天は右手を軽く振って、懐剣についた血を払う。
首を失ったまま立っている小さな体の後ろにあるその姿が酷く自然で、それだからこそ違和感があった。
小さな体が身に纏った白い長着も、赤く赤く染まっている。

「ま、俺も汚いけどね」
「て、ん」

天は軽く肩をすくめて、血にまみれた姿で苦笑する。
確かに天は、髪にも顔にも服にも、血が付いて赤く染まっていた。
ああ、やっぱり天には赤がよく似合うな、とぼんやりと思った。
赤い赤い世界の中、天は白く、そして赤く染まっている。

「またズタボロにされちゃって」
「………っ」

小さな体の横をすり抜けて、俺の元へやってくる。
すっと首をなぞられると、鋭い痛みが走った。
志藤さんのお母さんの姿をした奴にも、天の姿をした奴にも絞められて、喉がとても痛む。
咳き込むと、圧迫され続けていたせいか、喉の奥も痛む。
体中のどこもかしこも痛い。
腹の中も、まだ力を御し切れてなくて痛い。

「あはは、あはははは」

急に高い笑い声が聞こえて、びくりと体が跳ねる。
慌ててその声の元へ視線を送ると、地面に転がった天の顔がこちらを見て笑っていた。
体から切り離され、肉の断面を見せ、血を溢れさせてなお、小さな天は笑う。

「すごいすごい、さすが僕だね」

吐き気がするほどの不気味で陰惨な光景に、眩暈がする。
目の前の現在の天は、冷たい目でただその首を静かに見下ろした。

「ていうか、兄さんの中の俺のイメージって、アレなんだ」
「………いや」

そのままのイメージって訳ではない。
小さい頃の天は、あんな不気味なイメージではない。
純粋で優しくて可愛かった。
むしろ今の天の方のイメージには、近いかもしれない。

「ま、いいや」

黙りこんだ俺に、天は軽く肩をすくめた。
そして地面に転がる顔の元へとすたすたと歩いていく。

「あーあ、本物が来たら駄目だね」
「本物とか偽物とか、やめてくれない?お前が俺の偽物とも思いたくないし」
「逃げたいの?」

その瞬間、天が小さな顔を思い切り踏みつけた。
ぐしゃっと、嫌な音がする。
それはなんの容赦もない、鋭い一撃だった。
見ているこっちが瞬間的に目を瞑ってしまう。

「………っ」

あれは人間とは異なるもの。
天ではないもの。
けれどあんな風に冷静になんの躊躇いもなく踏みつけに出来る弟の方が、怖くも感じた。
そもそも人の顔なんて、踏みつけになんて、したくない。

「危ない、四天さん!」

志藤さんの声が響いて、目を開く。
天の後ろの位置にいた、小さな体がその手を上げて、それと共に影がゆらりと動く。

「………しっ」

志藤さんが素早く近寄って、小さな体に回し蹴りをいれる。
綺麗に背中に決まって、その反動であっさりと体は地面に倒れ込んだ。

「黒輝、白峰、喰い殺せ。ま、食えるのか分からないけど」

天は倒れ込んだ袴姿の体にちらりと視線をうつす。
そして冷たくそれだけ言った。
途端に天の後ろに控えていた黒輝と白峰が天の体に襲いかかり、その牙を喰いこませる。
血が溢れ肉が引き引き千切られる光景に、目を逸らす。

「ありがとうございます、志藤さん」
「い、いえ」

天は志藤さんに、微か笑って礼を言う。
志藤さんは驚いたように飛び上がって首を思い切り横に振った。

「きゃはははは、あははは」

足が少しどいた隙間から、首が笑う。
天がその手にもった懐剣を振りかぶった。

「消えろ」

そうして、そのまま振り下ろして、ざくりと音がした。
溢れだす血と、鉄の匂い、肉の裂ける音。
目を覆い、耳を塞ぎたくなる光景。

「………っ」

でも、俺の中の、恐怖だ。
最後の最後まで、見届けないといけない。

「………き、は」

幼い天の声がかすかに笑い声を残して、消えていく。
そして懐剣が突き刺さった天の顔も、すっと幻のように消えていく。
それと同時に黒輝と白峰が抑えつけていた体も消え、天の体を染めていた赤い血も消える。
何もかも、幼い天が現れる前と同じ光景が、戻ってくる。
まるで、何事もなかったかのように。

