幼い弟が仕事着の袴姿のままで、帰ってきた。
庭で遊びながら待っていた同じく幼い俺が、廊下を歩く弟の姿を見かけて駆け寄る。

「おかえり、四天!」

縁側の下から声をかけると、四天はどこかぼんやりとした様子でこちらを見た。
なんだか、顔色が悪い。

「………ただいま」
「………四天、大丈夫?」
「うん」

これは父や兄について仕事に向かうようになって何回目だろうか。
才能溢れる弟は、すでにその力を家のために役立て始めていた。
そうだ、天が、感情を荒げなくなってきたのは、この頃だっただろうか。
でも俺は天の疲れた様子など気にせず、ただ仕事について興味を一杯に表わしていた。

「おしごと、どうだった?」
「………」

四天はやっぱりぼんやりと俺を縁側の上から見下ろしている。
それに気づかず、小さな俺は羨望の眼差しで弟を見上げる。

「いいなあ。僕も強くなって、四天みたいに、お仕事行きたいなあ」

この頃にはようやく気付き始めていた。
俺は、兄達や弟とは違うのだと。
弱くてみそっかすで家のためにならない存在なのだと。
自分よりもずっと小さいのに、父さんや一兄に認められている弟が羨ましくて仕方なかった。

「………強くなりたいの?」
「………なりたいよ。僕も、お兄ちゃん達や、四天みたいに、強くなりたい」

四天は、幼い顔に相応しくない、酷く大人びた顔で唇を歪める。
一瞬の後、にっこりと無邪気に笑う。

「三薙お兄ちゃんは強くなる必要なんて、ないんだよ」



***




「夢、か………」

布団の中で目を開けて、思わずつぶやく。
途中から夢だと気づいていた。
でも、酷く生々しくリアルな夢。
あれも、昔あったことだのだろうか。

「最近よく見るな」

天の夢をよく見る。
幼い弟が、俺に何かを訴えるように、過去の記憶が蘇る。
昔、何があったのだろう。

「………」

そのままなんとか記憶を揺り起そうとする。
けれどやっぱり、何も思いだせない。
いつからか天は、今のような態度になっていた。
それまでは俺たちは仲が良かった。
天もずっと無邪気に笑っていた。
どうして変わってしまったのだろう。

「駄目だ」

考えても考えても思い出せなくて、眠気もすっかり醒めてしまった。
このままでは眠れそうにない。
仕方なく、パーカーを羽織って部屋の外に出る。
春先の空気はまだまだ冷たさを残し、自然と体が震えた。

闇の中、窓から明かりが差しこんで廊下を照らしている。
静まり返った空気に、きしりと軋む音がする。
カモミールティーでも飲めば眠れるだろう。

そしてキッチンに向かう途中で、窓の外に何か白いものが見えた。
縁側に面したガラス戸の先には、大きな桜の木がある。
まだ満開には少しあり、こんもりとピンクの花びらを茂らせている。
その下に、白い影があった。
一瞬驚いて息を飲むが、すぐにそれが見知った姿だと分かった。

「………天?」

薄い青の浴衣姿の天が、桜の下でぼんやりと立っていた。
その顔は先ほどの夢の中の顔と似通っている。
当然だ、同じ人間なのだから。

なんだかまるでこの世のものではないかのような光景だ。
月明かりに輝く桜の下、弟は美しく、けれど恐ろしい存在のようにも思える。
不意に焦燥感に駆られて、音を立てないようにそっとガラス戸を開けて、庭に降り立つ。

「兄さん。どうしたの?」

天はすぐに俺の存在に気づいて振り返った。
いつものようにつまらなそうな顔で、俺を見ている。
その瞬間、天が俺の弟に戻ってほっとした。
なんだかさっきは、自分の弟のように感じなかった。

「………お前こそどうしたんだ?」
「俺は、眠れなかったからお散歩。夜桜見物なんて風流でしょう」

天が小さく笑って、桜を見上げる。
俺も同じように見上げて笑う。

「入学式に緊張か?」
「そうだね。緊張と期待で眠れそうにないよ」
「かわいくない奴」
「それはごめんね」

全く緊張のかけらも感じさせない口調で天が肩を竦める。
まあ、入学式ぐらいでこいつが緊張するはずもないか。
いよいよ明日からは同じ学校か。
なんだか複雑な気分だ。
誤魔化すようにもう一度桜を見上げると、桜は枝いっぱいに花を身につけていた。

「桜、もうすぐ満開だな」
「そうだね。この桜は散り際が見事だよね」
「うん。でも、俺は桜が散ってるの見てると寂しいから、やっぱ満開になる前のこれくらいが好きだな」

桜が散る姿は見ていると、不安になってきてしまう。
あまりにも潔い別れは、酷く寂しい。
桜は好きだけど、散り際は苦手だ。

「俺は散り際が好きだな。でも、後が汚い。不様。それは嫌い」

天が笑いながらそんなことを言う。
吐き捨てるような言い方に、なんだかそれも寂しくなる。

「汚いとか言うなよ。散った後もピンクの絨毯みたいで綺麗だろ」
「踏みつぶされて真っ黒でも?」
「それでも、ピンクで綺麗だ」

散り際は苦手だけど、最後まで辺りを美しく彩る姿は決して嫌いじゃない。
けれど、天は俺の言葉を鼻で笑う。

「ふーん」

どこか馬鹿にしたような笑い方にむっとする。
けれどつっかかても仕方ないので、会話をずらすことにする。

「お前って潔癖症だっけ?」

天は汚いという言葉をよく使う。
俺のことなんて何度汚いって言ったことか。
でもまあ、何もかもを消毒しなきゃ触れないってほどでもないからいいけど。
弟は少しだけ首を傾げて考え込む。

「そうだなあ。まあ、汚いのは嫌いかな」

汚い、か。
そういえばあの時の夢でも、天は汚くて嫌だって言ってたっけ。
何が汚いんだろう。
何が嫌なんだろう。

「なあ、四天」
「何?」

聞こうと思って口を開いた瞬間、突風が吹いた。
突然のことに言葉が途切れて、顔を手で庇う。
桜がひらひらといくつか風に負けて舞い落ちる。
桜のシャワーの中の天は、やっぱりどこか非現実的に見える。
突風は一瞬で過ぎ去った。

「すごい風。それで?」

天が髪を手で投げつけながら聞いてくる。
もう一度聞こうとして、なんだか躊躇われた。
聞いても、答えることはないだろう。
いずれ、きっと分かる時はくるはずだ。
それまで、待とう。

「………いや、遅いからもう寝よう」
「そうだね。俺ももう少ししたら戻るよ」

つまり、もう少しいるってことか。
ここにいてもきっと嫌がられるだろう。
さっさと退散しよう。

「おやすみ」

言い置いて、踵を返す。

「おやすみ、よい夢を」

天の笑いを含んだ声が、背中に届いた。





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