「三薙お兄ちゃん、どうしたの?」

泣いている俺に、小さな弟が話しかける。
術の練習をしていて、失敗した時だっただろうか。
俺には到底できないことを軽々とやってのける弟に嫉妬して、自分の無力が惨めで仕方なくて、泣いていた。

「どうして、僕は、天みたいに、できないんだろう」
「僕みたいに?」

天は不思議そうに首を傾げる。
弟は何も悪くない。
それでもそんな風に無邪気に力を振う弟が羨ましくて仕方なかった。

「天は、いいな。天みたいに、強くなれれば、いいのに」

もうすでに父に連れられて仕事に出ている弟。
何も出来ず、家でただ皆を待っている俺。
情けなくて悔しくて涙が溢れる。

「大丈夫だよ、三薙お兄ちゃん」
「………天?」

泣く俺に、天が優しくそう告げる。
天使のように綺麗な顔をした弟が、にっこりと笑う。

「三薙お兄ちゃんは、大丈夫だよ」

そして、もう一度そう繰り返した。



***




「三薙!」
「あ、雫さん」

家の近くまで来て、後ろから名前を呼ばれた。
振り返るとそこには最近よく家に訪れている一つ年上の少女の姿。
今日もジーンズとダウンジャケットというシンプルな格好だが、凛々しい彼女にはよく似合う。

「ねね、どうだった。この前のプレゼント」
「………」

俺に駆け寄ってきてキラキラした表情ですぐに投げかけたのは、その言葉だった。
もうなんだか耳にタコが出来そうなほど聞かされている気がする。

「なによ、その顔」
「………いや」

ちょっとげんなりとしたのが表情に出てしまったようだ。
雫さんは買物にも付き合ってくれた恩人だ。
ちゃんとお礼も言わないといけないだろう。

「多分、喜んでもらえたよ」
「ちゃんとピアスしてくれてるの?」
「うん。あの時付き合ってくれてありがとう」
「そっか。それならよかった」

岡野は頻繁にあのピアスをつけてくれている。
気に入ってくれてはいるようだ。
すずらんが岡野の耳で揺れているのを見るたびくすぐったい気分になる。

「いいなあ、青春」
「………うん」

思わずにやけてしまうと、雫さんもくすくすと笑う。
照れくさいけれど、嬉しい。
それから二人並んで歩いていると、雫さんが聞いてくる。

「ねえ、恋ってどういう感情?」
「え、え、ええ!?」
「何その反応」
「だ、だって、その、恋、とか」

俺の中の感情には、まだ整理が付いてない。
多分きっと岡野へ対する感情に名前をつけるなら、そういうことになるのだろう。
でも、まだ形にするのが怖かった。
もうちょっとぼんやりとしたままで、いたい気もあった。
他にも色々問題があるし、それが片付くまで岡野にきちんと向き合う自信も勇気なかった。

「なんか初々しいね。もしかして三薙の初恋?」
「え、ち、違うよ!他にも好きになった人いた!」
「そっか」

小学校の頃に優しかった先生。
同じく優しかったクラスメイト。
今まで好きになった人はいる。
皆、優しい人達だった。

「………でも、そうか。そうなのかも」
「へ?」
「俺、優しくしてくれる人、好きだったんだ。少しでも優しくされると、好きになった」

俺に優しくしてくれる人が、好きだった。
優しさを返したくて、その人達を見ていると温かい気分になれた。

「あはは、お手軽だね」
「うん。俺、友達もいなかったからさ。優しくしてくれる人が好きだった」

家族以外には基本的に遠巻きに見られていたから、少しでも手を差し伸べられるとすぐに好きになった。
向けられる好意が嬉しくて仕方なかった。
ただ嬉しくて、優しい気持ちになれた。
その後例え嫌われたとしても、優しくされた時の喜びは失わなかった。
ただただ優しく温かい感情だった。

「………でも、岡野は、なんか、違う」
「そうなの?」
「うん。一緒にいると苦しくなってドキドキして逃げたしたくなって、でも一緒にいたくて、頼りになって頼っちゃって、でも守ってあげたくて」

岡野といると、浮き沈みが激しい。
嬉しくなったり哀しくなったり、テンションが上がったり下がったり、まるでジェットコースター。
でもそうやって振り回される感情は、嫌なものではない。

