それは降り始めの雪のように儚くて。 温度も感じないくらい、小さくて。 でも綺麗で、心落ち着く。 でも。 それは眼を凝らせば、もしかしたら汚いのかもしれない。 それは触れてしまえば、きっと消えてしまう。 だから私は眼をつぶる。 だから私は手を伸ばさない。 だから私は何も考えない。 今日も家には、誰もいない。 千尋は部活で今日も遅いのだろう。 暗い家は、好きではない。 一人きりは、心が凍る。 温もりが求めて、手をそっと握って指を温める。 でも、誰もいなくて、私はそっと息をつく。 親も弟もいない空間で、私はようやく、深く呼吸ができる。 明かりのついていない家に、安らぎを覚えた。 食事をしようかと考えて、面倒になった。 お腹すいたら、その辺にあるものを食べよう。 さあ、今日も勉強をしないと。 受験生という肩書を持っているだけで、いつも心のどこかが重い。 嫌な時期だ。 この前の模試の結果も悪かったし、頑張らなきゃいけない。 そういえば根木も、夢にまで英単語が襲ってきた、なんて言ってたっけ。 あの男が話すと、受験勉強も笑い話になる。 眼鏡の男を思い出して、自然と頬が緩む。 あのふざけた男は、時折私を追い詰める。 けれど、以前と同じように、私に楽しさと温もりをくれる。 大好きな心落ち着く太陽と汗とタバコの匂い。 それが根木の匂い。 まるで何もなかったかのように、屈託なく笑いかけ、心を軽くしてくれる。 私はあの男を裏切ったのに。 あの男を選ばなかったのに。 それなのに、未だに昼休みは続いている。 涼しい木陰の下の、温かさに満ちた時間。 このままじゃいけないと思うのに、やっぱり私は手放せない。 あの時間を、失いたくない。 根木が付きつけてくる刃に目をそらしつつ、私は温もりだけ享受する。 こんな弱い自分が本当にうんざりするのだけれど。 でも、ずるずると、私は根木の優しさを求め続ける。 ああ、だめだ。 こんなことばかり考えていてはいけない。 さあ、勉強をしよう。 そうすれば、少なくとも何も考えなくていい。 ノックをされて、軽くため息をついた。 ペンを放り出して、扉の向こうの人間に声をかける。 「開いてる」 「入るね」 予想通りの、柔らかく穏やかな声。 集中を乱されて、少しだけ苛立つ。 いつの間に帰ってきたんだろう。 気付かなかった。 机に向かったまま、振り向かない。 するといつものように後ろから腕を回された。 息が、詰まる。 「ただいま」 「………おかえり」 ぎゅっと力を入れられて、耳元にキスをされた。 千尋の落ち着く腕の中、懐かしい匂いに包まれる。 「ご飯は?」 「今勉強してるから、いらない」 「一緒に食べようよ」 「お腹すいてないからいい」 「勉強なんていいよ」 「私、受験生」 「落ちちゃえばいいよ。俺と一緒に大学行こう」 「………千尋」 「どうせ、母さん達も一浪ぐらいは覚悟してるって」 苛立ちが頂点に達する。 未だに膿んでいる傷口に爪を立てられえぐられた。 「千尋!!」 私が声を荒げると、耳元で鼻を鳴らす。 子供が悪戯を咎められて拗ねるように。 「怒らないでよ」 「邪魔、しないで」 受験に失敗したら、私はまたこの優秀な弟と比べられるのだろう。 そして親はため息をつくかもしれない。 いや、呆れられも、失望もされないかもしれない。 何も言わずに、ただまたお金を出してくれるのだろうか。 私が何をしても、しなくても、あの人たちは興味がないのだから。 それを思い知らされるのは、もうごめんだ。 私が本気で怒っているのを感じたのか、千尋は身を引く。 釘を刺そうと、椅子を回して弟の方を振り向く。 そこには端正な顔に子供っぽいいじけた顔を浮かべる長身の男。 つまらなそうに、愚痴をこぼす。 「あーあ、なんで真衣ちゃん受験生なんだろう」 「あんたより、二つ年上だから」 「俺が上だったらよかったのにな。そしたら真衣ちゃんが受験生でも俺が勉強教えてあげられた」 また、馬鹿な事を言っている。 本当に、子供返りしたかのように我儘を言う。 大人びて、誰からも信頼される優秀な弟はどこへ行ってしまったのか。 毒気を抜かれてしまい、ため息をついた。 ささくれ立っていた心が、丸くなっていく。 馬鹿な弟が、愛しい、と思う。 「もうちょっと待てる?後で一緒にご飯食べよう」 「本当?」 「本当。悪いけど作って」 「うん。早く下りてきてね」 口を尖らせていた弟は、表情を一瞬のうちに輝かせる。 千尋は、こんなに表情豊かだったろうか。 私は、この十何年も、弟の何を見ていたのだろう。 上機嫌で私の部屋から出ていこうとした千尋が、ふと扉で足を止める。 そして、再度私を見て、不思議なことを問うてきた。 「ねえ、真衣ちゃん。今日は学校からすぐ帰ってきたんだよね」 「……?うん」 「………そう」 一瞬目を伏せる。 そして顔をあげると、綺麗な笑顔を浮かべる。 私のよく見知った、完璧な弟の笑顔。 「真衣ちゃんは、俺のものだよね」 「え」 「あんたは俺を裏切らないよね」 にこにこと、笑う弟。 その笑顔は本当に柔らかくて優しげなのに、なぜか圧迫感を感じる。 喉が乾いて、貼りつくような感触がする。 「ね、真衣ちゃん?」 気圧されるように、かすかに首を縦に振る。 そうだ、私は千尋を選んだ。 千尋がいてくれれば、何もいらないと、そう思ったのだ。 「よかった。ごめんね、真衣ちゃんを信じてるよ」 満足したように大きく頷いて、千尋はようやく部屋から姿を消す。 消した後もしばらく、私は机に向かえなかった。 手を握ると、じっとりと汗をかいていた。 そうだ。 私は、千尋を裏切ってなんかいない。 私は、千尋が好きなのだから。 |