苦しい。
苦しい、苦しい、苦しい。

喉が渇く。
気持ちが悪い。
寒いのに、全身に汗を掻いて服が重い。

天に会いに行くのに悩んでいるうちに夜は明けて、結局昨日は行けなかった。
まだ平気だと思っていたのだが、限界はすぐにも来た。
学校で授業を終える頃には、かなり気分が悪くなっていた。
岡野達には絶対に心配をかけたくなくて無理をしたら、余計に飢えが加速している。
今はもう、手放してしまいそうな意識をつなぎとめるのに必死だ。
引きずるようにして、足を動かす。

早く、早く早く。
力が欲しい。

「三薙」

後ろから響いた声に、一瞬反応出来ない。
どこか聞いたことのある、声。
澄んだ少しだけ低めの女性の声。

「三薙?」

もう一度呼びとめられて、ようやく話しかけられていることを認識する。
なんとか振り向くと、そこにはしばらく前から家に出入りしている一つだけ年上の女性の姿。
背が高くてショートカットが似合う、凛々しい女性。

「あ、しずく、さん。こんにちは」
「うん、こんにちはって、どうしたの!すごい汗!」

俺の様子に気付いてしまった雫さんが、驚いた顔で近づいてくる。
こんなことで、心配はさせたくない。
なんとか笑顔を作って、取り繕おうとする。

「あ、ごめん。大したことじゃ、ないんだ」
「な訳ないじゃん!すごい汗だし、めちゃめちゃ顔色悪いよ!」
「………なんでも、ない」

すでに額にも汗を掻いているし、顔も青ざめているだろう。
ここまで誰にも見とがめられなかったのが奇跡に近い。

「誰か呼んでくる!」

結局誤魔化しきれずに、慌てた雫さんが人を呼ぼうとする。
それだけは避けたくて、そのシャツの裾を咄嗟に掴む。

「あ、待って」
「何!?」

苛立たしそうに振り返る雫さんにちょっとだけ怯んでしまう。
怒ってる女性は、怖い。
けれど誰かを呼ばれるのは嫌だから、なんとか首を横に振る。

「天、天の部屋まで、行けば平気だから」
「四天?でもそれじゃ歩けなくない?」
「大丈夫、そこまでじゃ、ないから」

本当に、四天の部屋までだったら、なんとかなるんだ。
まだ、大丈夫なはずだ。
そう訴えても、雫さんは納得してくれずに眉を潜めるばかりだ。

「ちょっと待って」

そして俺の腕を逆に掴んで、携帯を取り出した。
岡野や佐藤の手とは違う、豆のある堅い手は、けれど温かくて心地がいい。
簡単に操作して、雫さんが耳に携帯を当てる。
誰に電話をしているんだろうと回らない頭でぼんやりと考えていると、繋がったのか雫さんが話し始める。

「四天?今どこにいる?」
「あ」

通話の相手は、天らしい。
決まりが悪くて止めたくなるが、そんな気力もなくて雫さんと天の会話をただ聞くことしか出来ない。

「家の中?じゃあさ、玄関のえーと、隣の隣の部屋の前の廊下あたり。あの辺りまで来て!すぐ!え、いいから、早く!いいの!」

雫さんが怒ったように携帯に向けて怒鳴りつけている。

「とにかく早く!待ってるから!」

そしてとうとう痺れを切らして一方的に話を終了して、携帯を切った。
四天が、来るのか。
こんな限界まで供給を怠ったことを、また何か言われるだろう。
そう思うと、自分が悪いのだが気が滅入ってくる。

「………雫さん」

正直、なんとか誤魔化したかった。
けれど勿論、純粋な好意を、責めることなど出来はしない。

「ちょっと座って休みなよ。すぐ来るって」
「………ごめん、ありがと」
「いいけど」

情けなく雫さんの手を借りて、ずるずると廊下に座りこむ。
そうして壁に背を預ければ、もう一歩も動けないような気がした。
全身の倦怠感と喉の渇き、悪寒と震え、嘔吐感。
昔から付き合いのある飢えは、けれどいつまでたっても慣れることはない。

