頭が、痛い。
体が熱を帯びている。
吐き気がする。
空っぽの胃がじくじくと痛む。
苦しい。

でも、熱と痛みで、頭がぼんやりとして何も考えられないのが楽でいい。
もう、何も考えたくない。
知りたくない。
このまま、何もせずに眠っていたい。
このまま、消えたい。

もう、疲れた。
疲れた。
疲れた。
疲れた。

カラカラカラ。

それなのに、また扉は開く。
今度は、誰だろう。
三度の食事は、基本的に宮城さんが持ってきてくれる。
宮城さんなら、何も言われないから楽だ。
他の誰かが来て、食事をとらないことに苦言を呈されたり、怖いことを教えていくより、ずっといい。
もう、誰も、来ないでくれ。

「ひさびさー!元気にしてる?」

ふすまが開き、頭に響くほど元気で明るい声が聞こえる。
横たわったまま、視線を入り口に向けると、そこには二人の人物がいた。

「………っ」

心臓が、跳ね上がって、頭痛が増す。
よろよろと体を動かして起こすが、うまく動かない。
いますぐここから逃げ出したいのに、手足が、言うことを聞かない。

「わ、三薙臭い!お風呂入ってる?ここ、腐った匂いがする!」

訪れた人物のうちの一人、佐藤が、部屋に入ってきていきなり顔をしかめる。
今日も髪を高いところでお団子にして、元気いっぱいだ。
生き生きとした表情は相変わらずで、佐藤の愛らしさを引き立てている。

「もー、ちゃんとお風呂入らないとだめだよ。あ、後これ、あれでしょ、ケトン臭。前に私も糖質カットダイエットしたときにこんな匂いしたわ」

部屋の中にずかずかと入ってきて、俺の前に立つ。
何も言えず、ただ見上げる俺に、にっこりと笑う。

「三薙にはダイエットなんて必要ないのにー」

いつもと同じく明るくかわいく笑っているのに、どこかその笑顔が怖く感じる。
まるで小さな獲物をいたぶる肉食獣のような残酷さを感じる。

「やめろ、佐藤」

ため息交じりの声が、佐藤の後ろから聞こえる。
もう一人の来訪者の藤吉が、佐藤の肩を引いて、俺から遠ざける。

「えー」
「佐藤」
「はいはい。ちょっと体の心配しただけなのに。ね、三薙?」

頷くことも、首を横にふることもできず、ただ、座り込んだまま無様に二人を見上げる。
距離をとっても、どうせ逃げられない。
どうしようもない。
俺には、何も出来ない。

「なに、しに………」

問う声は、渇いて掠れていて、聞き苦しかった。
何をしにきたんだ。
今さら、何を。
この二人は、俺に、何を言いに来たんだ。
これ以上、何を言うんだ。
もう、これ以上、聞きたくないのに。
怖いことは、知りたくないのに。

「お見舞いだよ!」
「………うん、見舞い」

にこにこと笑う佐藤に、どこか暗い表情を見せる藤吉。
見舞いって何を、言ってるんだろう。
藤吉が俺の前に座り込む。

「………あ」

怖くて、ずりずりと後ずさる俺に、藤吉が一瞬痛いような顔をした。
どうして、そんな顔をするんだ。
ずっと、俺を騙していたのは、お前のくせに。

「………痩せたな。メシ、食ってくれ。このままだと点滴打つことになる」

それで済むなら、いっそ、そうしてほしい。
食べ物なんて欲しくない。
スープを飲まされた後も、吐いてしまった。
腹の中に何も入ってなくても、水と胃液を吐くばかりで、何も受け付けない。
食べ物なんて、いらない。
皆だって、俺に食事を与える必要なんてないだろうに。
道具なら、道具扱いしておいてくれればいい。

「食べてくれよ。俺が言っても、聞いてくれないと思うけどさ」

藤吉が、目を伏せて、自嘲するように苦く笑う。
なんで、そんな、傷ついたような顔をするんだ。
なんで、なんで、なんで。

「せい、じ」

お前が、俺を、騙していたのに。
俺は、お前が好きだった。
ずっとずっと、昔から憧れていた。
明るく朗らかで優しい友人。
人を惹きつける太陽のようなお前が、好きだった。

