幼い弟が仕事着の袴姿のままで、帰ってきた。 庭で遊びながら待っていた同じく幼い俺が、廊下を歩く弟の姿を見かけて駆け寄る。 「おかえり、四天!」 縁側の下から声をかけると、四天はどこかぼんやりとした様子でこちらを見た。 なんだか、顔色が悪い。 「………ただいま」 「………四天、大丈夫?」 「うん」 これは父や兄について仕事に向かうようになって何回目だろうか。 才能溢れる弟は、すでにその力を家のために役立て始めていた。 そうだ、天が、感情を荒げなくなってきたのは、この頃だっただろうか。 でも俺は天の疲れた様子など気にせず、ただ仕事について興味を一杯に表わしていた。 「おしごと、どうだった?」 「………」 四天はやっぱりぼんやりと俺を縁側の上から見下ろしている。 それに気づかず、小さな俺は羨望の眼差しで弟を見上げる。 「いいなあ。僕も強くなって、四天みたいに、お仕事行きたいなあ」 この頃にはようやく気付き始めていた。 俺は、兄達や弟とは違うのだと。 弱くてみそっかすで家のためにならない存在なのだと。 自分よりもずっと小さいのに、父さんや一兄に認められている弟が羨ましくて仕方なかった。 「………強くなりたいの?」 「………なりたいよ。僕も、お兄ちゃん達や、四天みたいに、強くなりたい」 四天は、幼い顔に相応しくない、酷く大人びた顔で唇を歪める。 一瞬の後、にっこりと無邪気に笑う。 「三薙お兄ちゃんは強くなる必要なんて、ないんだよ」 「夢、か………」 布団の中で目を開けて、思わずつぶやく。 途中から夢だと気づいていた。 でも、酷く生々しくリアルな夢。 あれも、昔あったことだのだろうか。 「最近よく見るな」 天の夢をよく見る。 幼い弟が、俺に何かを訴えるように、過去の記憶が蘇る。 昔、何があったのだろう。 「………」 そのままなんとか記憶を揺り起そうとする。 けれどやっぱり、何も思いだせない。 いつからか天は、今のような態度になっていた。 それまでは俺たちは仲が良かった。 天もずっと無邪気に笑っていた。 どうして変わってしまったのだろう。 「駄目だ」 考えても考えても思い出せなくて、眠気もすっかり醒めてしまった。 このままでは眠れそうにない。 仕方なく、パーカーを羽織って部屋の外に出る。 春先の空気はまだまだ冷たさを残し、自然と体が震えた。 闇の中、窓から明かりが差しこんで廊下を照らしている。 静まり返った空気に、きしりと軋む音がする。 カモミールティーでも飲めば眠れるだろう。 そしてキッチンに向かう途中で、窓の外に何か白いものが見えた。 縁側に面したガラス戸の先には、大きな桜の木がある。 まだ満開には少しあり、こんもりとピンクの花びらを茂らせている。 その下に、白い影があった。 一瞬驚いて息を飲むが、すぐにそれが見知った姿だと分かった。 「………天?」 薄い青の浴衣姿の天が、桜の下でぼんやりと立っていた。 その顔は先ほどの夢の中の顔と似通っている。 当然だ、同じ人間なのだから。 なんだかまるでこの世のものではないかのような光景だ。 月明かりに輝く桜の下、弟は美しく、けれど恐ろしい存在のようにも思える。 不意に焦燥感に駆られて、音を立てないようにそっとガラス戸を開けて、庭に降り立つ。 「兄さん。どうしたの?」 天はすぐに俺の存在に気づいて振り返った。 いつものようにつまらなそうな顔で、俺を見ている。 その瞬間、天が俺の弟に戻ってほっとした。 なんだかさっきは、自分の弟のように感じなかった。 「………お前こそどうしたんだ?」 「俺は、眠れなかったからお散歩。夜桜見物なんて風流でしょう」 天が小さく笑って、桜を見上げる。 俺も同じように見上げて笑う。 「入学式に緊張か?」 「そうだね。緊張と期待で眠れそうにないよ」 「かわいくない奴」 「それはごめんね」 全く緊張のかけらも感じさせない口調で天が肩を竦める。 まあ、入学式ぐらいでこいつが緊張するはずもないか。 いよいよ明日からは同じ学校か。 なんだか複雑な気分だ。 誤魔化すようにもう一度桜を見上げると、桜は枝いっぱいに花を身につけていた。 「桜、もうすぐ満開だな」 「そうだね。この桜は散り際が見事だよね」 「うん。でも、俺は桜が散ってるの見てると寂しいから、やっぱ満開になる前のこれくらいが好きだな」 桜が散る姿は見ていると、不安になってきてしまう。 あまりにも潔い別れは、酷く寂しい。 桜は好きだけど、散り際は苦手だ。 「俺は散り際が好きだな。でも、後が汚い。不様。それは嫌い」 天が笑いながらそんなことを言う。 吐き捨てるような言い方に、なんだかそれも寂しくなる。 「汚いとか言うなよ。散った後もピンクの絨毯みたいで綺麗だろ」 「踏みつぶされて真っ黒でも?」 「それでも、ピンクで綺麗だ」 散り際は苦手だけど、最後まで辺りを美しく彩る姿は決して嫌いじゃない。 けれど、天は俺の言葉を鼻で笑う。 「ふーん」 どこか馬鹿にしたような笑い方にむっとする。 けれどつっかかても仕方ないので、会話をずらすことにする。 「お前って潔癖症だっけ?」 天は汚いという言葉をよく使う。 俺のことなんて何度汚いって言ったことか。 でもまあ、何もかもを消毒しなきゃ触れないってほどでもないからいいけど。 弟は少しだけ首を傾げて考え込む。 「そうだなあ。まあ、汚いのは嫌いかな」 汚い、か。 そういえばあの時の夢でも、天は汚くて嫌だって言ってたっけ。 何が汚いんだろう。 何が嫌なんだろう。 「なあ、四天」 「何?」 聞こうと思って口を開いた瞬間、突風が吹いた。 突然のことに言葉が途切れて、顔を手で庇う。 桜がひらひらといくつか風に負けて舞い落ちる。 桜のシャワーの中の天は、やっぱりどこか非現実的に見える。 突風は一瞬で過ぎ去った。 「すごい風。それで?」 天が髪を手で投げつけながら聞いてくる。 もう一度聞こうとして、なんだか躊躇われた。 聞いても、答えることはないだろう。 いずれ、きっと分かる時はくるはずだ。 それまで、待とう。 「………いや、遅いからもう寝よう」 「そうだね。俺ももう少ししたら戻るよ」 つまり、もう少しいるってことか。 ここにいてもきっと嫌がられるだろう。 さっさと退散しよう。 「おやすみ」 言い置いて、踵を返す。 「おやすみ、よい夢を」 天の笑いを含んだ声が、背中に届いた。 |