「どうしたの?」

雫さんが心配そうにハンカチで俺の額を拭いてくれる。
ありがとうと掠れた声で言うと、慌てて首を横に振る。

「あ、辛いならしゃべらなくていいよ」

一見話しづらそうに見える雫さんだが、親しくなるととても話しやすい。
優しくて気がつく、普通の可愛らしい女の子だ。

「………いつもの、こと」
「なんか、病気なの?」
「俺、力が、足りなくて」
「弱いってこと?」

だから心配をかけたくなくてなんとか説明をする。
こんなのは、いつものことなのだ。
心配するようなことじゃ、ない。

「ううん、俺、力が、作り出せない。自分で生み出す力より、消費する力の方が、多くて、ただ生活してるだけで、力が足りなくなっちゃうんだ」
「………」
「だから、天に、力もらわないと、いけないんだ」

一人では通常の生活すらおぼつかない、脆い体。
人に迷惑をかけなきゃ、生きていけない弱い存在。
ただ生きているだけで、誰かしらの負担になってる。

本当に嫌なのだ。
こんな体が、酷く、嫌だ。

「やだ、な。迷惑かけるの、やだ」

思わず、口に出ていたらしい。
雫さんがくしゃりを顔を歪める。

「あ、ごめ」
「………だよね。迷惑かけるの、嫌だよね」

雫さんがきゅっと唇を噛みしめ、眉を潜める。
今にも泣いてしまうんじゃないかという表情に、心配になって壁に預けていた背を持ち上げる。

「雫さん」

けれど雫さんは、首をぶんぶんと強く横にふった。

「でも、利用できるものは、全部利用すれば、いいんだよ。違う、助けがあるなら、その手を取るのは、間違ってない。いいんだよ。間違ってない」
「雫さん」
「助けを差し伸べる手があるなら、取って、いいんだよ」

まるで自分に言い聞かせるような言葉。
雫さんの言葉の意味が知りたいけれど、酸欠の時のように回らない頭ではうまい言葉も出てこない。

「雫さん?」

その時、よく慣れ親しんだ声が、廊下に響いた。
雫さんが後ろを振り向きその姿を認めて、ぱっと顔を輝かせる。

「あ、四天!」
「何かあった、って、ああ兄さんね」

天は不審そうな顔をしていたが、座り込んだ俺を見て何があったか思い至ったようだ。
呆れたように肩をすくめる。

「すごい気分悪そうなの。早くえっと、力をあげる、のかな。やってあげて」
「はいはい」

面倒そうに近づいてくると、俺の顎をその白い手で持ち上げる。
深く黒い目が、じっと俺を観察するように見つめる。

「久々によく我慢したもんだね」
「ご、めん。こんな早くになくなるとは、思わ、なくて」
「いいよ、言い訳は。早めにしろって言ってるのに」
「………ごめん」

確かにこんなの、言い訳に過ぎない。
本当なら旅行が終わった時点で、頼むべきだった。
色々な理由があるにしろ、供給を怠ったのは、俺が責められるべきだ。
雫さんが心配そうに俺と天をきょろきょろと見比べる。

「大丈夫?」
「いつものことです。ご迷惑おかけしました。ありがとうございます」
「それなら、いいんだけど」

雫さんが天の言葉に、ほっと胸をなでおろして表情を和らげる。
ああ、本当にいい人だな。

「よかった。四天に任せればいいよね。大丈夫だよね?」
「ええ。雫さんの修行は順調ですか?」

立ち上がる雫さんに、天が問いかける。
雫さんは一瞬だけ驚いた様子をみせたが、すぐに頷いた。

「あ、うん。順調だと思うよ。宮守家には感謝してる。四天、話をつけてくれてありがとう」
「いいえ。宮守家としても管理者の次期当主との関係を密接にするのは利益のあることですから」
「そう言ってもらえると助かる。私一人じゃ、どうしたらいいか、分からなかったから」
「よかったです。あなたは才能がありますし、すぐに宮守家の助けなんて必要なくなるでしょう」

