あんたを守るのは、俺の役目。 だから、姉の傍にいていいのは、俺だけ。 姉を見ていていいのは、俺だけ。 そう、姉が望むのは俺でなくてはいけない。 俺だけでなくてはいけない。 それなのに、俺から逃げていく。 俺から離れていく。 どんなに縛り付けて、捕らえても、あんたは俺の手を放す。 俺を、見捨てる。 優しくしても、甘い言葉で惑わせても逃げるなら。 それなら。 無理矢理力づくで押さえつけるしかないのかな。 鎖で縛り付けて、逃がさないようにしようか。 傷つけたくなんてない。 笑っていて欲しい。 ただ、守りたかった。 それでももう、心なんていらない。 笑顔なんていらない。 優しい関係なんて欲しくない。 仲のいい姉弟なんて、虫唾が走る。 いっそ俺を憎めばいい。 あんたを捕えて傷つけて組み伏せる俺を殺したいと思ってくれればいい。 あんたが、傍にいるならそれでいい。 あんたが俺だけを見るなら、それでいいんだ。 あんたの向ける感情が、俺にだけ向けばいい。 あんたは、俺が守るんだから。 なりふり構ってなんかいられない。 姉が俺から離れていくなんてことは、許せない。 何をしてでも、どんなことをしてでも、捕まえてみせる。 もう、姉を捕えるための演技なんて、いらない。 こんな意味のないものはいらない。 姉の逃げ場を塞ぐための仮面。 姉が怖がらないように、逃がさないようにする仮面。 人当たりがよく、信頼されて、愛されて。 姉を孤立させ、それを気付かせないようにして、俺を頼るように仕向けて。 それなのに姉は逃げる。 どんなに退路を断っても。 それなら、こんなものにもう意味はない。 周りからの目も、寄せられる感情もただ鬱陶しいだけ。 俺に必要なのは姉が俺を見ること。 俺が欲しいのは姉が俺に向ける激しい感情。 それ以外のものは、いらない。 「ねえ、清水、お昼一緒に食べよ?」 昼休み、かわいらしい媚を含んだ声をかけられた。 声の主を向くと、小作りな顔を軽く傾げて頬を赤らめた少女がいた。 「ごめん、ちょっと用事があるから」 いつもよりもずっとそっけない声で言い放つ。 その冷たい表情に、目の前の少女が少し怯む。 そういえば、昨日この少女に優しくしたばかりだったことを思い出す。 罪悪感が疼かないわけではないが、今はやらなくてはならないことがある。 俺はゆりにさっさと背を向けると教室を後にした。 足早に旧校舎を目指す。 旧校舎の裏の人気のない庭。 姉と、あの男がいる場所。 学校へ来る前に、姉がまだ部屋にいることは確かめていた。 けれど、それでも昨日もいた。 思い出すだけで不快感で吐き気がする。 人の目を盗むように寄り添っていた二人。 姉に触れる、いけすかない男。 それは痛みを伴って、全身が切り裂かれそうなほど。 2人を引き離して、あの男に思い知らせなければならない。 姉が誰のものなのかを。 姉を抱きしめる腕は、俺のものだけでいいということを。 足早に、それこそ誰も声をかけられないような勢いで歩いていた。 見知った顔をいくつか見たが、誰も話しかけてこない。 それほど、俺は切羽詰った顔をしているだろうか。 そんな余裕のない自分がおかしくて、少し笑ってしまう。 旧校舎へ続く渡り廊下。 ほとんど使われていない旧校舎に人気はない。 その時、後ろから足音が聞こえるのに気付いた。 駆け足気味なそれは、間違いなく自分を追ってきているもの。 けれど気付かないふりで、後ろを振り向かない。 「待って、清水!」 かけられた言葉に、苛立ちが増す。 呼び止める声が、あの2人の元へ行く俺を邪魔するように感じた。 更に無視しようかと思ったが、駆け足で近づいた小さな手が俺の腕を掴む。 仕方なく、俺はそちらを向く。 「何?」 生憎と、笑顔なんて見せられない。 それは我ながらとても平坦な声だった。 ゆりは一瞬怯んだように手を放す。 それをいいことに、俺は背を向けようとしたが、その前に再度腕をとられた。 鬱陶しい。 「あ、ね、ねえ?」 「だから、何?」 その声に哀しげに眉を顰めながら、それでも今度は手を放さない。 女ってのは、どうしてこう土壇場で強いんだろう。 「わ、私、なんか、した……?」 「別に、何も」 「じゃ、じゃあ、なんでそんなに怒ってるの……?」 目に涙をたたえて、今にも零れ落ちそうだ。 上目遣いに俺を見るその顔は、とても儚くて頼りなく、可愛かった。 