一兄が帰ってきたと聞いて、部屋に訪れる。

「一兄、話がある。今平気?」

ノックをして中を覗き込むと、浴衣を着た長兄がこちらを見ている。
今日は割と早めに帰ってきたが、男らしい顔にはやっぱり疲れを滲ませている。
でも、嫌な顔一つ見せずに、穏やかに笑う。

「勿論だ。なんだ?」

一兄が、本当の感情を表すところって、どんな時なのだろう。
見てみたいな。
ふと、そんなことを思った。

「………」

部屋に入り込み、一兄の前に座り込む。
一兄はじっと俺が口を開くのを待っていてくれている。
何から聞こう。
何をどう言おう。
今の俺に必要な情報は、なんだっけ。
よく考えて、整理して、間違わないように、しないと。

「………あのさ、奥宮って、なんでも、言うこと聞いてもらえるんだよね?」
「ああ。奥宮が望むなら、出来る限るのことは叶える」

一兄は、少し不思議そうに眼を瞬かせてから頷いた。
自分で聞いておいて、ちょっと笑ってしまう。

「でも、奥宮から逃れることは出来ないんだね」

何が望みを叶える、だ。
一番の望みは、それなのに叶うことはない。
今までの通り、日常を過ごしたい。
ただ、それだけだ。
でも、それだけは、叶えられない。

「………」

一兄は肯定も否定もせず、ただじっと黙っている。
言っても仕方ない。
今は、こんな愚痴を言いに来たわけじゃない。

「俺が奥宮になったら、天も双兄も志藤さんも、今まで通りの生活になるんだよね?」
「ああ。というか、どちらにせよいずれ謹慎は解く。双馬は謹慎している訳じゃないしな」

いずれとは、いつのことなのだろう。
俺が奥宮になると決めなくても、本当に、謹慎は解かれるのだろうか。
無事だと熊沢さんも言っていたから、ひどいことはされてないと、思うのだけれど。
これは、聞いても分からないだろう。

「俺が消えたら、学校には、なんて言うの?」
「決まってはない」

一兄は俺の顔をじっと、見ている。
俺の質問の意図を図っているのだろうか。
俺は今、どういう顔をしているのだろう。

「決まってない、か。それも俺が決めてもいいんだよね」
「奥宮が、望むのであれば」

俺がいずれ消えるとしたら、岡野にはなんて言うのが、一番傷つけないだろうか。
それも、考えなきゃいけない。

「………天に、会うのはダメだよね」
「会うことは出来るかもしれない。先宮のご許可が必要だ」
「そっか」

会えるのなら、一度は会っておきたい。
いっぱい、伝えたいことがある。

「じゃあ、双兄には会える?」

一兄はそこで少し不思議そうに首を傾げる。

「双馬に?それも先宮のご許可が必要だ」

そこで、また同じ返答を得る。
その答えにちょっと笑ってしまった。

「一兄は、何をするにも、父さんの許可が必要なんだね」

つい、あてこするようなことを言ってしまうが、一兄は肩を竦めて楽しそうに笑う。

「ああ、確かにそうだな」

そして同時に、俺の行動にもすべて、父さんの許可がいる。
宮守の主たる先宮は絶対。
俺も一兄も、所詮は宮守の中で飼われてるに過ぎない。

「………」

胸が、キリキリと痛む。
この人は、俺を利用し、騙してきた人。
でも、慈しんで守って愛してきてくれた人。
憎いのか、愛しているのか、もう、分からない。

「………じゃあ、一兄。俺、双兄に会いたい。明日でもいいんだけど、会えるか父さんに聞いてもらってもいい?」

考えても仕方ない。
もう、純粋に真っ直ぐに、この人を慕っていた頃には、戻れない。
俺は、俺が決めて、俺が為すべきことを、為すだけだ。

「ああ、分かった。先宮に伺っておこう」
「ありがと」

とりあえず、聞きたかったことは、これぐらいか。
後は、双兄と話してからだ。
それから、全てを、決める。

「とりあえず、それだけ。おやすみ。ゆっくり休んでね」

立ち上がって、退室しようとすると、一兄も立ち上がる。
そして引き寄せられて、頭を撫でられ額にキスをされる。

「おやすみ。お前もゆっくり休め」

この温もりも労わりも、変わらないのに。

「………うん」

戻りたいのに、戻れない。



***




朝は、今日も藤吉だけだった。
もしかして、気を使って佐藤を外してくれたんだろうか。
そうなら、ありがたい。
佐藤とは、あまり話したくない。

「おはよう、藤吉」
「おは、よう」

藤吉がなんか不思議そうな顔で、俺をじっと見る。

「どうした?」
「いや、なんか」

何かあったのかと思って問うと、戸惑ったように首を横に振る。
そしてもう一度、俺の顔をじっと見る。

「………なんか、久々に明るい顔に、見えたから」

明るい、か。
別に気分が爽快で、世界が明るいって気分ではない。
ただ、やることが決まったから、吹っ切れた感じはする。
ただ流されるまま、何もしないでいるのは、疲れる。

