「三薙さん」

部屋で食事を終えて、食器を片づけに向かうところで後ろから声をかけられた。
その柔らかく穏やかな声は、よく知ったものだ。
正直、聞きたくはなかった声。
だから食事も別にしていたのに。

「………母さん」

でも振り返らない訳にはいかなくて、後ろを向く。
年よりもずっと若く見える和装の母は、穏やかに笑って首を傾げる。

「具合は、大丈夫なのかしら?最近会わなくて、心配していたの」

懐かしい、柔らかく甘い声。
多分ずっと幼い頃は、この人の腕に抱かれて眠ったこともあったのだろう。
いつからか、父さんや母さんよりもずっと、一兄や双兄や天の方が近しい存在に、なっていたのだけれど。

「………大丈夫だよ。ちょっと、ほら、潔斎が続いて元気が出てないだけ」

母さんには俺が潔斎に入っていると説明していると、一兄が言っていた。
別に俺も、何も知らない母さんを苦しめたい訳じゃない。
この人にはこのまま穏やかでいてもらいたい。
ああ、なんだろう。
今気づいた。
父さんも母さんも、俺にとっては岡野や槇よりも、遠い存在、なんだ。

「そう、なの?でも、最近様子がおかしいわね。なにか、心配ごとでもあるの?」

母さんが心配そうに顔を曇らせている。
罪悪感と、苛立ちと、嬉しさと、複雑な感情が胸をいっぱいにする。
俺を奥宮として生み出したこの人が、憎い。
何も知らずに無邪気でいるこの人に苛立つ。
俺がいなくなれば、きっと悲しむことに、申し訳なくなる。
苦しむこの人を想像して、胸が痛くなる。
あまり会わないのに、俺の様子を理解してくれてる母に、喜びを覚える。
心配してくれることが、嬉しい。

「大丈夫、なんでもないよ」

色々な感情が胸を占めた後に、自然と出てきた言葉は、それだった。
この人を、苦しめたくは、ないんだ。
悲しませたくなんて、ないんだ。

「ありがとう、母さん」
「………私には何も言ってくれないのね。三薙さんもお父さんも、誰も」

笑って見せたはずだけれど、母さんは顔を曇らせる。
そしてくしゃりと顔を歪めて見たこともない表情を浮かべた後に、いつもの穏やかな顔に戻る。

「ごめんなさい、愚痴ね。息子に愚痴るなんて、ひどい母親ね」

そして一歩足を踏み出して、俺の頬にそっと触れる。
白く細い、たおやかな指。
岡野や槇の指よりも、細く華奢かもしれない。

「私は、あなたたちにとって、いい母親ではなかったわね。ごめんなさいね」

外の仕事と内の仕事で忙しく、抱き上げられた記憶もあまりない。
俺のすぐ後に四天も生まれていたし、一緒に過ごした覚えは、ない。
でも天もすぐに母さんから引き離されたいたような気がするし、きっと兄弟みんな一緒なのだろう。
この人と、一緒にいれた時間は、そうなかった。

「もっと、一緒にいられれば、よかったのだけれど」

考えを読まれたような気がして心臓が跳ね上がる。
表情が動いたかもしれないが、母さんは目を伏せていたので、分からなかっただろう。

「なんて、これも勝手な言い分ね。私は分かっていて、ここに嫁いできたのだから」

呪具を作り代々宮守と共にあった家。
稀に、縁を結ぶこともあったらしい。
そしてその稀が、今回回ってきたのだ。
そう考えると、この人も可哀そうだ。
最初から宮守に関わる人間なら、こんな悲しそうな顔をさせることはなかった。
後で、苦しむこともきっとない。

「でもね、三薙さん、覚えていてね。私は、あなたのこと、とても大事なのよ。いつでも、頼ってくれていいのよ。私は、あなたの母親なんだから」
「………母さん」

では母さん、家と俺、どちらが大切ですか。
なんてことは、聞けるわけがない。
辛そうな顔をするこの人を、巻き込む気は、ない。
巻き込みたくないと考える時点で、たぶんこの人は、俺にとって、兄弟よりも、遠い人なんだろうな。

「何かあったら、言ってね?」
「はい、ありがとうございます、母さん。大丈夫です」
「そう?」
「はい」

深く頷いて、目を真っ直ぐに見る。
俺も嘘がうまくなったな。
ちょっと前まで、全然嘘なんて、つけなかったのに。
ああ、そう言えば、いつのまにか母さんの視線が、俺よりも随分低くなっていた。
そんなことも、今気づいた。