いつもなら愛おしく感じるその仕草も、今の俺には苛立たせるだけ。 もっともっと傷つけて、その可愛らしい顔を歪めたくなる。 こんな時に追ってこなければ、ここまで攻撃的な気分にもならなかったのに。 「飽きた」 「……え……?」 「もう、あんたに飽きた。別れよう?」 信じられないように、もう一度問いを繰り返すゆり。 丁寧に、三度同じ事を繰り返す。 ゆりの大きな目から涙が零れ落ちた。 可愛らしい顔が、引き攣る。 罪悪感と、それに伴う残酷な感情が気持ちよかった。 「な、なんで………?」 「なんでも何も、飽きた。もういいや」 そう言って、今度こそ階段へ向かう。 こうしている内にも、あの2人が一緒にいるかと思うと、腹から熱いものがこみ上げて、気がはやる。 そして3歩も歩かないうちに、もう一度手をとられた。 本当に、なんでこうしぶといんだろうな。 「待って、ねえ、なんで!?」 まだ本校舎に近い廊下で、脇目もふらずに声を上げる。 「やだ、ねえ、やだよ、なんで!?」 涙声で、可愛らしい顔を歪ませて。 その必死な様子は、哀れで、胸がちくりと痛む。 ゆりは嫌いじゃない。 こんな風になりふり構わない様子は、とても好ましい。 いつもなら、もっと優しく振ってあげた。 遺恨も残さないくらい、綺麗に別れてみせただろう。 強いて言うならこのタイミングで俺と付き合ってた事が不運だったってことだ。 同情はするけれど、俺にもどうすることも出来ない。 「うるさいな、もう必要ないんだ」 そう、姉が取りすがることをしないのなら、もう俺が感情を隠さないのなら、ごまかすための女なんて必要ない。 ごめんね、ゆり。 けれど、俺にはあんたはいらない。 「や、やだ、な、やだよ!」 子供のように、意味をなさない言葉を繰り返す。 その様子は、醜悪で無様で殴りつけたくなるぐらいむかついて、そして泣きたくなるぐらいの親近感。 可哀想なゆり。 哀れで無様なゆり。 それはどこかで見てきたもの。 そんな風に、俺にとってはこの上なく無駄な時間が過ぎていく。 取りすがるゆりを振り払って、それにまたゆりがすがり付いて。 そしてそれは、旧校舎の1階と2階の間の踊り場。 目の前から歩いてきた2人。 手をつなぐ、姉と、あの男。 ここに姉がいることを予想してなかった訳ではない。 そして、この2人が寄り添うのを見るのも初めてじゃない。 それでも、慣れることなんてない。 きりきりと、心臓が軋む音がする。 熱くなる頭と体。 それと同時に、冷水をかけられたかのように冷える背筋。 あんたは、本当にどこまでも俺を裏切るんだな。 激しすぎる感情に、頭がついていかない。 咄嗟に声が出なかった。 沈黙を破ったのは、いつだって飄々としてペースを崩さない男。 「おー、こんにちは、弟君。美女に追っかけられるなんてうらやましー」 こんな時にまで明るく余裕のあるその声に、苛立ちが募る。 本当に、今すぐ殴り倒してしまいたい。 「あんたたちも、相変わらず仲がいいんですね」 しっかりとつながれた手に、2人の近しさを思い知らされる。 臆病な裏切り者は、俺の目を気にしたのか慌てて手を放した。 その俺を窺う卑屈な様子にも腹が立ったが、その後に姉の肩に自然に腕を回す男を叩き潰してしまいたい。 「そりゃー、俺達らぶらぶだもーん」 おどおどと俺の様子を伺う姉。 臆病でちっぽけで惨めな姉。 「そうですか。そんな暗くて何にもできない女のどこがいいんですか?」 「どこもかしこもー。このちょっとひねてるとこがかわいんだって」 どこか面白がるように、好奇心に満ちた目で笑う男。 その男に身を寄せる姉。 俺から、隠れるように。男に、守ってもらうように。 そうやって、俺から逃げようとするのか。 俺を、拒絶するのか。 俺を縛り付けたのはあんただったのに。 傍にいてくれと言ったのは、あんただったのに。 その男がいれば、俺は用済みなのか。 「本当に質が悪いね、あんたは。すぐにそうやって依存する人間を捕まえようとする」 「どうしたの、弟君?なんか色々はみ出てるよ?余裕ないね?」 当たり前だ。 余裕なんて、あるはずがない。 そんなものは、いらない。 姉が俺の手から逃げるのに、余裕なんて見せてられるはずがない。 どんな無様にでも、足掻いてみせる。 「ええ、どっかの物好きが、目を離した隙に人のものを盗ろうとしているので。