一兄は俺を抱え上げて、後部座席に乗り込んだ。 そのまま横たわらせてくれて、自分の膝を枕として提供する。 「疲れているだろう、寝るといい」 「ん………」 術を使った後のだるさと、天とのセックスの疲れと、昨日からあまり寝ていない寝不足。 体はもう、くたくただ。 少し、眠ろう。 どうせもう、出来ることはない。 後はただ、終わりを待つだけ。 「では、車を出します」 「ああ、頼む」 運転席にいた人が、静かに声をかけてくれる。 わずかな振動と共に、ゆっくりと暗闇の中車は動き出す。 誰なのだろうと、少し首を伸ばして運転席を見る。 「あ、あなたは、昨日の」 一兄と一緒に俺たちを捕まえようとした人だ。 三浦か太一か、どちらか、年嵩の方だ。 「………昨日は、ごめんなさい」 「いえ、構いません。お気になさらず」 逃げたことを、この人に害を為したことを、後悔はしていない。 でも、一応謝罪すると、三浦さんか太一さんのどちからの人はこちらを見ないまま首を横にふった。 怪我は、ないみたいだな。 俺が張った結界も、すぐに解くことが出来たのだろう。 後悔はしていないけれど、怪我をさせたりするのも本位じゃない。 よかった。 「眠れそうか?」 一兄の大きな手が、俺の頭をゆっくりと撫でてくれる。 幼い頃からこの人の手に宥められて、寝かしつけられた。 心地よくて懐かしくて、条件反射的に睡魔が襲ってくる。 「一兄、傍に、いてくれる?」 「勿論だ。俺はずっとお前に傍にいる」 「………うん」 安心させるようにもう一方の手で、俺の手を握ってくれる。 温かい。 心地よい。 「ありがとう、一兄」 「ああ」 俺は、一人じゃない。 ずっと、一兄が傍にいてくれる。 例え俺がヒトじゃなくなって、あのバケモノになろうとも、一兄は傍にいてくれる。 「………一兄は、天も双兄も双姉も大事だよね?」 「勿論だ。みんな可愛い、大事な弟妹だ」 「だったら、優しくして、大事にしてね」 「分かっている」 「ならいい」 そうして一兄の手が、俺の目をふさぐ。 ああ、真っ暗だ。 何も見えない。 「すべてお前の望むままに、三薙」 ああ、ずっとこうやって、この人に優しく目を塞がれてきたんだな。 「ん」 体がふわふわと揺れる感覚がして、目を開く。 ここは、どこだ。 寝ていたのか。 そうだ、一兄と、車に乗って、直後に寝てしまったんだ。 どれくらいたったのだろう。 もう、辺りが白々と明るくなってきている。 木の匂い。 懐かしい気配。 「三薙、起きたのか?」 声をかけてきたのは、俺を抱えて危なげなく歩く長兄。 眠ったままの俺を、運んでくれていたようだ。 「………ここ、は」 「家だ」 ああ、もう、帰ってきてしまったのか。 そうか、ここは玄関に向かう道か。 「連れてきて、くれたの?」 「ああ」 起きたけど降ろされる気配はなく、そのまま運ばれる。 俺も特に立つ気はなかったので、そのまま一兄の腕の中で微睡む。 「お前の部屋でいいか?」 問われて、目をなんとか開く。 一兄が優しい目で、俺を見つめていた。 「儀式、するんだろ?」 それなら、俺の部屋は嫌だ。 あそこでは、したくない。 ああ、でも、だからといって、あの離れの部屋も嫌だ。 あそこは狭くて閉塞感があって、息苦しい。 「疲れているなら少し休め。まだ大丈夫だ」 もう少し、休みたい気もする。 結構寝たぽいけど、一昨日から動きっぱなしだし儀式も含めて二回もセックスしたから、疲れている。 でも、先延ばしにすればするほど、きっと決心が鈍る。 怖くなってしまう。 天も目が覚めて、追いかけてきてしまうかもしれない。 なら、さっさとしたほうがいい。 「………一兄の部屋がいい。一兄の部屋に行く」 「そうか」 一兄の首に腕を回して、強くしがみつく。 玄関から家の中に入ると、ねっとりとした悪意が絡みつくような気がした。 この家は、こんな重い空気だったっけ。 ずっとこんなに、暗かったっけ。 