「………おわ、り?」

あまりにもあっさりとした終焉に、信じられなくて聞いてしまう。
天は滴っていた血も消えた懐剣を、鞘にしまい込む。

「こいつはね」
「こんな、簡単に………?なん、で」
「さあ?」
「だって、あんなに苦労したのに」
「俺に言われても知らないよ」

俺と志藤さんの二人で、あんなに苦労したのに。
いくら天が強いからって、なんであんなにあっさり。
なんだか理不尽な気持ちで、本当はまだいるんじゃないかと疑いを持って、辺りを見渡す。
すると、志藤さんがおずおずと遠慮がちに口を開いた。

「………恐らく、四天さんが来たからだと思います」
「え」
「先ほどの四天さんの姿をしたあれは、三薙さんのイメージでした。誰よりも強い、四天さんのイメージ」

それは、黒輝も言っていた。
あれは俺の中の恐れ。
俺が天を強いと思えば思うほど、あの小さな天は強くなる、と。

「だから本物が来たら、偽物の力が無くなったんだと思います。誰よりも強いのは本物だという認識が、恐怖に上回ったんだと、思います」
「………」
「三薙さんが本物の四天さんを強いと思っているから、あいつを消し去ることが出来た」
「………」

これも前に聞いた言葉。
そう、あれは俺の夢の中で、双姉から聞いたのだ。
俺が天の強さを信じているから、あの夢の中の天は強いのだ、と。
それと同じことなのだろうか。

「三薙、さん?」
「………え、と」

俺は、結局天を、そんなにも信じているのだろうか。
いや、こいつの強さは知っている。
兄弟のうち、誰よりも強い力を持っているのは知っている。
だからと言って、こんな風に天を心から信じてる、みたいなことを言われると恥ずかしくなってくる。
同時に弟に寄りかかりまくっている自分が恥ずかしい。

「志藤さん、熊沢さんから何かもらったりしてませんか」
「え」

天は俺たちの会話なんて気にした様子もなく、再度こちらに近づいてくる。
こっちがいたたまれない気持ちになってるのに、その態度はなんなんだ。
いや、それでからかわれたりしても嫌なんだけど。

「ここに来る前に、何か預かったりとかしてませんか?」
「えと、あ!」

天の質問に、志藤さんは思い至ることがあったらしい。
慌ててごそごそとコートのポケットを探る。
そして取り出したのは、何かを包んだ小さな懐紙だった。

「お守り、頂きました」
「お守り?」
「はい、こちらです。魔除けのお守りとかで、なんか変な力を感じたのですが」
「………貸していただけますか」
「はい」

天が手を差し出すと、志藤さんは躊躇いなくそのまま渡す。
受け取ると天はそれをじっと見つめ、しばらく裏にしたり表にしたりして眺める。

「あ、の?」
「………はあ」

それから、脱力したようにため息をついた。
本当にうんざりとしたような声だった。
志藤さんが何か粗相をしたのかと思ったのか、慌てふためく。

「ど、どうかされましたか?」
「この状況の、原因の一つはこれですね」

天はそのお守りを掲げて、投げやりに応える。

「え!?」
「え!」

俺と志藤さんは同時に、声を上げてしまう。
熊沢さんがくれたお守りが、この状況の原因とはどういうことなのだ。

「白峰が術の綻びを中々見つけられないから変だと思ったんですよね。黒輝に聞いたら、術が二つかけ合わさって変なことになってるって言うし」
「え、え!?」

そう言えば、黒輝は二つの意志を感じるって言ってたっけ。
歪みを感じるって。

「で、そのうちの原因の一つがこれ。お守りとか、笑えない。普通に呪術。呪い」
「え、ええ!?熊沢さんがですか!?」
「そう。まあ、多分本気でかけた呪いじゃないでしょうけどね」

志藤さんが信頼していた熊沢さんの仕打ちに目を白黒させる。
どういうことなのだろう。
志藤さんに呪いをかけるとか、熊沢さんは何をしてるんだ。
あの人のことだから、別に志藤さんを害そうと思った訳じゃないんだろうけど。
………違うよな。
違うと思いたい。