「今までは、ただ憧れてるって感じだったんだけど、なんか、岡野にはぐちゃぐちゃする。でも、付き合いたいとか、そういうことは考えられない」

これが恋だというなら、確かにこれは初恋なのかもしれない。
恋なのだろうか。
けれどたとえ恋だとしても、俺は岡野に何もあげることはできない。
どうなりたいとか、考えることもできない。
でも、ただ、一緒にいたいとは、思う。
やっぱり深くは考えたくない。
これ以上はまだ考えたくないんだ。
逃げだとは思うけれど、まだ考えたくない。

「恋ってそういうものなのかな」

雫さんが不思議そうに首を傾げる。
俺は正直に答えた。

「………分かんない」
「あはは、私もよく分からないんだよね。難しいね」

胸がギシギシと、軋んだ。
雫さんは大事にしていた人を失っているのだ。
それが恋情かどうかは、本人にも分かっていなかったようだけれど。

「………雫さんは今まで、好きになった人、いなかったの?」
「三薙と一緒。憧れてた男の子とか、いたことにはいたんだけど、付き合いたいとか思ったことなかったな。恋としては弱すぎるよね」

淡い淡い憧れ。
よく分からないけれど、恋が強い感情だと言うなら、雫さんのそれも恋ではなかったのだろう。

「私の、お兄ちゃんに対する感情は、恋だったのかな」
「………」
「今でも分からないんだよね。もう少し一緒にいれたら分かったのかな。もっと話したかった。何を考えてるか知りたかった。私のこと、どう思ってくれてたのか、知りたかった。私の感情がなんなのかも、知りたかった」

けれどそれを知ることは、もう永遠にない。
知る機会は、失われてしまった。
何も言えなくて、喉が詰まる。
雫さんはけれど朗らかに楽しそうに笑う。

「手紙、あったんだ。あの後、私宛に手紙が届いた」
「え」
「部屋には何も残ってなかったんだけどね。多分最初っから、そのつもりだったんだろうね。綺麗に整理されてた。でも、手紙だけ、届いた」

綺麗に整理された部屋。
何もかもが終わってから届いた手紙。
祐樹さんは、あの人は、自分の未来が分かっていたのだろうか。
穏やかな声と笑顔を持つ、優しい人。
優しかった人。

「謝ってた。私のこと、とても大切だって書いてくれてた。誰も恨むな、自分が悪いって、書いてあった」

穏やかな声で、雫さんの言葉が再生される。
ああ、祐樹さんが言いそうなことだ。

「笑っていてって書いてあった。幸せになってって」
「………」
「だからね、笑っていようと思う。幸せには、なれるかどうか分からないけど。やること、あるし」

雫さんが言葉通り、笑う。
でも、その笑顔は、どこか痛々しくて歪に感じる。
儚くて消えてしまいそうで、引き留めたくなる。

「でも時々分からなくなるんだ。なんで自分が笑ってるのか。なんで笑ってられるのか。お兄ちゃんがいないのに、なんで私、笑ってるんだろう」

俺に聞いてる訳ではなく、自問自答するように疑問を投げかける。
笑いながら。

「笑いたいのかな、笑えてるのかな、楽しいのかな。分かんない。でも笑わなきゃ」

言い聞かせるように、何度も何度も繰り返す。
耐えきれなくなって、雫さんの手を強く握った。
雫さんが驚いて一瞬動きを止める。

「………三薙」

そんな顔で笑わないで。
無理になんて、笑わないで。
そう言いたいけれど言葉が出てこなくて、ただ目の前の少女を見つめる。
困ったように、雫さんは笑った。

「ごめんね」
「………」
「お兄ちゃん、ずるいよね。何も言わずに言っちゃうんだもん」

まだ祐樹さんを失って、全然経っていない。
傷が癒えるはずがない。
いや、一生癒えることなんてないだろう。
傷と痛みを抱えて、雫さんは生きていくのだ。
雫さんが笑顔だったから、本当に明るかったから、気付かないふりをしていた。
でも彼女の痛みはこんなにも生々しくて、苦しい。

