バシャリ。 強く押され、引っ張られ、ぐるぐると回されて、気が付いたら俺たちは水の中に浮いていた。 急に全身を針のように突き刺す冷たさ襲われに、全身が痛む。 「うわ、つめた!」 しかも和装の装束は水を吸い重く、動きにくい。 引き摺りこまれるように、そのまま溺れてしまいそうだ。 冬の湖の冷たさは、一瞬にして体温を奪っていく。 焦ってばたばたと手足を動かしていると、そっと肩を温かいものが触れた。 「三薙さん、落ち着いてください」 「わ、し、志藤さん」 「大丈夫です。すぐ淵です。体の力を抜いてください」 志藤さんが肩を抱くようにして、引っ張ってくれる。 ジャケットを脱いだワイシャツ姿は、俺と天よりも身軽だけど、それにしても危なげない。 頼もしく俺を引っ張ってってくれる。 「四天さんもお捕まりください」 「俺は平気です」 志藤さんの向こう側にいた天は、装束のままでもなんとか泳いで淵に捕まる。 俺を淵に捕まらせると、志藤さんが顔を巡らせる。 「露子さんはご無事ですか!?」 「心配ご無用だ。私は淵まで押し上げてくれたようだ」 露子さんはすでに淵に上がっていた。 白無垢は大分濡れているが、俺たちのように濡れ鼠と言う訳ではない。 龍神は、露子さんだけは淵までしっかりと押し上げたようだ。 なんて贔屓だ。 でもよかった。 白無垢が一番、泳ぎにくそうだ。 「だ、大丈夫ですか!?」 「早く上がってください!」 社の前にいたらしい水魚子さんと湊さんが、慌てて駆け寄ってくる。 そして俺達に手を貸して、小島に引っ張り上げる。 「さ、寒い………」 水から上がると寒風に晒されて、更に体温が奪われていく。 冷凍庫の中にいるようだ。 歯の根も合わず、歯がカチガチと音をうるさく立てる。 体が震えて、うまく動かすことが出来ない。 「それは、止水!?」 水魚子さんが、露子さんの手の中にある刀を目にして声を上げる。 露子さんはボロボロになってしまった髪を撫でつけながら刀を掲げる。 「ええ、当家の家宝です。中に落ちてました」 「落ちてたって………」 「それより、叔母さん、車の手配と大野屋への連絡をお願いします。うちの風呂に入れるよりそちらが早いだろう。湊、着替えとタオルを。話は後でにしましょう」 驚いて目を見開いていた水魚子さんがはっと我に返る。 呆けたようにじっと止水を見ていた湊さんも、その言葉に頷く。 「そ、そうですね。失礼いたしました。すぐに用意いたします」 「はい、今持ってきます」 「皆さんは早く中へ。すぐ近くに冷鉱泉の宿がある。着替えてから向かってください」 露子さんはそして俺たちを家の中に促す。 足早に中に向かいながら、俺は露子さんを一度振り返る。 「つ、露、子さんは?」 「とりあえずこの家の風呂に入って、後始末をします。話は夜にしましょう」 「は、はい」 歯がガチガチと音を立てて、うまく話すことが出来ない。 ふわりと、何かが肩にかかって、風が少しだけ遮られる。 「三薙さん、大丈夫ですか」 志藤さんが気遣わしげに、俺を見ている。 肩にかけてくれたのは、志藤さんのスーツのジャケットのようだ。 ジャケットは濡れておらず、温かさを感じる。 「だ、だい、じょうぶです」 「早く中に入りましょう」 「あ、ありがとうございます。で、でも、し、志藤さんも寒いです」 「私は、大丈夫です。早く向かいましょう」 少し躊躇ったが、返す返さないの問答をするより、その方が速そうだ。 体も上手く動かなくて、家の中が酷く遠く感じる。 「皆さん、着替えとタオルを用意しました。すぐに車が来ます。お着替えください」 水魚子さんが、家の中から呼んでくれている。 果てがないとも感じる距離をなんとか歩いて、部屋の中に入り込む。 吹きさらしの広々とした部屋は、それでも外よりは温かい。 「隣の部屋へ。暖房が利いています。そこでお着替えください」 促されるまま向かおうとした時、天が不意に振り返って水魚子さんに視線を向ける。 「そうだ、水魚子さん」 「え、は、はい、どうされました?」 「水魚子さんは、剣は使えるんですか」 「え」 唐突な質問に、水魚子さんは目を丸くする。 けれど戸惑いながらもすぐに緩く首を横に振る。 「私は、演武ぐらいで。とても自由に振うようなことは………」 「そうですか」 「それがどうかされましたか?」 