「はっ、はあ、はあ」

二人で手を繋いで走って、角を曲がって、また走って、また曲がって、それを何回繰り返しただろう。
相変わらず、前を見ても、夕暮れの住宅街。
後ろを見ても夕暮れの住宅街。
景色に全く変わりはない。
今どこにいるかなんて、とっくのとうに分からない。

「後ろ、もう、いないですか?」
「はい、ついてきてはいないみたいです」

その言葉に、俺はようやく足を止める。
もう肺が破裂しそうで、限界だった。
立ち止ると、動かし続けた足も限界だったことが分かる。

「だい、じょうぶ、ですか」
「はい、三薙さんも、大丈夫ですか?」
「は、はい」

志藤さんは息を弾ませてはいるものの、俺よりも余裕がありそうだ。
走ったせいか、顔色も大分赤くなって、血の気を取り戻している。
それを見届けて、全身の力が抜ける。

「はっ」
「三薙さん!?」

大きく息を吐くと同時に、ずるりと膝から崩れ落ちそうになる。
けれどアスファルトの上に座りこむ前に、志藤さんに腰を支えられた。

「大丈夫ですか?」
「は、い。すいません」

そうは言うものの、安心したせいで体に力が入らない。
酸素が行きわたった脳が、ようやく現状を整理し始める。
先ほどの女性。
天が攻撃した時は、幻のように消え去ったのに、さっきは物理的に攻撃を受けたように血をあふれさせた。
俺たちの力はただ振うだけでは物理的な攻撃力は、ない。
それなのに、ざっくりと裂けた、肩。
生々しい血に濡れた肉、白い脂肪、骨、内臓。
そして、最後に俺はもう一度、彼女を攻撃した。
本当に当たったかどうかまでは、見えなかったけれど。

「………う」
「三薙さん!?」

吐き気がこみ上げてふらつく体を、志藤さんの腕に縋ってなんとか持ちこたえる。
例え人とは異なるものだったとしても、あんな風に血と肉を持つものを傷つけたという事実が今更ながらに恐ろしくて、血の匂いがするようで、体が自然に震える。

「大丈夫ですか、三薙さん?」

志藤さんが心配そうに、顔を覗き込んでくる。
吐き気を抑えながら、俺は震える唇でなんとか言葉を紡ぐ。

「………志藤さん、すいません」
「え」
「仮にも、その、お母さんの姿をしているのに、傷つけて、しまって」

あれは、まして、志藤さんのお母さんの姿をしていた。
あの時は頭に血が上って、早く逃げなきゃと思って、あの女性が化け物に見えて、力を振うことにあまり躊躇うことはなかった。
今でも、それは、後悔は、していない。
あれは、人の姿をしてはいるものの、人ではない。
ああしなきゃ、逃げられなかったかもしれない。
俺ができる、精一杯だった。
でも、志藤さんは、お母さんを傷つけられて、どう思っただろう。

「いえ、ありがとうございました。三薙さんのおかげで、助かりました」
「………」

けれど志藤さんは心配げだった表情を、柔らかい笑顔へと変えた。

「本当です」

黙りこんでしまうと、安心させるように重ねてそう言ってくれる。
俺を気遣って言ってくれてるのかもしれないけれど、そう言ってくれてほっとする。
しかしそこで、一つの問題に思い至る。

「あ!でも、もし、そういえば、本人に、影響とかあったら………」
「四天さんに何もないのですから、それはないと思います」
「………あ、そっか」

そういえば小さい四天も、攻撃してもなんともなかった。
それなら、大丈夫だろうか。
あれで、よかったのだろうか。

「大丈夫ですか、三薙さん」
「………その、志藤さんは、大丈夫ですか?」

さっき、あんなに傷ついた顔で、動揺していた。
あんなひどいことをお母さんの姿をしている者に言われたのだから、当然だ。
けれど志藤さんはすっかり落ち着きを取り戻して笑う。

「はい、取り乱してすいませんでした。もう、大丈夫です。あれは母ではない。そしてもう私も、子供ではありません」
「………」

あの取り乱しようは、多分、あの女性の言った言葉は、なんかしら志藤さんを傷つけるものだったのだろう。
お母さんを苦手だと言った、志藤さん。
過去に、志藤さんを傷つけることが、あったのだろうか。
一体何が、あったのだろう。

「少し、休憩しましょうか」
「あ、は、はい」

志藤さんが俺を支えながら、ゆっくりと座り込む。
すぐに立てるように足を立てて座り、周りの気配には注意する。
そんな気を張った状態だけれど、ずっと足を酷使していたので、それでも落ち着くことが出来た。
ふうっと息をつくと、志藤さんがおもむろに話し始める。

「私は、両親と兄と、父方の祖母の5人で暮らしてました。祖母と母の折り合いはあまりよくありませんでした。父が仕事で家にあまりいないので、余計だったんでしょうね」
「あ」

