嬉しい。
嬉しい嬉しい嬉しい。

胸が、痛い。
喜びで胸がはちきれそうだ。

誰かに必要とされるのが、嬉しい。
この人が俺を、必要としてくれるのが、嬉しい。
俺の性質を、俺の器を、必要としている訳じゃない。
この人は、俺を、俺自身を、俺の人格を、俺の存在を、認めてくれている。
それが、嬉しい。

「三薙、さん」

志藤さんがすがるように、俺の手にしがみつく。
まるで溺れる人が藁に縋るように。
服が汚れることも厭わず、跪き、祈るように、ただただ、切実な目で、見上げてくる。

その視線に、背筋にゾクゾクと寒気に似た感触が走る。
それは共番の儀の時のような、深く甘く、そして罪悪感を覚える感覚に似ていた。

「あなたを、愛しく思う、私を、許してください。すいません、ごめんなさい。でも、愛しい。あなたを、乞う。あなたを恋うる。あなたの存在で、私は世界を、知るんです。私から世界を奪わないでください」

この人は、俺を必要としてくれる。
こんなにも、俺が必要だと訴えてくれる。

「………志藤さんの言葉は、いつも、なんだか、恥ずかしいです。俺には、もったいない言葉ばっかり」

勿体ない、俺なんかには過ぎた言葉。
過剰な修飾、過剰な賛辞。
いつもはいたたまれなく、居心地が悪くすら感じる。
ああ、でもそれが、今はなんて、心地よく胸に沁み渡るんだろう。
質のいいワインのように、緩やかに酔ってしまいそうだ。

「みなぎ、さん」

志藤さんが、不安そうに顔を曇らせる。
俺の言葉に、一喜一憂してしまう人。
どうして、この人が怖いだなんて、思ったんだろう。
最初から、この人は、ただ、俺を想ってくれていただけなんだ。
人に振り回されてばかり、人の思惑で玩具のように扱われていた俺に、向き合ってくれた人。

「泣かないでください」

志藤さんの前にしゃがみ込む。
眼鏡に手をかけると、びくりと震え、目を瞑る。
その過剰な反応につい笑ってしまう。
なんて、可愛い人。
なんて、不器用な人。
手の平で、濡れた頬を拭う。
白い肌は、ただ温かい。

「嬉しいです。すごく、嬉しい。あなたが俺を、好きだと言ってくれるのが、嬉しい。俺を認めてくれるのが、嬉しい。俺の気持ちを、俺の存在を、認めてくれるのが、嬉しい」

誰も俺をいらないと思っていた。
誰の役にもたてない、役立たずだと思っていた。
人に必要とされるのは、やっぱり、どうしても嬉しい。

「俺を、見てくれて、ありがとう」

必要ない存在と思っていた。
でも、道具としては、必要とされていた。
俺の器が必要とされていた。
この人は、俺自身を必要としてくれる。
嬉しい。
嬉しい嬉しい。

「三薙、さん」

志藤さんがくしゃりと顔を歪めて、また涙をこぼす。
強くて弱くて、しっかりしていて、でも時折酷く脆く、不安定な人。
俺が、支えてあげなきゃ、なんて分不相応にも思ったりする。
手を貸してあげたいと、そう思う。
そして純粋に思うその感情とは別に、もっと俺を必要としてくれればいいのに、なんて思ってしまう。

「我儘ばかり言って、すいません。こんなこと言っても、あなたには、負担な、だけだ。私も結局は、あなたに自分の欲望を、押し付けている」
「………」

そうなのかも、しれない。
あの時の志藤さんは、怖かった。
俺の意思を無視して、俺を好きに扱おうとした。
俺の意思を認めてくれなかった。
声を聞いてくれなかった。
今も、ただ自分の感情を押し付けようとしている。
そう言われれば、そうとれないこともない。

