「眠れ、なくて」

そう言うと道隆さんはローテーブルに茶色の液体が入ったグラスを置いて、ソファから立ち上がる。
あれは、お酒だろうか。
隣にあるずんぐりむっくりとした感じの瓶は、お酒のような気がする。

「そう。じゃあ、なんか飲み物を作ってあげよう」
「あ、自分で………」
「いいからいいから。座って待ってて」

言ってソファを指さし、自分はキッチンに行ってしまう。
私はソファとキッチンを交互に見やり、結局どうしたらいいか分からずやっぱりキッチンに向かってしまう。
明らかに手伝うことはない。
なので手伝うことはあるのか、と聞くのも違う気がする。
キッチンの入り口からじっと見ている私に、道隆さんは切れ長の目を細めて笑ってみせる。
外見にあまり共通点はないけれど、目元は根木に似ている。

「ちょっとお酒入ってるから、駄目なら言ってね」
「あ、は、はい」

結局何も出来ないまま、出際よく道隆さんは作業を終えてしまう。
にっこりと笑って、マグカップを持ってリビングに戻る。
そのどこか何かを企んでいそうな、胡散臭い笑い方も、根木に似ている。
そんなことを思いながら、私はその後を情けなくひょこひょことついていく。
道隆さんがソファに座ったので、机を挟んだ向かい側の床に座り込む。
私の前に、トン、と軽やかな音を立ててマグカップが置かれた。

「どうぞ」
「あ、りがとう、ございます」

促され、そっとマグカップを掴む。
手のひらに伝わる熱は熱すぎて、一回離して、恐る恐る縁のところを掴む。
何度か息を吹きかけて冷まして、一口だけ飲み込む。
薄いアルコールと、はみちつの甘さとレモンの酸っぱさがすっと口の中に広がる。
寒いわけじゃないけれど、温かさが心地よかった。

「………おいしい」
「よかった」

道隆さんがにっこりと笑って自分もグラスの中身を呷った。
何を飲んでいるのかと瓶を見たが、書いてあるのは外国語でさっぱり分からなかった。
そのまま道隆さんは何も言わなかった。
黙って、静かにカップを傾ける。

カップの中身が半分ぐらいなくなって、体がポカポカと温かくなっていた。
クーラーの効いたリビングでは、その温かさが心地よい。
頭の芯がぼんやりとする感じがする。
アルコールの効果だろうか。
さっきまでの重苦しい心にたまった黒いものが、少しだけ軽くなった気がした。
ちらりと、道隆さんに視線を向ける。
道隆さんは見返してにっこりと笑った。

「………何も、聞かないんですね」
「何が?」
「なんで私が、ここにいるのか、とか」
「聞いてほしいの?」

逆に問われて、考える。
聞いてほしいのだろうか。
聞かれたくない気もする。
でもやっぱり、聞いてほしいかもしれない。
なんだか、頭の動きが鈍くなっている気がする。

「………どうだろう」
「何か悩み事?」

道隆さんはにこにこと笑っている。
一瞬迷う。
けれど、鈍った思考に任せて、それを口にした。

「………道隆さんは、大事なものが二つあるとして、どちらか捨てなきゃいけないとしたら、どうやって選びますか?」
「また夜中に難しいこと考えてるね」
「………すいません。忘れてください」

からかうように言われて、恥ずかしくなって顔を伏せる。
自分でも変なことを言っているのは分かっている。
抽象的で分かりづらく、人に聞かせるには稚拙な質問だ。

「まあ、いいよ。俺も暇してたし。酔っ払いの暇つぶしの答えでいいのなら」

顔を上げると、道隆さんは変わらずにこにこと笑っていた。
真剣さは全く感じられない。
けれど、逆にそれが気が楽だった。
何も知らない人に、話し半分に聞き流されるぐらいがちょうどいい気がした。
もう真面目に考えるのは、疲れた。

「はい、それで」
「じゃあ、酒のつまみに頑張って考えてみようかな」

道隆さんがまたグラスを傾ける。
そのどこか軽くて投げやりな言葉に既視感を感じて、頬が緩む。
それに気付いたのか、道隆さんが楽しそうに聞く。

「どうしたの?」
「なんか、美穂さんも根木も、道隆さんも、言い方が似ている」
「言い方?」
「どこか、突き放していて。でも優しい」
「あらそお?まあ、家族だしね」

首をかしげておどけて笑う。
根木だったら、やめてよって不機嫌に顔を顰めるだろうか。

「で、大事なものだっけ」
「はい、どちらかを選んだら、どっちか捨てなきゃいけないんです」
「うーん、どっちも欲しいな」
「それは、駄目なんです」

道隆さんの方が冷たくて、近寄りがたいイメージはある。
けれど、アルコールの力と夜の現実感の薄さが人見知りの私を大胆にさせた。
背の高い大人の男性はソファに寛ぐように片足を乗っける。

「難しいね」
「はい、ぐるぐる考えてたら、もうどっちも捨てたくなってきました。面倒で」
「乱暴だね」
「私、いい加減だから」

そう言うとくすくすと道隆さんは笑う。
俺もいい加減だわ、と言いながら。
それを聞いて、私も小さく笑う。

「うーん、月並みな答えだけど、より大事な方は選べないの?」
「………選べなくて、困ってます」
「それは難しいねえ。あ、もう一杯飲んでちょっと脳みそ巡らせるね」

空いたグラスにお酒を注ぐと、ぐいっとそれを一息に飲み干す。
そしてまたもう一度瓶を傾ける。
グラスを持ったまま、ねっ転がるようにソファに両足を上げて頭をソファに埋める。
このまま寝てしまいそうだ。
大丈夫かな、って思っているとちらりとこちらに視線を向ける。