「いいえ。手配ありがとうございます」 それきり、会話は打ち切って天は隣の部屋に向かう。 水魚子さんは不思議そうに首を傾げながらも、その後を追った。 着替えてからすぐに車に乗せられて、3分ほど走ったところにある大きな和風の屋敷に連れて行かれた。 年季の入った木造建築のそれは、けれど古臭くなく風情がある。 大きな一枚板の看板には、大野屋と書かれていた。 すでに連絡が入っていたのだろう、中からふくよかな和服姿の女性が出てくる。 「まあまあまあまあ、大丈夫ですか」 付き添ってくれていた水魚子さんが、女将らしい女性に頭を下げる。 「突然でご迷惑をおかけいたしますが、お湯を頂いていいかしら」 「勿論ですよ。立見家のお客人でしたら、いくらでもお使いください。今は祭り中で他のお客様もいませんしね。さあさ、早く入ってください」 「あ、ありがとうございます」 急かされて、なんとか頭を下げながら、宿の中に入り込む。 三階建てらしい建物の一階の奥に、男と書かれた暖簾があり、そこに案内される。 木造の脱衣所に入り込むと、湯気と温かさを感じる。 とりあえず借りた浴衣に、ダウンジャケットを羽織っているが、寒くて指がうまく動かない。 苦心しながらなんとか脱いで、さっさと浴室に向かう。 「志藤さん?早く入りましょう」 振り返ると、なぜか志藤さんはまだ浴衣を着たままだった。 あのままだと、寒いだろうに、なぜかぶんぶんと首を横に振る。 実際顔は真っ白で、唇も紫色だ。 「わ、私は後で、入ります」 「何言ってるんですか、早く入らないと風邪を引きます」 「で、ですが!」 問答をしていると、脱ぎ終わり俺の横から浴室に入った天が、振り返らないままに言う。 「ぐだぐだ言ってないで入ってください。これで体調を崩されたら運転手がいなくなる」 「………わ、分かりました」 天の一声で、志藤さんは観念して頷いた。 こういった言い方の方が、志藤さんにはきくんだな。 あまり上から押さえつけるようなことは言いたくないが、俺もこれからちょっと気をつけよう。 「すぐに参りますので、先に入っていてください」 「早く来てくださいね。絶対ですよ!」 「はい」 志藤さんの困ったような笑顔を見届けて、俺も浴室に入り込む。 お風呂の中も木造で、壁の板は使い古され黒く染まっている。 オレンジ色の暗めの電灯と、旧式な形の飾りの入った曇りガラスは、それもまた風情を醸し出している。 湯気がもうもうと立ち込め視界が閉ざされているが、俺の部屋が3つぐらい入ってしまいそうな広さがあるのが分かる。 なんだかテレビとかで見る温泉そのもののイメージだ。 「わ、広い」 思わず興奮して、駆け足になってしまう。 かなり前にいった銭湯と同じぐらいか、それ以上に広いだろうか。 カランのところにいってとりあえずかけ湯をすると、冷え切った体にその熱さが身にしみた。 体を簡単に流して、湯船に向かう。 「あ、熱!」 恐る恐る入ると、氷のように冷たくなっていた足には更にお湯が熱く感じる。 入っては出て入っては出てを繰り返して、なんとか湯船につかる。 全身がじんじんとして、皮膚が痺れていく。 でもそれが、何ともいえず心地いい。 芯まで冷え切った体が、溶けて解けていく。 「ふあああ…………」 思わず声が出てしまった。 ゆっくりと全身を伸ばすと、強張った体が弛緩していく。 壁に背を預けて目を瞑ると、このまま眠ってしまいそうだ。 「俺、温泉って初めてだ」 向かに座っていた天に、独り言にように話しかける。 天は髪を掻きあげながら、答えてくれた。 「そうだっけ」 「うん。気持ちいいな」 「まあ、正確には冷鉱泉らしいけど」 「何か違うのか?」 「温度みたいだね」 「へー」 なんだかよく分からないけど、気持ちがいいならなんでもいいや。 ゆったりと湯を楽しんでいると、奥の方で水音がした。 顔を上げると、志藤さんが隅っこの方で湯船に入ろうとしている。 「志藤さん?どうしてそんな遠くへいるんですか?」 「いえ、その、恐れ多いですし………」 「恐れ多いって。もっとこっち来てくださいよ」 「いえ!」 こんな広いんだし誰もいないんだから、真ん中にくればいいのに。 せっかく一緒に入ったのに、これじゃ話も出来やしない。 