「そう、かもしれませんね」

結局、一兄や天と、同じなのかもしれない。
自分の、希望を、欲望を、押し付けるだけ。

「でも、俺は嬉しい。あなたが俺を必要だと言ってくれたのが、嬉しい。俺にいてほしいってくれたのが、嬉しい」

でも、この人は、俺が好きだと言ってくれた。
それに、俺と何が違うだろう。
優しくしてくれる一兄が好きだった。
俺を慕ってくれる志藤さんが好きだった。
温かくて優しい、岡野が好きだった。

自分に居心地がいいから好きだった。
大事だった。
だから利用していた。
自分の先がないなんて、どこかで分かっていた。
でも寂しくて、耐えられなかった。
誰かに傍にいてほしかった。
だから、繋ぎ止めた。
欲した。
そして、この人も岡野も、傷つける。

「俺も同じです。志藤さんに、自分の希望を、押し付けている」

今考えれば、この人は俺に好意を表してくれていた。
それに気づかないふりで振り回したのは俺。
裏切られた、なんて言えやしない。
今もこうして、この人の、執着を心地よいと感じている。

「俺は、俺を必要だと言ってくれる、あなたが、好きです」

ああ、なんて最低な言葉だろう。
結局、自己肯定のため、自分を認めてくれる人が欲しくて、この人を利用する。
自分の最低さに、笑ってしまう。

「………」

志藤さんの長い睫毛がふるりと小さく震える。
形のいい少し神経質そうな薄い唇を、きゅっと噛む。
躊躇いがちに俺に手を伸ばし、頬に触れる。
いや、触れていない。
産毛をなぞるように、触れずに、ギリギリのところで、耐えている。

「………っ」

目に熱と不安が揺らいでいる。
眉を顰めて、歯を食いしばる。
苦しげに、まるで痛みを感じているように。

「触っても、いい、ですよ」

我慢なんて、することない。
今なら怖くない。
この人は、怖くない。
俺なんかを欲してくれるなら、いくらでも与えてあげたい。
俺はこの人から、奪っているのだから。

「………っ」

志藤さんは手を離し、頭が取れるんじゃないかというほどに思いきり横にふる。
それなのに目は相変わらず、俺を捕えて離さない。
喰われてしまいそうなほどに獰猛な、獣のような目に、またゾクゾクと痺れが体を駆け巡る。
ああ、本当に、この人は俺を、必要としている。
それなのにその手はためらい、俺に触れることを忌避する。
理性と野性の間に揺れるその目が、心地いい。

「………なっ、三薙さん!」

衝動的に志藤さんの顔を両手ではさみ、顔を寄せる。
白い頬を濡らす涙を、舌で拭う。
舌先にしょっぱさと、少し砂の味を感じる。

「み、三薙、さんっ!?」

志藤さんが悲鳴のような声をあげて、慌てて体を離し自分の頬をおさえる。
白い頬が、闇の中でも分かるぐらい真っ赤に染まっている。

「嫌、でしたか?」
「………っ」

志藤さんの目が、不安と戸惑いと恐れを宿す。
そしてそれから、焼き尽くすような、熱を灯した。

「あっ」

乱暴なまでの力で腕を掴まれ、引き寄せられる。
背骨が仰け反り折れそうなほどに、抱きしめられる。
そしてそのまま、噛みつくように、唇を重ねてくる。

「んっ」

まるであの時のような獰猛な仕草と表情は、少しだけ恐れを抱く。
でも、俺を抱き寄せるその手は、力強いくせにすがるようで恐怖は薄れていく。
何度も何度も噛みつくように唇をついばみ、舌が入り込んでくる。
優しさや、ためらいや、余裕なんて、一切感じない。
ただ、貪るように俺の舌を吸い、口の中を掻き回す。
痛みすら感じるキスだ。

「ん、ふっ………ん、んっ」

奪われる、なんて形容詞がぴったりだと思った。
志藤さんの吐息が舌が、俺の中を暴き、隙間なく探る。
脳裏が痺れるような、快感。
供給や儀式のような焼き尽くすような快感ではない。
でも、求められてることが、この人の必死さが、俺を酔わす。