俺が聞きたそうにしていたのが伝わってしまったのだろうか。
慌ててそんなこと話したくないのなら言わなくていいと、制止しようとする。

「つまらない話なのですが、聞いてもらってもいいですか?」
「………でも」
「嫌でしたら、やめます。本当につまらない話なので」

別に嫌な訳じゃない。
志藤さんが嫌なんじゃないかと、心配なだけだ。
頭を横に思い切りふると、志藤さんはありがとうございますと小さく言った。

「私はこういう力を持って、生まれてしまいました。母方の親戚にそういった力を持つ家系があったらしくて、私は先祖返りだったみたいです。宮守の方と比べたら微々たる力ですが」

俺は力を持つ人間が集まる家の中で生まれた。
だから、家の中でただ一人力を持つという環境は分からない。
けれど、そんな俺も学校でずっと孤立し続けたことを思えば、理解のない人達の中にいるということがどれだけ辛いことか、想像が出来る。

「常人には見えないものを見て、人からは奇異としか見られない言動をする私を、母は持てあましていました。私が虚言癖があるとして、祖母にも酷く責められていました。母親の育て方が悪い、と」
「そんな!」
「お願いだから変なことを言うのはやめてくれと言われても、見えてしまうんです。なんとか見えないふりをしようとしても、どうしても悲鳴を上げてしまうし、反応してしまう。そしてまた祖母はそれで母を詰り、母はますます追い詰められる」

見えないようにしても、見えてしまうのだ。
今ではだいぶそういったものへの対処もうまくはなった。
けれど昔は何も出来ずただ翻弄されていた。
やっと出来そうだった友達は、それですぐにいなくなった。
でも、俺には家族がいた。
家に帰れば、皆が慰めてくれて、遊んでくれた。

「兄は長男だということで、祖母に無理矢理取りあげられて、母は育児にほとんど携われなかったそうです。それでようやく育てられると思った次男が私のようなのだったんです。母が私を拒絶するのは、無理のないことです」
「………」

見えない人間に、理解しろと言っても無駄だ。
だって、見えないのだから、仕方ない。
でも、どうして、信じてくれなかったんだろう。
志藤さんのお婆さんは、お母さんは、信じてくれなかったんだろう。
言っても栓のないことだ。
でも、胸が痛くて、苦しい。

「………」

そこで志藤さんは、優しく笑った。
自分が傷ついているだろうに、俺を励ますように殊更明る声を出す。

「宮守の家で幼い頃からお世話になっている人間は、たいてい似たような事情を持っています。特別なことではありません」
「………そんなっ」
「その後、母方の祖父母に引き取られ縁あって宮守に来ることが出来た私は、むしろ幸運です」

静かな声で、そっとそう言って笑う。
その笑顔に、胸が詰まって、喉に息がつかえる。

「三薙さんだって、人とは違う力を持って、苦労もされたでしょう?」
「でも!」

辛い思い出を、無理矢理話させてしまった。
でも、なんて言ったらいいのか、分からない。
そんな哀しい笑い方なんて、してほしくない。
そんな哀しい思いをしたのに、なんでもないなんて言ってほしくない。

「でも、志藤さんの痛みは、志藤さんのものです!」
「三薙、さん」
「同じような事情だって、引き取られたのが幸運だっていっても、志藤さんが痛かったら、哀しかったら、それは痛くて哀しくて、いいんです。無理してなんでもないふりして、笑うことなんて、ないです」

痛いなら痛いって言ってほしい。
苦しいなら苦しいって言ってほしい。
無理矢理笑わなくてもいい。

「あ、でも、その痛みを、人に見せたくないってのも、あるし、そんなこと言うのも、傲慢なのかな。俺だって、強がるし、同情なんてされたくないし。でも、辛かったら我慢なんてしなくてもいいし………」

でも、もしなんでもないと笑っているのが一番楽なら、それでもいい。
俺だって強がって、その強がりを虚勢だと言われるのは嫌だ。
での、無理矢理には笑わないでほしい。

「何言いたいのか、よく分からなくなってきた」

頭が痛くなってきて、髪をぐしゃぐしゃと掻きまわす。
こういう時きっと、一兄や双兄や天だったら、うまく話せるのだろう。
やり方はそれぞれでも、心を軽くする言葉を、言ってあげられるのだろう。
自分の浅はかさと経験のなさが、忌々しくなる。

「………その、無理してないですか?苦しく、ないですか?俺には我慢なんてしないでください」
「三薙さん」
「俺は、志藤さんが好きだから、なんか出来るなら、したいです」

だから結局、そんな適当な言葉しか、言えなかった。
本心からだけど、なんて空々しくて、説得力がないんだろう。
力になりたいけど、俺にそんなこと出来るような能力はない。