「とにかく、これ破ってもいいですか?」
「あ、え、えっと、はい!」

天の言葉に、志藤さんがぶんぶんと頭を縦に振る。
志藤さんも何がなんだか分かっていないようだ。

「我が力を縛りし、悪意ある力の源よ………」

天は淡々と呪を唱えて、そのお守りとやらにかかった術を破る。
術はそんなに難しいものではなかったらしくて、すぐにその懐紙は千千に破け散る。
けれど、その後も、特に夕暮れの住宅街は変化することはない。

「………何も、変わらないぞ?」
「これが一個目。後一個ある」
「もう一個………?」

二つの意志。
二つの術。
熊沢さんのものとは違う、もうひとつの術。

「そ。そっちは誰の仕業か分からないけどね。熊沢さんは単に当たりをつけただけ。ビンゴだったけど」

それから天は、そっと傍に控える白峰の鼻先を撫でる。

「まあ、後一個ならそれほど難しくもない。白峰出来る?」

白峰は気持ちよさそうに目を閉じて、天の手に鼻を摺り寄せる。
それから一つ頷いて、周りを見渡す。

「いい子だね。お願い」

それから天は疲れたように、住宅の塀に背を預ける。
そしてふっと息をついた。

「白峰が探すまで、ちょっと待ってて」

白峰が辺りを歩き回り、色々なところを嗅いだり探ったりしている。
残された俺たち三人は、なんとなく沈黙が落ちる。
熊沢さんの術がなんだったのか知りたいし、この世界は一体なんなのか知りたい。
分からないことが一杯ある。
でも、今何より気になるのは、ただ一つだ。

「………なあ、天」
「何?」

俺の言葉に、天がこちらをちらりと見る。
その声にはどこか拒絶を感じて、一瞬だけ怯む。
けれど、知りたい心は怯んだ心をはるかに上回る。

「………昔、お前は、俺に何をしたんだ」
「………」

天は、表情を動かなさい。
けれど、少しだけ眉を動かしたのが見えた。

「俺は、お前の何に、怯えているんだ」
「変なの。それを俺に聞くの?俺が聞きたいよ。兄さんが俺の何に怯えてるの?」

また、誤魔化そうとするような言葉遊び。
質問に質問で返すのは、天のいつものやり方だ。
これに乗ってしまえば、また真実は遠ざかるだけ。

「なんで、俺は忘れてるんだ。それなのに、なんでお前を怖がっているんだ」

天に怯えた記憶なんて、俺にはない。
けれど、きっとそれはあったんだ。
さっきの恐怖は幻ではない。
体中の力が抜け、ただ震えることしか出来ないようにな、身に刻み込まれた恐怖。

「それが俺が今も、お前のことがどこか怖い、理由なのか?」

それに、天も気のせいだ、なんて言わない。
天が身に覚えにないなら、天はそんなことなかったって、言うはずだ。

「前に言ってた、酷いことしたって、そのことなのか!?」

どうしようもない、自分の体を動かすことすらままならない恐怖。
何がなんだか分からないけど怖い、なんてそんな理不尽な恐怖はいらない。
原因が分からないなら、克服することすらできやしない。
これ以上、俺は弱くなる原因なんて欲しくない。
天に怯えたりなんて、したくない。
けれど天は、ふっと笑って、首を傾げた。

「さあ?」
「天!」

天は、黒くつややかな髪を掻きあげて、静かに笑う。

「俺が知ってるのは、あの時のことで、兄さんが俺を避けるようになったこと。それが兄さんの中の恐怖に結びついてるのかは、俺には分からないよ」
「………何が、あったんだよ!」
「兄さんが思い出す必要はないよ」
「俺のことだ!俺の過去だ!俺には知る権利があるはずだ!」

なんで俺が思い出す必要がないんだ。
俺のものなのに。
この恐怖は俺のものなのに。

「忘れてしまってるのに?」
「………なんで、忘れてるんだ!?何があったんだ!?俺は小さい頃の天を怖がるようなことは、なかった!」

どうして、そこだけすっぽりと抜け落ちているんだ。
そういえば、天と仲が良かった時と、仲が悪くなり始めた間の記憶が、ない。
徐々に自然に、俺が嫉妬から遠ざかっていたのかと思っていた。
でも、天は違うと言う。
だったら、その間には、何があったんだ。