「ん、んん!」

喉の奥まで入り込むような舌と、唾液でいっぱいの口の中が苦しくて、志藤さんの胸を軽く叩く。
鼻での息も追いつかないくらい、呼吸すら奪われる。

「だ、め、です」

離してくれないので、もう一度、強くその胸を叩く。
すると、背中を抱く手が緩み、体が離れる。

「み、なぎさん」

志藤さんが、不満げな声を漏らす。
切なげな目、荒げた息。
その必死な様子が、こんな時になんだが、微笑ましくなってしまう。

「は、あ、苦しい、です」
「す、すいません!すいません!」

我に返って、ぱっと俺から手を離す。
その手を今度は俺が掴み、引き寄せる。

「あ………」
「その、もっと、ゆっくり、お願いします」
「え、と」

志藤さんが、すこしの間逡巡する。
けれど、もう一度腕を引き、促すと、すぐにその薄い唇は俺の唇に重なった。

「ん」

今度は、さっきよりもずっと優しかった。
触れるだけの優しいキスを繰り返し、こちらが、もどかしくなってしまうほどだ。
不安げに俺の手を緩く掴む手を、強く握る。
俺から舌を差し出すと、すぐに志藤さんは迎いいれてくれた。
けれど怯えるように縮こまる舌を誘い出すと、おずおずと、恐る恐る、俺の舌に絡める。
楽しくなってしまって軽く噛むと、びくりとその体が震えた。

「ふ………」
「あ」

ちゅっと最後に啄み、唇を離す。
志藤さんが名残惜しげに、ため息を漏らす。
その目はまだ、熱と不安に揺れている。

「………」

ああ、可愛い人、だ。
可愛い、抱きしめたい、その頭を撫でたい。
胸が温かい気持ちで、いっぱいになる。
この感情は、なんなのだろう。

岡野に対するものとは違う。
勿論一兄や天に向けるものとも、違う。
これも友情なのだろうか。
この人に向ける感情は、友情なのだろうか。
分からない。
友達とはこんなことは、しない。
でも、嫌ではない。
嬉しい。
だったら、なんでも、いいか。
今更、関係に、感情に、名前をつけるなんてしても、仕方ない。
感情の意味や名前を探っていられるほど、時間はない。

「その、ご迷惑では、ありませんでしたか」

眼鏡をしていない志藤さんは、いつもより幼く、頼りなく見える。
その怯え、震える声に、頭を横に振る。
むしろ、迷惑をかけたのは、俺の方だろう。
こんなことをして、何になるのだろう。
この人のためになんて、きっとならない。
ただ、俺がこの人の必死さを求めただけだ。

「………俺の方こそ、ごめんなさい」
「いいえ、いいえ!」
「………俺は、すいません。その、恋愛感情を、志藤さんに、持ってる訳じゃ、ないと思います。たぶん」

志藤さんが顔をぎゅっと、泣きそうに顔を歪める。
胸が痛む。
この人を傷つけたい訳じゃない。
むしろ守りたい。
大事にしたい。
俺を必要だと言ってくれたこの人に、溢れんばかりの幸せを注ぎたい。

「でも、志藤さんが好きです。大事です。その、き、キスしても、嫌じゃなかったし、えっと、その」

貪るような激しさに、焼かれてしまいそうだった。
求めてくれることに、脳裏が痺れるほどの快感を得た。

「………嬉しかった、です」

あなたが、俺を、好きでいてくれることが、嬉しい。
志藤さんが、静かな目で、俺をじっと、見つめる。
神経質そうな、綺麗な形をした切れ長の目。

「………その、触れても、いいですか」
「は、はい」

おずおずと手を伸ばしてくるので、頷く。
すると志藤さんは優しく俺の背中を抱き寄せた。
その肩に、顔をうずめる形になる。
頬にあたる柔らかいシャツの感触に目をつぶる。