「そう………。そうよね、三薙さんももう立派な、男の人ですものね」

母さんは少しだけ寂しそうな顔で笑う。
それから俺を見上げて、小首を傾げた。
まるで少女のようにあどけない仕草。

「でも、あまり無理はしないでね」
「はい、ありがとうございます」

この人が自分を産み育てたってことに、なんだかあまり実感がわかない。
でも母さん、確かにあなたを、愛していた。
それは、確かだ。

ただ、一兄よりも双兄よりも天よりも、岡野よりも槇よりも、あなたが、遠いところにいるだけ。



***




トントン。

何かの音に、微睡んでいた意識が、現実に引き戻される。
今の音は、なんだっけ。
目を開けて見渡す部屋の中は明るい。
ぼんやりとした頭で思い出すのは、考え事をしながらベッドに横たわった記憶。
そうか、あのまま寝てしまったのか。
じゃあ、なんで、起きたのだろう。

「三薙、入ってもいいか?」

聞こえてきたのは冷静な長兄の声。
ああ、そうか、この音で起きたのか。
頭痛を抑えるようにこめかみを押しながら、体を起こす。
なんだか、二日酔いの時みたいに、くらくらする。

「………一兄?開いてるよ」

ほどなくして、ドアが静かに開けられる。
そっと顔を出したのは、スーツ姿の長兄。

「大丈夫か?」

気遣わしげに俺を見つめる目。
そうか、藤吉か佐藤に、事情を聴いたのだろう。
俺のことをなんでも、一兄は知ってるのだから。

「大丈夫だと、思う?」

だからそんな皮肉も、出てしまう。
一兄は黙って部屋に入ってきて、ベッドに腰掛ける。
重みで、ベッドがぎしりと揺れる。
自然と傾いた俺の体を一兄がそっと支えて、頭を撫でる。

「………辛い想いを、させたな」

労わるその手に、安堵と共に、苛立ちを感じる。
叫びだしたくなるのを、唇を噛んでこらえる。
叫んでも罵っても、きっとこの人には、届かない。
ああ、そうだ、佐藤と一緒だ。
人の姿でありながら、どこか、遠い人。

「あのね、一兄。俺が、一番、一兄や父さんに怒ってるのはね、岡野や槇を利用したこと」

俺に残った、最後の本当。
あの二人だけは、俺の中の本当。
それを喜びながら、けれど巻き込んだこの身を呪う。

「なんで、あの二人を巻き込んだの。なんで、俺に、他人と交わせようなんてしたの」

俺に関わらなければ、悲しませることなんてなかった。
苦しませることなんてなかった。
傷つけることなんてなかった。

「………あの二人を、傷つけることだけは、したくなかった………っ」

強く、けれど優しく真っ直ぐなあの二人は、俺が姿を消したらきっと苦しんでくれる。
悲しんでくれる。
だからこそ、巻き込みたくなかった。

「それだけは、どうしても憎むよ、一兄。俺を利用するための友達なんて、藤吉や、佐藤だけで、よかったんだ………」

嬉しかった。
出会えて嬉しかった。
楽しかった。
一緒にいれて幸せだった。
けれど、そんなの、あの二人を苦しめるぐらいなら、いらなかった。
一兄や藤吉や佐藤が、そんな機会を用意しなければ、あの二人を苦しませるもなかったのに。
いや、でも、やっぱり会うことを望んだだろうか。

「あの二人を、巻き込みたくなんて、なかった」

あの二人を苦しめるぐらいなら、会わなくてよかった。
嬉しかった、幸せだった。
でも、出会えなくてよかった。
最初から優しさも温かさも知らなければ、望むこともなかったのに。

「………ねえ、一兄」

一兄は、何も答えない。
ただ、俺の頭を優しく撫でるだけだ。
いくら詰っても、弾劾しても、応えることは、ないだろう。
理性のバケモノ、か。
いくら打ち付けても、堪えている気はしない。

「ん?」
「俺には後どれくらい、時間が残されてるの?」

だったら、これ以上責めても仕方ない。
俺は、俺の為すことを、するだけ。

「どれくらい、とは?」
「今の奥宮が、二葉叔母さんが………、役目を終えるのはいつ?」

まだ時間があるとは、聞いた。
でも、これまでの性急さを見ると、そうは思えない。
それに、俺は二葉叔母さんの、奥宮の声を聞いている。
限界を訴える、奥宮の声が、聞こえている。

