今日の宿は、山の中にある立派な日本家屋の旅館だった。
まだお昼少し前ぐらいで、普通は宿には入れないらしい。
けれど、志藤さんと天がフロントで何か話し、しばらくして、二人が一人ソファに座っていた俺の元へ戻ってきた。

「部屋使わせてくれるって」
「大丈夫なのか?」
「平日だし、用意が出来てる部屋があるってさ。お金の力って素敵だね」

天が皮肉げに笑う。
お金の力ってことは、お金を払って部屋を借りたということなのだろうか。

「………」
「何?」
「………いや」

天はとても、世間擦れしている。
俺の弟で、二つ下で、この前まで中学生だったのに、俺よりずっと世界を知っている。
俺は、全然そんなの知らない。
そもそも旅館とかホテルの、チェックアウトやチェックインなんていう仕組みも知らなかった。
俺は何も知らない。
俺は、狭い狭い世界しか、知らない。

「お待たせいたしました。こちらにどうぞ」

すぐに品のいい仲居さんが案内してくれて、部屋に向かう。
部屋数はあまりないようだが、廊下は広々としている。

「お腹へったね。風呂入ってから食事に行こうか」
「うん」

朝食をあまり食べてない上に、すべて吐いてしまった。
最近は空腹でも食欲がずっとなかったけど、今は何か食べられる気がする。

「店、近くにあったな。そういえばあんな大きな靴屋が、あんなところにあるんだな」

山の中だが、中心ぽい大きな道沿いにいくつか店は見つけた。
ものすごい大きな靴屋もあり、無事そこで靴を新調できた。
店は少ないが、ある店は大きなものが多かった気がする。

「ああ、あの店、どこの国道沿いにもでかい店舗があるな」
「そうなのか」
「色々なところでよく見かけるね」

やっぱり、世間擦れしている。
俺は、知らないことばっかりなのに、天は俺よりずっと広い世界を見てきたんだな。
羨ましいと思うと同時に、今は少し、それが哀しくも、感じる。

「こちらの部屋となります。お風呂の方は奥の露天でしたらかけ流しですから、すぐにお使いいただけます。大浴場も大丈夫ですよ。内風呂の方はお湯をためなきゃいけませんが」

仲居さんが案内してくれたのは次の間の向こうに本間があり、更に奥の障子の向こうに広縁がある、全部で20畳以上はありそうな、広い部屋だった。
新しい畳の、つんとしたいい匂いがする。
天がにっこりと営業スマイルで仲居さんに頷く。

「露天を使うから大丈夫です。ありがとうございます」
「ええ、皆様で入れる広さだと思いますよ。では、簡単に館内のご説明させていただきますね」

お茶を淹れてくれながら、仲居さんは分かりやすく丁寧にてきぱきと説明をしてくれる。
説明が終わり、ご質問はありますかと言ったところで志藤さんが穏やかに笑いながら何か包みをそっと机の上に差し出す。
お年玉袋のように見える。

「いえ、大丈夫です。ありがとうございます。本日はお世話になります」
「まあ、ご丁寧にありがとうございます。でもお気持ちだけで十分です」
「そうおっしゃらず。色々ご迷惑おかけすると思いますので、よろしければ受け取っていただけませんか?」

受け取ろうとしない仲居さんに志藤さんがもう一度促す。
すると仲居さんは笑いながら頭を下げて、そっとそのお年玉袋を受け取る。

「ではありがたくお言葉に甘えさせていただきます。どうぞごゆっくりおくつろぎください。何かありましたらなんでもお申し付けくださいね」
「はい、よろしくお願いいたします」

そうして最後にもう一度頭を下げると、しずしずと部屋を出て行った。
今の一連のやりとりの意味がよく分からず、志藤さんに聞いてみる。

「今のってお金ですか?」
「えっと」

志藤さんが困ったように首を傾げて、天に視線を向ける。
天はお茶菓子のおまんじゅうを頬張りながら、頷く。

「あれはお心づけ。まあ、日本特有のチップみたいなもの。迷惑料先払いって感じかな」
「へえ」

お心づけ、か。
何かで聞いたことがあるような気がするようなないような。
日本にもチップの習慣って、あるのか。

「ま、最近は渡さないのがほとんどみたいだけどね。今回は無理言ってるから一応」
「そう、なんだ」
「とりあえず風呂に入ろう。露天ならすぐ使えるらしいし」

お茶を啜り終わった天が、立ち上がる。
そうだ、車の暖房ですっかり体は温まったが、やっぱり風呂には入った方がいいだろう。

「えっと、露天って、外?露天風呂?」
「そう」

天が奥を指さすので、そちらに向かってみる。
部屋の奥にある障子をあけると、広縁があり、外にはベランダがある。
木々に覆われたベランダ自体一部屋ぐらいはありそうな広さで、更にその右手には丸い風呂が設置されているのが見える。

