「は?」

志藤さんはきょとんとして、何度も目を瞬く。
やっぱり変なこと言ったよな。
唐突すぎただろうか。
でもいい言い回しが浮かばないので、仕方なくもう一度ゆっくりと聞く。

「えっち、とか、したくないですか?」
「え?」

やっぱり志藤さんは不思議そうに首を傾げる。
何を言われているのか、分からないと言うように。

「………」
「えっと?三薙さん?」

ちょっと、婉曲的過ぎただろうか。
もっと、直接的に言った方がいいだろうか。

「あの、セックス、したくないですか?」
「え、っと、え。は!?」

何度か不思議そうに首を傾げた後に、急に大きな声をあげた。
目を丸くして、金魚のように口をパクパクと開いたり閉じたりしている。

「え、何を!?」
「えっと、セックスっていうか、えっと、性行為?」

伝わりやすいように、単語を考える。
そういえば、四天は色々単語知ってたよな。
他にどんな言い回しあったっけ。

「な、何をおっしゃってるんですか?」
「えっと、だから、その、俺と、ヤりたいとか、そういうこと思ったりとか」
「わー!!」
「むが」

いきなり声を上げたかと思うと、大きな手で口を押えられた。
咄嗟のことで反応できず、何も言えなくなってしまう。

「落ち着いてください!」
「む、うむ」
「いいですか、ちょっと落ち着いてください」

多分落ち着いてないのは志藤さんの方なのだが、とりあえず頷いておく。
それを見て、志藤さんが、恐る恐る手をどける。

「すいません、何を仰ってるんですか、大変申し訳ないのですが、多分私の耳が悪いんだと思うのですが、よくわからなかったんです。本当にすいません」
「セックスしたいですか?ヤりたいですか?えっと、俺と寝たいですか?」
「な、何を仰ってるんですかー!」
「むが!」

また口を押えられた。
というか、夜の森に、志藤さんの声が響いている。
さすがに聞かれたい会話ではない。

「むぐ」
「あ、す、すいません!」

志藤さんの手をとって、引きはがそうとする。
我に返った志藤さんは、慌てて手をどけてくれた。

「ぷはっ、志藤さん、ちょっと声大きいです!」
「あ、は、はい!すいません!」

志藤さんも声を潜め、小声でひそひそと話し合う。
そもそも、ここでする話でもないな。

「中、入りましょうか」
「は、はい」

促して部屋の中に入り、窓を閉める。
少し冷えていたようで、部屋の中は風がないだけで温かく感じた。
とりあえず手前のベッドに座り込む。
俺の三歩先ぐらいに立った志藤さんが、目を閉じ眉間を抑え沈痛な面持ちをしている。

「………」
「あの、志藤さん?」
「はい」

そしてようやく目を開いてくれた。
でも、やっぱり三歩先のままだ。

「三薙さん、落ち着いてください」
「えっと、はい」

多分落ち着いてないのは俺より志藤さんの方だが、つっこまないでおいた。
まあ、唐突だったし驚いて、混乱しても、仕方ないよな。
そもそも、そんな気が一切ないって可能性だってあるんだし。
ていうかやっぱり実は迷惑だったりするのだろうか。
不安になってきた。

「あの多分、意味は、分かってますよね?もう一度言った方がいいですか?」
「いえ、はい、いえ」

志藤さんは困ったような顔で頭を縦とも横とも判断つかないように傾げる。

「えっと、どっちですか?もう一回言いますか?」
「いえ!」

志藤さんが思いきり首を横にふった。
それからまた目を閉じて、何度も深呼吸する。
眼鏡の向こうのまつ毛が震えて、混乱しているのが伝わってくる。

「………」

それからしばらくして、目を開いて、座る俺をじっと見つめてくる。

「………どうして急にそんなこと、仰るんですか?」
「もし、志藤さんがしたいなら、してもいいかなって」

言ってから、なんだかすごく偉そうな感じがすることに気づいた。

「えっと、これだと、なんか上から目線ですね。志藤さんが俺にそういう感情を持っているなら、俺なんかでよければ、その、してもいいって、なんかこれも上からだな」

別にしてやるよっていう訳じゃない。
志藤さんはさっきとは打って変わった静かな顔で俺をじっと見つめている。
なんて言ったらいいのだろう。
なんて言ったら、伝わるのだろう。
なんとか、回転の遅い頭で考える。

