くい。

指が軽く引っ張られ、意識が現実に引き戻される。
いつもだったら起きるはずもない小さな刺激。
でも、気配に敏感になっている今は、そんなかすかな反応で十分だった。
寝起きの悪い私が、起きて即座に現状を理解する。

また辺りは薄暗い。
月明かりが驚くほど明るく辺りを照らしているが、まだ夜は明けていない。
どれくらい眠っていたのか、想像もつかない。
疲れは全く取れてないが、休ませてはくれないらしい。

誰か来た。

起きた瞬間、痛みが押し寄せ体が悲鳴を上げる。
痛みと恐怖で叫びだしそうになるのを、必死で押さえつける。
今すぐ立ちあがって逃げてしまいたい。
体中が痛い。
涙が滲んでくる。

でも、痛みや恐怖に関わってる暇はない。
痛みにうめくのはいつでもできる。
プライオリティが高い方から片付けなきゃ。
優先度づけはとても大切。

誰かが来ている。
寝る前に木の蔦を、周りの木々に張り巡らせて置いた。
その蔦からスカートの糸を引っ張りだして結んで、自分の指に結んでおいたのだ。
何かが蔦に触れたら、わかるように。
素人考えで作ったものだが、一応機能したようだ。

今確かに、私の指は引っ張られた。
誰かが、動物かもしれないけど、何かが来た。
仕掛けが風かなんかで壊れてなければ、だが。

でも、音も聞こえる。
ガサガサと、草を踏みしめる音が聞こえる。
確かに、誰かいる。
心臓が激しく波打っている。
もう叫んで飛び出したい。
すぐに逃げ出したい。
でも落ち着いて。
一応ここは大きな木と岩で隠れて死角になっているはず。

このまま気付かれなきゃそれでいい。
朝まで待って、村か城を目指す。

息を殺して、じっと足音を聞く。
心臓の音がうるさい。
血の流れる音すら聞こえる気がする。
そこにいる誰かにこの音が届くのはないかと、気が気じゃない。
お願い、静まって。
気付かないで。
行って。
お願い。

そして私の祈りはやっぱり聞き届けられない。

がさり、足音がこちらに向く。
意志をもって、こちらに向かっている。

だからどうしてこうなるのよ。
どうして、これくらいの願いが聞き届けられないの。
少しでいいから、言うこと聞いてよ。

けれどどんなに神様だか運命だかを罵っても、やっぱり、草を踏みしめる音はこちらに向かっている。
絶対に気付かれている。
動物なんかじゃない、しっかりとした人の足音。

小さなナイフをぎゅっと握りしめる。
私がすがるものはもうこれしかない。
こんな頼りない刃しかない。

お酒が欲しいな。
さっき割ったお酒、もったいなかった。
あれ、おいしかったのに。
この恐怖と現実を、ごまかしてしまいたい。
もう、何も考えず酔っ払って、楽になってしまいたい。
ベロベロになって何も分からないうちに死ねたら、きっとそれは幸せ。

でも、酔いはすっかり覚めている。
意識ははっきりしている。
だから、死にたくない。
痛いのも怖いのも、嫌い。

ていうか、こんな時思い浮かべるのが酒しかないって、本当に最悪。
誰か助けてほしい人も浮かばない。
最後に会いたい人も、浮かばない。
私の人生って、なんなのかしら。
なんて軽くて、なんて薄っぺらい。
酔っ払って死にたい、なんて情けなすぎて笑えてくる。

死にたくない。
生きていたい。
でもなんで生きていたい、なんて分からない。

生き残ったら、もっと気合いいれて生きよう。
死ぬ間際に、誰の顔も浮かばないなんて、寂しすぎる。
未練が思いつかないなんて、最低。

そんなことを考えて、ちょっと笑う。
まだまだ余裕があるわね。
大丈夫、こんなの大事な取引先の人にお茶ぶっかけたことに比べればなんてことない。

ガサリ。

木の陰から人影が現れる。
見上げるほどの長身の金髪。

「こんなところにいたのか」

残忍な笑みを浮かべて、剣を持つのは、あの四人のうちの一人。
そうよね、期待なんてしてなかったわ。
もしかして誰か味方なんじゃないか、なんてね。
そんな虫のいい奇跡、私に与えられるはずないわよね。
もう絶対、神社に賽銭なんてするもんか。