「分からない。これまでだと、少なくとも5年間ほどはお役目を続けていただくことが可能だった」

一兄は俺の顔を見ながら、応えてくれる。

「だが、年々、人が増え、闇が深くなることと反比例して、奥宮のお役目の在任の時期は短くなっている」

年々、人は増え、闇への敬意と恐れを忘れ、傲慢になる。
闇を侵し冒し、侵蝕し始める。
人の活動範囲は増え、闇は澱み増える。
それがいいことか悪いことか、俺には分からない。

「一月先は読めない」
「………そう」

それは半ば、想像していたことだ。
まだ時間があるといいながら、一兄や父さんは急いでいた。
俺を奥宮にすることを、急いでいた。
ということは、二葉叔母さんの限界が、近いことを示しているだろう。

「………」

その時は近い。
いや、むしろ近いのはいいだろう。
あまり遠すぎると、決心が鈍ってしまう。
でも、近すぎるのも、困る。

「………一兄、約束してくれる?これだけは、約束して。信じるから。一兄を、信じるから」
「………なんだ?」

まだ、俺にはやることがある。
準備は、終わっていない。

「………」

それを言うのは、躊躇いがあった。
もう決めたことなのだけれど、言いたくなかった。
でも、決めたのだ。

「………俺は、奥宮に、なってもいい」

顔を伏せ、自分の部屋の慣れ親しんだ床を見つめる。
この部屋でずっと生きてきた。
この家以外の世界を、ずっと、知らなかった。

「その代わり、俺の言うこと、聞いて」
「………なんだ?」
「俺は、死んだことにして」

多分、それが、一番いい。
病気で遠くへ行った。
引っ越した。
留学した。
どれがいいか、色々考えた。
でも、何か望みを残すよりも、消えた方がずっといい。
もう、何も望みがない方が、きっといい。

「それと、岡野と………、槇の記憶は消せる?」

そして、それが出来れば一番いい。
俺なんて、忘れてしまえば、一番それがいい。
でも一兄は首を横に振る。

「記憶は難しいな。お前たちは、長く一緒にいすぎた」
「………っ」

思わず、握った拳を振り上げそうになる。
誰がずっと一緒にいさせた。
誰があいつらと出会わせた。
誰が、誰が、誰が。

「だが、感情を抑えることぐらいなら、出来るかもしれない」

でも、言っても仕方ない。
拳を握って、怒りを逃がす。
殴ったって、きっと、気は晴れない。

「………そう。だったら岡野だけでいい。岡野の、俺への感情を、ただの友情と思えるぐらいに、薄くして。友情以下で構わない。たぶん俺に友情以上の感情を持ってくれているのは、岡野だけだから」

それに、槇には覚えていてもらわないといけない。
ああ、俺は、槇にもひどいことを、している。

「唯一俺を好きになってくれた岡野を、傷つけたくない。俺を、好きになってくれた感情を、消して」

でも、きっと槇は、やってくれる。
誰より岡野を大事にしている槇だ。
きっと俺以上にうまくやってくれる。

「………可能なら、やろう」

一兄は、静かに頷いてくれる。
まずは、一個、クリア。
一番大事な条件を、クリアした。

「後、天は」

そして、後もう一つ。
これも、大事な、条件だ。

「天は、何があろうと、解放して。あいつは、何も悪くない。何もしていない。いや、家から追い出してもいい。でも、自由にしてあげて」

そしてきっと、家から解放されて自由になることをあいつも望んでいる。
あいつが、それをよしとするとは、分からないが。

「分かった」

一兄は、また静かに頷く。

「そうだ、それと、志藤さんも。志藤さんは、巻き込まれただけだ。あまり、ひどいことしないで。あの人も、あの人の望むとおりにしてあげて」
「ああ」

これはちょっと、嘘だ。
でもあの人も、自由になってほしい。
俺にも家にも過去にも何にも囚われず、幸せになってほしい。
そして少しだけ、俺みたいな人間がいたと覚えていてほしい。
きっと、それがいい。

「………信じるよ、一兄。俺は結局他人に頼ることしかできない。信じることしか、出来ないんだ」
「………」
「それ以外に、出来ることがない。だから、信じるよ、一兄」

俺にはそれしか出来ることがない。
他人に任せ、頼って、利用する。

「一兄は、約束を破らないって」

そして信じる。
俺には、結局それしか、出来ない。

「そうしたら、俺は、奥宮になるよ」

俺が出来ることは、それだけだ。





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