空気が、揺れる。

叫び声のような不快な音が辺りにこだまする。
いや、音ではない。
けれど、聞こえた。
空気を直接引っ掻かれ汚されたような、胃の中が重くなるような不快な感触。

体の奥底から蝕まれていくような違和感と嫌悪感。
その声が闇と共に、俺の体をじわりじわりと食らっていく。

手の指先から、足先から、腹も喉も、小さな虫が噛みつき肉を千切り取っていく。
痛い痛い痛い。
爪が剥がれる、耳が食いちぎられる、腹を食い破り体の中に入ってくる、腹の中で小さな虫が暴れ、内臓すら食らいつく。
嫌だいやだいやだ。

叫びたいのに、声が出てこない。
手足はもう動かない。
ただされるがままに、痛みに体を晒すしかない。

痛い痛い痛い痛い。
かさかさかさかさと、周りから音がする。。
ぐちゃぐちゃと、内臓が掻き回される。
カリカリカリカリと体を貪られる感触がする。
痛い、助けて。
助けて助けて助けて助けて。

闇に飲まれる。

飲まれる。
飲まれる。
飲まれる。



***




「三薙」
「あっ」

軽い衝撃が、俺を暗い闇から引きずり出した。
目を開けても辺りは暗くて、まだ闇が俺を食らいつくそうとしているようで、恐怖はそのまま襲ってくる。

「あ………」
「大丈夫か。うなされていた」

優しい声が気遣うように囁きかけ、大きな手が俺の髪を撫で上げる。
一瞬怖くて振り払いそうになったが、すぐに気づいた。
その手はよく知っているものだった。
いつも、俺を守ってくれる手だ。

「あ、あああ、ああああ!」

もう大丈夫だと思った瞬間に、ボロボロと涙が溢れてきて、その手にしがみつく。
怖い怖い怖い怖い。
まだ恐怖の残滓が消えていかない。
まだ俺の体を捉えて離さない。

「いちに、一兄!怖い、怖い怖い!!一兄!」

手を握り締めてすがりつくと、大きな手は俺を抱き上げてくれた。
ぎゅっと強く胸に押し当てられ、いつも長兄が纏っているお香の匂いが強くなる。
それに安心して、更に涙が出てくる。

「大丈夫。もう大丈夫だ。夢だよ、三薙。もう怖くない」
「一兄!やだ、やだやだ、あんなの、嫌だ!」
「ああ。大丈夫だ」

あの声は、知っている。
もう分かっている。
あれが何か、もう知っている。

「怖い、怖いっ!」

何度か聞いたことのある声。
音ではない、体の奥から不快感を引き起こす、痛みと恐怖に満ちた声。
苦痛に満ちた、痛ましい声。
嫌悪して忌避していたあれは、哀しい二葉叔母さんの、声だ。

「………っ」
「大丈夫だ、三薙」

そしていつか、俺が、沈んでいくかもしれない闇だ。
闇を身の内に呼び込む苦痛を知っている。
中から内臓を溶かされるような、食われていくような、恐怖、痛み、不快感。
あんなの、耐えられない。
あんなのをずっとずっと抱えていくなんて嫌だ。

「いやだ、奥宮になんてなりたくない!嫌だ、怖い!怖い!怖いよ、一兄!」
「ああ。三薙、すまない。ごめん、ごめんな」
「ああああああ」

泣き叫ぶ俺を、一兄が強く強く抱きしめてくれる。
すがりつき、わめき、ただ恐怖を拒絶する。

「大丈夫だ、三薙」
「いや、だ」
「ああ」

どれくらいそうしていただろう。 声が枯れ、目が痛くなるほどに泣いて、優しく慰められる。
そうしているうちに、激しい感情と、涙が、ゆっくりとひいていく。
いまだに叫びだしたくなるほどの恐怖が胸に残っているが、心の奥底に、ひっそりと沈んでいく。
しがみつく体を見上げると、すぐ傍で、暗闇の中でなお深い黒の目が、俺を優しく見つめていた。