後は岩。
横も岩。
休むのにはちょうどよかったけど、逃げるのには適してないわ。
逃げるには、こいつをかわさなきゃいけない。
でも、もう走れないかも
体はもう限界。
頭だけが興奮で冴えわたっている。

さあ、どうしよう。
逃げたい。
死にたくない。

「………助けて」

私の哀れっぽい願いに、けれど男は剣を振りかざす。
もう私で遊ぼうなんて気もないらしい。

「お願い、助けて………」
「死ね」

男が一歩近づいて、剣が届く間合いにはいる。
腕を動かして、剣を私にふり下ろそうとする。

『っ、させるか!!』

そこで私は、男の足元にひいてあったスカートの布を引っ張った。
落ち葉でカモフラージュされていた大きめに切った布は、男の足を掬う。
布の下の葉っぱも滑りをよくするのに一役買ったようだ。
ちぎれることなく、布はつるりと滑る。
長くてごわごわ堅くて着心地最低のスカートだったけど、こんなところで役に立つなんてね。
あのスカートを用意してくれたエミリアを抱きしめてキスしたい。

「う、わああ!」

男がバランスを崩してたたらを踏む。
今だ!

倒れるには至らなかったが、片足が上がっている。
軸足になっている方の足をナイフで刺す。

「ぎゃあ!!!」

手加減なんてしない。
出来る余裕なんてない。
血が溢れだす。
さっきの瓶よりも、深く突き刺さる。
鋭く突き刺さる。
深く突き刺さり刃が細いだけ、抜くのに力がいる。

『くっ』

それでも力を振り絞って抜くと、更に血が溢れる。
一瞬目をそらしたくなるが、駄目だ。
振りかぶって、もう一度刺す。
男が苦痛の声を上げて、尻もちをつく。

逃げるか。
いや、だめだ。
こんな小さな傷じゃ、すぐ追いつかれる。
行動できないようにしなきゃ。

男が剣を振りかぶろうとするのを許さず、私は身を起して男の手の甲を刺す。
ざくりと音がする。
堅い、骨にあたっている。
血が溢れる。
冷凍のマグロ。
ああ、赤いのも、マグロみたい。

男が剣を取り落とす。
もう一度。
また目を狙うか。
迷いは一瞬。
けれどその一瞬をとらえられた。
男の左手が私の首を掴む。

『くっ、う』

咄嗟に、ナイフで肩を刺す。
が、男の手は離れない。
首を押さえつけられたまま、横に倒される。
ナイフから手が離れてしまった。

私を地面に押さえつけ、男が起き上がる。
太い指がギリギリと喉を締め上げる。
気道が塞がれ、酸素の供給を閉ざされる。

『くっ、か、は』

苦しくて、男の手をかきむしる。
だが男の手はビクともしない。
爪で男の皮膚を削り取る。
だが、男の手は離れない。

呼吸ができない。
息が吸えない。
苦しい苦しい苦しい。

『くぅ………』

意識が白く濁ってくる。
涙で前が見えない。
景色が、にじむ。

唾液がだらだらと溢れる。
鼻水が出てくる。
目玉が飛び出しそう。

いやだ。
このまま死ぬのか。
死にたくない。
死にたくない。
苦しい。
苦しい。
苦しい。

それだけで頭がいっぱいになる。
意識が遠のく。
手から力が抜ける。

苦しい。
もう、だめだ。

だが、その瞬間、男の指から力が抜けた。
酸素が急に肺に入り込む。

『かっは、かは、ぐ、げほげほ』

許された呼吸についていけずに、何度も咳きこむ。
溢れてきていた唾液が気管に入って、鼻がツーンとする。
何度も何度も咳きこんで、えづいて吐きそうになる。
胃液がこみあげきて、喉の奥が酸っぱい。

