あの後、どうなったのか、分からない。 どうやって部屋まで戻ったのか、分からない。 確か、一兄が、連れてくれたんだっけ。 「………二葉、叔母さん」 二葉叔母さんは、驚くほどにあっさりと、消えた。 存在の痕跡すら残さず、余韻もなく、あっけなく。 あれが、終わり。 長年の苦痛に耐えた末にあるのが、あれ。 「………っ」 声を漏らしそうになって、拳で口をふさぐ。 叫んだら、堪えられなくなりそうだ。 怖い。 怖い怖い怖い怖い。 あんなの、なりたくない。 嫌だいやだいやだいやだ。 嫌だ嫌だ。 見なきゃよかった。 見なきゃよかった。 あんなの、見なきゃよかった。 「うーーっ、くっ」 床に立膝をつく形で、頭だけベッドにつっぷして、声を必死で殺す。 落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け。 嫌だ、なりたくない。 でも、決めたんだ。 駄目だ、怖い。 逃げたい。 駄目だ。 コンコンコン。 硬質な印象のノックの音に、一瞬混乱していた頭が真っ白になる。 「三薙、入るぞ」 許可を取ることはなく、ドアが開かれる。 顔をゆるゆるとあげると、そこにはお盆と、その上にのったカップを持った、長兄の姿。 「………い、ちにい」 「お茶を淹れてきた。飲むか?」 俺の顔を見て眉を顰める、その気遣うような心配そうな表情は、演技なのか、本物なのか。 あれを見ても、何も思わないのか。 所詮、生贄がどうなろうと、一兄や父さんの心には響かないのか。 「最後の共番の儀式は、いつ?」 一兄が傍に寄ってきて、ベッドサイドの棚にお盆を置く。 そして床に座り込んでいた俺を抱き上げて、そのままベッドに座り込む。 大きな手で背中を撫でられ、優しく抱きしめられると、どうしても、ほっとしてしまう。 いつだって、この広い胸の中、お香の匂いの中、慰められてきた。 泣いて悲しんでいれば、必ず一兄はこうして抱きしめてくれる。 「………明日の、午後の予定だが、お前は大丈夫か?」 「嫌、でも、やらなきゃ、いけないんでしょ………」 決めたんだ。 やるって、決めたんだ。 ああ、でも駄目だ。 体が震えてきてしまう。 止めることが出来ない。 怖い。 「………三薙」 「怖い、怖いよ、一兄、怖い」 この人に縋ったって何になる訳じゃない。 この人は、俺のこと道具としか見てないんだから。 でも、駄目だ。 今はなんでもいい。 縋りたい。 「怖いよ、怖い怖い怖い!いやだ、怖いよ!」 「………」 一兄の体にしがみつき、その背中に爪を立てる。 「何あれ、何あれ、なんだよあれ!二葉叔母さん、あんな簡単に消えちゃって!あんなあんな!馬鹿だよ、二葉叔母さん、馬鹿だよ!」 一兄は黙って、ただ抱きしめてくれる。 この匂いに包まれるだけで、心は少しだけ安らぐ。 でも、怖い。 「怖い!俺、怖いよ!一兄、守ってよ!いつだって俺を守ってくれたじゃん!俺、やだよ!怖いよ!怖い、怖い!!」 ああ、止まらない。 もう、決めたのに。 取り乱したくなんて、なかったのに。 「怖い!助けてよ、一兄!」 「………」 一兄の腕から力が抜けて、体が離れていく。 温もりが離れるのが嫌で、慌ててその腕を掴む。 けれど一兄は俺を放り出そうとした訳じゃなかった。 いつの間にか泣いていた俺の顔を覗き込んで、まっすぐに目を見つめる。 「………お前が、それを望むなら、従おう」 「あ………」 従うって、なに。 助けてくれるの。 逃がしてくれるの。 アレにならなくても、済むの。 「………俺、アレにならなくて、いいの」 「お前が、そう望むのなら」 思わず、じゃあ、なりたくなんてないって叫びそうになった。 誰でもいい、俺以外の誰かがなって、俺は逃げたい。 あんなの嫌だ。 嫌だ、怖い。 でも。 でも、俺が逃げたら、どうなる。 誰が代わりになる。 誰も代わりになれず、奥宮が不在になったらどうなる。 何度も何度も何度も何度も考えたんだ。 何度も考えて、決めたんだ。 すっと、全身の血が引く様に、冷静になった。 「………でも、やるって、決めたんだ。やらなきゃ。やらなきゃいけないって」 「三薙」 落ち着け。 落ち着け落ち着け。 決めたんだ 考えたんだ。 そのために、準備もしたんだ。 自分で決めたことを、放り投げるな。 「大丈夫。大丈夫、やるよ、一兄。俺は、大丈夫。俺は、奥宮になるって、決めたんだから」 「本当にいいのか?」 「………」 黙って、頷く。 だって、それしか、道はない。 それしかないように、追い詰めたくせに。 この人が、追い詰めたくせに。 笑って、優しくて、俺を甘やかして、そうするように、仕立て上げたくせに。 「いい子だ」 そうやって、優しく笑って、あなたは、俺の逃げ道を塞ぐ。 二葉叔母さんも、こうして、追い詰められたのか。 「………ねえ、一兄も、あんな風になっちゃうの?あんな、父さんみたいに、いつでも怖い顔して、ロボットみたいで、何も楽しくなさそうで」 「………」 「二葉叔母さんは、どうして、あんな、父さんの、ために、奥宮になったのか」 一兄が俺をもう一度抱き寄せて、頭を撫でてくれる。 