「………あの、お礼、したいんです。志藤さんは、俺なんかのこと好きになってくれて、優しくしてくれて、大事にしてくれて、多分、利害とか関係なく、好きになってくれた、本当をくれた人だから」

嘘ばかりの俺の世界。
数少ない、残った本当。
俺に、ちゃんと向き合ってくれた人。

「乱暴だったり、俺の意思を無視しようとした時もあって、怖かった時、ありました。でもやっぱり、俺、志藤さんのこと好きです」

俺の意思を無視してねじ伏せようとした時も、結局俺を想ってのことだった。
俺をきっと、誰より大事に、思ってくれている。
感情を表して告げるのは難しい。
今まで、家族に囲まれてばかりで、他人と真摯に向き合うなんて、あまりしてこなかった。
なんだか顔を見れなくて、俯いて自分の膝を見つめる。

「でも、何も返せないから。こんなに、大事にしてくれたのに、大切なものもらったのに、お礼、できないから。だから、何か、返せないかなって、思ったんですけど」

それは本当。
こんなものでいいなら、こんなものがほしいなら、いくらでも上げようと思った。
だって、俺は彼に何も与えられない。

「えっと、やっぱり、俺なんか、いらなかったでしょうか」
「………」

ちらりとそこで顔をあげて見上げると、志藤さんは目を細め眉を顰め怖い顔つきをしていた。
あまり見ないその表情に、やっぱり怒らせたのかと、心臓が縮みあがる。

「あ、あの」

志藤さんが深く大きく、ため息をついた。
びくりと、体が震えてしまう。

「しとう、さん」

漏れた声は、情けなるほど小さかった。
志藤さんが近づいてきて、俺の前立つ。

「あ………」

怒られるのか、詰られるのかと思い、身が竦む。
手を伸ばしてきたので、目を咄嗟に強く瞑る。

「まず、俺なんか、というのはよしてください」
「え」

けれど、その手はそっと俺の頬に優しく触れる。
目を開けて顔を上げると、志藤さんはやっぱり怖い顔をしたまま俺を覗き込んでいる。

「前にも申し上げたかと思いますが、私の好きな人をなんか呼ばわりなんてしないてください」
「あ………」
「あなたの強さに、あなたの弱さに、前向きさに、脆さに、そして優しさに、私は惹かれたんです。なんか、じゃない。あなたを尊いと思ったんです。私にとって大事な人を、貶めないでください」

相変わらず、志藤さんは、俺を買いかぶりすぎた。
美しい言葉をで俺を飾る。
本当の俺が見えているのだろうか、なんてちらりと思ってしまうが、情けない所も弱いところもずるいところも見せてきた。
想いを、疑う理由はない。
そんな風に言ってもらえるところなんて、一切ないけど。

「私が哀しいです」
「………はい、ごめんなさい。ありがとうございます」

けれど、本当に悲しげに眉を下げるので、謝る。
本当にそんな風に言ってもらえるところなんてない。
でも、嬉しい。
とても、嬉しい。

「それと、お礼なんて、考えないでいいんです。私が勝手にあなたを好きになった。重荷を背負わせ、迷惑をかけている。そして酷いこともした。責められこそすれ、お礼なんて言われる立場じゃありません」