「う、わ」

慌てて広縁の窓を開けて飛び出る。
右手奥が柵で囲まれていて、丸い桶のような形の風呂が設置されている。
広々としていて、確かに三人ぐらい余裕で入れそうだ。
こぽこぽとお湯が注ぎ込まれる音がする。
冷たい風が吹くと、それに煽られむわっとする熱気に顔が覆われる。

「すごい!天、志藤さん、すごい!風呂がある!外に風呂がある!」
「そりゃ、露天風呂だからね」
「あ、そっか、露天風呂か。普通の旅館って、部屋に露天風呂がついてるのか?」
「全部じゃないよ。この前ついてなかったでしょ」

そういえばこの前たつみで泊まった宿は露天はなかったし、部屋に風呂はついていなかった。
色々あるんだな。

「そっか。ここはついてるんだ、露天風呂。あ、見て、川が見える!」

風呂のお湯の音のほかにも水の音がするからベランダの下を覗くとそこには岩に囲まれ、真ん中に水が流れていた。
そういえば来る途中、近くに川があった。
裏手が川だったのか。
天もベランダに出てきて、下を覗き込む。

「ほんとだ、中々いい景色だね」
「すごい!早く入ろう!すごい!川だ!」

川を眺めながら外で風呂に入れるなんて最高だ。
旅館って、すごい。

「あれ、体とかどこで洗うんだ」
「そっちにドアあるでしょ。そこ内風呂」
「あ、なるほどつながってるのか」

部屋に戻って広縁を覗くと、奥にはドアがあって、ベランダにもドアがある。
この中が、内風呂になっているのか。
そうか、体を洗ってそのまま露天に出てるのか、よくできてる。

「早く入ろう!」

露天風呂なんて、初めてだ。
しかも部屋についてるなんて、すごい。

「え、と、あの、わ、私は、大浴場の方に行きますので」

部屋の中にたたずんでいた志藤さんが、しどろもどろに言いながら後ずさる。

「え、でも」
「す、すいません!」

引き留めようとすると、そのままくるりと踵を返して走っていこうとする。
が、その前にその襟首を天がつかみ、志藤さんがつんのめってえづく。

「ぐ!」
「待った。着替え持って。タオルは大浴場にあるって言ってましたね」
「は、はい!」

志藤さんの鞄を指さすと、志藤さんが慌てて拾い上げてこくこくと頷く。

「はい、じゃあ、それ持っていってらっしゃい」

天がひらひらと手をふると、志藤さんは顔を赤くして慌てて部屋から出て行った。
一瞬の出来事に口をはさむことすらできなかった。
志藤さんがいなくなって、静まり返った部屋をただ見つめる。

「兄さんの悪女っぷりすごいね」
「あ、悪女ってなんだよ!」
「好きだって言われて貞操狙われて、それでもその態度なら立派な悪女でしょ」
「………」

悪女という言葉は納得いかないが、確かに、無神経だっただろうか。
一緒に入るのは、やっぱり、気まずいのだろうか。
やっぱり、志藤さんは、俺に、そういう感情を抱いているの、だろうか。

「俺はさっさとこっちの風呂入るね」
「あ、お、俺も」

天はどうでもよさそうに言って、広縁のドアを開く。
そこは洗面所になっていて、洗面台やタオルなどが設置されている。
そしてその奥は内風呂で、更に奥のドアが露天につながっているようだ。
さっさと服を脱ぎすてて内風呂で体を流す天に習い、俺も慌てて服を脱ぐ。
裸で外に出るのはなんとなく、居心地が悪くて抵抗感があった。
けれど天しかいないし、その天は堂々としている。
気にしていても仕方ないので俺も続いてベランダに出ると、風が冷たく感じた。
急いで湯船に入ると、足先からじんと痺れていく。