そして諭す様に、ゆっくりと話す。 「………奥宮は、二葉叔母さんは、満ち足りていたように、見えた」 それは、俺も、少しだけ、感じた。 あの時、父さんを見て慕わしげに幸せそうに稚い表情を見せた、二葉叔母さん。 その瞬間、恨みも苦しみも憎しみも悲しみも、何も感じられなかった。 ただただ、嬉しそうだった。 あんな酷い目に、あってたのに。 理解、できない。 「勿論、歴代の奥宮が全員そうだとは言わない。お前もそうなれとは言わない。言えない」 「………」 「ただ三薙。二葉叔母さんは奥宮になることに納得していた。あの人は、たぶん、満足していた」 なんで、満足なんて、できるんだ。 分からない。 何も分からない。 あんなの、満足なんて、幸せだなんて、満ち足りたなんて、分からない。 「………わかんない。わかんないよ」 「それでいい。ただ、否定しないでさしあげてくれ」 そして一兄は、小さく笑う。 なんで笑ったか分からず顔をあげると、頬がこけよりシャープな印象になった一兄がどこか苦いものを口に含んだような顔で笑っていた。 「………俺は、そうだな。先宮の、父さんのようになるんだろうな」 家に囚われ、自分すらも道具となって、家のためだけに動くロボット。 誰よりも強く優しくて尊敬していた長兄が、あんなものになるのか。 あんな、自分の意思がない、宮守の人形になるのか。 「一兄が、あんな、父さんみたいに、なるの、嫌だ」 一兄が苦笑を深くする。 そして、俺の額にキスを落とす。 「父さんが考えていることは、分からない。だが多分、俺は父さんに、似ているんだと思う」 「え?」 額に、鼻に、そして唇に、一兄がキスをする。 触れるだけの優しく、穏やかな、俺をなだめようとするキス。 頭を背中を、大きな手が、撫でる。 「ん」 不安でささくれ立った心が、穏やかになっていく。 もう、条件反射のような、ものだ。 だってずっとこの手に、慈しんで育てられてきたんだ。 「三薙、俺の奥宮」 この声に、この手に、この腕に、この匂いに、包まれて、生きてきたんだ。 憎み切ることは、やっぱり、どうしても出来ない。 「俺は、最後のその時まで、ずっとお前の傍にいる」 ねえ、二葉叔母さん、あなたも、こうして、父さんを愛したの? 一兄は俺が落ち着くのを待って、お茶を飲んで帰って行った。 朝まで一緒にいようかと言っていたが、それは断った。 でも、いてもらったほうがよかったのか。 あの人を、ここに食い止めておいた方がよかったのだろうか。 儀式は、明日の、午後か。 猶予があって、よかった。 大丈夫だろうか。 間に合うだろうか。 少し、騒ぎを起こせばいいかな。 どうしたら、騒ぎが起こせるだろうか。 たとえば、俺がちょっと逃げようとしたら、家の人間はみんな追ってくるだろう。 俺は今この家の、最重要人物なんだから。 「ははっ」 そう考えて、思わず笑ってしまった。 家のために何も役に立てないと愚痴っていた時が嘘みたいだ。 俺は今、この宮守でたぶん一番大切な人間だ。 貴重な道具、尊い生贄。 ああ、なんて、皮肉なんだろうな。 いっそ二葉叔母さんみたいに最初から知っていたら、あんな鬱々とした時間を過ごさなくて済んだのに。 「………なんて、考えても仕方ないか」 さあ、どうしようかな。 俺の動向は監視されているはずだ。 だから逃げだせばすぐわかる。 でも、少しでいい。 少しだけ、時間があればいいんだ。 コンコン。 その時、ドアがノックされて心臓が跳ね上がる。 一兄が、きたのか。 「入るよ、兄さん」 でも、長兄のものではない聞こえてきたのは、予想外の、声。 まだ少年の色を残す、少しだけ高めの声。 俺を兄さんと呼ぶのは、一人しかいない。 「え?」 そして入ってきたのは、声の持ち主。 でも、やっぱり、状況が理解できない。 「な、え、ちょ」 「ふふ、ちょっと久しぶり」 さっさと部屋に張り込んでドアを閉め、笑う。 合っていないのは2週間、ほどだろうか。 でも、随分顔を見てなかった気がする。 動きやすい格好をしたその人物は、気のせいか最後に会った時より背が伸びた気がする。 顔も、また大人びた気がする。 「天、なんで!?」 「しー。ほら、静かにして」 思わず大きな声を出してしまうと、末弟は指を一本立てて悪戯っぽく笑う。 それから俺の前に座り込んで、肩を竦める。 「兄さんが、トロくさくて約束を果たしてくれないから、痺れを切らして俺から聞きに来ちゃった」 天がくすくすと笑って、首を傾げる。 ああ、変わらない。 前に会った時と、まったく変わらない。 人を小馬鹿にした態度、ふざけてばっかりで人を煙に巻く話し方。 嫌になるほど綺麗な顔、圧倒的な、その身に纏う力。 「さあ兄さん、答えは決まった?」 そして、俺が困っている最後の最後で、必ず手を差し伸べてくれるところ。 「俺に、何をしてほしい?」 四天は、俺の弟は、いつだって、こうやって助けに来てくれる。 |