とつとつと語る姿に胸が痛くなる。
ああ、ごめんなさい。
そう、叫びたくなる。

「でも、俺は志藤さんに、すごく感謝してる。俺なんか、俺を、好きになってくれたこと、本当に、嬉しいんです」
「そのお気持ちは嬉しいです。とても嬉しいです。でも三薙さん、失礼ながら、それは逆に私に対して酷いことをなさってる」
「え」

志藤さんは緩く首を振って、苦笑する。
胸がぎゅうぎゅうと雑巾を引き絞るように、縮み上がり痛くなる。

「あなたは、あなたの想い人に、気持ちはないけれど、お礼だから好きにしていいと言われて、嬉しいですか」
「あ………」

そう言われて、自分の言った言葉の酷さにようやく気づけた。
好意をくれる人に、心はあげられないけど、お礼に体はあげる、なんて馬鹿にした話だ。
体だけ与えてれば満足するだろう、て言ってるということだ。
とても、残酷で最低な言葉だ。

「お気持ちは嬉しいです。でもあなたは残酷です」
「ごめ、ん…、なさい」

自分の浅はかさに消えてなくなりたくなる。
この人を傷つけた。
この人の想いを、軽んじていた。

「ごめんなさい」

少しだけでも、返したかった。
せめてものお礼になると思っていた。

「いえ、私も申し訳ありません。本当に、あなたのその気持ちは嬉しいのです。でも、お気持ちだけ十分です」
「………ごめんなさい」

志藤さんが座る俺の前に跪く。
俺を見上げて、優しく笑う。
儚げにも見える繊細な容貌は、いつも通り、慈しみに満ちていた。
眼鏡の奥の目が、愛しげに細められる。

「構いません。感謝なんて、お礼なんて考えなくていいんです。あなたは私を利用していいんです。命令していい。手足として使役してくれればいい。それこそ犬で構わない。あなたのお役に立てることが私の喜びなんです。なんだって、言ってください。といっても、私の力では、微力すぎて、役に立たないかもしれませんが」
「そんなことありません!」

あなたの力が必要だった。
あなたがいてくれるだけでよかった。
志藤さんがにっこりと笑う。

「三薙さんも色々あって、お疲れなんです。今日はもう休みましょう。頭をと体を休めてください」
「………」
「あなたは頑張りすぎる。弱音を吐いてもいいと思います。あなたは、もっと泣いても怒っても、いいんです」

膝の上においた手に、そっと祈るように口づける。
優しい人。
ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい。

「さあ、風邪をひきます。ベッドに入りましょう。あ、その前に手を洗わないとだめですね」

志藤さんが立ち上がろうとするので、その手を咄嗟に掴んだ。
無花果の果汁でべたついていて、志藤さんの手も汚してしまう。

「………じゃあ、あの」
「はい?」

志藤さんは浮かしかけていた腰をもう一度下ろして、俺を優しく見上げてくる。
ごめんなさい。
あなたの想いを軽んじてごめんなさい。
ただ、お礼になればと思ったんです。

「我儘、言っても、いいですか?」
「え」

あなたを傷つける、お礼になればと、思ったんです。
目を一度、閉じる。
そして、もう一度開いて、志藤さんの目を見下ろす。

「あなたを、利用しても、いいですか?」

志藤さんが驚いたように目を見開く。
けれど一瞬の後に、すぐに蕩けそうに優しい笑顔になる。
ためらいなく頷いてくれる。

「はい、なんでしょう?なんなりと、お申し付けください」

あなたが俺をそれほど、好きでいてくれるなら、それほど大切に想ってくれるなら、余計に俺は、最低だ。

「……この流れでいうのは、失礼かもしれないんですけど、いえ、失礼なんですけど」
「はい」
「志藤さんは、俺のこと、そう言う意味で、その、そういう感情、持ってくれてますか?」
「………」

