。 そしたらきっと、天とも、仲良くなれるはずだ。 「それで、用件はそれ?」 天は行儀悪く椅子の上に右足を置いて、頬杖を付く。 そんな粗野な仕草さえ様になるのだから、ずるい。 「………あ、お前と約束、しただろ。なんでも言うこと聞くって」 「ああ」 あの家にいた時からすでに日数が経ってしまったが、約束を果たす機会を失っていた。 もう約束破りなんて言われたくないし、感謝の気持ちは本当だ。 俺に出来ることなら、なんだってしてもいい。 「忘れないでいてくれたんだね」 天がやっぱり意地悪そうに皮肉を言う。 なんとか怒りを収めて、頷く。 「ああ、俺がお前に出来ることは、あるのか」 「………」 天は黙ったまま、少しの間天井を見上げる。 それから30秒ほど沈黙の時間が過ぎただろうか。 「………もうちょっと保留にしておいてくれる?」 「え」 「ちょっと考えたいんだ」 そして笑いながら、そう言った。 俺に出来ることがあるならなんでもするけど、俺に出来ることなんて多くない。 それでもそんなに考えるのか。 「………そんなに、難しいことなのか」 「ううん、多分簡単なこと。すぐに考えるよ。忘れないでね」 「………分かってる」 そろそろ、勉強の邪魔だろう。 一応受験生である弟の時間をこれ以上侵害する訳にもいかない。 「それじゃ、部屋に帰る。決まったら言えよ」 「うん、勿論」 「勉強頑張って」 「ありがとう」 ノブに手をかけドアを開く前に、一旦立ち止まる。 それから少しの間考える。 一向に部屋から出ていかない俺に、天が声をかけてくる。 「どうしたの?」 「………天」 「何?」 振り返って、天の深く黒い目を見つめる。 天も勉強机の椅子に行儀悪く座りながら、こっちを見ていた。 「俺は本当に、お前に甘えても、いいのか」 何のことを指したのかは、分かっただろう。 くすりと一つ笑う。 「勿論。いつでもどうぞ」 そして綺麗な顔で微笑みながら頷いた。 「一兄、いいかな?」 夜もとっぷり更けて、日付が変わってしばらく経っている。 忙しい長兄もようやく帰って来たと聞いて部屋まで訪れた。 「ああ、入れ」 疲れているだろうに、そんなことは感じさせない深みのある声。 聞いているだけで安心して眠くなってしまう声。 「お邪魔します」 「供給か?」 「うん」 一兄は寝る支度を整えていた。 少しだけ乱れた髪と、紺の浴衣がどきっとするほどかっこいい。 「そうか、じゃあ今日はここで寝ていくといい」 「ごめんね、ありがとう」 実はそのつもりで、俺も寝る用意はしっかりと整えている。 部屋の中に入り込むと、お香のいい匂いがした。 「………阿部は、どう?」 「まだ意識が戻らないな。大丈夫だ、そこまで侵蝕は深くない」 「………うん」 早く、よくなるといい。 体も心配だし、何があったのか知りたい。 何があったのか、 結局あの家もなんだったか、分からない。 他家の事情なので、踏み込む訳にはいかない。 結界を張ったのは誰だったのだろう。 あの子供はなんだったんだろう。 子供の顔は思いだせない。 でもなんとなく、思い返すと、見たことがあった気がする。 覚えてもないのに、馬鹿なことを考えているが。 でも、見たことがあった気が、したのだ。 どこで、見たのだったっけ。 「三薙」 「あ」 一兄に腕をやんわりと引っ張られる。 そんなに強い動きじゃなかったが、ぴりっと少しだけ痛みが走った。 「怪我は平気か?」 「うん、もう痛くないし」 少しだけ嘘だ。 まだちょっとひりひりと痛む。 縫うまではいかなかったが、結構深かった。 「今後、迂闊な行動は避けるようにしろ」 「………はい」 あの後結局家の手を借りることになってしまったから、父さんにも一兄にもきつく叱られた。 主犯は俺だってことは分かってもらえたが、天まで巻き添えにしてしまって申し訳なかった。 他家の捨邪地を侵すことは、管理者の家の最たるタブーだ。 俺がやったことは、結果的によかったからいいものの、一つ間違えば大事になっていた。 「岡野さんが心配だったのは分かる。だがまず家に連絡をいれろ。何かあってからでは遅い。お前に責任はとれない」 「………ごめんなさい」 大事にしないように天に助力を頼んだのだが、それでも身勝手で考えなしな行動だっただろう。 分かってる。 