「………この家が、好きだった」 友達もいなく外に出ることもほとんどなかった俺には、幼い頃から過ごしたこの家が世界の中心だった。 広い家はかくれんぼにも鬼ごっこにも最適で走り回った。 木々が身に纏う花を見て、その実を食べるのが大好きだった。 大好きな楽しい家だった。 「でも怖かった。そして今、やっぱり怖い」 ああ、怖かったのは、昔からか。 広い広い家の中。 鬱蒼と茂る森の中。。 どこからか、忍び寄るものを感じて、暗闇から出てきた何かにがぶりと頭から食べられてしまうんじゃないかと想像しては怖かった。 悪夢を見ては、泣きながら飛び起きた。 ああ、そう言えば、怖い夢を見るたびに抱きしめ慰め寝かしつけてくれたのは、一兄だった。 「俺も怖いな。小さい頃は、どこかに引きずり込まれ、飲み込まれる妄想をよくした」 「………」 思わずじっと一兄の顔を見る。 それに気づいたのか、俺を見下ろして軽く首を傾げる。 「どうした?」 「一兄も怖いって思うこと、あるんだ」 「俺をなんだと思ってるんだ」 一兄は俺の言葉に困ったように笑う。 「怖いものぐらいある。昔は怖くて、泣くこともあった」 「………」 そんなの、想像できない。 一兄はいつだって大人で強くてしっかりしている、誰よりも、頼れる人だった。 俺の知っている誰よりも、理想的な大人、だった。 弱音を吐くところなんて、見たことはない。 誰かに愚痴を言う姿も、見たことがない。 怖くて泣く姿なんて、それこそ、想像もつかない。 「一兄も、怖いこと、あったんだ」 「そりゃそうだ」 笑う一兄の首に、もう一度強く抱きつく。 俺が怖いとき、辛いときは、こうして一兄は慰めてくれた。 いつだって、俺の痛みも恐怖も、全て引き受けてくれた。 「一兄を、抱きしめてくれる人はいた?」 父さんも母さんも、甘やかしたり抱きしめてくれたりなんて、ほとんどなかった。 かなり微かな記憶をたどれば、まだ小さい頃は母さんは、抱きしめてくれたり、頭を撫でくれたりしていた。 でもやっぱり、思い出すのは、父や母よりも二人の兄達の手。 そして、そのほとんどは、この長兄だった。 「一兄を、慰めてくれる人は、いた?」 でも、一兄には、一兄がいない。 俺にも双兄も四天にも、一兄の手は与えられていた。 でも、この人には、誰が手を差し伸べてくれたのだろう。 「昔から、お前がこうして慰めてくれただろう?」 一兄が笑いながら、俺を抱きしめ、慰撫するように額をくっつける。 幼い頃からずっと、そうしてくれたように。 「………っ」 言いようのない感情が胸にいっぱいになって、言葉に詰まる。 喉が、苦しい。 苦しさを堪えるように、一兄にしがみつき、顔を肩に埋める。 「ついたぞ」 ドアを開くとともにふわりと香る、一兄の匂い。 一兄が好むお香の匂いがする、部屋。 この匂いに包まれているだけで、何も怖くなかった。 「………一兄」 「ん?」 一兄は俺を抱えたまま座り込み、ゆっくりと俺を畳に降ろす。 離れていこうとする一兄の腕を掴み、じっとその目を見つめる。 「俺は、一兄が憎いよ。嫌いだ。俺を、騙した、利用した、もののように扱った」 ずっと、騙されてきた。 俺の世界は偽りだった。 一兄によって作られた、緻密な檻だった。 俺の意思など、どこにもなかった。 「岡野と槇まで巻き込んで、あの二人を傷つけることになった」 なによりも許せなかったのは、岡野と槇を巻き込んだこと。 あの二人を、傷つけることはしたくなった。 俺の最後の本当。 俺の最後の希望。 巻き込み傷つけたのに、出会えたことを喜んでいる。 そんな自分にもうんざりする。 「天も傷つけた。俺も、すごく傷ついた。苦しかった」 そして天を、あんな風に冷たく笑う人間にしてしまった。 苦しめ、痛みを与え続けていた。 俺は何もできなかった。 きっとそれを知っていたくせに、一兄も何もしなかった。 「嫌いだ、大嫌いだ。憎い、憎い、嫌い、大嫌いだ!