「あれって、天、だよな?」 ゆったりと歩いてこちらに近づいてくる袴姿の少年は、確かに在りし日の弟の姿だった。 現在とは打って変わって、にこにこと無邪気に笑う弟。 「みたいだね」 すっかり成長した隣の弟は、不機嫌そうに鼻を鳴らす。 それから無造作にバッグを放り出して、少年に向かって走り始めた。 「天!」 手にした懐剣に白い力を込めて、思い切り薙ぎ払う。 けれど先ほどと同じように、少年の姿はまるで幻だったかのようにふわりと空気に溶けた。 残られた天は手にした懐剣をまじまじと見て、ふっと息を吐く。 「さっきもそうだけど、実体とかはないみたいだね。手ごたえがない」 「………」 「何?」 「………いや、仮にも、自分の顔をそんな躊躇なく」 俺だったら自分の顔にあんなに思い切りよく剣を振り下ろせただろうか。 人ではないものと分かっていても、躊躇しそうだ。 そういえばさっきの志藤さんのお母さんに対しても一瞬も迷う様子はなかった。 こういうところが、少し怖いと感じる。 天は俺の言葉に軽く肩をすくめる。 「自分の顔だから余計にね。ほら、親戚のおばさんとかに昔の話とかされると嫌でしょ?それと一緒。黒歴史なんて思い出したくないよ」 「そ、そういうものか?」 なんだか分かるような、分からないような。 確かに小さい頃の三薙ちゃんはかわいくてーとか話されるのは嫌だが、それとこれとは違う話ではないのだろうか。 それとも一緒なんだろうか。 分からなくなってきた。 「それにしても、なんのつもりなんだろ。志藤さん、あれはあなたのお母様でしたっけ」 「あ、はい!」 天が呆然としていた志藤さんへ視線を向ける。 志藤さんは慌てて飛び上がって、こくこくと頷く。 それから自分を落ち着かせるように深呼吸してから、静かに話す。 「でも、おそらく昔の母です。今はもっと年をとっているはずですから」 「なるほど。何年前ぐらいですか」 「宮守の家にお世話になるようになる前の姿だと思いますので、10年ほど前かと」 「さっきの俺も10年前ぐらいか。年代なのかなあ」 天がこちらに戻ってきて、面倒くさそうにバッグを抱え直す。 懐剣も一応鞘に入れて、今度はコートのポケットにしまう。 「随分驚いていた、というか怯えた様子でしたけど、お母様は苦手なんですか?」 「て、天」 「別に理由までは聞く気はありません。どう思ってるんですか?」 随分踏み込んだ質問に慌てて止めようとするが、天は冷静に重ねて聞く。 確かにお母さんを見た時の志藤さんの様子はおかしかった。 でも聞いていいことなのだろうか。 はらはらとして天と志藤さんを相互に見るが、志藤さんは静かに頷いた。 「………そう、ですね。私は母が苦手です」 「そうですか。ありがとうございます」 天はそれ以上聞くことなく頷いた。 それから小さく首を傾げる。 「さっきの俺は、じゃあ兄さんかな」 「へ?」 「嫌いな人間が出てくるのかなって思って」 なんでもないように言われて、ツキンと胸が痛くなる。 痛みを抑えるように、胸元をぎゅっと押さえる。 「俺、別に………」 「俺のこと嫌いじゃないって?本当に?」 天が皮肉げに口の端を持ち上げて嗤う。 嫌いじゃない、とは言い切れない。 ずっとずっと、嫌いだった。 憎かった。 「で、でも、小さい頃のお前は、嫌いじゃなかった」 「………」 嫌いな人間が出てくるというのなら、どうして小さい子供の姿なのか。 あの頃の天のことは、かわいくて愛しかった。 そうして、あのままでいられればよかったのに。 「あの頃のお前は素直だし懐いてくれたし、すげーかわいかった!」 俺だって悪いけど、天だってあのまま素直で懐いてくれていたら、俺だってここまでひねくれた感情を持たなかったかもしれない。 そう思うのは、勝手だって分かっているけれど。 天はまた、意地悪そうに喉の奥で笑う。 