珍しく、四天がストレートに人を褒めている。
慇懃無礼に接して、皮肉のように人を褒めることはあるが、今回のは本当に褒めているようだ。
笑顔を受かべて、どこかその言葉の端々も柔らかい。
栞ちゃん以外には万人に共通して冷たい奴なのに、
雫さんも同じことを思ったのか、首を傾げる。

「なんか、四天、雰囲気変わったね」
「そうですか?」
「前はもっとトゲトゲしてて、なまい………って、ごめん!」

生意気と言おうとして失礼だと思ったのだろう。
慌てて手をぱたぱたとさせて誤魔化そうとする。
けれど天は楽しそうに一つ笑うだけだ。

「結構ですよ。確かにそう思われるでしょうから。ただ、以前の時と違って、今はあなたに敬意を払っているだけです」
「敬意?私が次期当主だから?」
「いいえ」

ゆっくりと首を振って、天が目を細める。

「俺は、自分の欲するところを確かにして、そのための努力を惜しまない人が好きなんです。迷わず他の何もかもを捨てられるほどの覚悟を持つ人に敬意を抱きます」
「………」

天の言葉に、雫さんは表情をすっと変える。
この前少しだけ見た、強い意志を感じる目。
素直な普通の女の子ではなく、管理者としての覚悟を感じられる表情。
誰かを思い出す、その厳しい表情。
ああ、そうだ。
父さんや、東条家の当主の老女だ。
天はその表情に満足したように頷く。