「今日は気分は悪くないよ。こんな状況でも、慣れちゃうもんだな」

藤吉が目を逸らして、気まずそうな顔をする。
そんな表情をされると、なんだか嗜虐心が生まれてしまう。

「まあ、どうせ、最初からそんな生きられないって思ってたし、諦めも早いかな」
「………っ」

藤吉が息を飲んで、唇を歪める。
演技かな、本当の表情かな。
まあ、どっちでもいいか。
最近、藤吉に対して、結構ひどい気持ちになること多いかもしれない。
いや、藤吉に対してだけじゃないか。
誰に対しても、一歩ひいて見るようになってしまったかもしれない。

「行こう、藤吉」
「………ああ」

暗い顔をする藤吉にフォローする気にもならない自分に、ちょっと自己嫌悪を感じながら、玄関から出る。
だって、これくらい、いいだろう。
俺だっていっぱい傷ついたんだから、少しくらい、傷をつけても、いいだろう。
なんて、俺、本当に自分勝手だ。

「ああ、そうだ」

そのまましばらく歩いてから、後ろを振り返る。
歩みが遅く後ろにいた藤吉は、そのまま暗い顔をしていた。
でもやっぱり、こんな顔を見ると、胸が痛む。
藤吉は、太陽みたいに笑っているのが、似合うのに。

「藤吉。俺、学校では、普通でいたい。自由にしたい」
「え?」

藤吉に告げると、何を言われたか分からないように俯いていた顔を上げる。

「岡野と槇と、最後まで楽しく過ごしたい。あの二人にだけは、何も知られたくない。ただ、日常を過ごしたい。普通の友人として、過ごしたい」
「………」
「佐藤や、お前に、邪魔されたくない」

そう言うと、藤吉が、今度こそくしゃりと顔を歪めた。
泣きそうな、辛そうな、顔。
胸が、ズキリと、痛む。

「………分かった」

それから、のろのろと頷く。
悲しそうな藤吉に、罪悪感と胸の痛みが沸いてくる。
でも、それと同時に、怒りも消えない。
本当だったら、お前とだって仲良くしたかった。
ずっと一緒にいたかった。
笑っていたかった。
それが出来なくなったのは、お前たちのせいなのに。

「あ、でも、逆に俺たちが急に離れたら、岡野も槇も心配しないか?」

恐る恐る聞いてくる藤吉に、ひとつ頷く。

「分かってる。だから、お前たちも最後までちゃんと演技してほしい。変なことしないでほしい。特に佐藤。あの二人に何もしないでほしい」

最後の最後まで、岡野には、何も感づかれたくない。
俺たちは、仲のいい友達だったのだと、そう思っていてほしい。
何も知らず、幸せな記憶だけ、覚えていてほしい。

「………お前に頼んでいいのか分からない。でも藤吉、お願いだ」

最後の最後の、俺の本当。
俺の大事なもの。

「俺の日常を、壊さないで」

俺の言葉に、藤吉は目を伏せて頷いた。

「………分かった。うん。元々俺の役目は、お前の学校での日常を守ることだ」

それと監視と管理だろ。
そう口をついて出そうになった言葉を飲み込む。
ああ、本当に俺、性格が悪いな。
こんなこと言っても仕方ないのに。
藤吉だって、宮守に利用されているだけだ。

「ありがとう、藤吉」

そうだ、せめて、学校でだけは昔のようにしていよう。
笑ってふざけて、素直に藤吉を好きだった頃のように。



***




今日も皆で、だらだらと昼メシを食べながら、話す。

「でさ、竜の奴がまた、咲のお菓子全部食うから夜に大ゲンカ」
「あはは、二人とも相変わらずだな」
「ったく、私が受験落ちたらあいつらのせいだわ」
「それは責任転嫁だよ、彩」
「じゃあ、俺は妹のせいにしとくわ」
「私一人っこだからその言い訳は使えない。ずるいなー、アヤ」

いつも通りの、楽しい昼食。
いつも通りの、風景。
全部全部、変わらない日常。

「っと、そうだ。これ出してこないと」

昼休みが半分過ぎたあたりで、岡野が提出していなかったプリントを取り出し、席を立つ。
俺も笑って手を振る。

「いってらっしゃい、岡野」

岡野がいなくなると、途端に空気が固まる気がする。
いや、藤吉と佐藤は、槇が感づいているって知らないんだから、俺の気のせいだ。
俺もいつも通りに、しないと駄目だ。
いつも通り笑って、いないと、駄目だ。