「ふわ………」

肩までつかると、思わず声が出た。
吹き抜ける風が頭を冷やして、でも肩から下は熱い。
下には渓流が見えて、さらさらと水の音もする。
頭を上げると、木々の隙間から太陽の光がキラキラと弾けている。
とても、気持ちがいい。

「露天風呂って、すごいな」
「そうだね」

志藤さんも、一緒に入れればよかったのに。
こんなに、いいお風呂なのに。
でも、それは、できないのか。
もう一緒に、風呂に入ったりとか、できないのか。

「………志藤さんは、俺のこと、好き、なのか」
「さあ、本人に聞いてないからなんとも。でも状況だけ見るとそうなんじゃないの?」

そう、なのか。
俺なんかを、好きになってくれたのか。
もちろん嫌いになられるより、ずっといい。
でも、やっぱり重く感じる。

「俺、何も、返せないのに。何も、出来ないのに」

彼に何も返してあげられない。
勿論志藤さんが好きだ。
でも、志藤さんの気持ちと俺の気持ちはきっと違う。
気持ちは、返せない。
他に、彼に何がしてあげられるだろう。

「別に見返りは期待してない………、ことないね。ばっちりしてるね。何か返したいの?」
「………俺なんか、好きになって、くれたのに。想ってくれて、大事に、してくれたのに。でも、何も、出来ない」

それこそ一緒にいることすら、後少ししか出来ないかもしれないに。
いなくなる俺に、そんな感情を抱いてしまった彼が、可哀そうだ。
俺なんかを、好きになんて、ならなくてよかったのに。

「じゃあ、てっとり早く体でも差し出しておけば」
「は、はあ!?何言ってんだよ!」

頭に血が上って立ち上がると、天は跳ねた水に嫌そうに顔を顰める。

「水かかるからやめて。一番喜ぶと思うけど」
「ば、馬鹿!馬鹿!お前馬鹿!」
「はいはい。とりあえず座ってよ」

面倒くさそうに促されて、まだ言い足りなかったけれど、寒さもあって湯船に浸かりなおす。
本当にこいつは、どうしてこういうことばっかり言うんだろう。
少しは真面目に答えてくれてもいいのに。
お湯に目を落とすと、自分の貧相な体が目に入る。
逞しくも細くも、女性のような柔らかさもない、中途半端で貧相な体。
そもそも、こんなものをもらっても嬉しくないだろう。
本当に俺に対して、そういう感情を、抱くのか。

「志藤さん、俺のどこ、好きなんだろ。体、って、そういうこと、考えてるのかな」
「あれ、あげるの?」
「そ、そういう訳じゃないけど」

でも、こんな体で、喜ぶのだろうか。
志藤さんは、喜んでくれるのだろうか。
俺は、何も持っていない。
何もあげられない。

「さあねえ。あの人、セクシャリティはヘテロって話だけど、どうなんだろうね。でも襲うし、裸になるのを避けるぐらいだから欲情するんじゃないの?」
「…………」

ヘテロって、どういう意味だろう。
よく分からない。
でも、確かに、俺の裸を見るのに抵抗があるっていうのは、そういうことなのだろうか。
というかそれなら俺はこれまで結構かなり無神経なことばっかりしていたのだろうか。

「普通の男から見て兄さんがどう見えるのかは、さっぱり分からない」

天は湯船のへりに腕をかけて、空を仰ぐ。

「俺や一矢兄さんとは違うんだろうし」
「え」
「俺たちは、兄さんに欲情するようにデフォルトでできてるから」

一瞬何を言われたか分からなかった。
けれど言葉の意味を理解して、温まっていた体が更に熱を帯びる。

「………っ」

慌てて天から距離をとって、湯船のすみっこに移動する。
広いと言っても、所詮湯船だからそれほど遠ざかりはしないのだけれど。

「警戒しないでも襲ったりしないよ。あの駄犬と一緒にしないで。人間は理性があるから」

天が呆れたように言って、肩を竦める。
そんなこと言われても、恥ずかしいし、悔しいし、儀式のこととか思い出してしまう。
肌を這う指、手、唇、体の中を抉る熱。
ああ、思い出すな。
思い出したら終わりだ。

「よ、欲情って」
「元々キス位簡単に出来るほど、抵抗はなかった。でも、兄さんが奥宮に決まったあたりからひどくなってきた。今までは触れても大丈夫、だったのが、兄さんの体に触れたい、に変わってきた」

