「ん………」 鳥の声が聞こえる、瞼の向こうに明るい光を感じる。 もう、朝か。 まだ携帯のアラームは鳴っていない。 でも、何時だろう。 「………朝、か」 うっすらと目を開くと、そこは見知らぬ天井。 そうだ、ここは、仕事で訪れた立見家だ。 あくびをしながら辺りを見渡すと、部屋の片隅でちょうどスーツに着替えている最中の人がいた。 眼鏡をかけた、少し癇症そうな印象を受ける、男性。 優しくて可愛くて楽しい人。 起きた俺に気付いていたのかこちらを見て、なんだかおどおどと視線を彷徨わせている。 「あ、お、おはようございます、三薙さん」 「し、とうさん………」 志藤さんだ。 そうだ、昨日は志藤さんの部屋で眠ったんだ。 それを思い出しながら、なんとか体を起こす。 「おはよう、ございます」 乱れた浴衣を直しながら、ぼさぼさの髪も手で撫でつける。 どうやらもう完全に起きる時間のようだ。 支度をしなければ。 結構寝たおかげで頭はすっきりとしている。 隅々まで力が満ちたりていて、体が軽くて、気持ちがいい。 うん、調子はいい。 「お体は、大丈夫でしょうか?」 「え、はい………」 俺のことを気遣うように、志藤さんが心配そうに聞いてくる。 体は大丈夫って、なんか昨日あったっけ、と、昨日のことを思い返す。 そして、思い出した。 昨日、志藤さんに供給してもらった時のことを。 「………」 「三薙さん?」 顔が、みるみるうちに熱くなってくる。 俺は、何をしているのだろう。 なんであんなことに。 すぐに誤解を解かなきゃいけなかったのに、理性が吹っ飛んで志藤さんを引き寄せすらしてしまった。 最低だ。 最低の大馬鹿野郎だ。 ていうか、よくよく考えれば、俺、キスしたの、志藤さんで二人目か。 いや、キスじゃないけど。 供給だけど。 「あ、あの」 「はい」 どうしよう。 言うべきか、言わないべきか。 志藤さんは義務であんなことやってくれてたのに、真実を知ったら、トラウマにならないだろうか。 男にキスしてしまったのだ。 なるだろう。 でも、今後、もしやってもらう機会があったら、また同じことになったらそれもまずい。 やっぱり、言った方がいいだろうか。 「あの、まずは、ありがとうございました。力、供給してもらえて、助かりました」 「あ、い、いえ、お役に立てたのなら光栄です」 とりあえず居住まいをただして、座ったまま頭を下げる。 志藤さんもスーツのまま、畳の上に座った。 「………」 「………」 なんとなく、お互い俯いて沈黙してしまう。 どうしたものだろうか。 言うべきか、言わざるべきか。 でもやっぱり、言うべきだろう。 トラウマになったらすいません、志藤さん。 「あ、あの」 「は、はい!」 勢い込んで顔を上げると、志藤さんも驚いたようにひっくり返った声を上げた。 「あの、実は、口じゃなくて、いいんです!」 「え」 俺の言葉に、志藤さんは目を丸くして首を傾げた。 なんのことかよく分かっていない様子だ。 そりゃそうだ、説明が唐突過ぎた。 「えっと、その、すいません、供給って、接触するのは、口じゃなくて、いいんです。手とか、額とかで………」 「え?」 「その………、口と口を、接触する、必要はないというか。え、と、粘膜を触れ合う必要とか、なくて」 うわ、なんだろう、なんか、なんか変だ。 冷静に説明しようとすればするほど、墓穴を掘っている気がする。 「………」 「………」 志藤さんが目を丸くしたまま、固まっている。 無理もない。 本当に申し訳ない。 「………え」 「そ、その、唾液は、確かに媒介になるけど、絶対じゃなくて」 だから俺は、何を言ってるんだ。 志藤さんがそこでようやく我に返ったのか、焦った様子で聞いてる。 「あ、あの、で、でも体液って!」 「あ、なくても、いいん、です………」 俺の説明が、完全に悪い。 熊沢さんが説明したと聞いて、説明を省略してしまった。 そうだよな、そんなの分からないよな。 「………」 「………」 志藤さんは呆然とした顔で、俺を見つめている。 大丈夫だろうか。 心に傷を負ってしまっただろうか。 俺もショックはショックだが、志藤さんは何十倍もショックだろう。 どうフォローしようかと考えていると、いきなり志藤さんはガバリと身を伏せた。 「申し訳ございません!」 「わあ!」 「申し訳ございません申し訳ございません申し訳ございません!」 畳に額を擦りつけるようにして、頭を下げる。 俺は一瞬身を後ろに引いてしまう。 「ちょ、ちょっと、志藤さん!ちょっと!」 「私のようなものが、なんと不敬なことを、本当に申し訳ございません!この責は、どのようなことをしてでもっ」 「いやいやいやいやいや!」 元はと言えば俺が完全に悪い。 志藤さんは何も悪くない。 「顔をあげてください!」 「本当に申し訳ございません!」 「志藤さん!」 「申し訳ございません」 「顔をあげてください!お願いですから!」 重ねて促すと、ようやく志藤さんの謝罪が止まった。 そして恐る恐ると、顔をあげる。 心配そうな、不安でいっぱいの、頼りない顔。 まるで初めて一緒に仕事をした時のようだ。 こんな時になんだが、少し微笑ましくなってしまう。 「すいません、俺の、説明不足です。変なことさせてしまって、本当にすいませんでした」 「い、いえ!」 「嫌でしたよね。本当に、すいません」 俺は不本意ながら慣れてるし、頼む立場だ。 