「………雫さんはまっすぐで、優しくて、強くて、すごい素敵な人だと思う」
「三薙」
「雫さんは、祐樹さんとずっと一緒だったんでしょ。一緒に育ってきたんでしょう」

雫さんが笑顔を消して、顔をくしゃりと歪める。
震える手が痛々しくて、堅い豆のある手を、握りしめる。

「………うん」
「すごく、祐樹さんは、雫さんのこと、大事にしてたんだなって分かる」

雫さんの優しさも強さも、祐樹さんと一緒に培ってきたのだろう。
両親も早くに失った雫さんにとって、祐樹さんの存在が支えだったはずだ。
二人の時間なんて知らない。
分からない。
でも、雫さんを見ていれば、二人がどれだけ仲がよかったのか、分かる。

「祐樹さんは、本当に雫さんを、大切に思ってたよね。少ししか一緒にいなかったけど、すごく、伝わってきた」
「………」

雫さんが、唇を歪める。
それは笑顔の形をとってはいたけれど、泣いているようにも見えた。

「うん、知ってる」

酷く不器用な笑顔だったけれど、とても綺麗だ。
雫さんが笑いながら、頷く。

「それは、知ってるんだ。分かってる」
「………そっか。そうだよな。ごめん、余計なことだった」
「うん。ありがとう。知ってるんだ」

それからふっと穏やかな笑顔を見せた。
まるで祐樹さんのような、優しい笑顔。

「ありがと、三薙」

それから一回目を瞑って、今度は明るい表情を見せた。
にやりと笑って、俺の頭を軽く小突く。

「三薙は、本当に草食系男子だよね。ていうか草食っていうか植物」
「へ」
「一緒にいると、ほっとする」

急に変わった雰囲気にどうしようか一瞬戸惑うが、雫さんの悪戯っぽいからかいに乗ることにする。
雫さんが笑顔でいたいとうなら、その覚悟を尊重したい。

「それは、褒めてんの?」
「勿論!めっちゃ褒めてるよ!」

くすくすと笑って、もう一度俺の頭を小突く。

「どうして友達出来ないんだろね」
「………放っておいてよ」
「だって、人懐っこし、優しいし、イジメられるタイプでもないでしょ?イジメられたことある?」

基本的に友達はいなくて孤立はしていたが、積極的に物を壊されたりとか殴られたりとかはなかった。
ただ遠巻きにされて、一人でいただけだ。

「からかわれる、ぐらいはしたことあるけど」
「うん。大人しくて暗いけど、変なところで動じないし堂々としてるし、イジメの標的じゃないよね。結構強いしね」
「う、ん」

強いかどうかは分からないけど、暴力を振われたらきっと怒ってはいただろう。
殴り返すことはしないけれど殴られたままには、しないはずだ。

「性格も外見も悪くないし、まああんたのうじうじした性格が合わない人もいるだろうけど、でも皆から嫌われるようなタイプじゃないのに」
「………人づきあいが、下手だからだろ。いつも、少し仲良くなっても、すぐ皆、いなくなっちゃったし」

何人か親しくなれそうになった人はいた。
でもそのほとんどは、結局去って行った。
藤吉は中学校の頃からの付き合いだし、よくしてもらったけれど、本当に親しくなったのはつい最近だ。
人と接するのが本当に下手なのだろう。

「うーん。一回仲良くなれば長く付き合えると思うのに。なんでだろ」
「なんでだろうって言われても」
「なんかアンバランスだよね。良くも悪くも人懐っこくて距離感ないのに、人の接し方が下手って」
「俺、変なもの見た時とか、取り繕うことができなくて、よく変な行動とっちゃったから。それが大きいかも」
「ああ」

鬼や闇と呼ばれる存在を見ては、泣いて逃げた。
他の人間には認識できないものに怯える姿は、さぞ奇異に映ったことだろう。
何度もそれを繰り返せば、そりゃ俺に近づく人間はいなくなる。

「昔はもっと、自分で制御、できなかったから」

今はある程度無視することも、コントロールすることも、措置することも出来るようになった。
そのせいか、生活に余裕も出てきた。
だからなのだろうか。

「でも、今はいるよ」

周りには優し人が増えた。
このままずっと友達なんて出来ないかと思っていた。
でも今は、いる。

「そっか。そうだよね。友達も好きな人も、出来たんだよね」
「………うん」
「いいね」

その言葉には大きく頷いた。
好きかどうかはともかくとして、大切な存在が沢山出来たことは確かだ。
優しい大事な人達が、傍にいてくれる。

「でも、力のせいか。本当に、管理者の家なんて本当にろくなことないよね」
「う、ん………」
「あんな家、大っ嫌い。あの家のせいで、お父さんもお母さんも祥子もお兄ちゃんもいなくなった」