「まだ、そう呼んでくれるんだな」

藤吉が、嬉しそうに笑う。
うるさい、うるさいうるさい。
そうやって、また、俺を惑わそうとするな。
また、俺を騙して、裏切るくせに。

「なん、で、こんな」

ことをするんだ。
もう、俺を騙そうとなんて、しなくていいのに。
もう、知っているのに。
そう言いたかったけれど、喉が引き攣れて最後まで言えなかったからか、藤吉は違うことを言った。

「前に、金持ちの親戚がいるって言っただろ?」

そんなこと、言っていたっけ。
妹がいるって、言っていたのは覚えている。
もうよく思い出せない。

「俺は、宮守家の縁戚だよ」

思ったより、ショックは、受けなかった。
俺の家に、関わりがあるのだろうってことは、あの日から分かっていたから。
でも、祭りなんかでは顔を見たことがない。
かなり遠い関係なのだろうか。

「………ごめんな。謝っても、仕方ないけど」

藤吉が目を伏せて、畳を毟るように、爪を立てる。

「でも、でもな………」

そこで、きゅっと唇をかむ。
そして、顔をあげて、まだどこか苦みを含むような顔で笑った。
藤吉のこんな顔は、今まで見たことがない。
こいつは、こんな顔をする奴だったのか。

「いや、なんでもない。騙していて、悪かった」

いつだって明るく朗らかで悩みなんて、見せない奴だった。
強くて穏やかで、大人みたいだった。

隠していた?
藤吉だって、苦しかった?
藤吉も、辛かった。
それなら、少しだけ、嬉しい。
藤吉も悩んでいたのなら、俺に対してなにかの感情を持っていてくれたのなら、嬉しい。
今の態度すら、嘘かもしれないけれど。

「あ、私は別に親戚とかじゃないよ。縁はあるけど、別口でお手伝いしてただけ」

佐藤が藤吉の隣に座り込んで、俺をじっと見ている。
藤吉の表情と違って、佐藤は変わらずどこまでも明るく楽しげだ。

「まあ、楽しくやらせてもらったけどね。これからも仲良くしてね、三薙」

そしてにっこりと笑う佐藤に、異質さ感じて、背筋に寒気が走る。
こんな子、だったか。
俺の見ていた佐藤は、こんな子だったろうか。
佐藤の態度は、何も変わってない。
けれど、そのあまりの変わらなさに、余計に違和感を感じて、怖い。
そうだ、怖い。
佐藤が、怖い。

「うふふふー、いいなあ、かわいいね、三薙」

佐藤が俺の顔を見て、本当に、楽しそうに笑う。

「三薙のそういう顔、大好き!」

そして俺に手を伸ばそうとする。
その手が恐ろしくて、後ずさると、佐藤の手を藤吉がつかんで止めた。

「何すんのさー」
「いい加減にしろ」
「だから仲良くしたいだけだって。ね、三薙?」

口ととがらせて拗ねたかと思うと、ころっと表情を変えて笑う。
この感情を素直に表現して、色々な表情を見せる佐藤が、好きだった。

「三薙も、そんなに嫌わなくてもいいじゃーん」

唇を歪めて悪意すら含んで笑う佐藤の表情は、今までは見たことのないものだ。
でも、既視感を覚える。
こんな風に笑う人間を、どこかで見たことがある。
佐藤ではない。
もっと、別の、誰か。

「………佐藤の、笑い方、見たこと、ある。………前に、会った?」

1年前に仲良くなる以前に、会ったことがあっただろうか。
覚えがない。
でも、見たことある。

「そうだね、昔の私は、どこかで見たことがあるかもね」

佐藤が、くすくすと楽しげに笑う。
その笑い方も、見たことが、ある気がする。
分からない。
思い出せない。

「三薙、見舞いだ」
「え」

藤吉が俺と佐藤の話を遮って、紙袋を差し出した。
可愛らしい、ベージュ色の紙袋。

「岡野と槇から、手作りのバナナプリンだって。消化にいいからって」
「っ」

岡野と槇の名前を聞いて、鈍くなっていた感情が溢れてくる。
大切な、大切な、友達。
藤吉と佐藤は、友達じゃなかった。
では、岡野と、槇は。
あの二人も、俺を、騙していたのか。
そんなの、嫌だ。

「………お、岡野と、槇は、知っているの?」

聞きたくなかったけど、聞かずにはいられなかった。
これ以上、嫌なことは聞きたくない、痛い思いもしたくない。
何も聞かず、あの二人を信じていられれば、その方がいいのかもしれない。
でも、知りたかった。

