「今日の宿は、どんなところなんですか?」 暗くなった車内の空気を誤魔化す様に、志藤さんに聞く。 志藤さんはバックミラーをちらっと見て微笑んだ。 「湖畔の温泉宿となります」 「湖ですか。たつみ以来ですね」 脳裏に浮かぶ、竜神の住む山奥の湖。 色々あったけれど、思い返すと懐かしくて結構楽しかった。 そんな思い出もあるし、川も湖も水辺は気持ちよくて好きだ。 きっと海はもっと気分が浮き立つんだろう。 「湖ねえ」 助手席に座った天が、嫌味たらしく言う。 先ほどの話を引きずってか、まだ不機嫌そうだ。 最近、前よりもこいつの感情が見えるような気がする。 「お前は嫌い?」 「たつみを思い出して嫌な気分になった」 「お前本当に、たつみ嫌いだな」 以前からあの湖の地の話をすると嫌な顔をする。 哀しいことはあったけれど、他の仕事に比べたら俺たちはそれほど怖い目にも辛い目にも遭わなかったのに。 「寒い思いしたし、その割に得られるものは少なかったし、何より住人がムカつくし」 なるほど。 場所ではなくて人らしい。 「お前、本当に、露子さん嫌いだよなあ………」 「うん、嫌い」 「迷わない、囚われないところが嫌いなんだっけ?」 俺はあの人に、憧れすらしたんだけどな。 強く囚われず迷わず、真っ直ぐに自分の欲するものだけを見ている、軽やかな人。 自由というのは、ああいうことを言うのかもしれない。 天が前を向いたまま、首を傾げたのが見える。 「そうだね、迷わないところ、なんだろうな」 「迷わない人間が好きなのに、実際迷わない人間を見ると嫌いって、我儘なやつだな」 「本当にね」 自分の欲するところを知って、迷わない人間が好きだと言った天。 けれど実際それをしているらしい露子さんや熊沢さんは嫌いなのだ。 本当に難しいやつ。 俺のあてこするような言葉に、けれど天は怒りもせずにため息交じりに頷く。 「迷わず自分の欲しいものを欲しいって、言える人間が好きだと思ってたんだ」 「今は違うのか?」 「そうだね、好きなわけじゃなかったって分かった」 「なんで?」 「質問ばかりだね」 俺が子供のように質問を繰り返すせいか、天が笑う。 そしてまたちらりとこちらを振り返る。 その顔はやっぱり冷静で、動揺のようなものは見られない。 「だって、知りたいから」 「俺のことを知りたいの?」 からかうように言って悪戯っぽく笑う天に、ただ頷く。 「そう。お前の考えていることを」 「すごい殺し文句だ。ドキッとした。本当に兄さんってば小悪魔ビッチだね。弄ばれちゃいそう」 「茶化すな」 天が、くすくすと笑って胸を手にあておどけて見せる。 ここでムキになっても、仕方ない。 天がこういう真面目に話しているときに、混ぜ返す場合は決まってる。 もう、それは、分かってる。 「お前がそうやって茶化すときは、これ以上聞かれたくない時、だよな。じゃあ、今は聞かない」 「………」 天がふうっと息を大きく吐いた。 「変に敏くなっちゃって、やだやだ」 本当にうんざりしたように言い捨てる。 俺だって、いい加減学習ぐらいする。 まあ、こいつを嫌って憎んで、何も見えてなかったときは、ただ怒りを覚えていただけなんだけど。 こうやって冷静にこいつを見られるようになったのは、本当につい最近だ。 「それにしても、思ったよりお前、好き嫌い多いよな。双兄に、熊沢さんに露子さん」 天は誰ともそつなく、適当に付き合える人間だ。 慇懃無礼なところがあって、人のことなんて馬鹿にして、どうでもいいと思っていると思っていた。 嫌いになるほど人に執着を持っているなんて思わなかった。 「元々、食い物の好き嫌いは多かったけど。人間も割と好き嫌い激しいんだな。全体的に他人に冷たいけど、誰とでもそつなくっていうか、好きとか嫌いとかなくて、興味ないかと思ってた」 「そりゃ俺だって人間だしね。好きな人も嫌いな人も沢山いるよ」 「お前に好きな人沢山いるの?栞ちゃん以外思いつかないんだけど」 天が目に見えるほどストレートに好意を表しているのは栞ちゃんぐらいだ。 純粋に、他にも好きな人間がいるのかと疑問に思う。 俺の言葉に天は肩を竦めた。 「ひどいこと言うね。まあ、栞は別格だけど、友達とか好きだよ。普通に」 そういえば、前に学校に行った時も、周りに友達がいたっけ。 こいつ、友達と何を話すんだろう。 馬鹿話をして笑っている姿なんて、想像がつかない。 「お前、友達いるんだよなあ」 「兄さんと違ってね」 「うるさい」 どうせ俺は友達がいない。 