怪訝そうに眉を顰めて、俺の真意を探ろうとするようにじっと見つめてくる。
思わず目を逸らしそうになるがこらえて、その視線を受け止める。

「もし、思ってくれているなら、お礼とかじゃなくて、その………」
「三薙さん?」

息を吸って、吐く。
ごめんなさい。

「その、俺と、しませんか?」
「は!?」

志藤さんがまた眼鏡の奥の目を、大きく見開く。
可愛い人。
俺なんかの言葉で、一喜一憂してくれる、本当に可愛く愛しい人。

「お礼と、確かにそれもありました。でも、もしよければ、ご迷惑じゃなければ、してくれませんか?」

志藤さんは驚きを浮かべていた顔に、険しさを滲ませる。
少しだけ怒りが籠っているような押し殺した声で問う。

「なぜ、ですか?」
「………」

堪えきれなくて、目を瞑ってしまった。

「志藤さんが言うとおり、俺、志藤さんのこと、恋愛感情とかで、好きな訳じゃないと思います」

志藤さんの顔を見るのが怖くて、目を瞑ったまま、言う。
怒ってくれていい、詰ってくれていい、いっそそうしてくれたら、楽かもしれない。
ああ、この考えも結局志藤さんに負担を押し付けているのか。

「いえ、もしかしたら今後、そういう感情で好きになるかもしれません。でも、感情が育つ暇は、たぶんないです。長い時間をあなたと一緒にいることは出来ない」

この人に対して持つ感情は、岡野とは違う。
だから恋ではないと思う。
でも愛しい、好きだ、一緒にいたい。
それは、確かだ。

友情と信じていたものは、偽りだらけだった。
恋情と思われるものを、知ったばかりだった。
志藤さんに対して持つこの温かく切なく苦しく優しい感情が、強い友情なのか恋情の芽なのか、分からない。
そしてそれをつきつめて悩む暇は多分ない。

「でもあなたが好きです。一緒にいたいと思います。大事だと思います」

そこでようやく、目を開く。
志藤さんは怒っていなかった。
ただ、困惑を浮かべていた。

「志藤さんも、そう思ってくれてるんですよね。俺を、好きでいてくれるんですよね」
「………は、い、勿論です。あなたを心から、お慕いしております」

温めるように、俺の両手を包み込んでくる。
その温かさに勇気づけられて、ようやく、それを口にする。

「だったら、一度でいいから、俺に、好きな人がいて、俺を好きだった人がいるって、そう、思わせてくれませんか?それで………」

でも、先を続けるのが辛くて、やっぱり言葉がつかえてしまう。
この人に嫌われてしまったらどうしよう。
いや、嫌われた方が、まだきっと、いい。

「………」

志藤さんは急かすことなく俺の言葉の続きを待っていてくれる。
嫌ってくれて、構わない。
詰ってくれて、構わない。
でもたぶん、あなたがそれをしないことを、分かっている。

「俺はやっぱりずるいです。どうしても、ずるいです。卑怯です。最低です。ごめんなさい。ごめんなさい、志藤さん。ごめんなさいっ」

堪えきれなくて、声が震える。
しゃくりあげて、涙が溢れる。
ああ、泣いたりして、余計に、負担に思わせる。

最低だ。
最低だ。
最低だ。

「泣いたり、して、余計に卑怯、ですね。あの、本当に、嫌だったら、言ってください、忘れてください。だけど、もし、あなたを利用していいなら、あなたに重荷を押し付けていいなら」

でも、本当に、あなたに願っていいのなら。

「俺を、覚えていて、くれませんか。忘れないで、くれませんか」

もはや涙は止められない。
ぼろぼろと、後から後から零れてくる。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。俺は、岡野と、槇には、忘れてほしいと思う。俺のこと、忘れて、幸せに生きていてほしいと願う。だから、俺のことなんて、すっかり、最初からいなかったものとしてくれて構わない」