一兄なんて、大嫌いだ!」 全部この人のせいだ。 全部この人が仕組んだ。 全部全部、この人がすべてを作り上げた。 「ああ。当然だ」 一兄は断罪する言葉にも、感情を揺らさない。 ただ優しく俺の頭を撫でて、ゆっくりと頷く。 せめて、感情を、見せてくれたらいいのに。 そうしたら、きっと、もっと、楽だった。 「嫌いで、憎い、のに………」 嫌いだ。 憎い。 大嫌いだ。 それなのに。 「………でも、好き、なんだ」 それなのにこうして、頭を撫でられるだけで、嬉しくなる。 一兄の匂いに、安心してしまう。 「だから、苦しい。だから、辛い。一兄が、大好きだったから、辛い、憎い」 裏切られて痛かったのは、一兄を信じていたから。 利用されて哀しかったのは、一兄が好きだったから。 「憎みきれないのが、辛い。苦しいよ」 憎みきれたら、きっと楽だった。 何も感じず、憎むだけだったら、こんなに迷わなかった。 一兄の中に、本当を探そうとなんて、しなかった。 「最後まで、憎みたかったよ」 「………」 俺が力一日握りしめている腕は、きっと痛いだろう。 けれど眉一つ動かさない。 ただ笑って、もう一つの手で、俺の背中を引き寄せる。 「お前のその優しさも真っ直ぐさも、愛しい」 腕の中に抱き込まれ、優しく囁かれる。 穏やかで、温かく強い、敬愛する長兄の声で囁かれる。 「お前のすべてが愛しいよ、三薙」 昔は信じて縋ったその言葉が、今は酷く苦しい。 その言葉を信じていたかった。 その言葉を返したかった。 「………それは、奥宮として?」 あなたの都合のいい道具として、俺は愛されていたのか。 「奥宮として、弟として、そして、何よりも誰よりも、お前を愛している」 「………」 「俺にとって、奥宮とお前は不可分なものだ。お前が生まれたその日から、俺は奥宮として、お前を見てきた」 生まれ落ちたその日から、俺は奥宮の候補として育てられていた。 それを間近で見ていたのは、次期当主候補の、この人だ。 「だから、俺にはお前と奥宮を分けて考えることはできない」 やっぱりこの人にとって、俺は奥宮なのだ。 分かっていても、心が竦む。 「でも、他の誰よりも、お前が大事で、お前が愛しいよ」 「………分かんないよ、そんなの」 分からない。 そんなの、分からない。 理解できない。 「俺が大事なのに、あんなのに、するの?」 「………」 俺を抱く一兄の手に、わずかに力が入る。 そして、少し体を離され、顔を覗き込まれる。 「俺は、宮守の人間だ」 「………うん」 「だからそのためにすべきことを為し、己の責務を全うする」 この家の澱を、怖さを、強さを、すべて集めて固めたような人。 宮守という家を人間にしたら、一兄になるのかもしない。 宮守という名の、バケモノ。 「それが、俺の役目だ」 きっとそれは父さんもそうなんだろう。 父さんも一兄も、そういう風に、作られたのだろう。 俺が奥宮として、作られたように。 「………そう」 誰が悪いんだろう。 どうしてこうなったんだろう。 どうして、こんなシステムが生まれたんだろう。 俺を奥宮で、道具だと言い切る一兄が、憎い。 大嫌いだ。 苦しい。 「それなのに、こんなこと言われても、やっぱり、一兄のことは、好きなんだ」 理解したい。 でも理解できない。 好きだった。 だから、少しでも理解したい。 天を知ったように、一兄のことも、知りたい。 「だって、ずっと、好きだったんだ。誰より優しかった、誰より大事にしてくれた、何でも教えてくれた、何でも聞いてくれた。叱ってくれた、宥めてくれた、慰めてくれた」 その言葉に、少しは本当はあった? その手のぬくもりは、計算しかなかった? 「誰よりも、俺に向き合ってくれた」 ずっと、俺の世界で、あなたが一番だった。 「………たとえ、それが全部演技とか、嘘とか、言われても、やっぱり忘れられないよ」 一兄が、目を細めて、微笑む。 