手にいれたと思っていた友達も、まやかしだった。 それでも、数少ない本当は、いるんだけど。 「………もし俺が、奥宮候補なんてもんじゃなかったら、友達、出来てたのかな」 「まあ、今よりは出来てたんじゃない?実際出来そうなタイミングは何度かあったんだし」 「そっか………」 もしかしたら以前の天のように友達に囲まれて笑っていたかもしれない。 もしかしたら旅行や遊びに行ったりなんてことがもっとできたかもしれない。 学校に行って、ふざけて先生に叱られるなんてことあったかもしれない。 「まあ、今更言っても仕方ないな」 時は戻らないし、俺の立場が変わることはない。 夢想するのは自由だが、むなしくなるだけだろう。 それに、寂しいけれど、哀しい訳ではない。 「それに、志藤さんと、岡野と槇に会えたし、満足」 「………ふーん」 だって俺には、残された少しの真実があるから。 それだけで十分だ。 「三薙さん」 志藤さんが、どこか低い声で、名前を呼ぶ。 「はい?」 「………あなたは………」 何かを言おうとして、何を言えばいいのか分からないように口を閉ざす。 バックミラー越しの顔を覗き込むと、眉を寄せて苦しそうな顔をしていた。 「いえ、なんでもありません。失礼しました」 「そうですか?」 「………はい」 「ああ、でも、志藤さんと同じ学校とか通えたら、きっと楽しかったんだろうな」 いけない、変な話をしてしまった。 こんなことで、この人を悲しませるわけには、いかない。 志藤さんには、出来れば、悲しんでほしくなんて、ない。 途中遊覧船に乗ったりして寄り道をしながら辿り着いた宿は、森の中にある湖のすぐ傍に建っていた。 見た目はビルっぽい感じの、けれど中身は和風な旅館。 徐々に、家へ、近づきつつある。 旅ももうすぐ、終わろうとしている。 「ここの湖も綺麗だなあ。なんかいそう」 「いるんじゃないの。なんか気配あるし」 「だな」 「近づかないでね」 「分かってるよ」 こういったところには、何かしらが住んでいたりする。 下手に手出しをして、トラブルになるのはごめんだ。 「本当に綺麗だな」 山間から覗く夕日に染まる湖はとても綺麗で、目が奪われる。 やっぱり俺たち人間なんて寄せ付けないもの感じる。 こういう風に自然に触れると、心が穏やかに、広がっていく気がする。 海の写真集を見ているときのようだ感じだ。 「でも、海はもっと、大きいんだよなあ」 「うん、大きいよ」 「見たいなあ」 きっと海が見えたら、もっと気分が落ち着いて、晴れていくのだろう。 あの青い海の中に、身を投げ出せたら、どんなに気持ちがいいのだろう。 「では、明日は海辺の宿にいたしましょう」 「え?」 「まだ後一泊しても、問題ないのですよね?」 慌てて天の方を振り向く。 天は俺と志藤さんの視線を受け止めて一つ頷いた。 「うん、平気」 「では、そういたしましょう」 「いいんですか!」 海が、見えるのか。 心がくすぐったく疼く。 でも、見たいという気持ちと本当に実現できるのかという不安と期待で、心臓が高鳴る。 興奮で、声が上ずってしまう。 「三薙さんがそう望まれるのでしたら。よろしいですか、四天さん」 「兄さんがそう望まれるのでしたら」 志藤さんの言葉に、天がからかうように繰り返す。 でもそんな言い方は何も気にならない。 海が、見える。 ようやく見える。 「ありがとう!ありがとうございます、ありがとう!」 「い、いえ、でも、この辺の海は期待しているような美しい海ではありませんよ?」 「いいんです!十分です!」 志藤さんの手をとってぶんぶんと振り回すと、眼鏡の男性は困ったように笑う。 出来れば綺麗な海が見たかった。 でも、そんな贅沢は言ってられない。 海が、見える。 「あー、今日寝れないかも」 「では、手配いたしますね。申し訳ありません。本日も海辺にすればよかったですね」 「ううん、ここも綺麗です!湖、好きです!」 湖も川も、水辺は好きだ。 今日のここだって、十分綺麗で、嬉しい。 「それなら、よかったです。あ、部屋は二室用意してありますが、いかがいたしますか?」 「えっと、今日は、天と話したいことがあるんです。いいでしょうか」 今日は三人同室でもいいと思ってたのだが、別室でよかったかもしれない。 やっぱり、志藤さんの前では、話しづらい。 「承知いたしました」 志藤さんは穏やかに笑って頷く。 聞いていた天が、皮肉げに唇を歪めて笑う。 「お話ね?」 「ああ、お前に話したいことある」 「なんだろう、告白かな。