空気が、揺れる。 叫び声のような不快な音が辺りにこだまする。 いや、音ではない。 けれど、聞こえた。 空気を直接引っ掻かれ汚されたような、胃の中が重くなるような不快な感触。 体の奥底から蝕まれていくような違和感と嫌悪感。 その声が闇と共に、俺の体をじわりじわりと食らっていく。 手の指先から、足先から、腹も喉も、小さな虫が噛みつき肉を千切り取っていく。 痛い痛い痛い。 爪が剥がれる、耳が食いちぎられる、腹を食い破り体の中に入ってくる、腹の中で小さな虫が暴れ、内臓すら食らいつく。 嫌だいやだいやだ。 叫びたいのに、声が出てこない。 手足はもう動かない。 ただされるがままに、痛みに体を晒すしかない。 痛い痛い痛い痛い。 かさかさかさかさと、周りから音がする。。 ぐちゃぐちゃと、内臓が掻き回される。 カリカリカリカリと体を貪られる感触がする。 痛い、助けて。 助けて助けて助けて助けて。 闇に飲まれる。 飲まれる。 飲まれる。 飲まれる。 「三薙」 「あっ」 軽い衝撃が、俺を暗い闇から引きずり出した。 目を開けても辺りは暗くて、まだ闇が俺を食らいつくそうとしているようで、恐怖はそのまま襲ってくる。 「あ………」 「大丈夫か。うなされていた」 優しい声が気遣うように囁きかけ、大きな手が俺の髪を撫で上げる。 一瞬怖くて振り払いそうになったが、すぐに気づいた。 その手はよく知っているものだった。 いつも、俺を守ってくれる手だ。 「あ、あああ、ああああ!」 もう大丈夫だと思った瞬間に、ボロボロと涙が溢れてきて、その手にしがみつく。 怖い怖い怖い怖い。 まだ恐怖の残滓が消えていかない。 まだ俺の体を捉えて離さない。 「いちに、一兄!怖い、怖い怖い!!一兄!」 手を握り締めてすがりつくと、大きな手は俺を抱き上げてくれた。 ぎゅっと強く胸に押し当てられ、いつも長兄が纏っているお香の匂いが強くなる。 それに安心して、更に涙が出てくる。 「大丈夫。もう大丈夫だ。夢だよ、三薙。もう怖くない」 「一兄!やだ、やだやだ、あんなの、嫌だ!」 「ああ。大丈夫だ」 あの声は、知っている。 もう分かっている。 あれが何か、もう知っている。 「怖い、怖いっ!」 何度か聞いたことのある声。 音ではない、体の奥から不快感を引き起こす、痛みと恐怖に満ちた声。 苦痛に満ちた、痛ましい声。 嫌悪して忌避していたあれは、哀しい二葉叔母さんの、声だ。 「………っ」 「大丈夫だ、三薙」 そしていつか、俺が、沈んでいくかもしれない闇だ。 闇を身の内に呼び込む苦痛を知っている。 中から内臓を溶かされるような、食われていくような、恐怖、痛み、不快感。 あんなの、耐えられない。 あんなのをずっとずっと抱えていくなんて嫌だ。 「いやだ、奥宮になんてなりたくない!嫌だ、怖い!怖い!怖いよ、一兄!」 「ああ。三薙、すまない。ごめん、ごめんな」 「ああああああ」 泣き叫ぶ俺を、一兄が強く強く抱きしめてくれる。 すがりつき、わめき、ただ恐怖を拒絶する。 「大丈夫だ、三薙」 「いや、だ」 「ああ」 どれくらいそうしていただろう。 声が枯れ、目が痛くなるほどに泣いて、優しく慰められる。 そうしているうちに、激しい感情と、涙が、ゆっくりとひいていく。 いまだに叫びだしたくなるほどの恐怖が胸に残っているが、心の奥底に、ひっそりと沈んでいく。 しがみつく体を見上げると、すぐ傍で、暗闇の中でなお深い黒の目が、俺を優しく見つめていた。 「落ち着いたか」 「………う、ん」 泣きやんだのを確認して、一兄が立ち上がり、俺から離れていく。 ぬくもりが離れていくのが怖くて嫌で、思わずその腕を掴む。 