岡野と槇には、俺のことなんて一切忘れてほしい。
あの二人の心に陰りなんて残したくない。
それなのに、志藤さんには、望むのだ。

「でも」

志藤さんは、俺を、驚いたような顔で見ていた。

「でも、あなただけは、覚えてくれませんか。俺がいたこと、俺を好きだったこと、俺があなたを好きだったこと、覚えていてくれませんか。たまにでいいんです、ずっと覚えている必要なんてない。ただ、たまに、1年に1度でも、いえ、5年でも10年に1度でもいい。たまに、思い出して、ほしい」

温かい思い出。
優しい人
愛しいと思った人。

「利用されて、生きて、誰からも覚えられていないなんて、嫌だ」
「三薙、さん」
「そんなの、嫌だ!嫌だ嫌だ嫌だ!」

嘘だらけの俺の世界にだって、真実はあったのだと、愛してくれる人はいたのだと、そう思わせて。
一人だけでも、覚えてくれてる人がいるのだと、そう思わせて。

「お礼なんて嘘だ!あなたの中に、消えない傷を作りたかった!覚えていてほしかった!あなたを利用して、あなたの想いを踏みにじった!」

少しだけ、覚えてくれてるだけでよかったんだ。
体をつなげて、思い出に残して、ああ、あんな奴もいたと、たまに思い出すだけでもよかったんだ。

「ごめんなさいっ」

いや、違う。
覚えていてほしかった。
忘れないでほしかった。
この人の想いを、言葉を、性質を、利用しようとした。
強く深く、傷をつけたかった。
ずっと先まで残るぐらい、爪痕を残したかった。

「ごめん、なさい」
「………」

膝に、顔を伏せて、啜り泣く。
なんて浅ましい。
なんて悍ましい。

「………本当に、あなたは残酷だ」
「っ」

志藤さんの呆れたような声に、体が震える。

「残酷で、ずるい」
「ごめん、なさい………」

ふっと、息を吐く声がする。

「やっぱりこうして私を捉えて、放さないのだから」

そして諦めたような声でそう言った。

「顔を上げてください、三薙さん」

そっと頬を包み込まれ、顔を上げさせられる。
志藤さんの目はやっぱり慈しみに満ちている。
嫌悪も怒りも、浮かんでいない。

「忘れられるわけがない。あなたという存在はすでに私の心の奥底に、刻みつけられている。むしろ忘れろと言われるほうが、私にとっては酷です」

ゆっくりと立ち上がり、涙でべちゃべちゃな俺の頬に口づけてくれる。
額にも口づけられる。
視線を合わせた志藤さんの表情に浮かぶのは、喜びのように見える。

「嬉しいです。嬉しい、あなたが、傷を残す相手に、私を選んでくれたのが嬉しい。私を利用してくれたのが嬉しい。あなたが我儘を言ってくれたのが、私だったのが嬉しい。私を望んでくれたのが、嬉しい」

そっと優しく、抱きしめられる。
志藤さんの匂いに、胸が切なく、キリキリと痛む。
肩に顔を埋めると、余計に涙があふれてくる。
きっと、分かっていた、期待してた。
あなたがそう言ってくれることを。

「好きです、三薙さん。あなたが、愛しい。愛しい。あなたを失うなんて、考えたくない。今すぐあなたを奪って逃げてしまいたい」

俺だって好きだ。
こうして、俺を想ってくれるこの人が、大切だ。
愛しいと思うのと同じぐらい、この人の執着に、優越感と満足感を得ている。

「許されるなら、そうしたい」
「………」

逃げて、どうなるだろう。
この人の手をとって、逃げ出す。
それはとても魅力的だけれど、きっと、待つのはこの人を巻き込んでの破滅だけだ。

「あの、志藤さん、触れても、いいですか?」
「勿論です。私のすべては、あなたのものです」

志藤さんが体を離してくれたので、今度は俺からキスをする。
俺の涙のせいか、少しだけしょっぱかった。
触れるだけのキスを二度ほどして、吐息が触れる距離で、問う。

「その、して、くれますか?」
「………このようなことをしなくても、私はあなたを忘れたりしないです。何も、そんなことしなくてもいいです。あなたがくれた言葉だけで、私はすべて報われてるのですから」