それでも頑なに拒む志藤さんに、仕方ないので立ち上がった。 「じゃあ、こっちから行きます」 「え、ええ!?」 じゃばじゃばとお湯を掻きわけて進むと、志藤さんが壁に張りつくようにして距離を取ろうとする。 でも所詮湯船の中で、逃げ場はない。 俺は志藤さんの隣に座りこむと、その腕を掴んだ。 「捕まえました」 「み、三薙さん!」 「今は、宗家とか関係ないでしょう。そんな邪険にしないでください」 「そ、その、いえ」 「ようやく一緒にお風呂入れましたね」 何度かチャンスがあったのに実行出来なかったのだ。 経緯はともかく、一緒に入れたのは嬉しい。 逃げないように掴んでいる腕は、堅くしなやかな弾力を感じる。 思わずぎゅっと握ってしまう。 「本当に、志藤さん、筋肉が結構ありますね。いいな」 「み、三薙さん!」 綺麗についた筋肉が羨ましくて、腕から肩にかけてぺたぺたと触る。 そこで真ん中で一人ゆったりと湯につかっていた天の声がした。 「兄さん、その辺にしとけば」 「え?」 「志藤さんが立ち上がれなくなって、のぼせさせたくないならね」 「へ?」 なんのことかよくわからない天の言葉に首を傾げると、志藤さんが上擦った声を上げた。 「四天さん!」 「とりあえず二人とも、うるさい」 少しくらいはしゃいだっていいじゃないか。 こんな機会、滅多にないんだから。 そういえば天と一緒に風呂に入るというのも、中々ない。 というか幼稚園以来ぐらいじゃないだろうか。 そう考えると、この機会を逃すのも惜しいかもしれない。 ちょっと天に近づくのは躊躇いもあるが、ここで変なことはさすがにしないだろう。 「はいはい。志藤さんも、もうちょっとあっちに行きましょう」 「は、はあ」 再度じゃばじゃばとお湯を掻きわけて、今度は天の元へ向かう。 志藤さんも困ったような顔をしながらもついてきてくれた。 やや距離を開けて弟の隣に座りこむと、天はこちらをちらりと見てややうざったそうに眉を顰めた。 濡れた髪を掻き上げるその姿は、天の、男でも女でもない中性的な綺麗さを引き立てている。 「そういえば、お前とこうやって風呂入るのも、すごく、久しぶりだよな」 「そうかな。そうかもね」 「なんか志藤さんもいるし、修学旅行みたいだ」 天は呆れたようにこちらを見て、小さくため息をついた。 本当にかわいくない態度だ。 天の体に視線を送ると、志藤さんに比べるとまだまだ細いが、綺麗な筋肉がついていた。 成長期だから、そこまでつけすぎてもよくないだろうし、ちょうどいいぐらいじゃないだろうか。 「お前も、筋肉付いてるなあ」 「鍛えてるからね」 「………」 そして筋肉を辿っていると、天の体についた多くの傷に目が止まる。 大小様々な痛々しい痕。 それを見ているのが分かったのか、天はこちらを見ないまま言った。 「泣かないでね」 「な、泣かねーよ!」 この前天の背中で泣いてしまったのを、あてこすられているのだろう。 あれは不覚だった。 でも、この傷が見れてよかったとも思う。 そうではなければ、俺は天のことを、いまでも人ではない化け物だと思っていただろう。 化け物、か。 人ではない、もの。 「………それにしても、疲れたな」 「うん。疲れた」 「志藤さんは大丈夫ですか?」 「私は、お二人に比べれば働いてませんから」 人とは違うもの。 人とは違う考え方をするもの。 「………なんか、現実感ないな。露子さんが、あんなこと………」 「あんなこと?」 「あんな、どうして、人が死んでるのに、動じないで、いられるんだろう」 「あの人にとっては、どうでもいいことだからだろうね」 智和さんの死体を見ても、自分が刺したと言う時も、罪悪感の一欠片も感じなかった。 人との意志の疎通が出来ないモノと話している時の、不安感。 鬼や神と話しているかのようだった。 「………露子さん、怖いな」 「まあね。あんなに欲望に忠実に生きられるなら、普通の人間には怖い」 簡単に刺したって言って、龍神も刺したといって、この地がどうなろうと関係ないと言って。 事実、この地は邪気にまみれて大変なことになるところだった。 あれ、でも、邪気払いに俺達は呼ばれたんだよな。 いや、そうだ。 別に露子さんは今、この地が邪気に沈むことは、望んでいなかったはずだ。 あれ、そうなると、おかしい。 