「さあ、どうかな?どう思う?」
「あ………」

顔を上げると佐藤がさっきのように、唇を歪めて笑っていた。
さも楽しげに、俺が傷つくのことを、心底喜んでいるように。

「だってさあ、おかしいと思わない?三薙みたいなコミュ障の人間がいきなりこんな友達出来ちゃうなんてさ。なんかあるのは当然だよねえ」
「………」
「自分の力で、友達出来ると思った?」

そうだ。
俺は、今まで、友達なんて作れなかった。
ずっと、一人だった。
一年前のあの頃から、急に、友人が出来た。
よく考えれば、おかしかったんだ。
俺に、友達なんて、出来るわけがなかった。
俺みたいな人間を、好きになってくれる人がいる訳なかった。
こんな役立たずで、何もできない、いいことの一つもない俺を。

「やめろ、佐藤」

目を伏せて、唇を噛むと、厳しい声が割って入った。
苛立たしげな声に促され、顔を上げる。
藤吉が、やっぱり見たことのない怖い表情で、佐藤を睨みつけていた。

「えー、なんで?」
「お前はもう黙ってろ」
「今更そんないい人ぶってどうするの?」

佐藤は静止されたことなんて気にせず、むしろそれすら楽しげにくすくすと笑うばかりだ。
藤吉はそんな佐藤を一つ睨みつけると、俺に向かいなおす。
そして、真摯な、静かな声で言った。

「岡野と槇は、何も知らない。これは本当だ。あの二人は、本当に、単純に、お前のことが好きで、お前の友達になっただけだ」
「………」

本当なのか。
それは、本当なのだろうか。
あの二人は、何も知らないのか。
信じたい。
信じられない。
信じたい。

あの二人だけでも、友達でいれたのだと、信じたい。
変わらないでいてほしい。
俺の周りの人間は、皆変わってしまった。
あの二人だけでも、変わらないでいてほしい。
これ以上、俺の大切なものを壊さないでほしい。

「………俺が言っても、信じられないかもしれないけど」

藤吉が真剣な声で、訴える。
それは、嘘をついているようには、聞こえない。
信じたくなる。
信じたい。
自分を騙しているのかもしれないけれど。

「でも、あの二人のことは、信じてくれ」
「誠司」

信じたい、信じたい信じたい。
岡野と槇を、信じたい。
あの二人は、大切な二人は、変わらないのだと、信じたい。

「はい。ちょっと今はまだ重いかもしれないから、少し体調がよくなったら食べてくれ」

俺の手に無理やり乗せるように、紙袋を乗せる。
そしていつものように、朗らかに笑った。

「二人とも心配していた。早く学校に出てこい」
「学校って」

今は酷く遠くなってしまった場所。
あそこで笑っていたのは、遥か昔のように感じる。
明るく、太陽に照らされた、日常の証。

「一矢さんはお前が望むなら、また学校へ行かせるつもりだ。お前に日常を過ごしてほしいと思ってる」
「え」

胸がざわりと揺れる。
また、行けるのか。
俺は、行っていいのか。
あそこに行くことは、出来るのか。

「一兄が、そんなこと、言ってたの?」
「ああ。お前を心配している」

藤吉はまっすぐに俺の目を見て、頷く。
また、学校に行ける。
行っても、いいのか。
俺はこのまま、奥宮となるまで、閉じ込められるのかと思っていた。
また、行けるのか。
一兄が何を考えているのか分からない。
俺のためだなんて、信じられない。
でも、それでも、あの、場所に行けるのなら、行ってもいいのなら、行きたい。

「心配だねー、うんうん」
「黙れ」

佐藤がくすくすと笑って、横で頷いている。
それを制してから、藤吉が労わりに満ちた声で言う。

「頼むから、食べて、元気になってくれ」

そしてにっこりと笑う。
眼鏡の奥の目は、以前と変わらずとても優しい。

「学校に来れるようになるの、待ってるから」

行って、どうなる。
今更行って、どうなるんだ。
結局すべては、無駄になるのに。
なんにも、ならないのに。

「じゃあ、帰るな。行くぞ、佐藤」
「えー」
「行くぞ」

さっさと自分が立って、佐藤の腕を引っ張り上げる。
佐藤は不満そうに唇を尖らせながらも、手をひらひら振る。

「しょうがないなー。じゃあね、三薙。ばいばいー。お風呂入りなねー。ゴミみたいな匂いするからー」

藤吉がため息を一つついてから、小さく笑う。

「早く、元気になってくれ、三薙」

そして二人は、連れだって出て行った。
しばらく、入口の方をぼんやりと眺める。
眩暈がして、身じろぎをすると、カサリと音がした。
手の上に載っていた紙袋に、視線を送る。

