「千尋、横あけて」 わがままを言った夜、私はこうして弟の部屋に進入する。 弟は、慣れた様子でベッドをあけた。 そこに滑り込むと、熱を持ったタオルケットがかけられた。 いつまにか、追い越されたどころか一回り大きくなってしまった体が、優しく私を包み、背を撫でる それは、子供の頃から変わらない、優しい優しい仕草。 胸に顔を当てると、心が落ち着く匂いがした。 「千尋、私を、嫌いになった?」 醜い自分を肯定して欲しくて、まだ弟に嫌われていないと確信したくて。 私はいつもこうして弟のベッドにもぐりこむ。 「真衣ちゃんは、いい子だよ。俺は、大好きだよ」 そうして優しく、耳元で囁く。 耳朶に触れる息が、熱かった。 予想通りの、柔和な声。温かい言葉。 けれどもう、幼い頃のように素直には受け取れない。 「……嘘つき」 「嘘じゃないよ。俺は、ずっと真衣ちゃんの傍にいるから。安心して」 「嘘つき……」 優しくて、息苦しくて、安心して、不安になる。 この場所を、私はまだ、手放せなかった。 ゆっくりと背を撫でる手に、徐々に徐々に眠りに落ちていった。 千尋が私に甘くなったのは、私が小学校の高学年に上がった頃からだ。 小さい頃は言い合いだってしたし、取っ組み合いの喧嘩だってした。 まあ、もともと優しい子だったから、いつも最後には私に譲ってくれたし、友達の少ない私には格好の遊び相手だった。 その頃、両親は仲が悪かった。 原因は、どちらかの浮気だろうか、性格の不一致だろうか。 幼い私には理解できなかったけれど、家の中に流れる険悪なムードは感じ取れた。 毎日罵りあう醜い2人。 上で子供部屋にいた私達にもその声は聞こえてきた。 その刺々しい雰囲気に、自然と寄り添うようにお互いを支えあっていた。 いや、頼っていたのは私のほうか。 私よりもまだ背が低く幼かったはずの2つ年下の弟は、今と同じように冷静で柔らかだった気がする。 その日も同じように長々と言い争いを続ける2人。 その争いを避けるように遊んでいた私と千尋だったけれど、お腹が空いて仕方がなくなった。 恐る恐ると足音を隠し、ゆっくりと一階に下りる。 今でもよく覚えている。 電気のついていない暗い廊下。 そんな中、ガラス張りのドアから煌々と輝くリビングの光。 両親は私達がいるとは気付かなかったのだろう。 そのまま争いを続ける。 別れる、離婚などの単語が聞こえてきて、その意味が理解できるほどには幼くない私は胸がきゅっと引き絞られるようだった。 父も母も、大好きだったから。 隣にいた弟の小さな手を、強く握り締める。 弟も優しく、けれど強く握り返してくれた。 そして耳に入ってきた言葉。 「じゃあ、私は千尋を育てるわ!」 「なんだと、千尋は俺が連れて行く!」 「貴方は真衣を育ててちょうだい!」 「真衣を育てる気はない!」 「私だって、千尋しか必要ないわ!」 その時、どんな感情を覚えたのか。 記憶にない。 目の前が真っ暗になって、世界が消えた。 気がついたら、子供部屋にいた。 私のベッドで、千尋が私を抱きしめていた。 私より小さかった体で、細かった腕で。 力いっぱい、抱きしめてくれていた。 頬は、濡れていて、千尋のパジャマもぐっしょりと濡れていた。 幼く優しい手が、私の背中をゆっくりと撫でている。 柔らかな高い声が、耳元でささやいた。 「真衣ちゃんには、僕がいるからね」 それから弟は、私の言う事はなんでも聞いてくれるようになった。 結局両親は離婚には至らず、元の鞘に収まった。 私に対しての態度も、いつもと変わらず優しいものになった。 けれど、私はもう、両親に同じように接することができなかった。 あれは弾みだったのかもしれない。 お互いの意地の張り合いだったのかもしれない。 けれど、確かに、本音ではあっただろう。 注意して、観察してみればよく分かった。 両親は、私に興味がないのだ。 私が何をしても、しなくても、どうでもいいのだと、気付かされた。 何かを訴えかければ、褒めてくれるし、怒ってくれる。 けれど、彼らから、私にアプローチしてくれることはなかった。 親の義務以上のものはない、と、そう思い知った。 すべての愛情は、出来のいい弟に注がれていた。 妬ましくて、けれど出来のいい千尋が自慢で。 ただ1人優しくしてくれる弟が愛おしくて、手放せなくて。 結局私は、千尋にすがることしかできなかったのだ。 |