「ありがとうございます」

いつのまにか膝の上で強く握っていた手を、志藤さんが両手で優しく包んでくれる。
そして穏やかに、優しく笑う。

「私はあなたといるだけで、力が沸いてくるような気がします」

そのまま、俺の手に屈みこんで、そっと唇を寄せる。
手に、温かく滑らかな感触が、触れる。
まるで祈るように、志藤さんが頭を下げている。

「ありがとうございます、三薙さん」

そのままもう一度お礼を言ってくれて、同時に志藤さんの湿った吐息が手にかかる。
その温かさに、今がどんな状態なのかを認識する。

「………えっと、あ、あの」
「はい?」

先ほどまでの切ない感情は、驚きと焦りで駆逐されてしまう。
志藤さんが、俺の焦った声に、不思議そうな顔で首を傾げる。

「あ」

固まった俺を見て、志藤さんも自分が何をしたのか思い至ったらしい。
みるみるうちに顔が赤くなっていく。
俺もきっと、顔が赤くなっていると思う。
なんか、ものすごく恥ずかしい。

「す、すいません!!」
「い、いえ!」
「すいません!申し訳ございません!私は宗家の方になんてことを!」

志藤さんがぱっと手を離して何度も何度も座ったまま謝る。
ていうか正坐になった。
そして、そのまま土下座になってしまった。

「申し訳ございません!申し訳ございません!」
「い、いいですよ!」

顔が真っ赤のまま、深く深く頭を下げる。
その必死さに、なんだかこっちが申し訳なくなってしまう。
ただ、ちょっと恥ずかしかっただけで、そこまで謝られるようなことでもない。

「本当に申し訳ございません!」
「だからいいですってば、ちょっとびっくりしましたけど」

その焦りっぷりに、だんだんおかしくなってきてしまう。
志藤さんって、意外にラテン系なのだろうか。
ものすごく自然すぎて、最初全く反応できなかった。
熊沢さんにもあんな風にしてるのだろうか。
かなり恥ずかしいが、志藤さんの親愛の情の表れというのなら嬉しい。
それに、一緒にいると元気になれるってのも、嬉しい。
志藤さんや岡野や藤吉が俺に元気をくれたように、俺も志藤さんに元気を与えられているのだろうか。

「それに、宗家とか、今はなしでお願いできませんか?せっかく家とか関係ないところにいるんだし」

今は、二人きりだ。
短い時間だとしても、友人として、いたい。
志藤さんがようやく顔をあげて、困ったように眉を潜める。

「せっかく、ですか?こんな状況なのに?」
「あ、そういえば、変ですね。すごく大変な状況だ」

そこでお互い顔を見合わせて、同時に噴き出してしまった。
本当にさっきまでの苦しさが嘘のように、胸が温かくなってきた。

「でも、こんな時だからこそ、友達で、いましょう。今だけでも」

恐る恐る言うと、志藤さんは困ったように笑って、それでも頷いてくれた。

「では、恐れ多いですが、今しばらく、この時だけは、友人だと思ってもいいですか?」
「はい!」

弱くて強くて、とても親近感が沸く人。
一緒にいた時間は決して長くはないのに、近くに感じる人。

「志藤さんのことは、俺が守ります」
「では、私も三薙さんのことを守ります」

そこでもう一度お互いの顔を見合わせて、笑う。
それからしばらく、他愛のない話をして過ごす。
こんな異常な状況なのに、とても楽しくて心が弾んだ。

引き取られた当時は、熊沢さんが面倒をみてくれたらしい。
でも悪戯に付き合わされて、罰は志藤さんだけが受けたとか。
でもその後美味しいものを食べさせてくれて、機嫌を取られたとか。
楽しい思い出は、双兄と俺のエピソードと似ていることも、笑ってしまった。

「あ………」

しばらくそうして過ごしていると、ずる、ずる、とどこからか音が聞こえてきた。
何かを引きずるような、重い、音。
そして、僅かにそこに重なる、ぐちゃ、とかぴちゃ、とか粘着質な音。
剥き出しの肉を引きずって歩けば、こんな音がするだろうかという、不快な音。
志藤さんと俺は、同時にゆっくりと立ち上がる。

「………あれは、志藤さんのお母さんじゃない。だから志藤さんが傷つく必要なんて、ないんです」
「はい。私はもう、祖母と母の顔色を窺うしかない、子供でもありません」
「はい」

音がする方に、顔を向ける。
道の向こうから、何かがやってくる。
それは、立ってはいなかった。
腕の力で体を運び、ずるずると、地面を這っている。

「縁、縁、縁、縁、縁、この化け物、化け物、化け物化け物化け物、私の子供を返して」

赤く染まった体、千切れかけた腕と足、ふりみだした髪、充血した目。
そんな姿でも女性は、悲痛な声で叫ぶ。

「私の子供をかえしてええええ!」

ずきずきと、胸が、痛む。
志藤さんが俺の手を一瞬だけぎゅっと励ますように握ってくれた。





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