「………なんか驚いて、あの時はよく考えられなかったけど、おかしくないか」 「何が?」 「だって、露子さんが智和さんをあの湖に、その、落としたなら、邪気の源は分かっていたはずだよな。俺たちが邪気が残ってるって言った時に、どうにかしようと思うんじゃないかな。いや、でも、俺たちを追い払った後になんとかするって手もあったのか。だから、気にしなかったのかな」 いや、でもそもそも前提がおかしい。 露子さんが邪気の源が分かっていたなら、俺たちが来る前になんとかしようと思っていたはずだ。 「龍神に止水を刺したのが露子さんなら、そのせいで清浄化出来ないってのも分かってるよな。なんで一月も放っておいたんだ。分かってたなら、なんとかしないかな」 わざわざ俺たちを呼ぶこともない。 自分達である程度処理できたはずだ。 少なくとも他家である俺たちに弱みを握られるようなことはしないはずだ。 「………おかしくないか。露子さんが、やったにしては、つじつま、合わなくないか」 「本人が肯定してるのに?」 「でも………、やっぱおかしい。露子さんが全部やったなら、もっとうまく立ち回ること、出来たんじゃないか」 「じゃあ、誰がやったの?」 天が面白そうに、聞き返してくる。 そうだ、露子さんじゃなかったとしても、誰かが智和さんを湖に落とし、龍神の力を封じたのだ。 誰かが、やった人がいるのだ。 そうだ、龍神を愛する露子さんだったら、こんなことはしないんじゃないか。 露子さんの龍神への愛情は、本物だと思う。 あれが、嘘だとは思えない。 でも一連の出来事は、たつみの地を、貶めようとするような行為だ。 もしかして、智和さんの自作自演とか。 あの人は、この地を龍神に支配されるのが反対だったはずだ。 「誰が………、反対派の人、とか」 「まあ、少なくとも、龍を刺した人間は絞られるよね」 「え」 龍を刺した人間は限られる。 すぐに天の言おうとすることは、分かった。 「そっか、止水………」 止水を扱えるのは、立見家の直系の人間だけだ。 己の主以外が持つことを許さない誇り高い刀。 「………」 露子さんではない。 霧子さんは剣が扱えないと確か露子さんが言っていた。 残った候補者は、何人かいる。 その中で、一番、可能性の高いのは、誰だ。 剣を扱える人。 そして、露子さんの言っていたことと、矛盾することを言っていた人。 「まあ、俺たちには関係ないことだよ。もしかしたら立見家の遠縁とか、俺たちの知らない登場人物がいるかもしれないしね」 「………う、ん。でも、それなら、露子さんはなんで、あんなこと」 まるで自分がやったかのようなことを言ったのは、なぜなのだろう。 天がくっと、喉の奥で皮肉げに笑う。 「きっと、あの人にはそんなこと些細なことなんだよ。誰が殺そうと、誰が何を考えようとどうでもいい。龍神以外は、どうでもいいんだ。ただ対処するには自分でやったということのほうが楽だから、そうしただけ。その誰かを責めるほどに、人に興味もない」 人を満遍なく愛するけど、深く執着することもなく、根本的に興味もない。 そういう人、だ。 だから、誰に何を思われようとどうでもいいから、自分が殺したことにしても、関係ないのか。 「………露子さんが、そんな人だから、あんなことを、しちゃったのかな」 「さあね」 いくら考えても分からない。 俺の考えが正しいかなんて分からない。 やっぱり、露子さんが智和さんを湖に落とし、龍神を刺したのかもしれない。 真実なんて、知らなくていい。 そうだ、俺は、これ以上、他家の事情なんて、知らなくていい。 「………お前が、最後に露子さんと話していたのは、どういう意味だったんだ?俺には、よく分からなかった」 二人の会話は、なんとなく今なら半分ぐらいは分かる気がする。 でも、残りの半分は分からないままだ。 「やっぱり俺はあの人にはなれそうにないな」 天は答えにならない答えを返す。 露子さんが羨ましいと言っていた天。 あの人の何が、羨ましいのだろう。 天が人を羨むことなんてないのに。 俺からしたら、天は何もかもを持っているのに。 「でも一つだけ、あの人が言っていたことに心底共感した」 「………何に?」 天はこちらを見て、悪戯っぽく笑った。 そして指を一本立てる。 「秘密」 |