「本当に、黒歴史って思い出したくないよね」 「………俺に懐いていたのが黒歴史だとでも言うのか」 「さてね」 答えることなく、後ろを振り返る。 本当にかわいくない。 昔の天は、あんなにあんなにかわいかったのに。 「ここにいると嫌なこと思い出しちゃいそうだから、さっさと出ようか」 そんなに、俺に懐いていたのが屈辱か。 こいつのこういう物言いは、どうにかならないものか。 「白峰、見つかりそう?」 天が白峰の頭をそっと撫でるが、白峰は申し訳なさそうに首を振った。 「そう、ありがとう。頑張って」 労うように頬と首を撫でると、白峰は嬉しそう犬に似た泣き声で鳴いた。 白峰は、本当に天に懐いている。 そのまま、また俺たちは当てもなく歩きだす。 そして沈黙が辛くて話し始めるのは、やっぱり俺だ。 「それにしても、なんなんだろうな、これ。何がしたいんだろ」 志藤さんのお母さんを出したり、天の小さい頃を出したり。 それによって、何をしようとしているのだろう。 「何がしたい、か。確かに意図が読めないな」 天も俺の言葉に、頷く。 何をしようとしているのか分からないけれど、なんとなくじわりとした悪意は感じるような気がした。 「寒いし、早く帰りたいな」 「本当にね。俺寒いの嫌い」 猫のような仕草で首をすくめる弟に笑う。 ふと、その弟の背中が、少し霞んでいるように感じた。 「え」 霞んだような、じゃなかった。 霧のようなものがいつのまにか立ち込めて、世界が白く靄がかっていく。 周りの住宅がかすんで消えていこうとしている。 少し前まではなんともなかったのに、その急激な変化に辺りを見渡す。 「な、なんだ」 「ちっ」 天が小さく舌打ちをして、振り返り手を伸ばす。 「兄さん、手!」 俺も天の手を掴もうと、手を伸ばす。 しかし、指が掠めた瞬間に、ふっと世界が一瞬姿を消す。 天の姿も、薄い霧のようなものに消えていく。 「天!」 「くそ!」 「天、天!」 「すぐに探すから、勝手に動かないで!」 天の怒鳴りつけるような、苛立った声が響く。 その後に、完全に弟の姿は消えた。 天を追い掛けて霧の中に走ろうとしたが、足元が不安定になっていて転びそうになる。 「三薙さん!」 転ぶと思った瞬間、志藤さんの腕に支えられる。 思わず一瞬ぎゅっと目を瞑ってしまう。 「天っ」 すぐに目を開くと、徐々に霧が薄くなってきていた。 天の声は、聞こえない。 そのまま志藤さんの腕にしがみつくようにして、じっと佇む。 霧がすっかり晴れた頃には、元通りの夕暮れの住宅街がそこにはあった。 ただし、天と白峰の姿は、なくなっていたけれど。 「天………」 「大丈夫ですか、三薙さん」 心配そうに顔を覗きこまれて、俺は自分がしがみついているのが志藤さんだと改めて気付いた。 慌てて手を離して、頭を下げる。 「志藤さん、すいません」 「いえ、大丈夫ですか?」 「は、はい、大丈夫です。ありがとうございます」 志藤さんの眼鏡の奥の目が、俺を心配していて、それを見ていると心が安らいでいく感じがした。 あのまま霧の中に突っ込んでいっていれば、天だけではなく志藤さんともはぐれていたかもしれない。 こんな世界で一人きりになるなんて、耐えられない。 急に体が震えてくる。 「天、は」 「………どうやら、はぐれてしまったようです」 「そう、ですね」 聞かなくても、分かっていた。 周りに天の気配は全くない。 すぐ傍にいるのなら、分からないはずがない。 「………」 「………」 志藤さんは不安そうな顔をしていた。 きっと俺も不安な顔をしているだろう。 こんなことでは、駄目だ。 しっかり、心を強く持って。 落ち着け落ち着け落ち着け。 天はきっと大丈夫。 あいつなら、どんなことがあっても、大丈夫だ。 「天なら、大丈夫ですね。白峰もいるし。