ドキドキしちゃう」 「茶化すなって」 天のふざけた様子に、ため息をついてしまう。 どうせ何を話したいかは、見当がついているのだろう。 まあ、その話は後でいい。 今は、旅を楽しもう。 宿の前にある看板に目を向けると、温泉の字がある。 「あ、今日も、温泉あるんだな。嬉しい。俺、温泉好き。そういえばみんなで温泉入ったよな。たつみでも」 「ああ、あったね、そういうこと」 冬の湖に落ちて凍えそうになって、皆で風呂に入ったのだ。 あれも、修学旅行のようで、楽しかった。 一緒にお風呂に入って、枕を並べて寝た。 まあ、色々と考えることとか、供給とかあって、和気藹々という訳にもいかなかったけど。 今日なら、もっと楽しく入れるだろうか。 「なあ、今日もみんなで」 「申し訳ありません」 入ろうかと言い切る前に、志藤さんが拒否した。 ものすごい早い反応だ。 「………答えが早いですね」 「恐れ入りますが」 志藤さんは静かな顔で、もう一度頭を下げた。 こんなにきっぱり拒否しなくてもいいのに。 ちょっと悔しくなって、一兄に甘える時のように、そっと志藤さんに近づいて、その腕を掴み、見上げる。 「駄目ですか?」 「っ」 思った通り、志藤さんが眉を寄せて、息を飲む。 赤くなった目尻で、視線を逸らす。 「一緒に、入りたいです」 「頼みますから………」 もう一度お願いすると、志藤さんが顔を俺から背けて、絞り出すような声で言った。 こうやってお願いしたら聞いてくれるかと思ったんだが、駄目か。 「うわー、本当にタチ悪いな」 天がぼそりと呆れたように吐き捨てる。 自分でもちょっと気持ち悪いかと思うのだが、志藤さんは動揺してくれる。 志藤さんが俺の行動で困っているのは、ちょっと楽しくて嬉しい。 「そんなに嫌ですか?」 「………嫌ではないとお分かりになられてますよね」 恨めしげな声で、じとっと睨みつけてくる。 そんな態度が可愛くて、本当に嬉しくなる。 でも、これ以上はさすがに怒らせてしまうかもしれない。 「残念です」 「その、昨日の、今日ですので………私の理性が、持ちそうにありません」 そんなことを、正直に言ってくれてしまうから、罪悪感が沸いてくる。 不器用で器用で賢くて愚かな可愛い人。 でもよくよく考えれば、俺だってこの人と風呂に入るのは危険かもしれない。 昨日、この人の腕の中で、裸になって、散々泣かされたのだ。 思い出すと、さすがに、俺も恥ずかしくて、顔が熱くなってくる。 「しょ、しょうがないですね、分かりました」 「はい、申し訳ありません」 その後チェックインを済まし部屋に案内される。 自分の部屋に荷物を放り出すと、すぐに志藤さんの部屋に向かった。 その部屋は8畳の和室と5畳ぐらいのベッドが二つあるベッドルームがある。 俺の部屋と作りはほとんど一緒だ。 奥の窓からは、俺の部屋と同じく夕焼け下の湖が広がっている。 「こっちの部屋も広いですね」 「どのような部屋割りになるか分からなかったので、その、一応広い部屋を」 「あ、責めてるわけじゃなく」 志藤さんは自分一人で広い部屋を使うことを申し訳なく思っているようで頭を下げる。 確かに今回は俺か天が一人になる可能性だってあったんだし、志藤さんの立場から、一番狭い部屋を取るという訳にもいかないだろう。 「一人部屋にしてしまってすいません」 「かまいませんよ。四天さんとお話したいことがあるのでしょう?」 「はい。今度こそ、ちゃんと話さないと。いつも煙に巻かれちゃうから」 天とは何度も話をしようとしてきた。 最近ではだいぶ、あいつの考えることも分かってきたと思う。 あいつが俺をどう思い、どうしようかも、分かった。 今日はもっと、分かればいい。 「四天さんは冗談をおっしゃりながら、その冗談の裏にも、何かの意味を持っている」 茶化すとき、ふざけるときは、俺を煙に巻くとき。 さあ、と言う時は、言う気がないか、言うことを許されてないとき。 「僭越ながら、私にはそう感じられます」 そんなことが、分かってきた。 まったく見えなかった天の心が、最近は少し、近づけた気がしている。 だから、志藤さんの言葉に、頷いた。 「はい、俺も、そう感じます。だから、ちゃんと話したい」 あいつの求める答え。 あいつの求める未来。 それを、ちゃんと話したい。 「そうですね。きっと四天さんも三薙さんにはお話になられると思います。どうぞ頑張ってください」 「ありがとうございます」 志藤さんが俺を優しく、目を細めて見つめている。 