「岡野、槇………」

綺麗なベージュの紙袋を、開く。
中には、サランラップで包まれた陶器のカップが4つ入っていた。
そして、小さな紙が二枚入っている。
花が散りばめられた、黄色のメモ用紙。

「あ………」

取り出すと、二人の字で、メッセージが書かれていた。

『さっさと学校来い』

やや右上がりの大きく線の太い字は、岡野のものだ。
岡野らしい、簡潔な、メッセージ。

『早く元気になってね。待ってるよ。これは内緒ね。お菓子作り苦手な彩が、私に教えてくれって言ったんだよ。その努力を認めてあげてね』

丸くふんわりとした字は、槇の字。
優しい柔らかい槇の声が、聞こえてくるようだ。

「………」

一つ器を取り出し、サランラップをはがすと、バナナの匂いがした。
今までは吐き気がしていた食事の匂いに、けれど食欲が沸いてくる。
口の中に唾液が沸いてくる。
空っぽの胃が、ぎゅうっと、音を立てる気がした。
スプーンを持ってくる手間すら惜しくて、手ですくって、それにかぶりつく。
みっともなく、しつけの出来ていない子供や動物のように、救って口に運ぶ。
甘くてさらりと蕩けるカスタードとバナナの味が、口の中に溶けていく。

「う、えっ、ぐ」

何も入れてなかった胃がびっくりしたのか、痛んで、吐き気がしてきてえづく。
じくじくと、痛む。
でも、吐き出すなんて出来ない。
むりやり飲み込むと、胃液の味がした。

「ぐっ、かは、がふっ」

でも、おいしくておいしくて、二個目も、むしゃぶりつく。
胃が痛い。
頭痛がする。
胃液の味と濃厚なバナナの味で、酸っぱくて甘くて、気持ちが悪い。
でも、おいしい。
おいしい、おいしいおいしい。

「うま、い」

食べ物の、味がする。
久々に、食べ物の味を感じた。

「うまい………」

器に残った欠片を舐めて、べたべたになった手を舐めて、それで、ようやく一息つく。
胃が痛い。
気持ちが悪い。
でも、絶対吐き出すもんか。

「あ、は」

目の前が、開けていく気がする。
脳みそに血が巡ってる気がする。
バナナの匂いと、俺の体からすえた匂いがする。
確かにゴミの匂いだ。
汗臭さ、酸っぱい匂い、甘い匂い、生臭い匂い。
生きてる、匂いだ。

「あ、う」

生きてる。
俺は、今生きてる。
食べ物を、おいしいと感じた。
汗の匂いがする。

「あああ、うう」

涙がぼろぼろと溢れてくる。
一緒に、訳の分からない感情が、胸を満ちて溢れていく。
熱くて、苦しくて、痛い、感情が体中に染み渡る。

「うわああああああああああ、あああああああああああ、ああああああ」

吐き出すように、叫びだす。
泣いて、叫ぶ。
渇いていた喉が、張り付いて痛むけれど、気にならない。
胃がギリギリと痛むけれど、それも気にならない。

「ああああああ、あああああ、ううああああああ」

苦しい苦しい苦しい。
痛い痛い痛い痛い。

『あんたは、強いよ』
『私は宮守君が好きだよ。だから宮守君も、宮守君を好きになってあげてね』

優しい声が、聞こえる。
胸が、熱くなってくる。

「岡野、槇」

俺は、弱い。
俺は、自分が、嫌いだ。
ただ道具として生まれた、この身には、なんの意味も希望もない。

「俺は、強い」

でも、そう言ってくれた。
それなら、その言葉を信じたい。

自分のことなんて信じられない。
俺が信じていたものは、全て嘘だった。
何も見抜けなかった。
何も知らなかった。
全て、まやかしだった。

「俺は………」

でも、岡野と槇は、信じられる。
それなら、きっと、俺は、強くあれるはずだ。





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