分かっているが、止められない。 反省はしているが、次同じことがあったら俺は止められるだろうか。 岡野の身に危険が迫っていると知って、何もせずにはいられるだろうか。 でも、勝手に動いたら、父さんにも一兄にも迷惑がかかる。 どうしたら、いいのだろう。 「お前の悪いようにはしない。まず相談しろ」 「………う、ん」 でも一兄の一番大切なものは、家だ。 岡野と宮守だったら、迷いなく一兄は宮守を選ぶだろう。 それは次期当主として当然のこと。 一兄は悪くない。 正しいことだ。 一兄も正しい。 でも、岡野は助けたい。 どうしたらいいか、分からない。 「………」 黙り込んだ俺に、一兄はふっとため息をついた。 そしてその長い腕の中に俺を抱き込んでしまう。 「まあ、小言はこれぐらいにしておこう。ほら、来い」 「うん」 一兄の腕の中は、幼い頃から変わらない安心感だ。 強くて頼もしくて、ずっとここでまどろんでいたくなる。 「学校は楽しいか?」 「うん、楽しい、よ」 「どうした?」 歯切れの悪い返事に何かを感じたのか、一兄が顔を覗き込んでくる。 そして目尻を緩めて、優しい表情を作る。 男らしくてどちらかというとクールなイメージの一兄だが、そんな風にすると途端に柔らかい印象になる。 「何か、あったのか」 優しく優しく、労わるような声に、涙が出てきそうになる。 今心の中にある不安感を、疑念を、焦燥感をすべて吐きだしたくなる。 俺は、人を好きになってもいいのか。 藤吉のことは気のせいなのに、どうして疑ってしまうのだろう。 不安で仕方ない。 俺は、このままでいいのか。 志藤さんのおかげで少し心が軽くなったとは言え、それでもまだ不安も疑念も心を巣食っている。 「あの、ね、あの」 「うん?」 一兄の腕の中にいると全部それをぶちまけて、抱きしめてもらいたくなる。 頭を撫でてもらって大丈夫だと言われれば、きっと安心できるだろう。 「………ううん。なんでもない」 でも、堪えろ。 いつまでも一兄に甘えてばかりでも、いられない。 藤吉のことなんて、本当に気のせいなんだから、言う必要なんてない。 だから、一兄に相談したいことなんて、ないんだ。 「喧嘩でもしたか?」 「喧嘩、は、してない」 喧嘩なんてしてない。 藤吉も皆も、いつも通り優しくて楽しかっただけだ。 求めていた光に溢れた日常が、あっただけだ。 「………今日も、楽しかったよ」 「平気か?」 「うん。ちょっと、俺が、馬鹿なこと、しちゃっただけ。ちゃんと話してみる」 「それならいいが」 そうだ、藤吉ともっと話してみよう。 きっとこんな馬鹿な考え吹き飛ぶはずだ。 俺の考えていることなんて、あり得ないのだから。 「何かあったら言えよ。役に立たないかもしれないが、話ぐらいは聞いてやる」 「うん。ありがとう。頼りにしてる」 こんな風に優しくて頼もしいから、俺は一兄に甘えてしまう。 いい加減、精神的にぐらいは、兄離れをしなければいけない。 兄の負担に、これからもなるのだから、少しぐらいは軽減しないといけない。 「………一兄、ごめんね」 「どうした?」 「いっぱい、迷惑かけて、ごめん」 「まあ、弟の尻拭いをするのは兄の務めだ」 一兄が俺の背中にまわした手に力を込める。 引き寄せられて、一兄のお香の香りが強くなる。 やっぱりこのまま眠ってしまいそうなほどに、気持ちがいい。 「お前が何をしようと、俺は傍にいる。安心しろ」 「………うん、ありがとう」 一兄は俺が望めば、儀式の相手にもなってくれるだろう。 一兄も天も、許容してくれている。 俺は生きていたい。 強くなりたい。 例え、二人に負担をかけることになろうと、生きていたいんだ。 そして笑いたい。 もっと皆といたい。 一兄と色々なところに行きたい。 双兄と馬鹿な話をしたい。 天のことを、知りたい。 志藤さんとも藤吉とも、もっと仲良くなりたい。 槇とも佐藤とも、遊びたい。 そして、岡野の笑顔がまだまだ見たい。 大切なものが沢山ある。 失いたくない。 一年前より、ずっとずっと増えてしまった。 もうこの手から失われることなんて、考えられない。 知らなかった頃よりもずっと、求めている。 結局俺は、自分のことしか考えられない。 だから、選ばなければいけないのだ。 自分勝手な俺のために犠牲になる、人を。 |