問題は、俺たちの方だ」 「そう、ですね」 「………」 経験の少ない、判断能力なんてほとんどない二人だ。 力の供給だけはしっかりされていてよかった。 落ち着いて、行動しなければ。 天が来るまで、二人で持ちこたえなければ。 「黒輝さんを出しますか?」 志藤さんがポケットに入れていた水晶を取り出す。 一瞬、考えて、首を横に振った。 「しばらく、奥の手ってことで、取っておきましょうか。黒輝も白峰と同じで顕現には力がいりますから」 黒輝を呼び出したら、頼もしくて安心できるだろう。 とても心惹かれる提案だ。 でも、天と合流するまでに、これからどれくらいかかるかわからない。 力は温存しておきたい。 「俺がいるから、天は見つけることができるとは思います」 それに、黒輝は天との連絡役として残された。 俺がいるなら、それは不要だ。 「もし俺ともはぐれた時は、すぐに黒輝を呼んでください」 「………はい」 もし今後志藤さんと俺もはぐれることになったら、その時に志藤さんに使ってもらった方がいい。 今は、まだ黒輝の力を使わない方がいいだろう。 「動いた方がいいのか、動かない方がいいのか」 「四天さんもおっしゃったように、動かない方がよろしいのではないでしょうか」 そういえば勝手に動くなって、言われたっけ。 ここで勝手に動いて何かあったら、天の眉間にまた皺が寄るだろう。 「………そうですね、迷子の鉄則。その場を動くなでいきましょうか」 「はい」 そうと決まれば、話は簡単だ。 俺たちはただここで待っていればいい。 なんとも受動的で情けないけれど、これが一番天のためでも俺たちのためでもあるのだから仕方ない。 天は大丈夫。 きっと大丈夫。 だって、四天なのだから。 「あの、三薙さん、恐れ入りますが………」 「そんな恐れ入らなくてもいいですよ」 いつも恐縮して恐れ入っている志藤さんに、つい少し笑ってしまう。 恐る恐る俺の顔色を窺うように、もじもじとしている。 「どうかしたんですか?」 「あの、手を、拝借していいですか」 「は?」 その時俺の頭に浮かんだのは、さあ、お手を拝借!という言葉と三三七拍子。 どういうことなのだろうかと首を傾げると、志藤さんがみるみるうちに顔を赤く染める。 「あの、またさっきみたいなことになると、あの………」 「あ、なるほど」 手をつないでおこうってことなのか。 変な解釈をしてしまって恥ずかしい。 ていうか手を叩かなくてよかった。 「そうですね、はぐれたら駄目ですね」 「は、はい」 「ありがとうございます」 俺は志藤さんが差し出す手に自分の手を重ねる。 細くて骨ばった、硬質な手だった。 大きいけれどどこか頼りなくてポキンと折れてしまいそうだ。 「い、嫌じゃないですか?」 「え?」 「こんな風に手を、つなぐって」 そんなことを考えていると、志藤さんが困ったように聞いてくる。 あれ、もしかして嫌だったのだろうか。 「あ、嫌ですか!?」 「いえいえいえいえ!」 慌てて手を引こうとすると、ぎゅっと掴まれた。 思いのほか強い力に、少しだけびっくりする。 「いえ、私は全く嫌ではありません!」 「ならいいんですけど」 手を洗ってないから、汚いとかあるかもしれない。 豆とかもいっぱいで、柔らかくないし。 というか何の躊躇いもなく手を握ってしまったが、もしかして男同士でこの年でこんな風に手をつなぐのはおかしいことだろうか。 「………もしかして、この年で、こんな風にするのって、おかしいんですかね」 「………えっと、私にも、よく分からないです」 俺は普段から供給なんかもあって一兄とかと接触することが多いから、あまり気にならなかった。 だから、その流れで志藤さんとも手を繋いでしまった。 でもこれを藤吉とか双兄としろって言われたら、確かになんか嫌だ。 ていうかおかしい。 