奥宮の言葉に、ひやりと背筋が冷え、頭の熱が少しだけ冷める。

「一矢兄さんもスキンシップ多かったでしょ?普通のいい年した兄弟が頭撫でたり抱きしめたりしないよ」
「だって、そんなの、だって」

そんなの、知らなかった。
分からなかった。
少しはやりすぎだとは思っていたけれど、俺はそれが当然のことだと思っていた。

「まあ、兄さんはそういうのがおかしいって思わない環境で育てられてるからね」

天も一兄も、そんな風に俺を見ていたのか。
いや、でも、奥宮候補なるまではそんなことはなかったのか。

「双馬兄さんはそういうのないみたいだけど。資質の問題なのかね」
「………」
「兄さんだって、俺や一矢兄さんに嫌悪感とか抱いたことないでしょ?」

それは、自分でも、おかしいと思うぐらい、なかった。
違和感と抵抗感、羞恥心に屈辱感はあった。
でも、嫌悪感は、ない。
一兄に無理やり組み伏せられたときですら、嫌悪感はなかった。
俺の体は、歓び、受け入れていた。

「ああ、やだやだ。血っていうのは本当に恐ろしいね。すごいDNA」

唇を歪めて笑いながら、天が心底嫌そうに吐き捨てる。
そこには憎しみすらこもっているようで、胸が痛くなる。

「………お前は、家が、嫌いなんだよ、な」
「だいっきらい」
「家から逃げようって、思ったり、しないのか。役目から、逃げようとか」

そんなに嫌いなら、どうしてとどまっているんだ。
こいつぐらいの力があるなら、逃げ出すことは出来るんじゃないだろうか。
まだ学生だから、難しいにしても、役目を拒否することぐらい、出来るんじゃないだろうか。

「思ったことはあるよ、何度もね」

天がこちらをちらりと見て、小さく笑う。

「でもね、俺は本当にあの家が大っ嫌いなんだ」
「………」
「俺が逃げても、あの家にダメージはない。俺はちょっと力が強いから候補にはされてるけど、元々立派な揺るぎない長男様がいるからね。スペアがいなくなっても、それほど問題ない」

確かに、天がいなくなっても、一兄がいる。
むしろきっと、当主としては、一兄の方が向いているだろう。
冷徹さと聡明さと行動力、そして家への使命感を兼ねそろえた、完璧な、人だ。

「そんなの腹立つでしょ?もっと、めちゃくちゃにしたいんだ、あの家を」

天の言葉に胸がきりきりと痛む。
なんて、嫌な理由だろう。
そんなマイナスな理由で、家に留まっていたのか。
仕事のために、力を尽くしていたのか。
なんでも持っているのに。
全てを、持っているのに。
力もあり、頭もよく、全て持ち、恋人までいる。
そうだ、栞ちゃんがいる。
奥宮候補の、遠縁の少女。

「………栞ちゃんは、知ってるのか、お前が、したいこととか、全部」
「勿論。栞が奥宮になっていれば、もっと簡単に済んだ。一緒に夢を叶えられた」

胸が痛い。
苦しい。
四天と一緒にいられるのが嬉しいと幸せそうに笑った少女。
彼女が幸せだと言ったのは、天と一緒にずっといられるからではないのか。
一緒に死ねるから、なのか。

「前にも言ったけど、俺の夢は、俺の力ではどうにもならないことが多すぎる。不確定要素満載。まずは、奥宮に誰が選ばれるか。そしてその後、その相手が俺と一矢兄さんどっちを選ぶか。全部俺の意思だけではままならないことばかりだ」

力が足りない。
どうにもできないことが多すぎると、珍しく感情的に言った弟。

「五十鈴さんが選ばれていたらその時点で終わりだった。あの人が俺を選ぶことはまずない。栞が選ばれていたらすべて簡単だった。ずっと、二人で夢見ていたことだから」

二人の夢。
奥宮と先宮になることが、夢だと言った。
夢の先には、まだ夢があったのか。
酷く歪つで、痛々しい、夢。

「兄さんは、五分五分か、ちょっと俺が分が悪いか、ぐらいで考えてた」
「………俺が一兄を選ぶとは、思わなかったのか?俺は、お前が嫌いだった。一兄が好きだった」

五分五分、だったのだろうか。
一兄の方が可能性が高かったのではないだろうか。
俺は何よりも一兄に心酔していた。
でも確かに、俺はどちらも選べずに、迷っていた。

「だからだよ」
「え」

天は悪戯が成功した子供のように、くすくすと楽しげに笑う。

「好きな人間を犠牲にしようと思う?嫌いだからこそ、利用しようと思うでしょ?」
「あ………」

俺を利用しなよと、天は何度も言った。
最終的に、忙しく疲れている一兄よりも、力があり自由が効く天の方が負担が少ないと思った。
天がいいっていうから、いいんだと考えた。
そうだ、俺は天を利用しようとした。
そこまで、考えていたのか。