「さてと、宮守君、彩がいないうちにちょっと、付き合ってね」
「え、な、何?」

槇が立ち上がると、俺の腕を掴んで立ち上がることを促す。
つられて席を立つと、佐藤も立ち上がる。

「え、なになに。内緒話?私も行く!」
「千津はだーめ。内緒のお話だから」
「えー!」
「こら、佐藤、我儘言わないの」

藤吉にも引き留められて、佐藤が不満げに頬を膨らませる。
槇が優しく微笑んで、佐藤の頭をそっと撫でる。

「ごめんね、千津。後で教えてあげる。じゃあ、行こ、宮守君」
「むー」

そのまま、槇に引きずられるようにして教室を出る。
なんの、用事だろう。
でも、好都合だ。
ちょうど、槇と話したいことがあったのだ。

「槇、あのさ」
「もうちょっと行ってからにしよう。屋上でいいか」
「うん」

そして、辿り着いた屋上は、相変わらず人がちらほらといて賑わっている。
なるべく人気のない隅にいって、槇が振り返る。

「さ、宮守君、お話しようか」

槇の言葉に頷いて、それから小さく呪を唱えて結界を張る。
怪しまれるかもしれないけど、友達との会話を聞かれたくなかったと言い張ろう。
何が起こっているのか見えない槇は、それでも静かに待っていてくれた。

「これで、いい」

結界の出来を確かめて頷くと、槇が微笑んで首を傾げる。

「宮守君、なんか私に用事があるんでしょう?」

そしてずばり切り込まれる。
そうか、俺が槇に用事があると分かって、連れ出してくれたのか。
俺が槇を連れ出すよりも、ずっと自然だ。

「………槇は本当に、鋭いなあ」
「だって宮守君珍しく彩じゃなくて私の方をちらちら見てるんだもん」

そんなに、見ていただろうか。
思わず自分の顔を抑えると、槇が笑う。

「あんまりやると、千津とかに、変に思われるんじゃないかな。今回は大丈夫だと思うけどね」
「………だと、いいんだけど。気を付ける」
「うん。用事があるならメールとか手紙もあるよ」

そうか、メールなら、大丈夫だろうか。
さすがに携帯を取り上げられない限り、内容は分からないはずだ。
手紙も、渡し方によっては、確実か。
そうだな、そうしよう。

「で、どうしたの」
「………槇に、お願いがあるんだ」

少しだけためらって、でもそれを告げた。
色々考えたけど、これしかなさそうだ。
槇は穏やかに、柔らかく笑いながら、聞いてくれている。

「なにかな?」
「聞いてくれるか」
「とりあえずは、聞くよ。叶えられるかは、分からないけど」
「………うん」

槇らしい、慎重な答え。
優しくてふんわりしてて、でも芯がしっかりしてて強く賢い女の子。
頼めるのは、槇しか、いない。

「槇に、いくつかお願いがあるんだ」
「うん?」
「俺、これから、岡野にひどいことする」

そこで初めて槇が、顔が歪める。
嫌そうに眉を顰め、唇を噛む。
誰より岡野を大事にしている槇には、認められない言葉だろう。

「それは、宮守君といえども、許しがたいなあ」
「分かってる………。でも、ごめん。俺には、それしか、考えられない」

岡野を傷つけたくない。
岡野を大事にしたい。
だからこそ、酷いことをする。

「彩が嫌い?」

槇の問いに、思いきり首を横に振る。
そんなことあるわけがない。

「岡野が、好きだよ。岡野が大好きだ。大事だ。守りたい」

優しくしたい大事にしたい抱きしめたい、幸せでいてほしい。
強くて優しい真っ直ぐな勇気のある女の子。

志藤さんにも似た感情を持った。
槇も好きだ。
違いはよく分からない。
それを区別するだけの時間はない。
でも、多分、これが恋なのだろう。

「でも、だから………」

これが正しいのか、分からない。
俺にはこれしか、思いつかなかった。

「………宮守君は、これからどうするの?」

槇は、いつもあまり見せない堅い表情で、俺の顔をじっと見ている。
強い視線から逃げて、コンクリートを見つめる。

「うぬぼれかもしれないけど、俺の勘違いかもしれないけど、岡野は、俺に、好意を持ってくれてるよな」

うぬぼれだったら、いい。
いっそそれなら、いい。
それなら、岡野はちょっと、哀しむだけだ。
でもたぶん、岡野は俺と同じ感情を、抱いてくれている。

「俺は、その好意を受け入れられない。受け入れちゃいけない。だから、俺は、岡野にとって最低の嫌なやつでいなきゃいけない。いや、出来れば、友達だと、思っていてほしいけど、でも、そんなの高望みだよな。好きだと、思われなくていい」