「えーと、まあ、ほら、緊急時ですから!」 「そ、そうですね!」 でも今は仕方ないので、それで納得することにする。 お互いの安全のためだし仕方ない。 「………」 「………」 でもなんか改めて意識すると、恥ずかしい。 志藤さんも赤くなっている。 なんか、話題。 話題を探さないと。 「そうだ、志藤さんって、ゆかりって名前なんですね」 「ええ、ちょっと女性ぽくて嫌なんですが」 「どういう字を書くんですか?」 「えん、です。えにし、とか、良縁、とかの縁です」 「いい名前じゃないですか!」 縁とかいてゆかり。 それはとても綺麗な響きだ。 確かに女性的な名前ではあるが、中性的な印象を受ける志藤さんにはよく似合っている。 「そうですか?」 「はい、いい名前だと思います。いい縁がありますようにてことなのかな」 「………ありがとうございます」 志藤さんは照れたようにはにかんだ。 やっぱりこういうところがなんか幼くてかわいい。 こういう弟欲しかったなって思うのは失礼だろうか。 失礼だな。 「志藤さんは、結構前からうちにいるんですか?」 「はい、先ほども言った通り、かれこれ10年になりますでしょうか」 「そんなに見かけなかったんですけどね」 「私のような人間は宗家の方ではなく、分家の方で養育されますから。そこで修行を積んで資質によってどこにいくか決まります。勿論、宮守を出ることも自由です。ただ、こういう力がある人間は、どこかの庇護下にいたほうがいいので出ていく人間は多くありませんが」 「へえ」 なんか家の人間が出たり入ったりしてたり、管理者のとしての仕事を手伝う人がちゃんといるのは、そういうシステムになっていたのか。 知らないのは、まずいのかな。 こういうのもこれから知って行った方がいいのだろうか。 「そのまま、宮守で、働くんですか?」 「ええ。私みたいに子供の頃から育てられているという人間はそう多くはありませんが、宮守が運営している企業の手伝いをしたり、こんな風に管理者としての仕事を手伝ったり」 「そうなんですか」 宮守の家で育てられて、そのまま宮守の家のために仕える それはやっぱり時代錯誤で、自由がないようにも感じる。 俺が顔を顰めたのを見て、志藤さんが優しく笑う。 「いいことか悪いことか、は一概には言えないかもしれませんね。少なくとも私は心より宮守に感謝しています。人とは違うものが見え、不幸を呼びこみ、どこにも行けない私に、力の制御や異質なものと対峙する方法、そして居場所を与えてくれたのですから」 「………」 俺も人とは違うものが見え、人にない力を持つことで、苦労をしてきた。 人から排除される孤独感は、分かる。 けれどいつだって俺には家族がいた。 この人は家族と離れて、ここにいるのだ。 志藤さんが困ったように笑う。 「そんな顔をしないでください。私は今、恵まれていると思っています」 「………はい」 志藤さんが不幸かそうじゃないかは、俺が決めることじゃない。 同情するのも、おこがましいかもしれない。 俺が分かるのはただ、一つだ。 「勝手な言い分かもしれませんけど、俺は、志藤さんが、宮守に来てくれて、それで今ここにいてくれることが、嬉しいです」 「三薙さん………」 志藤さんの堅くて冷たい手を温めるように、握る。 じんわりと、お互いの体温が移って行く。 志藤さんにとって、宮守が居心地がいいところならいい。 「縁」 響いた声に、ぎくりと二人同時に跳ね上がる。 手はつないだまま、道の向こうへ視線を向ける。 道の向こうには、清潔感のある若い女性。 「………また」 女性はゆっくりと近づきながら、穏やかに笑っている。 この異質な世界で、そんな普通の姿が不釣り合いで、酷く違和感がある。 「縁、こっちへいらっしゃい」 女性が、笑う。 志藤さんの手に、力がこもった。 |