「だから、今のあなたをとても好ましく思う」
「………そう」

一瞬、廊下がしん、と静まり返る。
それから雫さんはまた表情をかえ、朗らかに笑った。

「でも、やっぱり生意気。私の方が年上なのに超偉そう」
「それは失礼しました」

天もふざけるように慇懃無礼に頭を下げる。
どうやら二人は通じ合うものが、あるようだ。
天のそんな態度が珍しくて、酷く不思議に感じる。

「あ、早く、三薙に力をあげて」
「ええ」

雫さんが倒れ込んでいる俺を思い出して促す。
天はポケットから水晶のストラップを取り出すと、一つを床に置く。

「黒輝」

その名を呼ぶと、みるみるうちに何もなかった空間に黒く大きな獣が現れる。
美しい漆黒の毛並みを持つ狼の姿をした、使鬼。

「俺の部屋まで」

黒輝は嫌そうに鼻を鳴らすが、天の命令には逆らえないのだろう。
いかにも嫌そうに俺を背に乗せる。

「………すご」

見るからに力溢れる使鬼に、雫さんが感嘆の声を上げる。
確かに、これほどの使鬼を自在に扱える人間はそういないだろう。

「ええ。まあ俺は力があるので」
「やっぱり生意気」

さらりと言った天に、雫さんはふんと鼻を鳴らす。
天はそんな態度の雫さんにも楽しそうに笑っていた。
やっぱり、雫さんへの態度は随分柔らかい。

「それじゃ、三薙、お大事にね」
「ありがと、別に、病気じゃないよ」
「うん。でも、早く元気になってね」
「ありがとう」

雫さんが心から心配そうに顔を曇らせている。
心配させるのは心苦しいが、その優しさに胸がじんわりと温かくなった。

「四天、三薙をよろしくね」
「ええ。宮守の者がご迷惑をおかけいたしました」
「はは。それじゃばいばい」

天の言葉に一つ笑うと、もう一度手を振って雫さんは廊下をパタパタと小走りで駆けていった。
残されたのは黒輝の背に担がれた俺と、黒輝の主。

「………お前、雫さんのこと、気に入ってるの?」
「さっき言った通りだよ。俺は迷わない人が好きなの」

部屋に向かって歩きだしながら、天はそんなことを言った。



***




「本当に、我慢したもんだね」

ベッドに横たわる俺の顎を掴み、天が眉を顰める。
うんざりとした口調は、心底呆れているようだ。

「ごめん、本当に、今日頼もうと思ってたんだけど、限界、来ちゃって」
「はいはい」

俺の言い訳を、面倒くさそうに遮る。
自分が悪いのは分かっているのだが、やっぱりそんな態度をされると腹が立ってくる。
俺が供給をためらったのは、天のせいだってあるのだ。

「早くしてくれないと、俺も疲れるんだけどね」
「………だって」

思わず、抗議の声が漏れてしまう。
頼む立場だから下手に出なきゃ駄目だと分かっていても、それでも悔しくて哀しくなってくる。
天が馬鹿にしたように鼻で笑う。

「何?」
「………お前が、あんなこと、するから」

大分供給に対して、抵抗がなくなっていた。
いや、抵抗はあるのだが、仕方のないことだと受けいられるようになってきていたところだった。
それなのにこいつがあんなことをするから、また躊躇いが出来てしまった。
供給を受けようと思ったら、あの事を思い出してしまう。
あんな恥ずかしさと悔しさを、もう二度と感じたくない。

「ふーん?」

天は相変わらず馬鹿にするように皮肉げに笑って、俺を見下している。
その表情にまた羞恥と屈辱を覚える。
やっぱり気にしているのは、俺だけなのだ。
それが本当に自分を軽視されていると感じて、むなしい。
俺の怒りなんて、天にとってはどうでもいいことなのだ。

「なん、で、あんな」

あんなことをしたのかと再度問おうとする。
けれど天はそれには答えずくすくすと笑った。

「気にしてるんだ?」
「………あたり、まえだろ」

あんなことをされて、気にしない訳がない。
あんな、おかしなこと。
兄弟で、男同士で、絶対におかしい。
なんであんなことをしたのか、いまだに天の真意が見えない。

「そう」

けれど天は一つ頷くと、ベッドに乗りあげる。
そして俺を見下ろして、簡略化された呪を唱えた。

「宮守の血の絆に従い、此の者に恵みを」

抗議する暇もなく、冷たい唇が触れる。
こじ開けられた唇から舌が入り込み、俺の舌に触れた。

「んぅ、ん」

その瞬間、回路が繋がってぐらりと眩暈がする。
大きくて厚い舌が俺の舌を引きずりだして、絡め取る。
その感触と入りこんできた白い力に、背筋がのけ反る。
渇き切った体に注がれる力に、快感で涙が出てくる。

「んんっ」

どろりと流れ込む力を飲みこんで、更に力を得ようと天の首に手を回そうとする。
けれど天はあっさりとその身を離した。

「て、ん………?」

まだほんの少ししか、貰っていない。
満たされるまでには、全然足りない。
苦しい。
欲しい欲しい欲しい。
中途半端にもらったせいで、余計に飢えが酷くなる。
もっと欲しい。
欲しい欲しい。
それだけしか、考えられない。

「天っ」

強請るように、訴えるように名を呼ぶと、天が小さく笑う。
そしてギリギリまで顔を近づけて、吐息の触れる距離で言う。

「随分減っちゃってるよね?」
「て、ん?」

それから上体を上げ、俺の足の上に座りこむ。
以前にもあった、展開。
ぼんやりと霞がかかった頭で、どこか違和感と焦燥感を覚える。

「ねえ、兄さん?」
「な、に?」

逃げた方が、いいのではないだろうか。
また、あんなことをされるのではないだろうか。
恐怖に身が竦んで、それなのに天の目から目が離せない。

「一番効率のいい媒介、試してみようか?」

天は俺を見下ろして、見とれるほどに綺麗ににっこりと笑った。





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