でも、志藤さんは男とキスをするなんて初めてだっただろう。 いや、キスじゃないけど。 でもどっちにしろ、ショックだっただろう。 けれど志藤さんは首を思い切りぶんぶんとふる。 「そ、そんなことありません!」 「いえ、でも、俺がちゃんと説明しなかったせいだし、あんなことさせちゃって、なんというか、ご迷惑をおかけしました………」 「いえ、本当に、嫌じゃなかったですから!………いや、えっと!」 志藤さんのフォローが、なんだか寒々しい。 この罪悪感はどうしたらいいんだ。 「………」 「………」 またお互い黙りこんで俯く。 どうしたものだ、この空気感。 「その、三薙さんは、嫌では、なかったですか?」 「え、えっと」 志藤さんが泣きそうな顔で、聞いてくる。 嫌か、嫌じゃないかでいえば、嫌じゃなかった。 それどころじゃなかったというのもあるが、俺はやっぱり嫌悪感がない。 これも、生存本能だから、仕方ないのだろうか。 嫌ではなく、安心すらした。 「嫌じゃ、なかったです!ていうのも変ですけど、でも、全然!ただ、志藤さんにご迷惑おかけしちゃって………」 「いえ、ご迷惑っていうなら、私が………」 駄目だ、また堂々巡りになってしまう。 どう考えても俺が悪いが、俺の謝罪を受け取る志藤さんではないだろう。 「やめましょう!」 なので、とりあえずそう宣言した。 志藤さんはびっくりした顔でまたたきを何度もする。 「もう、この話は終わりにしましょう!」 「は、はい」 「志藤さんには、申し訳ないのですが、犬に噛まれたとでも思って忘れてください!俺も忘れます!」 そうだ、そうしよう。 これはなかったことだ。 俺が言うことじゃないけど、それがお互いのためだろう。 「なんか力貰っておいて、こんな言い方もなんですけど、でも、なかったことにしましょう!はい!」 志藤さんも、こんなもの、軽い事故として、忘れてほしい。 可哀そうだ。 「………」 志藤さんはじっと、静かな顔で俺を見つめていた。 先ほどまでの泣きそうな顔ではない。 表情をなくした、静かな顔。 「志藤さん?」 「そう、ですね」 不思議に思って問いかけると、そっと目を伏せる。 気のせいか、自嘲するように、唇を一瞬だけ歪めたように見えた。 けれど、すぐに俺を見ていつものように優しく微笑む。 「申し訳ございませんでした。三薙さんは、どうかお忘れください」 「え、は、はい」 なんだろう、なんか変なこと言ってしまっただろうか。 志藤さんは困ったように、苦笑した。 「忘れられると、いいんですけど」 「それは、確かに」 こんな出来事、忘れようにも忘れられないだろう。 二人目の、キスした人だ。 いや、キスじゃないけど。 「すいませんでした。そろそろ朝食ですね。支度をしましょう」 「………はい」 さきほどまでの動揺はどこに行ったんか、驚くほど冷静に志藤さんはすっと立ち上がった。 身支度を整えて居間に向かうと、忙しそうにパタパタと廊下を歩いている湊さんを見かけた。 すぐに俺たちに気づいて、軽く会釈をする。 「おはようございます」 「あ、湊さん、おはようございます。なんだか忙しそうですね」 「今は準備でバタバタしているんです」 今日はいよいよ婚礼の儀の本番だ。 立見家の人達は色々とやることもあるのだろう。 朝食は別々なのだろうか。 「湊さん、朝食は」 「朝食は、僕は別となりますが、露子姉さんはご一緒します」 主役は準備はいいのかな。 一番忙しそうではあるのに。 とりあえず忙しそうな湊さんを、解放しようと話を断ちきる。 けれど、一つだけ気になって、振り返ってしまった。 「すいません、湊さん」 「はい?」 湊さんは立ち止って、同じように振り返ってくれる。 聞こうと思った訳ではないのだが、つい疑問が口をついて出る。 「………霧子さんがいなくなったのって、曇りの日、でしたっけ」 「え?」 「闇夜だったって、言ってましたっけ」 湊さんは俺の質問の意図が掴めないらしく、不思議そうに首を傾げる。 でも、すぐに答えてくれた。 「え、ええ。龍との儀式で、三夜祠にこもっていました。霧子姉さんがいなくなったのは、三夜めの、曇りの日でした。真っ暗だったから、覚えている」 「三夜」 「はい。婚礼の儀式の後、一か月潔斎をします。それから三夜の花紡ぎの儀があります。その三夜目に、姉はいなくなりました」 婚礼の儀とは別にある、花嫁が本当に花嫁になる儀式。 それって、そういうことだよな。 随分直接的な名前でもある。 「三日間、こもってたんですか」 「はい、花嫁は三夜祠にこもります。その間は、世話役の伯母と露子姉さんしか近づきません」 「………露子さん」 「ええ。身内の女性と決まっています」 なんだ。 何を考えている。 やめろ。 考えるな。 「どうかしましたか?」」 「あ、いえ、なんでもありません」 黙り込んだ俺に、怪訝そうに湊さんが聞いてくる。 俺は思い切り首を横にぶんぶんとふった。 「………三日間の間って、ずっと曇ってたんですか?」 「いえ、夜には外にはでなかったので詳細は分かりませんが、最初の二日間は晴れていたと思います」 「………」 曇りの夜に失踪した、霧子さん。 月夜に姿を消した、霧子さん。 この矛盾はなんなのだろう。 「ありがとうございました。頑張ってください」 「はい、三薙さんたちも今日はよろしくお願いいたします」 考えるな。 考えるな。 知ったって、何もいいことはない。 |