志藤さんがいたわるようにそう言ってくれる。
でも、違う。
首を横に振る。
志藤さんのため、なんかじゃない。

「俺が、したいんです。お願いです、俺を欲しがってください」

俺を強く欲しがって。
俺は誰かに求められた存在なのだと、信じさせて。
愛されたのだと、思わせて。
あなたに傷を、俺にも証を、残して。

「………失礼いたします」

志藤さんはそれ以上何も言わず、ベッドに乗り上げてきた。
ゆっくりと後ろに倒され布団に沈み込むと、志藤さんも眼鏡を外して覆いかぶさってくる。

「ん………」

近づいてきた唇を受け止めると、柔らかくて湿っていた。
何度も優しく啄むように、口づけられる。
うん、大丈夫。
嬉しい。
愛しい。

「志藤さん、好きです」

志藤さん首に手を伸ばそうとして、ふと気づく。

「あ、志藤さん、えっと」
「はい?あ、もし気が変わられたのならすぐに仰ってください!」

俺の室内着に脱がせようとしていた志藤さんが、はじかれたように手を引っ込める。
その素早い反応に、つい笑ってしまう。

「違います」
「は、はあ」
「えっと、俺が、下で、いいのかなって」
「え」

この体制だとたぶん俺が下なんだろうけど、もしかして志藤さんが下がよかったらどうしようと思った。
志藤さんを満足させるような技なんて持っていない。
怪我とかさせたら、大変だ。
一兄や天のやり方なんて、ほとんど覚えてない。
でもやったら、どうにかなるだろうか。

「あ、もしお嫌でしたら全然!私が下でも!」

志藤さんが上体を起こして、首をぶんぶんと横に振る。

「あ、いえいえ、どっちもいいです!」
「でも、おそらくそちらの方が負担が大きいですし!私が下でいいです!」
「いえ、俺、下は慣れてるし、はじめてじゃないし!全然こっちで!単にどっちがいいのかなって思っただけで!」

そう言ったら、志藤さんがきゅっと眉を顰めて痛そうな顔をした。
単にこっちならまだ迷惑をかけないだろうって思っての発言だったのだが。

「………」
「あ」

慣れてるとか、初めてじゃないとか、別にいいことじゃないよな。
しかも一兄も天も、志藤さんは知っているのだし。
複雑な気分にもなるだろう。

「あの、でも、えっと、儀式とかじゃなくて、その、こういうことするの、志藤さんが初めてです」

経験なんてあってなきがごとしだ。
そもそもあれを経験を含んでいいのだろうか。
慌てて言い訳するように言ってから、気づく。

「ああ、そうだ」

胸がざわざわと騒ぐ。
くすぐったくなって、笑ってしまう。
志藤さんが不思議そうな顔をする。

「はは、俺、自分の意思でキスしたのも、志藤さんが初めてです。こうして触れ合いたいと思ったのも初めてです」

手を伸ばして、志藤さんの腕を引っ張る。
もう一度体をかがめて、顔を近づけてくれる。

「全部全部、志藤さんが初めてです」

眼鏡を外してあらわになった目に、欲情の色が浮かんだ気がした。
雄の獰猛さを滲ませている。
ああ、その、俺を欲している目が、たまらなく嬉しい。

「志藤さんが俺のはじめての男ってやつですね。優しくしてくださいね」

冗談めかして言うと、志藤さんも困ったように笑う。
そしてキスをしてくれた。

「………嬉しいです。あなたの想いをいただきます。今夜だけは、あなたは私のものだ」
「はい。俺のすべては、志藤さんのものです。志藤さんも俺のものです」
「はい、髪一筋さえも、あなたのものです」

せめて今夜だけは、俺の我儘に付き合って。
俺の世界にも、真実があったのだと、信じさせて。





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