吐き捨てるような、呪詛を込めるような言葉。
そうだ、彼女は大事なものをことごとく、奪われているのだ。

「あんなものを大事に大事に思ってるあいつも、くだらない」

あいつとは、今の石塚の当主代理になっている人のことだろう。
憎々しげに言ってから、雫さんはふっと息をついた。
感情を吐き捨てて、静めるように。

「三薙は、家が好きなんだっけ」
「うん」
「そんな風に、純粋に好きになれればよかったんだけどな」

家は、確かに大切だ。
でも、宮守が大事で守りたいかと言われれば、そうでもない。
大事なものは宮守の家ではない。

「俺、は、力がないから大した仕事してないし、少しでも家族の力になりたいって、思うだけだから。俺に力があって、家の仕事もっと出来れば、きっと皆の役にも、もっと立てたのにって」

家の中身が、大切なのだ。
家を形作る要素が大事だ。

「家というより、家族が好きなのかな」
「………そう、なのかも」
「うん、それなら分かる」

雫さんが大きく頷いた。
両親と祐樹さんを慕う雫さんは、家族を愛していたのだろう。

「家族大事にしなよ」
「うん」
「お父さんもお母さんも、お兄さんたちも、四天も大事にしなよ」
「………うん」

父さんも母さんも一兄も双兄も、大事だ。
言われるまでもない。
天だって、弟だ。
嫌いになりたい訳じゃない。
むしろ近づけるなら、近づきたい。

「四天とは相変わらず?」

俺の煮え切れない返事に、何を思ったのか分かったらしい。
雫さんが顔をの祖きこんでくる。

「………どうなんだろ。仲良くなった気もするけど、余計に距離を感じる気もする。どうやったら、うまくいくか分からないんだよな。昔は仲良かったはずなのに」
「なんでだろうね」

仲良さそうに見えるのに、と言われる。
一緒にゲームしたり話したりはする。
でも仲がいいかと言われると微妙だ。
天とどうやって接したらいいのか、分からない。

「雫さんは、天と気があってるよな」

天も珍しく雫さんは気に入っているようだ。
そういえば、志藤さんも気に入っていたようだったっけ。
栞ちゃんは別格として、あいつの基準はなんなのだろう。

「家が嫌いなもの同士、通じ合うのかもね」
「え」

何気ない言葉に、思わず間抜けな声を上げてしまう。
雫さんは振り返って、不思議そうに聞いてくる。

「どうしたの?」
「天が、家が嫌い?」

そんなの、初めて聞いた。
考えたこともなかった。
だってあいつは力があるし、仕事だって出来る。
俺が欲しくて欲しくて仕方ないものを持っているのに。

「うん、え?四天って、家のこと、大嫌いでしょ」
「そう、なの?」
「あ、家っていうか、管理者の立場、かもしれないけど」
「………」
「え、そう思ってたけど、違うの?」

でも、そういえば確かに、面倒だとか、変だとか、おかしいとか、家に対する文句多かったっけ。
単に面倒くさがりで愚痴を言っているのかと思った。
確かに天は力がある分仕事が多く大変なのは確かだったから。
でも、嫌っているなんて、思ってみなかった。
だって、俺が天だったら、仕事が出来ることが、嬉しかっただろう。
自在に力をふるうことが出来るのなら、惨めな思いも悔しい思いもしなかった。

「分からない。確かに面倒臭がること多かったけど、嫌い、なのかな」
「あ、分からない。ただなんとなくそう思っただけだから。変なこと言ってごめん」
「ううん」

雫さんが申し訳なさそうに、謝ってくる。
でも、雫さんは何も悪くない。
むしろ、その言葉に、目から鱗が落ちた気分だ。

「そう、か」

天の体は傷だらけだ。
それは知っている。
得体のしれない化け物ではなくて、人間で俺の弟で怪我もする存在だと知った。

管理者の仕事が楽しいばかりのものではないと知った。
だから天も辛いことが多かったのだろうとは思っていた。

でも、改めてその事実にリアリティを感じる。
やっぱりいつでも冷静で感情を乱さず痛みや苦しみなんて見せない弟は弱さなんて感じない。

でも、家が嫌いになるほど、心も傷ついているのだろうか。
やっぱり俺は天のことを、本当に何も知らない。





BACK   TOP   NEXT