その目が愛しさに溢れているように見えるのは、きっと勘違いじゃないと思いたい。 この人は俺を、好きでいてくれる。 そのことに、俺も愛しさで胸が溢れそうになる。 「あの、志藤さん」 「はい?」 「こっちに」 「え」 俺を見つめて首を傾げる人の頬をそっとつかんで引き寄せる。 志藤さんは戸惑いながら体をかがめてくれる。 「ん」 俺も背伸びをして、その唇に触れる。 堅めのしっかりとした唇。 「三薙、さん?」 困ったように眼鏡の向こうの目に惑いを揺らめかせながら、それでも何もできず立っている。 その不器用な様子がまた可愛くて、その首に腕を回して引き寄せる。 「もっと、してください」 「………みなぎ、さん」 一瞬で、志藤さんの目に獰猛さが宿り、体を引き寄せられた。 唇がもう一度重なり、深く啄まれる。 でも物足りなくて、舌を自分から差し込む。 「………っ」 「ん、ふっ」 志藤さんの舌が、俺の舌をすぐに強引に引っ張り出す。 腰を引き寄せる手が強くなる。 ぎゅうぎゅうと抱きしめられながら、貪られるようにしてキスをする。 「は、あ」 思う存分味わい、味わわれた後、息がすっかり上がっていた。 でも、満足感がある。 すぐ傍にいる志藤さんに笑いかけると、どこか怒っているように眉をつりあげた。 「いけない、方です。どうされたのですか?」 「すいません、ただ、触れたかったんです」 愛しさがこみあげてきて、触れたかった。 この人に、触れたかった。 「志藤さんに出会えて、よかった」 「………」 志藤さんは、けれどますます眉を寄せる。 そして、ぎゅっと更に強く俺を抱きしめた。 縋るような腕が、心地いい。 「頼むから、そういうことを、仰らないでください」 「………志藤さん」 「不安に、なります。あなたに置いて行かれる気がして、なりません。怖い。あなたを、失いたくないんです。私を置いていかないでください」 「………大丈夫、ここにいますよ」 ああ、ごめんなさい。 あなたを苦しませたいわけじゃない。 いつまで傍にいられるかは分からない。 ただ、でも、少しでも長くあなたの側にいて、あなたに出来ることをしてあげたい。 宿の料理は地元の野菜と猪肉や、海が近いらしく海のものなんかもでた。 昨日と同じぐらい美味しくて、量が多いのにも関わらず完食してしまった。 この旅行中、なんかずっと毎食腹いっぱい食べている気がする。 「うまかったなー。なんかうまいもんばっかり食って、太りそうだな」 「確かに。体も大して動かしてないし、やばいね」 「だな。明日少し動かそうか」 「それもいいね」 家にいる時は天も俺も毎日に鍛錬を繰り返しているから運動は問題ない。 でも、今回は志藤さんに車を運転させるばかりで、全然動いていない。 筋肉も衰えて、太りそうだ。 「じゃあ、明日外走ったりするかー。走れるのかな」 もうすでに何も見えなくなっている真っ暗な窓に近づく。 窓は転倒防止か何かのために、全部は開かないが、風を取り込むぐらいには開けた。 湖を渡って涼しい風が、顔を撫でる。 食後で火照った体には、ちょうど気持ちがよかった。 「気持ちいいな」 少しだけ今日は細い月が見えているが、水辺はあまり見えない。 たつみのときは、あんなに青々として、よく見えたのに。 それでも暗く横たわる静かな湖は、見ているとふっと遠くに行くような感じがする。 「なんか夜の湖って、引き込まれそうな気がする」 「実際水辺は変なものいっぱい寄ってくるしね」 「ちょっと、怖いな」 そして、少し考えて、窓を閉める。 「大事な話は、窓を閉めて、だっけ」 「大事な話をするの?」 「多分な」 振り返ると、机の隣座り込んだ天が、じっと俺を見ていた。 その顔は、どこか、不機嫌そうに見える。 「………」 その視線を受けて、いったん目を閉じる。 息を吸って、吐く。 そして、目を、開く。 天は俺の行動をただ静かにじっと、見ていた。 「天」 「なあに?」 俺に選べる選択肢は多くない。 何を捨て、何を掴むか、考える。 俺が何を望み、何を欲しているのか、それを浮き彫りにするための旅。 「俺は」 そして、答えは、出た。 というか、結局本当に悩めるほど選択肢はなかった。 「俺は、奥宮になろうと、思う」 天は、感情を揺らさなかった。 変わらず、じっと俺を観察するように見ている。 「そう。それで」 そして、静かに問う。 「どっちを選ぶの?」 「俺は」 俺が何を望み、何を欲するか。 何を、選びたいか。 天の目を真っ直ぐに見返す。 息を吸って、吐く。 「一兄を、選ぶ」 |