どうせ、すぐに飽きるくせに」 「誰だろうね?『人のもの』を盗ろうとするのはよくないよねー。俺は一度手に入れたものは大事にする派だけど」 「口ではなんとでも言えますね。途中で放り出すほど、残酷なことはないですよ?」 そう、他人なんかにこの女の傍にいられるはずがない。 移り気で、身勝手で、臆病で、卑屈な、こんな女。 俺が守らなければ、誰が守るって言うんだ。 すぐに飽きてしまう他人になんか、渡せるわけがない。 姉は俺が守る。 姉の傍には俺がいる。 姉の目が不安げに揺れている。 1人にされることをなにより怖がる姉。 誰かが傍にいなくてはどうしようもない、臆病な女。 俺の言葉の持つ意味に、不安げに揺れる。 誰よりもその感情の動きが分かる俺は、少しだけ満足感を覚える。 それでいい。 他人になんか、あんたを守れるわけはない。 その時、完全に蚊帳の外にいた少女が声をあげた。 存在すら、忘れていた。 俺の腕に、再び取りすがる。 「ねえ、清水!なんで、いきなり別れようって言うの!?」 その必死な様子は、とても愛しいものだけれど。 それでも。 「言ってるだろ。もう、あんたは別に必要ないから」 「そんな、ひどい!」 「うるさいな。あんたじゃ、役者不足なんだよ」 完璧に、冷たく切り捨てる。 もういっそ、俺なんて見たくもないぐらいに嫌ってしまえばいい。 それが俺にできる、せめてもの罪滅ぼし。 俺がどこまでも欲しいのは、目の前で他の男の腕に囲われている裏切り者。 どうしようもなく、憎くて。 どうしようもなく、俺をひきつける。 姉の右手に巻かれた包帯。 その下には俺がつけた痕がある。 俺が刻んだ印を身に付けていることに、喜びを感じる。 その腕をとって、力をこめて男から引き剥がす。 「い、っ!」 顔をしかめて小さく声を上げる。 その苦痛の表情が、とても愛しい。 「俺は、今更諦める気はないから」 優しく優しく囁く。 愛しくてたまらない、ただ1人の姉。 俺の声が、あんたを浸食してしまえばいい。 あんたを食い尽くして、変えてしまえばいい。 「真衣ちゃんの傍には、俺がいる。俺『だけ』がいれば、いいんだよ」 告げて、体を放す。 そして、気付いた。 あまりにも意外なことに、一瞬認識できなかった。 それは予想もしなかったもの。 わずかな変化。 それも瞬きをするような、ほんの一時のこと。 俺に拘束されていた腕を庇うように擦る。 右手を抱え込むようにした姉の、小さな変化。 「大丈夫、清水?」 一瞬の空白は、耳障りな男の声で打ち破られる。 姉は後ろの男を振り返り、途方にくれた子供のような顔をした。 もしかしてあんたは。 そしてもう1人。 すでに完全に認識から追いやっていた少女が動く。 嫉妬でゆがめた、醜く、そして綺麗な顔で。 どこで分かったのか、それても本能か。 まっすぐに、自分を苦しめる敵へと向かう。 「あんたがっ!」 細い華奢な腕が、貧相で薄っぺらな体を押す。 力ない体は面白いくらいに簡単に崩れた。 勢いで後ろに倒れこむ。 後ろは階段。 宙に浮く、ちっぽな体。 「真衣ちゃん!」 その時俺は、姉しか見えてなかった。 いけすかない男も、哀れな少女も、意識になかった。 ただ、姉だけをまっすぐに見ていた。 手を、伸ばす。 姉は、ほんの短い間に俺と隣にいる人間を見比べたようだった。 そして。 俺に。 手を伸ばした。 「……千尋っ」 姉は臆病で。 1人になるのが嫌で。 寂しがりで、卑屈で。 俺の事を信じられなくて。 それでも俺を手放せなくて。 いつ俺がいなくなるか不安でたまらなくて。 小動物のような姉は、俺がむき出しの感情を見せれば逃げると思っていた。 怖がって、嫌悪すると思っていた。 だから優しく、柔らかに捕えた。 怖がらないように、気付かせないように。 あの時。 俺が腕を捕えて、姉を逃がさないと、告げたあの時。 姉は。 俺の所有の痕をなぞって。 笑った。 安心したように、嬉しそうに。 どこか醜悪で、けれどとても綺麗に。 笑ったのだ。 姉は、逃げると思っていた。 俺がこの醜い感情を見せれば、姉はきっと逃げてしまうだろうと。 姉は臆病で。 1人になるのが嫌で。 寂しがりで、卑屈で。 俺の事を信じられなくて。 それでも俺を手放せなくて。 ああ、俺が間違っていた。 俺のやった事は間違いだった。 俺はただ。 あんたを欲しがればよかったんだ。 |