「じゃあ、残した方が得なものを残せば」
「得なもの?」
「そう、残した方が後々便利、とか価値があるとか」

後々便利。
価値があるもの。

根木と千尋。
どちらが便利。
どちらが価値がある。
一瞬考えてかけて、頭を振って打ち消す。

「………そんな風に選んで、いいのかな」
「いいんじゃない。選べなきゃいけないなら。判断材料の一つで」
「そんなの………」

そんな軽薄な理由で選んでいいのだろうか。
誰が私のためになる、とか。
誰が私により居心地のいいものなのか、とか。
二人のうちどちらを残した方が得なのか。
考えて、笑ってしまった。

「どしたの?」
「………ああ、でも、私今までそんな風に選んできました」
「そうなの?」
「はい、どれが私のためになるか、より私の役に立つのはどっちか、そんなこと考えてばっかりでした」
「まあ、人間全員そんなもんだよ」

道隆さんが笑ったままそう返してくれる。
本当にどうでもよさそうに言われて、小気味いい。
この人にとっては、この時間が暇つぶしなのだと思えて。
この人は、私のことなんてどうでもいい。
それが、今は楽だ。

ずっと、自分のことを気にしてくれる人が欲しかった。
でも、人に影響を与えるのは、怖い。
誰かにいてほしいけれど、誰かといるのも、怖い。
なんて、私は我儘で自分勝手。

「………どちらが、いいのかな」
「そうだねえ」

道隆さんがちらりとグラスを舐める。
真夜中の奇妙なお茶会は、そのまましばらく続いた。



***




学校が終わって、バイトがある根木とは途中で別れた。
少しだけ考えて、家に戻ってみた。
千尋は部活があるから、まだ帰らないだろう。
弟のいない間に、家が見たかった。

そう長い間離れてはいないのに、なぜかひどく久しぶりのように感じた。
同じ外見の家が立ち並ぶ、変哲もない住宅街。
小さい頃から慣れ親しんだ、風景だ。

玄関の前で、自然と足が止まってしまった。
酸素が薄くなった気がする。
気のせいだ。

大きく深呼吸して、そっと鍵を開けて、入り込む。
一応誰かいないか靴を確認したが、誰もいないようだ。
行儀悪く靴を放り出して、飴色をした廊下に靴下のまま踏み出す。
リビングまで来て、辺りを見渡す。

隣の家と全く同じ造りの、建売の家。
母が戯れに飾る花がそこかしこにある。
あの人が最後に来たのはもう随分前だから、枯れたものも多い。
いつもは千尋が片付けるのだが、まだ片付けてないのだろうか。

今ここには、几帳面な千尋しかいないせいあろう。
枯れた花以外は、綺麗に片付いている。
食器は洗われている。
物はあるべきところに収まっている。

人の気配がしない。
ああ、やっぱり、ここは暗い。

苦しい。
重い。
寒い。

根木の家に比べると、プールの底のようだ。
冷たくて、光が届かない、水の底。
どんよりと濁って、肌に纏わりつくように重苦しい。
呼吸すら、苦しい。

どうしてこんなところ、ずっといられたんだろう。
こんな、暗い、家。
急にぞっと、全身が粟立つ。
家が私を押しつぶすように迫ってくるような気がした。

叫び出しそうだった。
どうしようもなく苦しくて、逃げ出した。
自分の部屋に行くことなく、玄関から飛び出す。
一応鍵だけはかけて、一目散に家から離れる。
鬼ごっこで、鬼から逃げるように。

なんで、あそこにいたのか。
なんで、あそこにいれたのか。
あんなに冷たくて、怖い場所に。

根木の家を知ったから、分かった。
私の家に温かさは、全くない。
あの明るく朗らかなものが、ない。
どこまでも冷たく、暗い。

あんなところなんで今までいれたのだろう。
なんで、あんなところに。

そこまで考えて、足をとめた。
酸素を求めて、空を仰ぐ。
体が震えていた。
新鮮な酸素を、肺に送り込む。

初夏の陽気は、蒸し暑い。
なのに、指先が冷え切っている。
怖くて寒くて、泣いてしまいそうだ。

なぜあんなところにいたのか。
答えは簡単だ。
千尋が、あそこにいたからだ。

千尋が私にどういう理由で接していたにしろ。
私がこんなになってしまったのが、千尋のせいだったにしろ。

あの家で生きるためには、千尋の存在が必要だった。
まるで酸素のように、呼吸するために、必要だった。

千尋はどうしようもなく、私に、必要な存在だったのだ。
そして千尋にとって、私もきっと、必要だったのだ。

私たちは、ずっともたれあってきた。
お互いだけを頼りに、あの家に潰されないように。
そうしなきゃ、とっくに起き上がれなくなっていた。

ねえ、千尋。
私たちはずっと、一緒にいたね。
あの暗い家で。
あの怖い場所で。

ねえ、千尋。
私はやっぱり、明るい所に行きたい。





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