「それに、なんでさっきの天は、何も言わなかったんだ。言いそうだったのに。いや、言えなかった、と言っていた。なんで言えなかったんだ。なんで」

今になってみれば、あいつが何を言おうとしたのか、聞けばよかったと思う。
あの時は怖くて怖くて、それどころではなかったけれど。
でもそれさえ知ってしまえば、こんな悩むことなんてなかった。

「………兄さんが、忘れているから、だろうね」
「どうして、教えてくれないんだよ!」

天は駄々をこねる子供を見るように、ため息をつく。
また、馬鹿にされている。
また、相手にされていない。
怒りと悔しさで、涙が滲んでくる。

「どうして!」

白峰が、天の元へとやってきて、その袖を口でくいっと引っ張る。
天がゆっくりと塀から背を離す。

「………白峰が道を見つけた。とりあえず抜けるよ」
「四天!」

またはぐらかされそうになって、俺は天に詰め寄る。
そしてその襟首をつかんだ。

「知っても、兄さんにはなんの得もないよ」
「得とか、損とかじゃなくて!怖いんだよ!何も分からないのが、怖い!」

あの時は、天が話したくなるまで待とうと思った。
俺もいつか思い出すかもって思った。
でも、こんな風に、ただ怖いという感情だけ蘇ってしまえば、もう知らずにはいられない。

「教えてくれよ!なんで言わないんだよ!」

コートの襟首を何度も何度も揺さぶるが、天はされるがままでただじっと俺を見ていた。
その冷静な態度が、相手にされていないことが分かって、絶望が胸に広がって行く。

「三薙さん、落ち着いてくださいっ」

もう一度揺さぶろうと力を込めた腕を、そっと後ろから抑えられて、天の体から引き離された。
その優しい手の持ち主は、志藤さんだ。

「お二人とも、お怪我をしています。とりあえずここから出て手当てをしましょう。お話はそれからでもいいかと思います」

志藤さんの静かで冷静な顔に、頭に上っていた血が、すっと冷えていく。
それでようやく天の姿に、気付くことが出来た。

「………怪我」

小さな天の返り血は、すっかり消え失せている。
けれど頬には血が残り、制服は薄汚れて、手の指に血が滲んでいる。
志藤さんのお母さんの血も、小さな天の血も、本体が消えると同時に消えた。
つまりこれは、それらの血ではない。

「………天、怪我、してる?」
「してるよ」
「だい、じょうぶか」

つまりは、これは天の血なのだ。
それに俺はようやく気付くことが出来た。
俺はすぐこうだ。
頭に血が上って感情的になって、周りを見ることが出来なくなる。

「とりあえず命に別状はないね」

天は気にした様子もなく、肩をすくめた。
志藤さんの言うどおりだ。
今はこの空間から出ることが、先決だ。
話を聞くことはその後でも出来る。
天が素直に答えてくれるか、分からないけれど。
でも志藤さんも天も怪我をしている。
早く手当てをしたい。

「………ごめん。とりあえず、外に出よう」
「そうしてもらえると助かる」

天が頷いて、白峰の後に続いて歩き出す。
俺も歩きながら、隣の志藤さんを見上げる。

「志藤さん、ごめんなさい。ありがとうございます」
「い、いえ」

志藤さんは面喰ったように、首を横にふった。
この人には、今日はずっと世話になってばっかりだ。

「志藤さんには、助けてもらって、ばっかりです」
「それは私の台詞です」

にっこりと笑う志藤さんは、すごく落ち着いていた。
なんだかこの前の仕事の時より、しっかりしてしまったようだ。
ちょっとだけ寂しい気分になる。
お母さんとの対峙は、この人にとってのプラスになったのだろうか。
あんな辛い思いをしたけれど、すっきりしたって言っていた。
それが本当なら、いいのだけれど。

「………なあ、天」
「何?」

そういえば、天も怪我をしている。
天は、どこで怪我したのだろう。

「お前の前には、何が出たんだ?」
「………」

天の前にも、何かが現れたのだろう。
だから、怪我をしているのだ。

「お前の恐怖の形は、なんだったんだ」

天がくすりと小さく笑う。
そして振り返って、小さく肩をすくめた。

「怖くて怖くて、思い出したくもないよ」





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