「落ち着いたか」
「………う、ん」

泣きやんだのを確認して、一兄が立ち上がり、俺から離れていく。
ぬくもりが離れていくのが怖くて嫌で、思わずその腕を掴む。

「電気をつけるだけだ」

一兄が小さく笑って、俺の頭を撫でる。
電気。
そういえば、辺りは暗い。
窓から入るわずかな明かりで、部屋が照らされているだけだ。
今何時だっけ。
ずっと寝ていたので時間の経過がよく分からない。
飯は、食ったっけ。
そうだ、確か、早めの夕飯を食べて、また寝たはずだ。

「あ」

明かりがついて、まぶしさに目をつぶる。
闇の名残は消え失せて、さっきとは違う世界のように感じる。
いつもの部屋。
浴衣姿の一兄。
明るいだけで、恐怖は少しだけ薄れる。

「熱は下がったみたいだな」

一兄が戻ってきて、俺の額に自分の額を合わせる。
そうだ、熱が出て、寝ていたんだ。
ようやく、意識も感覚も、現実に戻ってきた。
指先に感覚が戻り、辺りを認識できるようになる。
時計を見ると、まだ日付は越えていなかった。

「………そう?」

寝すぎたせいか、頭はぼうっとして、重くてガンガンする。
汗に濡れた浴衣が、気持ちが悪い。

「ああ、明日は学校に行けるだろう」

学校、行きたい。
岡野、藤吉、槇、佐藤。
皆に会いたい。
明るいところに、行きたい。
あの眩しい世界に、戻りたい。
暗いところは嫌だ。
怖いところは嫌だ。

「学校、行きたい」
「もう大丈夫だ」

心の底ではまだ恐怖が燻っている。
いつかは、向き合わなくてはいけない、恐怖だ。
でも、嫌だ。
怖い。
見たくない。
何も考えたくない。
あんなの、嫌だ。

「………風呂、入りたい」
「風呂は明日の朝にしとけ。今日までは我慢しろ」
「でも、気持ち悪い」

一兄が撫でる髪も湿っていて、汗の匂いがする。
昨日も風呂に入ってない。
布団も汗を吸って重くて、気持ち悪い。
風呂に入って何もかも流して、さっぱりしたい。

「お湯を持ってきたから、拭くだけにしておけ」

よく見れば、飲み物や洗面器、シーツの替えなどがベッドサイドに用意されていた。
俺のために持ってきてくれたのだろう。
ここで風邪をぶり返して、ベッドに戻るのは、確かに嫌だ。

「………分かった」

熱い湯を浴びたかったけれど、仕方ない。
床に置かれたタオルを取ろうと、ベッドから足を下す。
タオルを手に取る前に、一兄がタオルをお湯に手早く浸してきつく絞る。

「一兄?」
「ほら、じっとしてろ」
「え」

一兄がそのまま俺の隣に座り、暖かいタオルを首筋に当てる。

「ん、な、何」

浴衣をはだけられ、タオルを肩に滑らせられたところで、我に返る。
一兄は、どうやら体を拭こうとしてくれてるらしい。

「い、いいよ、自分でやるよ!」
「気にするな」
「気にするよ!」
「今更恥ずかしがるでもないだろう」
「なっ」

一兄の何かを含んだ言葉と悪戯っぽい笑顔に、何も言えなくなる。
確かに、一兄には、もう全部見られてる。
見られるどころか、触れられて、舐められて。

「ちょ、ちょっと!一兄!」

思い出して余計に恥ずかしくなって、体が熱くなってくる。
一兄の手を止めようと体をひねるが、肩を抑えられてしまう。

「はいはい」
「あっ、や」
「大人しくしてろ」

一兄にそう言われると、抵抗が出来なくなってしまう。
俺が、一兄に逆らえるはずなんてないんだ。
背中にタオルが伝い、ぞくりとした感触に声が漏れる。
慌てて手で口元を抑えるが、鼻から息が漏れる。

「ふ」
「いい子だ」

一兄の手が丁寧に、背中を拭い、首筋を拭い、腕を拭う。
腋と、横腹、腹をタオルが滑るたびに、体が小さく震えてしまう。

「ん………」

途中何度かタオルをゆすぎながら、優しくしっかりと拭われる。
体が清められていく感触は気持ちがいいけれど恥ずかしい。
羞恥に耐えながら早く終わるのを待っていると、ようやく上半身を拭き終わる。
これで終わりかと思ってほっとしたら、一兄が床に跪き、俺の足を取る。