『く、けほっ、げほっ、うえ、げぇ』

しばらく何もできず、うずくまって咳きこみ続けた。
そうして、ようやく周りを見渡すことができる。
男が私を放した理由を、確認することができた。

金髪の男は明るい月の中、輝くような赤毛の男ともみ合っていた。
揉み合うというか、切り合っていた。
けれどそれは一瞬。
何が起こったのかよく分からなかったが、金髪の下衆はその場に倒れこむ。
赤毛の男は、細身の剣を振りかざす。
その萌えるような赤毛は、見憶えがある。

え。
嘘。

「………エリアス!?」

その赤毛と、今はメガネをしていないが地味な美貌は確かにエリアスだ。
何、なんなの。
助けに来てくれたの!?
安心で、体中の力が抜ける。
涙があふれてくる。
知っている人がそこにいる、それだけ心に温もりが甦る。
いつもは頼りない年下の男が、この上なく頼もしく見える。
ああ、もう惚れそうだ。

「えりあ………」

泣きながら、エリアスの名を呼ぶ。
だが、答える前に、エリアスの剣が翻る。
それと同時に、何かがごろりと私の足元に転がった。
ボールのような、丸いもの。
それは、赤い目をして私の方をじろりと睨む。
それが何かを認識するのに、しばらくの時間を要する。
そして、理解した。

「ぎゃあ!!きゃあきゃああきゃああ!!」

首だ。
こちらを見ている。
慌てて手で払って、向こうに向けた。

ああ、触っちゃった!
気持ち悪い!
ていうか、何これ!?
何!?
首!? なんで!? 死体!?
嫌だ!

「な、何!?ちょっと、何やって………」

エリアスに抗議しようと顔を上げて、言葉を飲み込む。
眼鏡を外した男はらしからぬ冷たい目で私を見下ろしていた。

「………え……?」

先ほどの男たちが、私を見ていたのと一緒。
モノを見るように、感情を含んでいない。
なんか、香港映画のヒットマン役の人ぽい、爬虫類ぽい目。

「え、エリアス!!」

ちょっとこれ誰よ!?
本当にエリアス!?
そっくりさん!?
双子の兄弟!?

エリアスが血が滴る剣を下げ、こちらに足を向ける。
なぜか、エリアスごときに恐怖を感じる。
燃えるような赤毛が、今は血の色に見える。
細身の剣が無造作にこちらに向けられる。

「きゃああああああ!!!ちょっとエリアス!!エリアス!!」

エリアスの剣は血まみれで、先ほど男たちが持っていた剣よりもずっと細身で頼りないのに、ずっと怖い。
怖くて、動けない。
蛇に睨まれた、カエル状態。

「エリアス!!!」

目をつぶって、もう一度名前を呼ぶ。
いやだ、こいつに殺されるなんて、絶対にごめんだ。
エリアスごときに。
頭を抱えて、小さくなる。

「………あ、れ?」

そこで、エリアスの、いつものような情けない声が聞こえる。
剣が落ちてくる様子はない。
恐る恐る目を開けると、そこには呆けたような顔をしたエリアスがいた。

「………き、気づいた?大丈夫?あなた、エリアス?」

エリアスは懐からいつもの丸眼鏡を取り出してかける。
そしてマジマジとこちらを見つめ、驚いたように口をぽかんと開ける。

「セツコ?」
「…………そうよ」

信じられないが、どうやらこいつはエリアスのようだ。
憮然として頷く。
すると、エリアスはひっくりかえった声を上げる。

「なんでこんなところにいるんですか!?」

ていうか。

『………あんた助けにきたんじゃないの!?』

ああ、期待した私が馬鹿だった。
血の匂いに囲まれながら、私は深く脱力した。





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