少しだけ、苦みが入っている気がするのは、俺の気のせいだろうか。 俺の、希望だろうか。 「信じてはもらえないかもしれないが、俺にとって誰よりも何よりも尊く愛しい存在は、お前だ」 やっぱり理解、できない。 できなかった。 もどかしい。 一兄の心は暗い暗い闇の中。 だって、本当に大事なら、あんなバケモノになんて、しないはずだ。 そんな冷静じゃ、いられないはずだ。 「………そう。だったら、その言葉は、信じるよ。信じたいから。少しは、俺のことが好きだったと、信じたいから。理解は、できなくても」 でも、信じるよ。 信じたいから、信じるよ。 その言葉に、少しは本当はあったと。 その手のぬくもりは、心から与えられたものなんだと。 「………お前は俺に慰められたというが」 一兄が、ふと笑顔を消す。 真摯な視線で、声で、告げる。 「俺はお前の存在に、いつだって支えられてきた」 俺が一兄を支えることなんて、あっただろうか。 奥宮としてじゃなく、弟して、何かしてあげられたことはあっただろうか。 何も、思いつかない。 奥宮じゃない俺が、この人の役に立つことなんて、なかった。 「もし………」 一兄が、少し目を伏せて、言いよどむ。 「なに?」 「いや、なんでもない。詮無いことだ」 途中で切られた言葉の先を促すが、一兄はゆるりと首を横に振る。 それからまた少し笑って、俺の頭を撫でる。 「どうする、少し休むか?」 もう、話は終わりか。 やっぱり、一兄の心は、見えなかったな。 見たかったな。 そうしたら憎んだり、憎まなかったり、出来たかもしれないのに。 中途半端で苦しい想いを、しないですんだかもしれないのに。 でももう、終わりだ。 話は、終わり。 「………儀式、しないの?」 「いいのか?」 「いいよ。時間、ないだろ」 体はまだ少しだるい。 でも、すぐにもう、だるさも感じなくなるだろう。 駄目だ、深く考えると怖くなる。 考えるな。 恐怖に囚われる前に、終わらせてしまいたい。 「ここでいいなら、しよう?」 「………そうか。分かった」 一兄が少し笑って、頭に乗せていた手をするりと頬に移動する。 大きな手が気持ちよくて、その手に顔を擦り付ける。 「一兄の手は、好きだよ」 「ああ、いい子だ」 いい子と言われて、撫でられるのは好きだった。 懐かしくて、心地がいい。 「一兄に撫でられるのは、好きだよ」 言いながら、自分で上着を脱ごうして、ふと気づく。 「あ、そういえば、俺、四天の痕とかでいっぱいだけど、平気?」 俺の体は、天の残した痕でいっぱいだ。 綺麗にしてくれたみたいだが、噛まれたり吸われたりした後は間違いなく残ってるだろう。 他の男の痕でいっぱいの体って、どうなんだろう。 志藤さんは、嫌そうだった。 「中も、残ってるかも。一兄、勃つ?」 問うと、一兄が、おかしそうにくすりと笑う。 「随分、婀娜な言葉を言うようになった」 「そりゃ、一兄とも三回目だしね」 それに天と三回で、志藤さんと一回。 俺って、本当にビッチ野郎だ。 ビッチで野郎って、なんか変なの。 「安心しろ。お前の匂いと、お前の表情だけで、十分そそられる」 一つ笑って、唇をふさがれる。 「ん」 大きな唇に座れて、まるで食べられてしまうようだ。 熱い舌が、口の中に入り込んできて、貪られる。 舌が絡まる感触に目を瞑ると、ゆっくりと体を倒され、畳に横たわらせられる。 「………は、匂いって、なんか、おっさんくさい」 「お前と比べたらおっさんだ」 言葉にそぐわない、若々しく精悍な顔に、雄の色が滲む。 目に欲の色を見つけて、ぞくりと背筋にしびれが走る。 この完璧な人が、俺に欲情している。 俺に、煽られている。 「四天よりも若さはないかもしれないが、十分勃つさ。お前のすべてが、俺を誘う」 「ん………っ」 耳にかじりつかれ、吐息を吹き込まれ、ぞわぞわと快感が走り、全身が震える。 「愛しているよ、三薙」 その言葉を、本当は、心から信じていたかった。 |