重い石扉を開けた途端、強い風が髪を巻き上げて、私は眼をつぶった。

「大丈夫か、セツコ?」
「あ、うん」

薄暗い塔から突然外へ出たせいで、目を開けてもしばらく何も見えなかった。
何度も目を瞬かせて、焦点を合わせていく。
直撃している夕日が目をさして、痛い。

けれど次の瞬間、私は足の痛みも体のだるさも忘れた。

「う、わあ」

強い風が、生活の匂いを運んでくる。
かすかな食べ物に匂い、草の匂い、埃の匂い、太陽の匂い。
久々の嗅覚の刺激に、鳥肌が立つ。

昇ってきた塔は、当然ながら東京タワーほどの大きさはないようだ。
5階建ての屋上くらいだろうか。
うちの会社の入っている古いビルの屋上くらい。
新しいビルよりはちょっと低めな感じの。

しかし周りに大きな建物がないため、この小さな塔でも東京タワー並みに感じる。
目の前の景色ははるか遠くまで広がっていて、圧倒的な色彩で私の中に飛び込んできた。
ずっと石造りの城の中にいたせいで、最近視界が灰色だった。

すぐ下には、そっけのないレンガ造りの家々。
けれど屋根は色とりどりで、なんだかジオラマのようなかわいらしい街並み。
街をぐるりと囲っている塀の外は、遠く広がる草原。
その先には山の峰が、落ちかける夕日で縁取られていた。

「きれい………」

自然と、そんな言葉が口からついて出た。
私の住んでいたビルの群れとは違った、異国の街。
日本の景色とは全く異なる、見覚えのない世界。
けれど、実家を思わせる、どこか懐かしい景色。

「セツコ、気に入った?」

柵に捕まって外の世界を堪能していると、後ろからアルノが話しかけてきた。
私を腕の中に抱え込むように柵に掴む。
アルノの匂いと、温かさを背中に感じる。
耳に、アルノの息がかかる。

うわ、密着。
こ、この状況はアレじゃない?
プチタイタニック?
「I'm king of the world!」みたいな!
覚えたわよ、あの台詞。

まあ、船でも腰に手が回ってるわけでもないんだけど。
でも、少女の頃憧れたシチュエーションじゃない?
腕の中に閉じ込められるって。
トキメクわあ。
このまま強引にキスとかされちゃってさ。
ああ、強引なキスって憧れよね。
イケメン限定だけどね。

アルノだったら全然いいわ。
いつでもOK。
どんとこい。
悪魔から聞いたところ、ヤモメらしいし。

54と31。
まあ、ありでしょ。
20歳の差ぐらいOKよ。
90歳と70歳になったらほとんど変わらないわよ。

50代なんてまだまだ現役。
取引先の社長なんて、愛人いっぱい抱えちゃってるし。
アルノはちょっと枯れちゃってて心配だけど。
まあ、いいわ。
セックスは嫌いじゃないけど、そこまで好きでもないし。

アルノだったら収入安定してるし、性格いいし、仕事は真面目にやるし。
ああ、本当に理想。
もう、いっそここで人生終えてもいいんじゃないかしら。
向こう戻ってもどうせいいことないし。

「セツコ?」
「あ、な、何?アルノ?」

と、そこで、意識が引き戻された。
しまったしまった。
いくらなんでも飛びすぎだ。
こういうことはちゃんと段階を踏んでからね、うん。
でも、アルノ、かあ。
うん、悪くないわ。

「セツコ?」
「なんでもない、なんでもない。大丈夫」

後を振り向いてそう告げると、アルノはにっこりと穏やかに笑った。
ああ、本当にこの笑顔にキュンキュンする。

「セツコ、この世界は綺麗、だろう?」
「うん、とても綺麗」

どうもこの抱えるような格好は、頼りない柵から私が落ちないように守ってくれているようだ。
この気遣いの紳士め。
ミスタージェントルマン。

ミカみたいなガツガツしたタイプも悪くないけど、この穏やかさはいい。
乙女はいつまでたっても、性欲のない王子様タイプに憧れる。
物語の王子様、みたいなね。
私の素敵な王子様。

「セツコ、この世界を、好きになって」
「え?」
「君は、必ず、元の世界に返す。でもこの世界も、好きになって」

アルノは私の顔を覗き込むと、穏やかに笑う。
風に吹かれた髪がうざったくて押さえつけながら、私はアルノを見上げる。
やっぱり、その眼はどこまでも深い深い落ち着いた緑色。

「君に、悪いことをした。辛い、だろう?でも、頼む、この世界を好きになって。少しでも、楽しんで。嫌わないで」
「………アルノ」
「ここも、いい世界。君に、好きになって、もらいたい」

きゅーん、と胸が絞られるように痛む。
ああ、もうアルノが言うんだったらなんだって好きになるわよ。
もう最低の世界だけどね。
滅んじまえこんな国、とか思ったけどね。
でも、アルノが好きになれっていうなら、なるわよ。
アルノに会えたことでしょうがないから百万歩譲ってプラマイゼロにしてあげるわよ。
こんちくしょう、この罪つくり。

「アルノ」
「はい」
「わたしは、アルノに、あえて、よかった」

アルノは驚いたように眼を丸くする。
私は腕の中でアルノに向かい合って、微笑む。
ちょっと上目遣いに、自信のある右向きの角度になるよう首を傾げて。
ああ、化粧したかった。
髪もプリンだし、ネイルも禿げてるし。
最近肌の調子いいから、そこまでひどくもないと思うけど。
すっぴんは辛いわ、本当に。