「………あなたは、残酷です」
「………」

擦れるような、乾いた声。
ああ、確かにそうだ。
俺のしてることは、この人を中途半端に、振り回すことだ。
何より、残酷なことだろう。
忘れてくれといったその口で、この人を引き留めようとする。

「こうして、私を惹きつけて離さない。諦めようとしても、また縛り付ける。捕えて離してくれない。苦しい。苦しい、苦しい」
「………ええ」

その背中に手を伸ばし、力いっぱい抱きしめる。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
あなたを振り回して、ごめんなさい。
あなたを求めて、ごめんなさい。

「でも、私も、嬉しい。あなたに出会えて嬉しい。あなたと言葉を交わせて嬉しい。あなたの笑顔を見られることが、なによりの幸福です。あなたが与える苦しみすら、私にとっては喜びです」

やっぱり大仰な、いたたまれなくなるような想いをストレートに告げてくれる。

「好きです。あなたが好きです。嬉しい。あなたに触れられて嬉しい。あなたに想いを受け止めてもらえて、嬉しい。あなたが私を利用することすら、嬉しい。あなたが私を必要としてくれることが、嬉しい。好きです好きです好きです」
「………」
「好きです、三薙さん。誰よりも何よりも、あなたを、ただ尊く、愛しく想う」

繰り返される耳に心地いい言葉に、酩酊する。
甘さと罪悪感と痛みがないまぜに、ゆらゆらと俺を酔わせる。

「後悔なんて、しない」

真っ直ぐな言葉に、キリキリと胸が痛む。
俺は、きっと後悔するだろう。
この人に、自分の勝手を押し付けたことを、すぐにでも後悔するだろう。

「ありがとう、ございます」

結局俺は、人を傷つけることしかできない。
人に何も与えることは、出来ない。
俺がいてくれて嬉しいという志藤さん。
でも、俺がいなければ、あなたは痛みも苦しみも感じなくて済んだ。

「俺もあなたが、大事です。好きです。志藤さん。ありがとう」

そっと、もう一度、その唇にキスをする。
切なげな眼をした志藤さんに、眼鏡をかける。

「蛍、いなくなっちゃいましたね」
「あ、本当ですね」

気が付けば、頼りなげな光は消えていた。
川の音しかしない水辺は、月明かりを受けて明るいが、どこか、寂しい。

「そろそろ、帰りましょう。夜はまだ冷えます」
「………はい」

座り込んだせいで、ジーンズは夜露を吸って濡れてしまった。
昼も濡らしてクリーニングに出したばかりなのに、また汚れてしまっている。
すっかり足が冷えて、痺れている。
立ち上がると、足がもつれて少しよろめいた。
すると手が、大きく温かい手に包まれる。

「………えっと、その、足元が、悪いので」
「ありがとうございます」

きまり悪そうに視線を逸らす志藤さんに、素直に礼を言う。
すると、ほっとしたように、表情を緩めた。

「はい」

子供のように、純粋に、感情を表す。
月明かりの下、その笑顔はとても綺麗に見えた。

「志藤さんの笑顔は、綺麗ですね」
「は!?」
「とても、綺麗です」
「か、からかわないでください!」
「あはは」

面食らって慌てふためく様子が楽しくて、この人の素直さが愛しくて、胸が詰まる。
神経質で真面目な、怖い面も持ち合わせる人。
でも俺の前ではこんなに素直で、可愛い。
それが嬉しくて、優越感を抱く。

「手、温かいですね」
「そう、ですか?」
「ええ、温かいです」

握った手は、温かい。
志藤さんの、鼓動を感じる。

「そこ、危ないです。石がありますので」
「ああ、ありがとうございます」
「いえ、お気をつけください」

暗闇の森の中、志藤さんの手が、懐中電灯の光が、前を導いてくる。

「………ありがとう」
「え、はい」

志藤さんが振り返って、にっこりと笑う。

「………」

ありがとう。
そして、ごめんなさい。

喉まで出かけたその言葉は、苦みと共に飲み込んだ。





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