「電気をつけるだけだ」 一兄が小さく笑って、俺の頭を撫でる。 電気。 そういえば、辺りは暗い。 窓から入るわずかな明かりで、部屋が照らされているだけだ。 今何時だっけ。 ずっと寝ていたので時間の経過がよく分からない。 飯は、食ったっけ。 そうだ、確か、早めの夕飯を食べて、また寝たはずだ。 「あ」 明かりがついて、まぶしさに目をつぶる。 闇の名残は消え失せて、さっきとは違う世界のように感じる。 いつもの部屋。 浴衣姿の一兄。 明るいだけで、恐怖は少しだけ薄れる。 「熱は下がったみたいだな」 一兄が戻ってきて、俺の額に自分の額を合わせる。 そうだ、熱が出て、寝ていたんだ。 ようやく、意識も感覚も、現実に戻ってきた。 指先に感覚が戻り、辺りを認識できるようになる。 時計を見ると、まだ日付は越えていなかった。 「………そう?」 寝すぎたせいか、頭はぼうっとして、重くてガンガンする。 汗に濡れた浴衣が、気持ちが悪い。 「ああ、明日は学校に行けるだろう」 学校、行きたい。 岡野、藤吉、槇、佐藤。 皆に会いたい。 明るいところに、行きたい。 あの眩しい世界に、戻りたい。 暗いところは嫌だ。 怖いところは嫌だ。 「学校、行きたい」 「もう大丈夫だ」 心の底ではまだ恐怖が燻っている。 いつかは、向き合わなくてはいけない、恐怖だ。 でも、嫌だ。 怖い。 見たくない。 何も考えたくない。 あんなの、嫌だ。 「………風呂、入りたい」 「風呂は明日の朝にしとけ。今日までは我慢しろ」 「でも、気持ち悪い」 一兄が撫でる髪も湿っていて、汗の匂いがする。 昨日も風呂に入ってない。 布団も汗を吸って重くて、気持ち悪い。 風呂に入って何もかも流して、さっぱりしたい。 「お湯を持ってきたから、拭くだけにしておけ」 よく見れば、飲み物や洗面器、シーツの替えなどがベッドサイドに用意されていた。 俺のために持ってきてくれたのだろう。 ここで風邪をぶり返して、ベッドに戻るのは、確かに嫌だ。 「………分かった」 熱い湯を浴びたかったけれど、仕方ない。 床に置かれたタオルを取ろうと、ベッドから足を下す。 タオルを手に取る前に、一兄がタオルをお湯に手早く浸してきつく絞る。 「一兄?」 「ほら、じっとしてろ」 「え」 一兄がそのまま俺の隣に座り、暖かいタオルを首筋に当てる。 「ん、な、何」 浴衣をはだけられ、タオルを肩に滑らせられたところで、我に返る。 一兄は、どうやら体を拭こうとしてくれてるらしい。 「い、いいよ、自分でやるよ!」 「気にするな」 「気にするよ!」 「今更恥ずかしがるでもないだろう」 「なっ」 一兄の何かを含んだ言葉と悪戯っぽい笑顔に、何も言えなくなる。 確かに、一兄には、もう全部見られてる。 見られるどころか、触れられて、舐められて。 「ちょ、ちょっと!一兄!」 思い出して余計に恥ずかしくなって、体が熱くなってくる。 一兄の手を止めようと体をひねるが、肩を抑えられてしまう。 「はいはい」 「あっ、や」 「大人しくしてろ」 一兄にそう言われると、抵抗が出来なくなってしまう。 俺が、一兄に逆らえるはずなんてないんだ。 背中にタオルが伝い、ぞくりとした感触に声が漏れる。 慌てて手で口元を抑えるが、鼻から息が漏れる。 「ふ」 「いい子だ」 一兄の手が丁寧に、背中を拭い、首筋を拭い、腕を拭う。 腋と、横腹、腹をタオルが滑るたびに、体が小さく震えてしまう。 「ん………」 途中何度かタオルをゆすぎながら、優しくしっかりと拭われる。 体が清められていく感触は気持ちがいいけれど恥ずかしい。 