「な、そこまでしなくても、いいっ」
「俺がしたいからしてるんだ」
「一兄!」

抗議しても、やっぱり聞いてくれない。
浴衣から出した貧相な足を、長兄が跪いて手にしている姿を見下ろすのは、なんだか変な気分になる。
でも逆らえず、ただじっと耐えるしかない。

「んっ」

足の指、足の裏、踵、足首、脹脛、膝、膝裏、太もも。
タオルは隅々まで、俺の足を拭っていく。
ぞくぞくとした感触は寒気に似ていて、震えてしまう。

「………っ」

ただ体を清められているだけなのに、体が熱くなってくる。
変な声が出そうで、唇を噛みしめる。
こんなの、おかしい。

「はい、終わりだ」

右足も左足もしっかりと拭われて、ようやく解放される。
熱を帯びた体を誤魔化す様に、息を大きく吐く。

「………ありがと」

恥ずかしくて倒れそうだったけれど、終わってよかった。
今までだったら、なんとも思わなかったかもしれないが、今となってはこんな触れ合いすら意識してしまう。
こんなの、おかしいのに。
変なのに。

「ああ。ほら、浴衣と下着も替えろ」
「あ、うん」
「着替えさせてやるか?」
「いいよ!」

兄の手からひったくるように着替えを取る。
そして床に下り立ち、汗で汚れた服を着替える。
その間一兄はくすくすと笑いながら、ベッドのシーツとカバーを替えてくれる。
その横顔は、いつもよりこけて、よりシャープな印象を与えた。

「………一兄、顔色、悪いね」
「そうか?お前ほどじゃないぞ」

一兄は笑うけれど、目の下にもクマがあり、疲れを滲ませている。
いつだって、一兄は忙しくて疲れているのに、俺の面倒まで見てくれる。
俺はいつも、甘えるばかりだ。
弱音を吐いて我儘をいって泣くばかり。
一兄は、こんなに、俺を気遣ってくれているのに。

「………一兄」
「どうした?」

名を呼んだものの、何を言ったらいいのか、分からない。
皆、俺を気遣ってくれる。
皆、俺を思ってくれる。
俺は役立たずのみそっかすだ。
そんな俺が、この人たちに、何を返せるのだろう。

「………一兄」
「うん」

一兄はただ優しく笑っている。
どうしようもできなくて、言葉も出てこなくて、ただ、涙が出てきた。
頬を伝った涙が、床に、一粒だけ落ちる。
俺にできることは、ただ迷い、逃げ、泣くだけ。

「まだ、難しいことを考えるには早い。体が復調してからにしろ」

一兄が頭をくしゃくしゃと撫でてくれる。
大きな手は温かく頼もしい。

「………俺、どうしたら、いいんだろ」

どうしたらいいか分からない。
いや、分かりたくない。
考えたくない。

「大きくなったな」

俺に疑問には答えず、一兄が懐かしそうに目を細める。
胸がいっぱいになって、また涙が出てくる。

「昔は片手で、抱えられるほどだったんだけどな」
「一兄」

ずっとそばにいてくれた頼もしい存在。
大好きな大好きな、優しい長兄。

「後少し眠れ」

一兄が頭を撫で、抱きしめてくれる。
体がさっぱりしたせいか、またじんわりと眠気が襲ってきた。
こんなに寝たのに、まだ睡眠を欲している。

「怖い夢を、見る」
「俺が、ここにいるから」

一兄が抱き上げてくれて、そのままベッドに一緒に横たわる。
広い胸に顔を摺り寄せ目をつぶって、一兄の匂いをいっぱいに吸い込む。

「………うん」

一兄がいるなら、大丈夫なんだ。
一緒にいてくれるなら、平気。

一兄は、俺を守ってくれる人。
俺を、大事にしてくれる人。

だから、一兄がいるなら、全部平気なんだ。





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