俺だって、逃げたかったよ。 ねえ、真衣ちゃん。 今日はどうやら、雨らしい。 カーテンを締め切った部屋は薄暗い。 ただ、静かな雨音と、規則正しい寝息が響いていた。 寝息の主は、枕元に座り込んだ俺の、隣で眠っている貧相な女。 むき出しの肩は骨ばっていて、どこか痛々しい。 疲れきって眠るその顔は、昨日散々泣いたせいか腫れぼったい。 本当に、惨めでちっぽけな女。 俺の、たった一人の姉。 ただ1人、俺を捕まえて放さない。 誰よりもむかついて、そして誰よりも愛しい、女。 枕に広がった髪に、静かに指を絡める。 姉はそれにも反応を示さない。 よほど、疲れているらしい。 近頃、睡眠も食事もろくにとっていなかったようだ。 それに、昨日のことで体力を使い果たしたのだろう。 目を覚ましたら何か消化のいいものを食べさせて、風呂に入れよう。 そう思いながら、毛布をかけなおす。 と、シーツからはみ出ていた姉の右腕の白い包帯が、ほどけかけていた。 その腕をとって、すべて取り払ってしまう。 下から出てきたのは紫に変色した痕。 俺の残したもの。 姉が自分のつけた痕を身に付けているのに、喜びを感じる。 もっともっと、そのすべてに、俺のものだという証を刻み付けてしまいたい。 このちっぽけな女のすべてを、心も、体も、俺で埋め尽くしてしまいたい。 その右腕に、そっと口付ける。 「かわいそうだね、真衣ちゃん」 姉は反応しない。 ただ規則正しい寝息を立てている。 「もう少しで、逃げられたのにね」 言葉はただ薄暗い部屋に溶ける。 聞く人間は誰もいない。 「本当に、馬鹿だね、真衣ちゃん」 あのまま、逃げ切ってしまえばよかったのに。 俺の囁く言葉なんて耳を貸さずに。 俺の手を振り払って。 全力で、逃げてしまえばよかったのに。 あの時、俺に手を伸ばしたのは当然だ。 過ごしてきた年月が違うのだ。 ずっとずっと、俺だけを頼るように仕向けてきた。 俺だけしか見ないように、俺だけを見るように。 ただ1月ほど一緒に過ごした相手と、俺と、どちらを選ぶのなんて明白なことだ。 咄嗟に俺を選んでしまうのなんて、仕方がない。 それはおそらく姉の意志ではなく、ただ習性のようなもの。 俺とあの男を比べて決断した事では、ない。 それなのに、こんなに簡単に騙されてしまう。 俺の吹き込む言葉を、簡単に信じてしまう。 「あの時、あんたはまだ逃げ道があったんだよ」 もっとあの、根木という男を信じていればよかったのだ。 こんな俺の言う事なんて、信じなければよかったのだ。 けれど臆病でずっと1人だった姉は、他人を信じきるには弱すぎた。 すぐ隣にある手に、すがってしまった。 いつでも不安げに揺れているこんな女につけこむことは、容易い事。 「きっと、あんたを一番不幸にするのは俺なのにね」 なんて純真で、なんて愚か。 この馬鹿で哀れな女が、愛おしくて仕方がなかった。 疑り深くて、暗くて、意地っ張りで単純で。 けれど寂しがり屋で、甘えたがりで、泣き虫で。 「でも、逃がす気なんて、ないんだけど」 こんな姉、俺が守らなくてはどうしようもない。 俺が傍にいなければ、すぐに壊れてしまう。 それは、俺が幼い頃からずっと心にあった、たった一つのもの。 脅迫のように、呪いのように、ずっと俺を縛ってきた。 「真衣ちゃんは、俺が守るよ」 誰も聞く事のない決心は、雨の音にかき消された。 自分の、顔がゆがむのが分かる。 なぜか、泣きそうだった。 胸の中にあふれる感情が、なんだか分からなかった。 ただ、泣き叫びたかった。何かに助けを求めたかった。許しを請いたかった。 誰に。 姉にだろうか。あの男にだろうか。 分からない。 それでも、俺はこうするしかないのだ。 気を抜くと、こぼれそうになるものを目を閉じてやり過ごした。 とっていた姉の右手の甲にキスを落とす。 「大好きだよ、真衣ちゃん」 反応はない。ただ、雨の音が響いていた。 |