羞恥に耐えながら早く終わるのを待っていると、ようやく上半身を拭き終わる。 これで終わりかと思ってほっとしたら、一兄が床に跪き、俺の足を取る。 「な、そこまでしなくても、いいっ」 「俺がしたいからしてるんだ」 「一兄!」 抗議しても、やっぱり聞いてくれない。 浴衣から出した貧相な足を、長兄が跪いて手にしている姿を見下ろすのは、なんだか変な気分になる。 でも逆らえず、ただじっと耐えるしかない。 「んっ」 足の指、足の裏、踵、足首、脹脛、膝、膝裏、太もも。 タオルは隅々まで、俺の足を拭っていく。 ぞくぞくとした感触は寒気に似ていて、震えてしまう。 「………っ」 ただ体を清められているだけなのに、体が熱くなってくる。 変な声が出そうで、唇を噛みしめる。 こんなの、おかしい。 「はい、終わりだ」 右足も左足もしっかりと拭われて、ようやく解放される。 熱を帯びた体を誤魔化す様に、息を大きく吐く。 「………ありがと」 恥ずかしくて倒れそうだったけれど、終わってよかった。 今までだったら、なんとも思わなかったかもしれないが、今となってはこんな触れ合いすら意識してしまう。 こんなの、おかしいのに。 変なのに。 「ああ。ほら、浴衣と下着も替えろ」 「あ、うん」 「着替えさせてやるか?」 「いいよ!」 兄の手からひったくるように着替えを取る。 そして床に下り立ち、汗で汚れた服を着替える。 その間一兄はくすくすと笑いながら、ベッドのシーツとカバーを替えてくれる。 その横顔は、いつもよりこけて、よりシャープな印象を与えた。 「………一兄、顔色、悪いね」 「そうか?お前ほどじゃないぞ」 一兄は笑うけれど、目の下にもクマがあり、疲れを滲ませている。 いつだって、一兄は忙しくて疲れているのに、俺の面倒まで見てくれる。 俺はいつも、甘えるばかりだ。 弱音を吐いて我儘をいって泣くばかり。 一兄は、こんなに、俺を気遣ってくれているのに。 「………一兄」 「どうした?」 名を呼んだものの、何を言ったらいいのか、分からない。 皆、俺を気遣ってくれる。 皆、俺を思ってくれる。 俺は役立たずのみそっかすだ。 そんな俺が、この人たちに、何を返せるのだろう。 「………一兄」 「うん」 一兄はただ優しく笑っている。 どうしようもできなくて、言葉も出てこなくて、ただ、涙が出てきた。 頬を伝った涙が、床に、一粒だけ落ちる。 俺にできることは、ただ迷い、逃げ、泣くだけ。 「まだ、難しいことを考えるには早い。体が復調してからにしろ」 一兄が頭をくしゃくしゃと撫でてくれる。 大きな手は温かく頼もしい。 「………俺、どうしたら、いいんだろ」 どうしたらいいか分からない。 いや、分かりたくない。 考えたくない。 「大きくなったな」 俺に疑問には答えず、一兄が懐かしそうに目を細める。 胸がいっぱいになって、また涙が出てくる。 「昔は片手で、抱えられるほどだったんだけどな」 「一兄」 ずっとそばにいてくれた頼もしい存在。 大好きな大好きな、優しい長兄。 「後少し眠れ」 一兄が頭を撫で、抱きしめてくれる。 体がさっぱりしたせいか、またじんわりと眠気が襲ってきた。 こんなに寝たのに、まだ睡眠を欲している。 「怖い夢を、見る」 「俺が、ここにいるから」 一兄が抱き上げてくれて、そのままベッドに一緒に横たわる。 広い胸に顔を摺り寄せ目をつぶって、一兄の匂いをいっぱいに吸い込む。 「………うん」 一兄がいるなら、大丈夫なんだ。 一緒にいてくれるなら、平気。 一兄は、俺を守ってくれる人。 俺を、大事にしてくれる人。 だから、一兄がいるなら、全部平気なんだ。 |