「だから、お前、俺にそんな、冷たい態度、とってたのか?」
「いや、まあほとんど全部本音だけどね。取り繕ってないだけ」
「………」

なんだ、それ。
結局嫌味なのも冷たいのも、素なのか。

「まあ、一矢兄さんと同じ土俵で勝負しても勝ち目ないからね。兄さんと一緒にいる年数は絶対的に俺の方が少ない」

確かに天に優しくされても、一兄以上に好きになることは、なかったかもしれない。
どうなのだろうか。
今となっては、分からない。

「それに、こういうことするのも、俺の方が慣れてたでしょ」

天が足を延ばし、俺の足の甲をすっとなぞる。
ぞくぞくと、腰に電流のようなものが走る。

「っ、や、やめろ!」
「一種賭けだっただけどね」

天はすぐに足をひっこめる。
それから俺の目をまっすぐに見つめる。

「で、俺は賭けに勝った。兄さんは俺を選んだ」
「………」
「喜んだのもつかのま、その後すぐに、覆されたけどね」

そして自嘲気味に笑う。
あの時、一兄とも儀式をしたと聞いたとき、天は怒りをあらわにした。
そういう、ことだったのか。

「疑われてないと思ったんだけどな。まあ、先宮も一矢兄さんもそれほど甘くなかった」

父さんと一兄は、疑っているのだろうか。
天は家のために、その力を尽くしてきた。
俺はずっと、家が嫌いだなんて、分からなかった。
気付いて、いるのか。

「そういえば、小さいころを、俺を、奥宮に連れて行ったときは、大丈夫だったのか?何かされなかったのか?」

もしかして、その時に、天の奥宮に対する嫌悪感を気付いたのだろうか。
奥宮と宮守に対する憎しみは、あの頃から、培われていたはずだ。

「………」

天は苦虫をかみつぶしたように、眉を顰める。

「天?」
「黒歴史だよねえ」
「黒歴史?」

言いたくなさそうにため息をつく。
けれどじっと見ている俺に、もう一度大きくため息をつくと口を開いた。

「双馬兄さんがなかったことにした」
「………双兄?」
「あの時、双馬兄さんと熊沢さんがあそこに駆け付けた。俺たちを連れ出して後始末した。兄さんは勝手にあそこに入ったということになった。双馬兄さんの中の人が、兄さんの記憶を封じた。俺が、あそこに行ったという事実は、なくなった」

双馬兄さんの中の人が、記憶を消した。

「双兄と、双姉が?」
「そ」
「あ、だから、双姉、俺に会おうとしなかったのかな」
「さあ、知らない」

天は投げやりに、吐き捨てる。
本当に、嫌そうだ。
そういえば双兄のことを話すとき、天は機嫌が悪くなる。

「………なんか、嫌そうだな」
「あの人に結果的に助けられた形になった自分のふがいなさに絶望してるの」

どうして、そんなに、双兄を嫌うのだろう。
ずっと、嫌いだったのだろうか。
普通の兄弟として、仲良くしているように、見えたのに。
それも、嘘だったのか。

「他に何か聞きたいことある?そろそろのぼせそうなんだけど」

確かに天の白い肌は赤く染まっている。
俺も空腹もあって、頭がくらくらしてきた。
そろそろ出た方がいいだろう。

「………いっぱいまだあるけど、とりあえず、ひとつだけ」
「何?」
「なんで、全部言うつもりに、なったんだ。俺のこと騙して、利用すれば、よかったのに」

俺を殺すなんて言わず、逃がすとでもいえばよかったのに。
嘘をついて、利用すればよかった。
でも天は、隠し事はするけれど、嘘はつかない。
そのルールは、なんなのだろうか。

「………さあ、分からない」

天はまた空を仰ぎ、目を瞑る。

「でも、それが俺の弱さなんだろうね」

そしてどこか諦めたように、息をついた。





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