本当は、友達でいいから、好きでいてほしかった。
友達でよかった。
でも、それより大きな感情を抱いてくれているぐらいなら、嫌ってくれて構わない。
俺なんて、忘れてしまって、構わない。

「だから、酷いこと、言う。たぶん、酷いこと。岡野が俺を友人だと思ってくれてるだけなら、平気だと思うけど、そうじゃないなら、酷いこと、言う」
「………」
「だから、槇は、岡野がもし、傷ついたり、落ち込んだりしたら、支えてあげてほしい」

本当は、槇にこんなこと頼みたくなかった。
槇にも、俺のことなんて、忘れてほしかった。
槇と岡野だけは、ただ、何も知らず分からず、笑っていてほしかった。

「………質問を、変えるね」

槇は静かに、そっと言う。
顔を上げると、槇はやっぱり穏やかな表情で、俺の顔をじっと見ていた。

「宮守君はこれから、どうなるの?」
「………っ」

言いたくない。
でも、もう、言わなきゃいけない。
結局槇を、引きずり込んだ。

「多分、俺は、近いうちに、いなくなる」

奥宮になろうとなるまいと、たぶんそう遠くないうちに俺は二人の前にはいられなくなる。
だから、その前に、為すことを、為さなければいけない。

「………それは、嫌だな」

半ば俺の答えを予想していたのだろう。
槇は、驚きもせず、わずかに間をあけてそう言った。
その率直で短い、けれど優しい言葉に、つい笑ってしまう。

「俺も、嫌だ」

いなくなりたくなんかない。
一緒にいたい。
岡野と槇から、離れたくない。

「どうしようもないの?」
「どうしようも、ない」

もう、決めた。
もう、どうしようもない。

「………」

槇がそこで、唇を噛み、俺を睨みつける。
見たことのない、怒りの表情をあらわにする。

「彩には秘密にしておいて、私には言っちゃうの?」
「………ごめん」

本当は、槇にも秘密にしておきたかった。
結局優しい槇に、悩みも苦しみも痛みも与えたくなかった。

「本当に、ごめん。ごめん。ごめんな。でも、槇なら、全部話して、それでも受け止めてくれて、岡野を支えてくれるって、信じられるから」

槇に頼みたくない。
でも、頼むしかない。
結局、全部他力本願だ。
俺は、何も出来ない。
人に頼るしか、出来ない。
俺がすることは、全て、人を頼ることだけ。
それしか、ないんだ。

「………宮守君って、こんな時だけ、本当にうまいよね。女タラシだなあ。ずるいなあ」

声が、震えていた。
顔を見ると、泣いてはいない。
でも、痛そうな顔をしている。

俺も、胸が、痛い。
苦しい。
叫んで、逃げ出したい。

「ごめん、槇。槇にだけこんな重荷を背負わせて、本当にごめん」

俺が岡野を守りたいから、君を利用する。
岡野のためと嘯いて、君に苦しみを与える。

「俺、こういう時、頼れる人って、考えて、ほとんど、誰もいなかった。でも、槇なら信じられる。頼んでいいって、甘えていいって、思った。ごめんな」

天も志藤さんもいない。
頼れる人間は、いない。
岡野は巻き込みたくない。

「俺、本当の友達って、あ、俺が一方的に思ってるだけかもしれないけど」

俺に残った、わずかな二つの本当。
恋をした、強く優しい女の子。

「………俺の本当の意味で友達って、槇、だけだった。家の外で、頼れたのって、槇だけだった」

そして、ただ一人、友達でいてくれた、敏く優しい女の子。

「………本当に、女タラシだなあ」

槇はまだ怒った顔をしながら、けれど諦めたようにつぶやく。
そんな顔をさせて、ごめん。
君の強さと敏さに甘えて、利用する。

「私には、宮守君を、助けることは、できない?」
「助けるために、岡野を支えて、あげてほしい」
「………それはお願いされなくても、する」
「分かってる」

だからこそ、君に甘えた。
槇に打ち明け、頼り、全てを投げ出す。

「槇が岡野を好きだってこと、よく知ってる」

岡野が大事な槇なら、きっと岡野を守ってくれるから。
俺がつける傷も、癒してくれるだろうから。

「宮守君も大好きだよ?」

何度も言われた、嬉しくて飛び跳ねてしまいそうな言葉。

「俺は、それよりずっと、槇のこと、大好きだ」

大好きな、友達。





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