俺だって、逃げたかったよ。

ねえ、真衣ちゃん。



***




今日はどうやら、雨らしい。
カーテンを締め切った部屋は薄暗い。
ただ、静かな雨音と、規則正しい寝息が響いていた。

寝息の主は、枕元に座り込んだ俺の、隣で眠っている貧相な女。
むき出しの肩は骨ばっていて、どこか痛々しい。
疲れきって眠るその顔は、昨日散々泣いたせいか腫れぼったい。

本当に、惨めでちっぽけな女。
俺の、たった一人の姉。
ただ1人、俺を捕まえて放さない。


誰よりもむかついて、そして誰よりも愛しい、女。


枕に広がった髪に、静かに指を絡める。
姉はそれにも反応を示さない。
よほど、疲れているらしい。
近頃、睡眠も食事もろくにとっていなかったようだ。
それに、昨日のことで体力を使い果たしたのだろう。
目を覚ましたら何か消化のいいものを食べさせて、風呂に入れよう。
そう思いながら、毛布をかけなおす。
と、シーツからはみ出ていた姉の右腕の白い包帯が、ほどけかけていた。
その腕をとって、すべて取り払ってしまう。
下から出てきたのは紫に変色した痕。
俺の残したもの。

姉が自分のつけた痕を身に付けているのに、喜びを感じる。
もっともっと、そのすべてに、俺のものだという証を刻み付けてしまいたい。
このちっぽけな女のすべてを、心も、体も、俺で埋め尽くしてしまいたい。

その右腕に、そっと口付ける。

「かわいそうだね、真衣ちゃん」

姉は反応しない。
ただ規則正しい寝息を立てている。

「もう少しで、逃げられたのにね」

言葉はただ薄暗い部屋に溶ける。
聞く人間は誰もいない。

「本当に、馬鹿だね、真衣ちゃん」

あのまま、逃げ切ってしまえばよかったのに。
俺の囁く言葉なんて耳を貸さずに。
俺の手を振り払って。

全力で、逃げてしまえばよかったのに。

あの時、俺に手を伸ばしたのは当然だ。
過ごしてきた年月が違うのだ。
ずっとずっと、俺だけを頼るように仕向けてきた。
俺だけしか見ないように、俺だけを見るように。
ただ1月ほど一緒に過ごした相手と、俺と、どちらを選ぶのなんて明白なことだ。
咄嗟に俺を選んでしまうのなんて、仕方がない。
それはおそらく姉の意志ではなく、ただ習性のようなもの。
俺とあの男を比べて決断した事では、ない。

それなのに、こんなに簡単に騙されてしまう。
俺の吹き込む言葉を、簡単に信じてしまう。

「あの時、あんたはまだ逃げ道があったんだよ」

もっとあの、根木という男を信じていればよかったのだ。
こんな俺の言う事なんて、信じなければよかったのだ。

けれど臆病でずっと1人だった姉は、他人を信じきるには弱すぎた。
すぐ隣にある手に、すがってしまった。
いつでも不安げに揺れているこんな女につけこむことは、容易い事。

「きっと、あんたを一番不幸にするのは俺なのにね」

なんて純真で、なんて愚か。
この馬鹿で哀れな女が、愛おしくて仕方がなかった。
疑り深くて、暗くて、意地っ張りで単純で。
けれど寂しがり屋で、甘えたがりで、泣き虫で。

「でも、逃がす気なんて、ないんだけど」

こんな姉、俺が守らなくてはどうしようもない。
俺が傍にいなければ、すぐに壊れてしまう。

それは、俺が幼い頃からずっと心にあった、たった一つのもの。
脅迫のように、呪いのように、ずっと俺を縛ってきた。

「真衣ちゃんは、俺が守るよ」

誰も聞く事のない決心は、雨の音にかき消された。

自分の、顔がゆがむのが分かる。
なぜか、泣きそうだった。
胸の中にあふれる感情が、なんだか分からなかった。
ただ、泣き叫びたかった。何かに助けを求めたかった。許しを請いたかった。

誰に。
姉にだろうか。あの男にだろうか。
分からない。
それでも、俺はこうするしかないのだ。

気を抜くと、こぼれそうになるものを目を閉じてやり過ごした。

とっていた姉の右手の甲にキスを落とす。

「大好きだよ、真衣ちゃん」

反応はない。ただ、雨の音が響いていた。






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