「だから、私も、この世界、好き」

でも精一杯笑って、アルノに告げる。
いや、まあ、好きではないんだけどね。
好きになるよう努力する。
って言いたいけど、文法も単語も分からない。

でも、アルノの世界。
アルノが好きだと言う世界。
だったら、私だって好きになる。

「この世界、好きよ」

もう一度告げると、アルノはとても嬉しそうににっこりと笑った。
目を細めて、蕩けてしまいそうに。
思わずアルノの頬に手を伸ばす。

しかし、寸前でいきなりアルノの後ろの扉が大きな音を立てて開いた。
思わず伸ばしかけた手をひいてしまう。

壊れそうなぐらい乱暴に開け放たれた扉から現れたのは、エロ暴君。
なぜだか不機嫌そうにむっつりとしている。
凄みのあるワイルド系なだけに、その表情はちょっと怖い。
私の前ではいつも笑っているから余計に。

「み、ミカ?」

私の問いかけは無視して、ミカはアルノに視線を移す。
そして不機嫌そうな低い声でなにやらまくしたて始めた。

「アルノ、人の**************、セツコは俺が*************」
「陛下、あなたは****************、セツコは***だから、あなたは*********」

早口で話す二人の言葉は、ほとんど聞き取れない。
ああ、もどかしい。
いい加減イライラするな、これ。
なにやら不機嫌そうなミカと、呆れたようなアルノ。
なんだ。
どういう状況だ。

「セツコ、来い」
『は?ちょ、ちょっと』

ミカはいきなり向き直り、私の腕を引っ張る。
狭い通路で危ないと判断したのか、アルノは自分の手を引く。
私はそのままミカの胸に引き寄せられた。
ミカの匂いは、少し据えた獣っぽい匂い。

『ちょ、ちょっと何よ!いきなり何するのよ!』

突然の狼藉に、私はたくましい腕から逃げようとする。
咄嗟にこちらの言葉が出てこないで思わず日本語で抗議してしまう。
しかし、そんな私を軽くいなしてミカは私を肩に抱えあげた。

『ぎゃーー!!!!ちょ、ま!おろして!』
「陛下!!!」

世界が逆さになり、更に高い位置に不安定につるされる。
恐ろしさに、鳥肌がたった。
うわ、高所恐怖所になりそう。
アルノの抗議の声に耳を貸さず、ミカはそのまま塔の中に入ると、私の重みなんてものともしないように抱えあげたまま降りる。

私重いわよ。
ここ来て絶対太ったわよ。
ほとんど運動しないで三食二おやつ食べまくり。
ミカの腕がお尻に回ってるのも気になるけど、私の重さをどう感じているのかも気になる。
重いな、この女とか思われたらどうしよう。
ここのメイドさんとか結構みんな痩せてるし。
そんなこと言われたらこの男を殺る。
絶対に。
しかし、少しダイエットしよう、本当に。

「ミカ、えーと、お、おろして、おろせ!」
「うん?」

そう言うと、ミカは私を下ろそうとしたのか腕の力を緩める。
支えられているのだろうが、バランスを崩し頭から階段に突っ込みそうになり、私はあわててミカの頭にしがみつく。

『ぎゃー!!!おろすな!おろすな、この馬鹿!』
「セツコ?」
「えーと、おろさなくていい、おろすな」

ミカはふっと、笑って、私を抱え直す。
あまり重さは感じてなさそうだ。
ならいいけど、なんかこれ、私、米俵みたい。
あんまり色気のない抱かれ方。

出来ればここは姫抱っこにしてほしいわ。
姫抱っこで運ばれる。
うわ、それもまた乙女の夢。

しばらく無言でそのまま運ばれる。
なんか本当に荷物みたい。
まあ、この階段をもう一回降りると思うとうんざりしてたからラッキーと言えばラッキー。
落ち着いてきたので、私は馬鹿王に問いかける。

「一体、どうしたの、ミカ」
「どうして、アルノと、あそこに、いた?」
「どうしてって、えっと、なんだっけ、あ、そうだ、イキヌキ、よ」

単語はこれであっているはずだ。
しかしミカは、憮然とした声で返した。

「息抜きしたいなら、俺に、言え」
「だって、ミカは、酒を出すだけ。私、外に、出たい」

この男は私に酒を渡すしか能がない。
アルノのような気の利いた息抜きなんてできやしない。
何度外に出たいと言っても、外に出してもらえなかったし。

「………外も、俺が連れてってやる」

なんだ、これ。
なんでこの男が不機嫌なんだろう。
あ、もしかして、これは。
やきもち。
やきもちか。

「だから、俺に、言え」

うわー、やっぱそう言うこと?
やだ、ちょっといい気分。
イケメンにやきもち妬かれるなんて女冥利に尽きるじゃない?
まあ、この馬鹿が興味本位でおもちゃ取られるのが悔しいガキの感情しかもってないとしても、これはこれでいい気分じゃない。
例えこの最低男でも、顔だけは抜群だ。
誰であろうと、嫉妬されるってのは悪くない。

思わず、顔がにやけてきてしまう。
ちょっと私、今もしかして最高潮モテ期なんじゃない?
もう自然な出会いなんて、ないんだろうと思ってたけど、今ちょっといいんじゃない?

まあ、ここでモテても全く意味ないんだけどね。
しかもミカだけどね。
ああ、ダメダメ、せっかくいい気分なんだから浸っていよう。
この世界で楽しむのも悪くない。
いつかは、帰るんだから、それまでは楽しんでも悪くない。

アルノも、好きになれって言ってたしね。

よし、ミカの顔と身分だけを見ておこう。
性格と素行はとりあえず横に置いておく。

「じゃあ、ミカ、外、行きたい」

私がちょっと甘えるようにそう言うと、表情の見えないミカは喉で笑った。
楽しそうに足を速めて階段を駆け降りる。
40にもなって元気なおっさんだ。

うん、でも。
まあ、旅行と思えば、この世界も悪くないかもしれない。





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